旧北上川の中瀬に建つ石ノ森萬画館 昨秋、情報文化委員会からお誘いを受け、 東日本大震災の被災 さて11月25日の取材当日を迎える。東京駅から新幹線で 2 時 地石巻市への 1 泊2日の取材旅行に日帰り参加させて頂いた。 間足らず。降り立った仙台駅で 取材メンバー 5 人全員が顔を揃 おがつ それは、取材先となった石巻市雄勝への思いがあったからだ。 え、レンタカーで一路、目的地の石巻へ向かったのだが、その道 ことの動機はこうだ。私の住む街は京都。永く住んでみると、 中は、未だ復興の途上にあることをそこかしこに思い知らされ 観光資源としての神社仏閣や京町家だけに限らず、近代建築の ることとなる。経つこと約 2 時間。私達は旧北上川の中瀬の先 すばらしさに気付かされる。中でも私のお気に入りの一つに、 端に立っていた。まずは復興のシンボルとして他の公共施設に 三条通りと高倉通りの交差点角にある旧日本銀行京都支店 (1906 竣工)がある。今は京都文化博物館の別館となり、周辺に 建ちはじめた高層マンションなどによる街並みへの影響が気 になるところではあるが、この地域のランドマークとしての存 在は今なお続いている。設計者は、辰野金吾。関西では大阪市中 央公会堂や奈良ホテルなどの設計者としても知られているが、 代表作は何と言っても首都東京への玄関口である東京駅丸の 内駅舎である。日銀京都支店から遅れること 8 年後の 1914 年 にその駅舎は創建され、M7.9 の関東大震災での被災は免れた 取材メンバー ものの、太平洋戦争末期の空襲で屋根などを焼失した。戦後の 先んじて再オープンした石ノ森萬画館を訪ねる。津波によって 改修で 3 階から 2 階建てに姿を変えていたが、昨年の 10月 1日、 瓦礫に埋もれ甚大な被害を受けた当館が、多くの人々のサポー 約 5 年の工期を経て創建当初の姿を再び 蘇らせ再開業した。 トで見事オープンへと至った足取りが展示から読みとれ、胸を 私は、 この駅舎内にあって再オープンした東京ステーションホテ 締めつけられる思いを抱きながらの館内見学となった。 ルに興味をそそられ、その 5 日後の 6 日に宿泊した。そして、あ この萬画館と川を挟んで向き合う復興マルシェで昼食を らためて新装なった外観を間近に見た。それはバーントシェ とった後、いよいよ私の関心事、雄勝天然スレートを取り扱っ ナーの煉瓦に白の御影石のラインが配され、チャコールグレー ておられる四倉製瓦工業所へ向かった。そこは J R 石巻駅にほ の屋根が建物全体を引き締めていた。外壁が辰野式と呼ばれる ど近く、門を入るとまずは 同じ仕様ながら、屋根は見慣れた地元旧日銀京都支店の緑青色 積み上げられた天然スレー 東京駅丸の内駅舎 よつくら トが迎えてくれた。奥にす す み、お 住 ま い の 一 室 で よつくら としなり 四倉年思也社長にお話を 伺うこととなった。 四倉製瓦工業所から東 北方向に車で 1 時間程の 天然スレート 雄勝には 2 億 5 千年前の地層が地表に隆起した地域があり、雄 げんしょうせき 勝石と呼ばれる玄昌石(粘板岩)が産出する。これが高品質の雄 勝天然スレートや全国の硯の 9 0 %という圧倒的なシェアを誇 る雄勝硯の原料となる。震災によって、採石場への道路が崩れ の銅葺きに対し、丸の内駅舎のチャコールグレーは、私に違っ たままとなっていることや、加工設備を備えた工場が、 跡形もな た趣を感じさせた。帰宅後、この屋根材は東日本大震災で罹災 く損壊してしまい、未だ再開のめどが立っていない厳しい状況 した雄勝の天然スレートであることを知る。そこにタイミング にある。いずれも在庫の販売のみとなり、生産には至っていな のよい石巻市雄勝への取材のお誘いであったのだ。 いのが現状である。そんな中、工事が進む東京駅丸の内駅舎の 取材を受ける四倉社長 尽きることのない四倉社長との話に未練を残しつつつも、秋 の日のつるべ落としとなってしまわない明るいうちにと雄勝 石の採石場へ向けて車を走 ら せ た。途 中、北 上 川 下 流 域 に あ っ て、あ の 74 名 も の 生 徒と教職員の尊い命が失わ れた石巻市立大川小学校に 立 ち 寄 り、手 を 合 わ せ る。破 壊された校舎に残る津波の 屋根材に在庫の天然スレートが使用された。津波に打ち勝った 猛威をまざまざと見せつけ 復興のシンボルという思いをのせて。1 枚のサイズは長さ 1 尺 られ、言葉に出ない悲しみと (304mm) 、幅が 6 寸(182mm) で、厚みが 6mmと四倉社長。在 庫 鎮魂のひと時をすごす。そし が限られ、屋根すべてを覆うだけの数量はそろえられず、多く 東京駅に使用された雄勝天然スレート て再出発。 石巻市立大川小学校の破壊された校舎 はスペイン産の天 然ス まもなく地層が、ほぼ垂直に立ち上がった岩肌が左前方に レートが使用されたも 見えた。本来の採石場ではないが、かつての採石跡を偲ばせる の の、正 面 玄 関 や 南 北 かのような山裾にできた崖 のドーム屋根などの主 であった。周辺に散乱して 要部分に雄勝の天然ス いた小石を手に取って石 レート が 使 用 さ れ た。 同士を叩いてみると、それ は四倉製瓦工業所で見せ さらに興味 深いお話としては、昭和 5 0 年代に駅舎の屋根のホー とめ ム側 7 割ほどが登米と雄勝の天然スレートでふき替えられた ていただいたあの劈開す ことがあったそうで、当時のものは矩形の4辺の内、2 つの角 る雄勝石であった。振り返 うろこがた を丸く落として鱗形にしたものだった。今回の復原に際し、創 ると大津波がすべてを呑 建時は四角であったことから、洗えば再利用できるそれらス み込んだとは想像もつか レートを選り抜き、丸い方を逆さまにし、重ね部分に組み込む ない、極めて波穏やかな美 ことで有効活用できたとのエピソードもご披露いただいた。 雄勝石には、粘板岩特有のある特定の平面に平行に割れやす へきかい い劈開と呼ぶ性質があり、 これを利用して厚み 4 ∼ 9 mm の矩形 雄勝湾を望み雄勝石が露出した崖 しい入り江に面していた。 《 雄勝での取材を振り返って 》 の薄板に仕上げることで天然スレートへと生まれ変わる。表に 雄勝天然スレートは屋根材を主に外壁材や床材などに使用 出て、四倉社長自ら雄勝石を薄く割いたり、角を丸く落とした されているが、取付が簡易で、軽量、かつ廉価な材料にその市場 りする作業を見せていただけることになった。先の尖った握り を奪われ苦戦を強いられている。現在、雄勝石を割って葺ける もついていない素朴な金づち様の工具で、私たち素人にはわか 石の性格がわかっている職人さんはわずかに5人であり、会社 らない石の断面にある劈開の戸を優しく数回叩くと、あっさり としては四倉製瓦工業所がオンリーワン。今こそ技術の伝承を と平板面を持った薄板が 真剣に考えないいけない時期になっている。まさにわが国の多 四倉社長 割 け 分 か れ た。ま さ に 2 くの伝統工芸が直面している市場の縮小、いかに次代への技の 億 5 千年の眠りからそっ 継承をするかという共通の問題に通じている。伝統工芸が“ 守 と目を覚まさせる石への り”だけでなく“ 創造”も併せて行うことが大切と言われている 思 い や り の 術 で あ っ た。 ように、雄勝天然スレートも未来を見すえ、新たな“ 創造”によ 次に角を落としてアール る市場開拓を図ること、そのための様々なジャンルとの交流を 状に表情をつける手技 通じて、異なる分野への応用や新たな発想からの需要創出を図 も。藁 束 を 切 り そ ろ え る ることが、喫緊の課題と感じた。そして、まずは早期の採石と加 「押し切り」と呼ぶ農具が あ る が、そ れ に 似 た 専 用 の器具を使って手際よく 切って見せていただけた。 工工場の再開を切に願う次第である。 ( 立松 直樹 )
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