船型学50年(2) - 日本船舶海洋工学会

[本資料は船舶技術協会発行「船の科学」掲載本文の複写版]
船
の
科
学
乾
年一
型 学
-東
50
大 水 槽 との 出会 し
崇
夫
東京大学 名誉教授
日本造船技術 セ ンタ ー顧問
連 載計画 試 案
前回 は本 シ リー ズ全体 の構 想 も十分立 って い な い まま
に ,“序 と近況 "で お茶 を濁 した格好 にな った。 まず 何 回
もつ かが 問題 なの と ,果 して 毎月 キチ ンと期 限 まで に書
け るか ど うか も心 配 の 種 であ る。 とい うの も,本 来 の 目
的 であ る研 究 発想 の 源 を辿 るには ,文 章 だけで は駄 日で ,
ど う して も図 (写真 も含 めて)が 必 要 にな るの だが ,原
図 はほ とん ど残 って い ないので ,論 文集そ の 他 ,印 刷刊
行 され た小 さな 図 か らイチ イチ復 元 しなければな らな い。
これ は 大変手 間 の かか る仕 事 にな る。 とはい って も今ld
か ら本番 に入 るの で ,曲 りな りに も全体 の見通 しを立 て
てお く必要 が あ る。 右顧左 阿 して い ると ころに本誌 12月
号 が 届 い た。 見 る と,多 分高柳武 男先輩 の 筆 に な る と思
われ る編 集後記 の 最 後 に ,拙 稿 の 予告 と筆者 につい ての
過分 な 紹介記事が あ って ,「 ……・
約 1年 にわ た り連載 さ
れ る予定 であ る」 と結 ばれ て い る。 ピシ ャ リと先手 を打
と ころで ,表 題 を含 む 第 1頁 目の レイア ウ トを毎 陛1同
じスタイル に して 置 きたか ったので ,前 日 ,日 経 か ら借
りた顔 写真 の あ った表題右側 の スペ ー スヘ の 埋 め 車 に ,
ご覧 の よ うな ロゴを借 用す る こ とと した。 この ロゴは ご
承知 の方 も多 い と思 うが ,旧 船舶 工 学科か ら (東京大学
工 学部)船 舶海洋工 学科 に改称 された平成元年 4月 1日
同学科 の シ ンボ ル ・マ ー クと して制定 された ものであ る。
これ につい ては ,日 本 造船学会誌 (以下造 学 誌)第 721
号 (平成元年 7月 )所 載 の 「新 たなる展 開 の ための 学科
名称変更Jな る一 文 に次 の よ うな説 明 が あ る。
「… …これ は 本 学 科 の 教 官 ・職員 ・学生 に対 して公
募 され ,投 票 で選 ばれた原案 を手直 しした もの である。
このマ ー クに 今回 の 学科名称 の 精神 が 象徴 的 に表 わ さ
れてい るの で ,ま ず初 め にその コ ンセプ トに つ いて少
し詳 しく説 明 してお こ う。 デザ ィ ンと しては上 半 分 は
たれて しま った わ けで あ る。 それでは ,と 腹 を くくり,
1月 号か ら,12月 号 まで 計 12回の 連載 計画を立 ててみ た
表 2・ 1「 船型学50年 」連 載計画
のが 表 2・ 1で あ る。 前 述 した よ うな心 配 の 種 は あ る
けれど も,幸 に していまの ところ健康 に も恵 まれ て い るの
で ,“人生 一 寸先 は闇 "で あ るが ,な ん とか この 表 の 通 り
に進行す るよ う今年 一 杯頑 張 って み たい。
表 中 ,今 回 の 第 2回 か ら第 9回 までが ,私 自身 の 研 究
体 験 を タイ ム シ リー ズで 追 ってい る。 第 10回 は 宮 田助
教授 らを 中心 とす る次世 代 の 方 々の 業績紹 介 で ,最 後 の
2回 ,す なわ ち第 11回と第 12回は研究以 外 の 大学人 と し
ての 責務 に関わ る こ とを ,国 内的な こ とが らと国際的 な
こ とが らとに分 けて述 べ た い と考 えてい る。 ただ ,「
船型
学」 とい うと船体抵 抗 論 と船舶推進論 とに大 別 できるが ,
本 シ リー ズ は東大水槽 の機 能か ら,第 10回まで は ほ とん
どが 前者 に絞 られ て い る。 後者 については ,第 11回の な
かの 学科拡充 に伴 う船舶 高速力学講座や 東大 キ ャ ビテ ー
シ ョ ンタ ンネル の 新 設 の 話 に 関連 して ,加 藤 洋治教授 ら
の研究紹 介 を した い と考 え る。
-48-
回
サ ブタ イ トル
ポ イ
ン
ト
1
2 1室賢景層 を済 出会 い
3 ハ ブ ロ ック との 出会 い
4 正 しい船型条件
5 漸近展 開
6 眼でみ る船型試験
│てくる
“ "を
流れ
み る と新 しい発見が
8 波 な し船型
ある
“ "の ベ
レ ル で理 論 を検 証
波
急がば回れ ・方 法 論 が 決 めて
9 局所非線形
線形理 論 の 落 し穴
10 新 しい流 れ
11 研究余涯
嬉 しい次世代 の 創意 と成 果
学科拡充 と新設 ・学術会議 ほか
12 続 ・研究余 涯
国際試験水槽 会 議 停 か
7 波紋解析
[本資料は船舶技術協会発行「船の科学」掲載本文の複写版]
Vol.44 1991-2
Kelvin波 (船舶 工 学 を意味す る)と 下半分 の 砕 波 (海
洋工 学 を意味す る)を 組 合 わせ た もの で ,全 体 と して
は ヨ ッ トの イメ ー ジで あ る。 上下 を つ らぬ く ライ ンは
船舶 工 学 と海洋 工 学 の 連帯 をあ らわ し,ま たそ の 本数
は流 体 ・構 造 ・設計 と い う学科 の基礎 (共通)研 究 /
教育 の 3本 の 柱 を意 味 して い る。 カ ラーの 場合 は上 半
分 が ダ ー クブル ー ,下 半 分 が ライ トカ レー とな る。… 」
2
・
表2
西
日
店
1871(明
4 )
1877(明
10)
1880(明
13)
年
本
表 (
関
連
81
世
79
18
界
関
1 )
∼
連
東 京 大 学 創 立 , 日 本 数 学 会 社 a け立
工 部 大 学 校 械 科 に て造 船 学 の 教 授
開 始 (予 科 2年 ,本 科 4年 )
1883(明
16)
1886(明
19)
第 1回 卒 業 生 (3名
)
造 船 学科 独 立,三 好 晋六 郎
1887く
英海軍水 相 Has18r,R.E FrOude
船 の 波の星 齢, K e l v i n
明 20)
1897(明
30)
1898(明
31)
1906(明
39)
船 型 試 験 水 格 設 置 連 強 ( 造船 協 会)
波 が 船 の 波 の うち の 線形成分 を表わ し,下 半部 の 砕波 は
1908(明
41)
同 じく船 の 波 の 非線 形成分 を表わす とも考え られ ,か つ
三 菱 長 崎 飽 ノ浦 水 槽
海 軍 ほ 型 試 験 所 ・集 地 水 樽
借用 に踏切 った理 由は ほか に もあ る。上半部 の Kelvin
1
造 船 協 会 0 り立
止 渡抵抗呂 齢,MicheH,
ワ シ ン トン 水 槽
ミ ン ガ ン大 学 水 付 , パ
リ水 打
1910(明
43)
ベ ル リン 水 柏
私 の 仕事 が主 と して 前者 に関 わ って お り,次 世 代 の方 々
1911(明
44)
世 界 最 初 の 風 洞 ( A u t e n l 1 7 タンス )
の 仕事 が ,宮 田 助教授 (本 ロゴの 原案作成者 で もあ る)
“
ル
命名 によ る 自由表面 衝撃波 で代 表 され るよ うに ,主 と
1915(大
して 後者 に つ らな って い るか らであ る。 序 でなが らタテ
の 3本 の 線 は研 究創意 にお け る “世 代 か ら世代 へ の バ ト
ン ・タ ッチ ルを表 わ す 。 また ,あ えて 3本 の 中身 を問わ
れれば ,第 1に 責任 感 ,第 2に 新 しい発見創造 への意欲 ,
“
ル
第 3に 常 に新鮮 な 自分 の 眼 を もつ こ とであ ろ うか。 な
お第 1の 責任感 には ,自 分 自身 の 仕事 に対す る責任 は 勿
論 であ るが ,長 期 的 に み た 次世代 ,次 々世代 へ の 配慮 と
情緒 (ハ ー ト)力 ゞ
含 まれ る。
東 大 水 槽 が で き る まで
表 2 ・ 2 は 東 大 での 最 終 講 義 ( 昭 5 5 2 . 1 4 ) の
英 NPL水
4 )
内地造 船 索振興 胡室会 )
1921(大
10)
1922(大
11)
船 触 試 験 所 隅 査 会 段 E ( 造 船 協 会)
1924(大
13)
は験 水 槽 成 績 表 現 法 阿 査 会
1927(昭
2 )
船 舶 試験 所 水 付
1928(昭
3 )
九大水相
1931く
昭 6 )
1932(昭
7 )
1933(昭
8 )
1934(昭
9 )
日本 最 初 の 風 嗣 ( 東 大 航 研 )
海軍 技術研究所水 棺
ハ ン ブル グ水 槽 ( 高 速 )
オ タ ン ダ水 付 ( ワ ー ゲ ‐ ン グ
ーグ)
第 1 回 I T T C ( ハ
平 質 ほ 先生 英造 船 学 会
第 2 回 I T T C ( H ン ドン )
メダ ル受t R
1937(昭
12)
1941(昭
16)
1943(昭
18)
本武蔵教授 の お骨折 りと, 元 良信 太郎所長以下 三 菱重 工
テーター水付 くワシントン)
1963(昭
38)
三菱長崎水付
九 大 ・応 力 研 水 槽
1965(昭
40)
船研
1960(昭
41)
1967(昭
42)
400M水
lHI水
精
相
東 大 ,航 海性 能 水 付,阪 大水 相
1974(昭
49)
1975(昭
50)
ー
技 七 ・ キ ャ ビテ シ ョ ン ・タン ネ ル
ー
船 研 ・大型 キ ャ ビテ シ ョン・タンネカ
1976(昭
51)
NKK・
1977(昭
52)
1978(昭
53)
検国大水槽
三 井 ・昭 島 研 究 所 , 住 五 ・平 壊
研 究 所 , 技 t ・ 波 圧 ・回 流 水 情
1980(昭
55)
長崎造船所 および同船 型試験 場 の 協力 によ ってで きた。
2 枚 の 写真 は正 面 玄関 を東 南 の 方角 か ら見た景 観 を , 設
第 4 回 I T T C ( ベ ル リン )
東 大水相
さい
に用 いた 船型学関係 の 年 表 で , 東 大 の 船型試験 水槽 ( 以
下単 に 東大水槽 ) は昭和 1 2 年に 当時 の平賀譲 工 学部 長 ・山
津 研 究所
立 当時 と4 0 周年記念 ( 昭 5 2 1 1 ) の 折 とを比較 した もの
で , 後 者 に見 られ る胸像 の 主 は , 船 舶 工 学科創 立
に 貢 献 され , か つ 現 在 の 船 舶 工 学 第 一 講 座 ( 船型
一
学 ) の 前 身 で あ る造 船 学 第 講 座 ( 明治 2 6 年開 設 ) L 姉
の 初代担任 で もあ られ た三 好晋六郎先生 で あ る。
図 2・ 1は 現状 の 配置 を示 し,図 中④ ∼ ⑥ と⑥ ∼
騨トロJ
と
ONα
TUttNAL SECHON
臣 玉正亜
F
① は前 回 に触れ た 第 2回 東 レ研究助成金 (昭和 36
景
母
皆
暑
暑
;暑
1京
魯
]
雷
暑
:岳
ま
骨
暑
皆
旨
景
授
骨ゎ
景骨 額
を
く
相 Teddington
船 舶 研究所 設立建 政 (造 船 協 会 ,
島樹と巨 璽彗]REY
槽 の設置 は本学科 の悲願であ った。 明治四十年
以降寺野教授 らによ って計画されたが実現せず,
図 2・ 1 東 大水槽配置図 (現在)
-49-
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船
の
科
学
法 ノ小型水槽 ニ テ充 分実験研 究 ノ ロ的 ヲ達 シ得 ル事 ヲ
現実 二認知 シタル ヲ以 テ , 当 科 ハー 昨年大水槽主義 フ
捨 テ中型 水槽 ヲ造 ル コ トヲ議 シ ,日.其設置 ノ急務 タル
事 ヲ決 議 セ リ。 (以下略)J(下 線 は 筆者 )
なお ,明 治 34年か ら大正 9年 まで外 国人教 師 と して 本
学科 に招聘 され た F.D.パ ー ビス氏 (1850ロン ドン生 れ)
は英 海軍 の Haslar水 槽で初代所長 R.E.フ ル ー ド(W.
フル ー ドの三 男)の もとで勤務 の 経験 が あ り,造 船協会
に も水槽 関 係 の 論 文 2編 を発 表 して い る。 その うちの
“
On a proposed experilnental tank"(空
子幸R夕訂6
写真 2・ 1 東 大水槽 (昭和 12年)
号)は 明治 35年11月の 同協会総会 で読 まれ ,試 案 と して
400× 20×10映の 水槽 (建屋共 12.2万円)を 提示 して い
る。 ただ し,こ れ は必 ず しも大 学 に限定 した もので はな
・巾 ・
い。 上記 の 寸法 は東大水槽 の86×3.5×24m(長
ー
ンカ
の
い
に
タ
き
り大
く,戦
大型化
伴
水深)よ
後
自航試
験 の さいのプ ロペ ラ直径対船長比 の減少 傾 向 か ら,い き
お い模型寸法 の 長大化 よ り水槽幅 の拡張要求 とな って 改
正 された現行 の 文部省大学設置基準 の 100×8× 35mに
はぼ 近 い。 (東大 を除 く国立大学 の 水槽 は ほ とん ど この
寸法 にな って い る)。東大よ り 1年 早 い昭和 11年に 海軍技
術研究所 (目黒水槽)にプ ロペ ラ単独試験用 の 中水槽 (102.5
× 3.5×2.5m)が 完成 して い る 1)。東大 水槽 の 寸法 は こ
れ に非常 に近 く,特 に 幅 は共 に 35mと 一 致 して い る。
写真 2・ 2 東 大水槽 (昭和52年 )
この 両者 の 寸法 決定 の 経緯 も調べ る必 要 が あ るが ,今 回
を立案 し,三 菱重 工 業長崎造船所 が 製作据付 けた。 現
は間 に合 わなか った。 いずれ に して も,従 来 の 大水槽主
“
義 を捨て ,中 水槽 へ と発想 の 転 換 を した こ とが 悲願達
"に つ
なが った。 それだけでな く,こ の 寸 法 は 造波抵
成
“
抗 の研究 には最 適 で もあ った。 そ して ,こ の 発 想 の 転
ルには “
"2)(大
正 15年60×6× 4映 ,の ち昭和
換
平賀水槽
在 船型試験 水槽 と して以 前 に もま して活用 されて い る。
2年 100唄に延 長)での 経験 が物 を いった もの と思われる。
昭和初期 には徳川 武定教授 の 私用極小型水槽 の 寄贈 を
受 けて研究教育 に当てて いた。ようや く昭和 12年(1937)
に義 勇財団海防義会 の 寄付 中出 によ り,つ いに小型水
槽 が 実現 した。 山本教授 は平賀教授指揮 の もと に これ
なお設計監督 は 当時本学営繕 課長事務 取扱 い を兼務 中
の 内日祥 三 教 授 (後総 長)ら 建築学科 が これ に 当 た り
初 め て 見 る水 槽 ・卒 業 論 文 題 目探 し
生 まれて初 めて 水槽 試験 の 現場 を見 た の は ,大 学 2年
今 にその 美 しい意 匠 を伝 えて い る。J(下 線 は 筆者 )
文 中 ,下 線 の 部分 が 具体 的 になに を指す のか は ,今 の
の終 り頃 ,多 分 昭和 17年9月 の あ る晴れ た 日の 午 後 ,「
船
一
一
この
の
工
で
舶 学実験第 」 名 目 く
見学
単位 )で 山本先
と ころ不 明 であ る。 なお この 点 に対応す る資料 と して ,
生直 々の ご案 内 を頂 き ,東 大水槽 の 中を見学 した ときで ,
山本武蔵先生 直筆 の メ モ 「試験水槽設置 ヲ必 要 トスル 理
由」(海防義会宛 文書 草稿 )の 「試験 水槽設置 二対 スル東
窓 が 大 き く,明 る い水面 を模型船が静 か に 走 って ゆ く。
京帝 国大学 ノ要 望 」 な る項 の 末尾 に次 の 文章 が あ る。
「…… 斯 クノ如 キ ヲ以 テ 当科 ハ 三十 年来其 設置 ノ要 ヲ
その 後方 ,左 右 対称 に拡 が る波紋 の幾何学 的 な美 しさに
しば しみ とれ た 。 それ は 多 分 ,当 時 ル ー テ ィ ン業 務 に
提唱 シ来 リシガ 今 二 至 ッテ尚之 ガ実現 ヲ見 ザ ル ハ 其建
設 二莫大 ノ費用 ヲ要 スル コ トト,大 学 ノ制度 上 単 一 ノ
学 科 施 設 二特 二 巨資 フ支 出 スル 事 ノ 困 難 ナ ル トガ其
な っていた 海軍 技研委託 の シ リー ズ ・テ ス トで あ ったか
主 因 ナ リ。 然 ル ニ最 近余等 ノ研究 二依 レバ 適 当 ナ ル 寸
-50-
その ときの 印象 はいまに鮮 かであ る。 東 大水槽 は南側 の
と思 われ る。
戦時下 の 短縮 授 業で ,わ れわれ の 年次 は 1年 半 で 2年
`
まで の科 目を終 え ,3年 次 はまるまる 1年 あ った。 昭和
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Vol.441991-2
サ最
17年 も10月に入 る と,各 自が 卒 業計画設計 の 対象船 を決
め る こ とと ,卒 業 論文 (実験 は 2人 1組 )の パ ー トナ ー
と題 目探 しで忙 しくな る。 当時 ,卒 業論文 の テ ー マ はま
↑
ず学生 が 自主 的 に考 え ,こ れ を指導教官 に提示 ,そ の 上
h
_=↓
生
A市 =k sO=k(bh)
で決 ま る立 前 にな って い た。 現在 は諸般 の 事情 で なか な
か 実行 で きな いが ,こ の や り方 は学生 の 自主性 と創 意 を
伸 ば す の に大変有 効 な 制度 で あ った と思 われ る。 筆者 は
b
流力 に興味 が あ ったの で ,迷 うこ とな く水槽 での卒 論を
選 び ,ラ グ ビー部 の 主 将 で あ った和国稔君 と組
んで ,題 目探 しに取掛 った。 その 頃教室 を挙 げ
て大陸河川 ・運河 用船 舶 の 研究 に打 ち込んで お
図 2 。 2 制 限水 路 断面 図
2.│
り,水 槽 も 「浅水時 の 実験 の みJと い う制約が
“
ル
加 え られた。 図書室 で 浅水影響 に関す る文献
を調 べ ると,「 船体抵 抗 Jに 関す る論文 は山ほ
どあ るが ,「 伴流 に対す る浅 水影響 」を取扱 っ
た もの は皆無 で あ った。 そ こで ,こ れを木 下 昌
雄 先生 (当時助教授)に 持 って行 った と ころ ,
・
2後 寛監 :働 &る
ア
墳1密
母
常識 通 リプ ロペ ラ位 置 で の 伴流 しか頭 になか っ 世
た。 木 下先生 は 勿論 Kreitner理 論 を ご存知 で ,
1
まず原論文 を読む こ と と ,船 体 中央部付近 での
船側 伴流 の 測定 が 大事 ,と の 判断 か ら,4名 2
組 (もう 1組 は 中西哲 一 郎 ・山内保文両君)で
“
"に いが った
思
行
当 た るよ う配慮 され た。 伴流
動機 は ,十船舶 工 学特 別講義J中 の 出脚1巽教 授
(第 2工 学部 ,本 務 は 海軍技研造船研 究部長)に
よ る 「高速艦 船 ノ船殻 効率 二就 イテ」 で ,先 生
の学位 論文 と思 われ る伴流 (特に排水伴流 )に
ついての 詳 しい 資 料 を頂 い た り した こ とが関 係 して い
図 2・ 3 制 限水路 の速 度 3領 域 (Kreitner)
もの とす る。 あ とは連 続 の 条件 とベ ル ヌ ー イの 定理 だ け
で ,船 速VOと 船体 中央位置 の 水 路 断 面 内平 均 相 対 流速
る。
V2と の 間 に3次 方程 式 が 導 かれ ,そ の 実根 の有 無によ り,
制 限水路 影 響
図 2・ 3に 示す よ うな速度 の 3領 域が 出 て くる。 図 は ,
制限水路 とは図 2 ・ 2 の 如 く, 水 深 h と 水路幅 b と が 同
時 に制約 され て い る水 路 を指 し, 水 槽で浅水時 の 実験 を
k=Am/SO=0.05の
場 合 であ る。 (こ こに Am=中
央横
仮底 で な く実底 でや る場合 に相 当す る。K r e i t n e r の理 論
載面積 ,SO=bh=水
路断面積 )。また横 軸xO=VO/Jtth
ー
ー
ベ
マ ッハ 1に 対応
ル
スの
フ
ド数 で ,xO=1は
は水深
とい うの は この よ うな水路を船 が 航行す る場合 の 断面平
す る。 Sub c.で は x2>xO,s<0(沈
浮上 ) を取扱 った簡単 な 1 次 元 理論
均流速 や船体 の 沈下 く
で あ る。 特徴 は 1 次 元 理 論で はあ るが , ベ ル ヌ ー イの 定
はそ の 逆 で ,中 間 の Crit.で は 実 根 がな い。
一 部 は船 側 を通過 で き
とい うこ とは全 流量 QO=VOSoの
理 に含 まれ る速度 の 自乗 の 項 を省略 せ ず にその まま と り
ず ,図 2・ 4に 示す如 く船首前方 に溜 り,有 限波高 の 孤
入れて い るので , 一 種 の 非線形 理論 にな ってい る点 で ,
そのため , 次 回 に述 べ る線形造波抵抗理論 では説 明 で き
立波 と して 船速 よ り速 い速度 で伝播す る。 ため に流れは
ない面 を効果的 に説 明 で き る と ころが 面 白 い。 仮定 と し
ては船 は十分長 い 中央平 行部 を もち , トリムはな い もの
両 々相倹 って 大 きな トリム と著 しい抵抗 増加 を きたす。
と し, 水 面 の 沈 下 ( 上昇 ) 分だ け船体 も平行 的 に上 下す る
い ,h=025,040,0.60mの
-51-
下),Super c.で
非定常 とな り,一 方 船尾 で は逆 に水面 の 低 下 を来 た し,
実験 は揚子 江連絡船興亜 丸 (97.5m)の
2.5m模 型 を用
3種 の ポ 深 で 実 施 した。
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船
の
科
学
4
1
C3 /g(htts3)
IG=卿
図 2・ 4
制限水路側面図
h3=httS3(<0),
h2≧httS2(<0),hl=httsl(>0)
( 危険速度)
関係 を求 め ,そ れ によ って 補 正 を加 えた 結果 を
も示 して あ る。 補正前 の もの に比 し,実 測値 に
か な り近 づ いて くる こ とが半Jる。 いず れ に して
も,Kreitnerの理論 の実験 的検 証 を第 一 の 目的
とすれ ば ,船 尾伴流 よ りも トリムの 影響 の 少 な
い船側 伴流か ら入 るべ きであ る こ とは当然 の 理
であ って ,船 尾伴流 はその次 の段 階 の テ ー マ と
な る。 と ころで,前 述 のKreitnerの論文 は理 論
だけで ,実 験 は全 くや って い な い。 またそれ以
後 も,こ の 理 論 の検 証を 目的 と した実験報告は ,
私共 が 調 べ た範囲 では皆無 で あ った。 この 意味
で は ,私 共 4名 2組 の卒論 はそれ な りの 意義が
あ った と思 われ る し,な かで も,い ち早 く船尾
伴流 だ けでな く,船 側伴流 の 重要 性 に着 眼 され ,
その 計測班 を ア レンデされた木 下先生 の す ぐれ
た指導 性 と,十 分 な準備 の もと厄介 な ピ トー管
を駆使 して ,こ れを成功 させ た中 西 ・山内組 の
功績 は大 き い と思 われ る。 ただ 実用 とい う見地
か らい うと,河 )││あ
るい は運河 を航行す る船が
図 2・ 5
criticalあ
る いはsuper c.のよ うな 高 速 で走 る
各水 深 にお け る船側伴流率 (Kreitner)
こ とは極 めて 稀 で ,私 共 は どち らか とい うと実
図 2・ 5は 各水深 に対 す る船側 伴流率 の Kreitner理 論
値 を ,図 2・ 6は ピ トー管 によ る船側伴流計測値 と船体
沈下量 および全 抵抗 を h=0.25mの 場合 に つ き示 し,図
用 よ りも理論的興 味 に 強 く惹 かれて い た こ とは事実 であ
2・ 7は 翼車式流 速計 によ るプ ロペ ラ位 置 の 伴流 計 測値
が物 の よ うに思 う存分使わ せて頂 き ,熱 心 な 指導教官 の
る。 それ はそれ と して ,戦 時下 で ,し か もまだ学生 の 身
であ りなが ら,完 成 間 もな い ピカ ピカの 立 派 な 水槽 をわ
対 して示 した。 Kreitnerの 簡
もと,多 数 の 職 員 の 協力を え つつ ,毎 日を感 激 にひた り
単 な理 論 が 船側 伴流 と船体 沈下 に関 し,予 想外 に よ く合
うことと ,船 尾 伴流 には トリムの 影響 が 大 き く入 る こ と
なが ら,実 験 と計算 に 明け暮れ たあの 頃 は ,い ま思 い 出
が わか る。
前 で ,毎 日見 る現象が ,他 所 では滅多 に見 られ な い典型
と トリムを h=060mに
図 2・ 7で ,ト リムが 大 き くな るとKreitner理論値 が
して も青春 の も っ と も充実 したひ とときで あ った。 眼 の
的 な 非線形 現象 であ り,し か も,そ の 複雑 な現 象 が ,い
とも簡単 な 1次 元理 論 で ,定 性的 の みな らず ,な かば定
実 測伴流率 と大 き く喰 い違 って い る。 通常 の 船舶 で は排
一
水伴流 は フル ー ド数 に無 関係 に 定 とされて い るが ,そ
量的 に も説 明 され る理論 の有効性 へ の 驚 きは ,学 生生 活
れ は トリムが 小 さ い と い う前提 がか くされ て い るの であ
最後 の年 と して えがた い体験 であ り,収 獲 で あ った。
って ,な ん らか の 原因 で , トリムが 大 き く変 ると,こ の
話 は飛 ぶが ,ず っと後年 にな って ,国 際会 議 の つ いで
常識 は通用 しな くな る。 これ を厳密 に取扱 う こ とは大 変
に欧州 の あ る水槽 を訪れた とき,は しな くも この 制 限水
困難 なので ,近 似 的 に 2次 元橋 円柱 および 3次 元 回転橋
路影響 を ポ ンチ絵 に した面 白 い もの を見 た こ とが あ る。
円体 に ついて ,プ ロペ ラ相 当位置 で の 伴流値 と迎 角 との
それ は 3枚 1組 にな って いて ,両 岸 に 1頭 づ つ , 2頭 の
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[本資料は船舶技術協会発行「船の科学」掲載本文の複写版]
Vol.441991-2
毛J
ブ
︱︱
伴流率 物 小
伴 流 率 (理論 )
縦傾 斜 ニ ヨル 補 正
図 2 ・ 7 船 尾伴流 と縦 傾斜量 ( h = 0 。6 0 m )
員
J 伴流 と船 体沈下 量 ( h = 0 。2 5 r n )
図 2・ 6 船 イ
な られた。新 婚 2 ケ 月 足 らず の こ とであ った。 そ して昭
馬 が ロープに つ なが って い る河舟 を汗を流 しつ , 上 流 ヘ
和 1 6 年4 月 共 に入学 した3 0 名の ク ラスの うち最初 で 最 後
と曳 い て行 く図 に な って い て , 最 初 の が s u b c . , が真 中
の戦争犠牲者 で もあ った。
が c r i t . , 最後 が s u p e r c . に対 応 してお り, そ の とき どき
の 馬 の 表情 で , 抵 抗 の 大小 を巧 に表現 してあ るので あ っ
平賀総長 とい えば , 私 共 の 1 年 上 の 内藤初 穂氏 の 力作
「軍艦総長 ・平 賀譲」 ( 文芸春秋社 , 昭 6 2 ・1 1 ) が あ る。
た。
前述 の 大学葬 の 記述 も これ に依 ったので あ るが , 昭 和 1 6
年 4 月 入学か ら, 同 1 8 年9 月 卒業 まで の 2 年 半 は , 日 に
平賀総長逝 く
日に軍 の 圧力が大学 にの しかか って きた時期 で , 平 賀総
昭和 18年 2月 17日 ,卒 論 が ピー クに達 しようとす る頃 ,
前年来喉頭結核 で体 調 を崩 してお られた平賀譲総長 が 遂
長以下 , 諸 先生 方 が どれ ほ ど これ に対抗 され , 苦 労 され
“
"の
たか , 当 時学生 で あ った われわれは 親 の 心子知 らず
に逝去 され た。 前年 12月20日に病 をお して総長再選 を受
た とえ通 り, ほ とん ど知 らず に過 ご した。 今 に して , 内
け られて ,わ ずか 2ケ 月足 らず ,満 65歳の誕生 日まで 19
藤先輩 の 著述や 「百年史」を ひ もと くと, た だただ頭 が
日を残す の みであ った。 2月 23日午 後 ,葬 儀委員長寺沢
寛 一 総 長事務取扱 の もと,大 講堂 で 大学葬が行 われ た。
下 が るばか りで あ る。
多 くの 弔辞 の なか には ,全 学在学 生代表 と して ク ラス メ
ー トの 穂積 重範君 のそ れが あ った。 同君 は東大船舶 工 学
科を明治 43年に卒 業された穂積律之助 海軍造船少将 のご長
男 で ,お 父上 の 跡 を継 ぎ ,入 学す ると直 ぐ海軍委託学生
の 試験 を首席 で 合格 され ,卒 業計画 もお父上 の 道 を追 っ
て 潜水艦 を選 び ,つ と に将来 を 嘱望 されて いた。 しか し
〔
参 考 文 献〕
工〕,造 学誌 604号
1)竹 沢誠 二 :本 邦試験水槽発達小史 〔
(昭 54.10)
2)平 賀 譲 :小 試 験 水 槽 に就 て ,造 船 協会 会 報 40号
(昭 2.4)
3)Kreitner,」
.:Uber den SchifFswiderstand
運命 は ときにま こ とに非情 で ,昭 和 20年 6月 22日の 空襲
auf beschranktern ヽ Vasser)ヽ Verft・ Rederee・
によ り呉工廠 内で防空壕 が 直撃弾を受 け ,惜 しくも亡 く
Hafen(1934)
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