小説『内観旅行』序章

小説『内観旅行』序章
小説『内観旅行』序章
~ 天才営業ウーマンとの出会いと挫折をきっかけに始まる、自分探しの心の旅 ~
●出会い
今から 10 年ほど前、私はある人物に出会いました。
それをきっかけに、私の人生はダイナミックに動き、
今も動き続けています。
ここでご紹介する物語は、
そんな私の体験を元に書かれたフィクションです。
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小説『内観旅行』序章
1.プロローグ
「納得できません!」
オフィス中に響く大きな声だった。
朝礼が終わると、行き先を告げながら次々と部員が営業に出て行
く。
社員研修を請負う会社だけあって、朝のオフィスは見かけ上てき
ぱきとしている。
浅井徳子もすぐに出るところだったが、「5分だけ・・・」と忍
田部長に呼び止められて、オフィスのコーナーにある部長席の前
に椅子を置き、向かい合って打ち合わせを始めていた。
かれこれ 15 分を経過した頃、その大きな声が発せられた。
声の主は浅井だった。めずらしく忍田部長にくってかかっている。
内勤の事務職員と、残っていた数人の営業部員の耳が、一気に二
人の会話に集中した。
浅井は前月度、新規顧客獲得と聡売上金額の、全国1位を同時に
達成していた。
これだけ成績を上げていても、更に高い要求をつきつけ能力を引
き出そうとする忍田部長は、浅井を怒鳴りつけることもしばしば
あった。
しかし、このときばかりは防戦一方だった。
他部門の新人営業が、浅井が以前から追いかけていた見込み客に、
「浅井は辞めました」とウソを言って研修を受注したのだ。
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社内の規定では新規顧客へのアプローチはフリーで、どの営業の
提案を選択するかは顧客の判断に任せている。
しかし嘘は当然ルール違反だ。
それでも、社内のゴタゴタを顧客にさらけ出すわけにはいかない。
部門長間で話し合った結果、売り上げは折半で分け合う。しかも、
今後の事を考えれば、良い提案と気配りのフォローで売り上げが
見込める浅井を担当に据えた方がいい。
それは誰もが理解できたが、浅井の力で今後上積みが見込める売り
上げまで、折半になるという。
浅井の数字は部の数字でもあるから、これには、恐らく部員全員
が納得しない。
この部門は以前にも、この「辞めました」事件を何度か起こして
いたが、たまたま受注前に見込み客が教えてくれていたので、大
きな問題にはならずにいた。
この部門長にしてみれば、自部門の新人がそうまでして必死に取
ってきた受注を、無にしたくないのかもしれない。しかしそうだ
としても、
「新人だから他部門の営業の名前まで把握していない
し、本当に辞めたと思っていた」という苦しい言い訳が通ってし
まうのは不自然だ。
至近距離で耳をそばだてていた八木啓一はそう思った。
部門長間の政治的取引か、何かのしがらみのせいか?結局この判
断の真相は、最後まで明らかにされることは無かった。
涙目のまま営業に出ようとする浅井に「少し疲れてないですか?
身体壊したらなんにもならないから無理しないでくださいね」と、
八木は声をかけた。
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浅井は出社も退社も殆ど定刻どおり、直行直帰も当たり前だった
が、毎日夜9時頃まで残業している自分より、よほど神経をすり
減らしながら仕事をこなしているように、八木には見えたのだっ
た。
浅井は曇った表情を一変させ、無理に満面の笑顔をつくって「あ
りがとう」と言うと、気持ちを切り替えるように、大きな声で行
き先と帰社時間を告げて出て行った。
2.目標達成1
八木がこの会社に中途採用されてから、3年が経過していた。
OA機器のメンテナンス会社を辞め、以前から興味のあった能力
開発の世界に入ってみようと再就職した 25 歳のときだった。
この会社の売れ筋商品であるハードな合宿訓練を、社員は必ず体
験しなければならない。商品を知らなければ売れないという、あ
る意味当然の理由からだ。
規定では7日で修了するリーダー養成訓練を、修了科目が足らず、
2日間も補講に費やした八木に対し、同期の中途採用で 10 歳年上
の浅井徳子は規定通りに修了してきた。
この研修で規定通りに修了できるのは全体の2割で、自社の社員
には更にハンデを負わせる。
結果、身内の規定修了者は1割に満たない。にも関わらず、浅井
はそれを主席で修了してきた。
人里離れた会社自前の訓練施設で、外界と遮断され、10 名単位の
グループ分けをして、競わせながらリーダーとしての行動力を鍛
えていく。
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斜に構えたような態度は許されない。メンツやプライドを木っ端
微塵にしてしまう仕掛けが随所に設けられており、挫折感と達成
感を繰り返し体験させながら、原則として全ての項目に合格する
まで研修を続ける。研修中はリーダーとしての行動の真価が問わ
れる。
八木としては二度と受けたくはなかったが、浅井にしても彼にし
ても、いい研修だと思っていた。
入社半年の頃、棒グラフのプレッシャーに押しつぶされそうな八
木に対し、浅井は目標をつぎつぎとクリアし、さらに倍々ゲーム
のように成績を伸ばし始めていた。
八木といえば成績は安定せず、上がったり下がったりを繰り返し
ていた。
堀が深く、目鼻立ちのはっきりとした美人で、仕事の出来る浅井
は周囲から妬まれるようになっていた。しかし彼女の成績は悪口
を封じ込めてしまうほど、上層部を熱狂させはじめていた。
そして客に好かれるのと同じように、身近な人間ほど彼女を慕う
ようになっていた。
3.目標達成2
この会社では、売上の目標設定は当然するが、行動にもノルマを
科す。それは、1日 100 本のアポイント電話であり、50 件の飛びこ
み営業だったりする。
しかし、そのノルマを彼女がこなしていないのを、八木はよく知
っていた。
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それは中身の無い行動目標が、こなすだけなら無意味で、無駄な
作業に過ぎないことを、浅井と成績の上がらない者との比較で証
明しているようなものだった。
彼女の営業日報や、提出を命じられている様々な営業活動のデー
タは、部門長の判断で改ざんされ、真実の姿は上層部には伝わら
なかったし、提出はしばしば滞っていた。
そういう彼女の一面だけを捉え、周囲ではウソの報告や書類提出
の遅延が横行していた。
八木はバカ正直に、無意味な数こなしの、およそ仕事とは言えな
いような作業を、毎日のように繰り返していた。
それは最低限指示されたことだけはすることで、成績が上がらな
いマイナス点をカバーしようとしていたに過ぎない。頭を使った
り工夫をするということをサボっていることを、八木自身が自覚
していた。
奴隷のように、言われたことだけをするのは実は楽なのだ。そこ
まで分かっていて、それを改善する方法が彼には分らなかった。
そして結果責任は指示を出した人間にあるのだから、自分はリス
クを負わなくていい。それより、指示に従わない事で予想される
軋轢(あつれき)やペナルティーを覚悟の上で、思考錯誤しなが
ら自分のやり方を追求することの方が、精神的タフさを必要とす
る。
その意味で自分と浅井は対称的だと、八木は思っていた。
そもそも販売戦略・戦術において、顧客と直に接している最前線
からの情報は、それを立てる上で極めて重要な要素のはずだが、
この会社の場合、情報は改ざんされ、誤った報告が上がるので、
上からの指示もトンチンカンになる。
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しかし、これは別にこの会社に限った事ではなく、トップの意向
が強くはたらく中小企業では当たり前のようにある。
その辺のところは実は社長もよく分かっていて、わざと社内に問
題が起きるように理不尽な仕掛けをし、それをネタに新しい研修
を考案しているのではないか?と、八木は疑っていた。
主任研究員という肩書きのこの会社の代表は、どうも利益を上げ
ることより、自分の会社を実験室にした研修の研究開発に、より
興味があるようにしか、八木には見えなかった。
実際、営業活動の時間を割いてまで優先される、俳優養成所のよ
うな訓練が、社内で頻繁に行われていた。
もちろん、モルモットの優先順位は、成績の上がらない者からで
ある。
4.目標達成3
平成不況といわれる中で、この研修会社でも営業は苦戦を強いら
れていた。経費節減の矛先は、社員研修にも向けられている。
ところが、八木のいる企画営業第1部だけは別だった。夏には年
初にたてた部門の売り上げ目標を達成してしまったのだ。
そこそこ好調な営業が何人かいたこともあったが、部門の成績を
引っ張ったのは浅井だった。
10 人いる営業の、総売上の実に 40%あまりを、浅井ひとりで稼ぎ
出していた。
浅井には既に3人の部下がいたが、うまく使っていた。必要な企
画書の作成や書類の郵送などの処理を部下にやらせ、自分はでき
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るだけ営業に専念できるようにしていた。
与えた仕事には始めのうちチェックを入れるが、次第に部下に全
て任せるようにしていった。
もちろん部下にもノルマがある。そこで部下の見込み客先に同行
し、バックアップすることで部下の数字もつくっていた。
これによって浅井の部下達は、OJT(オン・ザ・ジョブ・トレ
ーニング)で彼女の営業ノウハウを学ぶことができた。
秋、会社の創立30周年を記念して、全国の営業成績優秀者を都
内のホテルに集め、パーティーが行われた。
浅井は全国営業拠点の百数十人の営業社員中、年間売り上げ第一
位の表彰を受けた。忍田部長の手腕も高く評価され、最優秀部門
として表彰された。
浅井は3年前の入社当時、営業先でトップセールスになると吹聴
しまくっていた。そんな浅井を、営業先の人事担当者や社長も面
白がっていた。
「3年で一番になります」と宣言していた浅井の目標は言ったと
おりになった。
彼女は「部門で3番になりました」「全社で5位です。もう一息
です」というように、節目節目で自分の成長を自分の顧客に報告
していた。
そうすることで有言実行が認められ、客からも信用され応援もさ
れた。そして、確実に浅井ファンをつくっていった。
実際、入社1年の頃には新規の営業をしなくても、新規開拓がで
きていた。顧客が新規を紹介してくれるからだ。
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浅井は研修を受注するとき、決して顧客の希望をそのまま受けな
い。まず許される予算内でどんな研修をすれば最も成果を出せる
かを、徹底的に考えた。
「出来の悪い社員を、厳しい研修で叩き直してくれ」などという
要望には、
「原因は社長にあるのでは?」などと手厳しい。わざ
と怒らせることすらあった。
研修に失敗すればリピートは望めない。クライアントの現状把握
とフォロー、根回しなど、成果を出すことにこだわっていた。
しかしそれは、結果として信頼を勝ちとることになった。
受賞のスピーチでは、自分の歩んだ営業でのエピソードの他、成
果を出したクライアント企業のPRも忘れなかった。
5.目標達成4
パーティー会場のステージに上がり、社長から記念品を授与され、
彼女は感涙にむせんでいた。
このイベントには、クライアント企業と成績優秀者だけしか参加
できなかったので、八木はこのパーティーの様子を浅井から聞い
た。
八木と浅井は一度も同じ班になったことがなかった。しかし同期
のよしみで、浅井は八木に優しかった。
成績の上がらない彼の相談にもよくのっていた。八木は浅井に、
一般人には無いスター性のようなものを感じていた。
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「浅井さんて、近い将来テレビとかに出ちゃうような気がするん
ですよね」
「あらっ本当?さんまちゃんと共演できるかしら」
「できちゃうかもって思えるんですよ。有名人になっても僕のこ
と忘れないで下さいね」
お世辞を言っているつもりは無かったが、そう言われて嬉しそう
なリアクションをする浅井を、八木は可愛いとさえ思った。
この頃の浅井は明確に次の目標を描き始めていた。
しかし、八木は相変わらず自分の目指すべき姿が見えてこないで
いた。
6.愛される理由1
「相談があるんですが、近いうち一緒に飲みに行きせんか?浅井
さん忙しいから、浅井さんの都合に合わせますから」
「じゃー今夜どう?今夜ならあいているわ」
浅井のアフター5のスケジュール表は3ヶ月先までほぼ詰まって
いた。
それでも空いてさえいれば、彼女は付き合ってくれた。
その日は、自分の住む日本橋浜町の清潔感のある焼肉レストラン
に、浅井は八木を連れて行った。
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その店に入ると、店主も店員も彼女を見るなり零れんばかりの笑
顔で迎え入れ、奥の落ち着ける個室へと案内した。
浅井も、「こんばんはぁ!おじゃましまぁーす」と、店員ひとり
一人に笑顔で挨拶している。まったく客然としていない。
そして八木は、浅井に至れり尽くせりの接待を受けてしまった。
「相談をお願いしたのはこっちなのに…」八木は少し戸惑ってい
た。
まず彼が下座に座ることを許さなかった。
注文のメニューも、彼の好みや希望を聞きながらも、「コレ絶対
お勧めだから」、と、考える負担を彼に与えることは無い。
八木は何を相談するでもなく、すっかり癒されてしまった。
浅井は八木に、会社に知れるとまずい事まで話した。
浅井が自分を信用してくれているということが、彼は素直に嬉
しかった。
7.愛される理由2
この3年間で彼女のつくりあげた人脈はスゴイの一言だった。
浅井は一部上場企業の社長とまで、飲み友達になっていた。
友人関係にある企業のトップ同士と浅井の3人で、月イチで飲み
会をしている。
守秘義務があるからと内容は教えなかったが、マスコミに出る前
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のインサイダー情報まで話題に含まれていたという。
この店を出ると、目の前の大通りを一直線に 200 メートル程行き、
右に折れて都営地下鉄浜町駅の入り口がある。
店の前でその日の礼を言って浅井と別れ、八木はこの一直線の道
をほろ酔い気分で歩いていた。
「今日は有難うございました」
「こちらこそ、とっても楽しかったわ」
歩きながら二三度振り返り手を振る。その度に、浅井も白い歯を
みせて微笑みながら手を振っていた。
そんな別れ際の余韻を楽しみながら、その 200 メートル歩いた直線
道路の角を右に曲がろうとしたとき、八木は信じられない光景を
後方に見た。
そこには、浅井がまだ立っていて手を振っているのだ。
八木は感激のあまり持っていたカバンを放り出し、飛び上がって
両手で手を振ってそれに応えた。
自分は浅井にとっての客ではないし、自分と仲良くしたところで
何の得にもならない。
彼女にとっての1時間の価値を考えると、八木は申し訳なくなる
のだった。
八木の住む地元に、彼行きつけのスナックがある。ドアを出て、
帰りのほんの 10 メートル程先の角を曲がるまで、店の女の子やマ
マが、ドアの外で見送っていたことはなかった。
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別にそれで普通だと思っていたし、期待もしていなかったが、浅
井からこんな接待を受けてからというもの、八木は気になるよう
になってしまった。
後になって、「あの時は感激しました」と八木が言うと、「相手
が思いがけない事をするのが好きなの」と、浅井は笑みを浮かべ
ながら言った。
八木はそのとき思った。営業はテクニックではない。売らんかな
の下心は、すぐに見透かされてしまう。どうしたら相手が喜んで
くれるか?それを常に考えること。報酬は金銭ではなく、相手の
喜びそのものと思うべきなのかもしれない。
図らずも、浅井の行動が自分に教えてくれたのだと、彼は思うの
だった。
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おわり
等身大の成功プロジェクト
湯川健一
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