直実は武蔵国大里熊谷、即ち現在寺のある地で熊谷直貞の次男として

直実は武蔵国大里熊谷、即ち現在寺のある地で熊谷直貞の次男として生まれた。
幼名を矢弓丸といった。母は久下直光の姉である。保元の乱には頼朝の父義朝に
従って勝利を得るが、平治の乱には頼朝の兄義平と共に平重盛の軍勢と戦い敗れ
て熊谷に帰った。そして、やがて伯父の久下直光の代理人となって京都の大番役の
ために上京したが、代理人であることを馬鹿にされて、直光に報告せずに平知盛の
部下として働き、直光の怒りをかって所領を奪われてしまった。
そして、治承4年(1180)頼朝が伊豆で旗揚げした時は平家方についていたが、半
年後には頼朝に従って常陸国の金砂城に佐竹を攻めて軍功を立て、頼朝から直光
に奪われていた熊谷の地を返還された。その後は鎌倉の代表的な武将として活躍
していた。
直実は正直一徹、短慮な男である。鶴岡八幡宮の流鏑馬の行事で騎手になりた
かったが、的立役を命じられ、気に入らないからと勝手にその役目を下りて罰則を受
けたりしている。だが、人情が厚く勇敢豪気の典型的な坂東武者である。そのため
頼朝には好かれていた。
熊谷直実を最も有名にしたのは『平家物語』に描かれた一ノ谷合戦の「敦盛最
後」である。沖に逃げていく平家の大将と思しき男を扇をあげて招くと、その男は馬
首を返して波打ち際に戻ってきた。直実は馬上で組み伏せどっと落ち、首を掻こうと
して兜を押し上げると、自分の息子と同じ年頃の薄化粧をした美少年である。斬るに
しのびず逃がそうとするが、すぐ後方に見方の軍勢が迫ってきている。直実は泣く泣
く首を掻いてしまった。
後で聞いてみると、修理大夫経盛の子息敦盛17歳であった。幸若舞の「敦盛」で
「人間五十年、化天の内をくらぶれば夢幻の如くなり」という一節は、直実が敦盛の
首をとって人生の儚さを沁々感じて、出家しようとする下りに用いられた言葉である。
化天とは六欲天のうちの化天で、ここで生まれた者は人間の800歳を1日として、80
00歳まで生きる寿命があるという。いわゆる人間の50年は化天に比べて余りに短い
ということになる。
ところで、直実は敦盛を討ったことが原因で、その後出家することになったと『平家
物語』はいう。確かにそれも遠因となっていることであろう。だが出家の直接の原因
は、伯父の久下直光との境界争いに不利になったことがきっかけである。
当時一般に所領のことで争いが絶えなかった。この地では荒川が、熊谷付近で古
来しばしば流れを変えていたようだ。それは熊谷付近が扇状地の先端に当り、そこ
から下流が低地帯になって、洪水ともなれば、今まで川のこちらにあった土地が川
向うの土地になることがしばしばあったから、争いの火種になったのである。直実と
直光の所領争いもそんな所に原因があったのであろう。
建久3年(1192)11月の下旬、鎌倉幕府で頼朝臨席での裁判で、直光には幕府の
要人梶原景時が控え、戦場の勇士直実も口下手で弁明ができず、自分がもどかしく
なり、とうとう証拠の書類などを投げ捨てて、髻(もとどり)を切って自宅にも戻らず行
方不明となった。
そして、やがて京において法然の弟子となって出家して蓮生という法名を賜った。
敦盛の死から既に十数年が経過していた。(新妻久郎)