出典:「日経ビジネスオンライン」 2013年4月16日 地獄への道は、善意で敷き詰められている 田坂広志氏と伊勢谷友介氏が語る新しい民主主義の形・その 2 2013 年 4 月 16 日(火) 田坂 広志 、 伊勢谷 友介 今、民主主義が問われている。昨年 12 月の衆院選では自民党が大勝し、絶対安定多数を握ったものの、エネル ギーや国防、通商など国の将来を左右する問題は山積しており、いずれも国論を二分する事態に陥っている。 民意はなかなか反映されず、世の中は一向に良くならない。そんな民主主義の限界を打ち破るため、昨年 12 月に 発足したのがデモクラシー2.0 イニシアティブだ。様々な組織や団体が参加し、現状の民主主義を新しい参加型民 主主義に変革していくことを目指す。 今、なぜ民主主義の変革なのか。デモクラシー2.0 イニシアティブの発起人の一人で、日経ビジネスオンラインでは コラム「エネルギーと民主主義」の執筆者としてもおなじみの田坂広志氏と、俳優・映画監督で、自ら代表を務める 株式会社リバースプロジェクトにおいて、新しい政治参加の方法を考え提案する「クラウドガバメントラボ」などの活 動にも力を入れる伊勢谷友介氏が対談した。今回はその後編。 ――前回は、民意が反映されているとは言い難い現在の民主主義を「新たな参加型民主主 義」に変えなければならないという話から始まり、その参加型民主主義を実現するためには 様々な問題に対して「同時に」働きかけなければならず、そのためにデモクラシー2.0 イニシア ティブを立ち上げたという話をお伺いしました。なかでも「英雄を必要とする国が不幸なのだ」 という劇作家ベルトルト・ブレヒトの言葉が印象的でした。 田坂:20 世紀は、ある意味で「悪人」がいた時代でした。第二次世界大戦におけるヒトラーや スターウォーズにおけるダースベイダーのような「悪人」がいた。そして、これらの「悪人」を打 ち倒せば、世界に平和が訪れ、宇宙に平和が訪れるという素朴な物語が語れた時代でした。 しかし、21 世紀は、その意味での「悪人」がいない時代です。世界全体で様々な問題が起こ っているにもかかわらず、「あいつが問題の元凶だ」「あいつが問題を引き起こした犯人だ」と 呼べるような「悪人」がいない。「悪人」が見当たらない。しかし、それにもかかわらず、世界全 体の問題は深刻化し、解決策の見えない状況が続いていく。その理由は、誰か特定の「悪 人」が問題を起こしているのではなく、社会という「システム」全体が病んでいるからです。社 会という「システム」が、あたかも意志を持っているかのように、国民の願いを無視して、それ に反する方向に変わっていく。 例えば、日本の行政組織が、国民の願いに反し、税金を無駄遣いする組織へと肥大化して いく。それは、誰か特定の「悪人」や「犯人」が企んでいることではありません。行政組織その ものが、その肥大化を加速させるように自己運動していく。まさに「行政システム」が病んでい るのです。 この「あたかも意志を持つかのように自己運動していく社会システム」に、どう処していくの か、どう変えていくのか。それこそが、21 世紀において我々が直面する最も困難な課題です。 もとより、この変革に、安易な「特効薬」はありませんが、もし、我々に戦いの拠り所とするもの があるとすれば、それがまさに「クラウド」だと思います。 すなわち、あたかも意志を持つかのように自己運動する「社会システム」を変えるには、ただ 「強力なリーダー」が生まれることだけでは不可能です。むしろ、「ウィズダム・オブ・クラウズ」、 すなわち無数の市民が集まったとき、そこに生まれてくる英知、「市民の英知」を活用すること です。 この「市民の英知」は、インターネット革命によって、その影響力を急速に増しています。この 力を最大限に生かして、この社会システムの変革に取り組んでいくべきでしょう。 現在の日本の政治は、なぜおかしくなっているのか。その原因は様々にありますが、一つの 要因は、「二項対立的な討論」にあります。これは、デモクラシー2.0 イニシアティブが掲げる 「14 のパラダイム転換」の中にも「二項対立的な討論から、弁証法的な対話へ」という言葉で 取り上げていますが、この「二項対立的な討論」の文化を変えていく必要があります。 例えば、原発問題もそうですし、消費税や軍備についてもそうです。テレビ番組などのメディ アは、問題を「原発維持か、脱原発か」「消費税増税、賛成か反対か」という形で二項対立的 に単純化し、意見の違う識者の議論の対立を際立たせ、あたかも闘犬を戦わせるように煽り ます。そして、過激に相手を批判し、否定する人が注目を集めるという状況を、メディアは好 みます。これは、前回お話しした「英雄」と「悪玉」(悪人)の対立構図と根は同じです。 しかし、まさにこの「二項対立」の発想こそが、我々の思考を浅くしてしまっています。国家や 社会において重要な問題を議論するときに大切なのは、こうした「二項対立的な討論」のスタ イルではなく、むしろ、対立を超えて相互理解を進め、互いの認識を深めていくという「弁証法 的な対話」のスタイルです。それにもかかわらず、現在のメディアは、選択肢を「A か、反 A か」 という形で設定し、「あなたはどちらか、早く結論を出すべきだ」という形で迫り、結果として、 性急で底の浅い議論に陥ってしまっています。 一方、政治家は言葉では「熟議」と言いますが、本当に「熟議」をしている例はほとんどあり ません。現実には、政局的な思惑や党利党略で議論を進めざるを得ないことが大半です。も ともと、この「弁証法的な対話」や「熟議」というものは、本来、特定組織の利益代表や、党利 党略で動く政治家には、できないことです。「ポジショントーク」という言葉がありますが、例え ば、原発問題を議論するときに、電力業界を代表する立場で話をすると、そもそも、住民の立 場を理解するわけにはいかなくなってしまうのです。そういう「ポジショントーク」と「二項対立 的な討議」の状況が、現在の政治やメディアには溢れています。 本来、「熟議」というものは、互いが全く異なる考え方からスタートしたとしても、一方的に自 己の主張を述べ、押しつけるのではなく、相手の主張に耳を傾け、その中の正当な部分には 理解を示し、それに合わせて柔軟に自己の主張を修正するという「弁証法的な対話」のスタイ ルが前提になっています。 もとより、それでも互いの主張の溝が埋まらず、最後は「多数決」という方法になることもあ るかもしれませんが、何よりも大切なことは、一度、相手の主張に虚心に耳を傾け、相手の立 場や考えを理解しようとすることです。そして、ある意味で、民主主義において大切なのは、 「結論」ではなく、むしろその「プロセス」であることを、我々は理解すべきでしょう。そのことを 忘れ、「ただ、正しい結論さえ出せばよい」と考えてしまうと、民主主義というものが、深みの無 い浅薄なものになってしまいます。 「地獄への道は、善意で敷き詰められている」 伊勢谷:二項対立と対話の話は田坂さんのおっしゃる通りだと思います。つまり、宇宙人とし ての目線を持つことが必要であるということなのでしょう。人類としてベストの方法を選んでい けばいいのです。 これは人類にとって非常に大きな進化なのではないでしょうか。昔の人は地球というものを 宇宙から見たことがありませんでした。私たちは写真や映像を通して地球を見ていて、そこに 70 億人が住み、問題だらけであるということを知っています。その人類がこれからも地球で共 存していくということは共通なはずです。この共通項をしっかりと理解すれば、対話ができるは ずです。 それが立場で話をすると対話になりません。特に日本人は立場の意識が強いと思います。 ですから、それぞれの立場を形成している関係図が壊れていくことが大事だと思います。 旅行をすると本当によく分かります。旅行に行くと「ここが日本と違う」と言う人もいますが、 むしろ共通項の方がたくさん見つけられます。困っていることなどもだいたい同じです。行け ばすぐに分かることなのに、内にこもって相手を誹謗中傷する方が楽なのでしょう。 ――立場を超えて話せば、違うものが見えてくるということですね。 伊勢谷:組織に所属して立場で話をするからややこしくなるのだと思います。そうではなくて、 人として話をすればいいのです。 田坂:「地獄への道は、善意で敷き詰められている」というカール・マルクスの言葉があります が、例えば、電力会社にも、「個人」としては、原発の安全対策の問題や核廃棄物の問題を懸 念している人はいるのです。ところが、それが「組織」になると、そのメンバーには、ある種の 自己規制が働いたり、立場を考えて発言するようになり、本音と建前が分離するといった状況 が起きてきます。 すなわち、どこかに「悪人」がいて、社会に対して害を為そうとしているわけではないのです。 もし、そうであるならば、問題の解決は簡単です。その「悪人」を見つけ、排除すればよいだけ です。そうではない。一人ひとりは誰もが「善意」で動いている。けれども、社会全体もしくは組 織全体は、「地獄」への道を盲目的に進んでいく。まさに「地獄への道は、善意で敷き詰めら れている」。これが 21 世紀の社会の怖さだと思います。 ただ、正確に言えば、誰もが「善意」ではあるのですが、誰もが尐しずつ「無責任」なのです。 そして、その「小さな無責任」が集まると、「巨大な無責任」が生まれてくるのです。 こんな寓話があります。あるフランスの片田舎で、永く務めていた牧師さんが遠くの村に転 任することになりました。貧しい村でしたが、村人たちは相談して、この牧師さんに白ワインを 一樽、贈ることしました。そこで、村人がそれぞれグラス一杯のワインを持ち寄り、樽に注ぎ、 満杯になった樽を牧師さんに渡し、見送りました。しかし、牧師さんが新たな任地に着き、この 樽を開け、ワインを飲んでみると、何と中身は水だったのです。 なぜこのようなことが起こったのか。村人は全員、誰もが牧師さんに感謝していたのです。し かし、やはり貧しい村であり、誰にとってもワインは貴重でした。そこで、誰もが、「自分の家ぐ らい水を入れても分からないだろう」と思い、みんなが水を入れてしまったのです。その結果、 樽の中は、水だけになってしまったのです。 これが、「小さな無責任が集まると、巨大な無責任になる」ということの一つの例です。もとよ り、話がワインであれば、まだ笑って済ませられますが、現在の社会には、笑えない深刻な問 題が、この「小さな無責任」によって起こっています。「年金記録の紛失問題」などは、まさにそ の象徴でしょう。 「強力な指導者」ではなく、「賢明な国民」を そして、この「小さな無責任」の問題が、政治における国民の意識にも起こっています。 国民一人ひとりは、「政治を良くしたい」「政治が良くなって欲しい」と思っている。しかし、ひ とたび選挙となると「自分一人ぐらい投票しても、何も変わらない」と思い、「自分一人ぐらい棄 権しても、何も影響はないだろう」と思う。しかし、その結果、選挙の結果は、勝利した政党も 驚くほど、国民の民意から離れたものになってしまう。 すなわち、これも「小さな無責任が集まると、巨大な無責任になる」ということの現れです。そ うであるならば、これからこの国の政治を変革するために真に必要なのは、「強力な指導者」 ではなく、むしろ「賢明な国民」なのです。 国民一人ひとりが「政治に責任を持つ」という意識へと成熟していかなければ、社会の変革 そのものが、この「白ワインの樽」の寓話のごとく、根本のところで壁に突き当たってしまうでし ょう。 では、どうすれば、国民一人ひとりの意識が成熟していくのか、その問いに安易な解決策は ありませんが、一つ申し上げておきたいことは、民主主義とは、「社会の意識決定」のプロセ スであると同時に、「国民の学びと成長」のプロセスでもあるということです。特に、これからの 時代は、その視点から民主主義を見つめておくことが、極めて重要です。 例えば、「国民投票」は、社会全体の意思決定の方法であると同時に、国民投票を行うこと によって、国民一人ひとりが、情報を手に入れ、議論し、深く考えて投票に行くことになります。 民主主義においては、その「国民の学びと成長」のプロセスこそが大切なのです。そのプロセ スを尊重しなければ、民主主義は、必ず、ある種の「衆愚政治」になってしまうからです。 ――ここまでの話を聞いていると、昔の人の方が賢かったと思えてきますが。 伊勢谷:そんなことはないと思います。人間は尐しずつではあるかもしれませんが、成長はし ているのです。例えば、戦国時代に「デモクラシー2.0」と言っても「それは何?」という反応でし ょう。直接民主主義という話をしても伝わりません。 「昔はよかった」とよく言いますが、昔の方が悪かったことはいくらでもあります。昔は直接民 主主義的なやり方ができていたというのも、昔の人が賢かったからではなく、今ほど仕組みが 複雑ではなかったからできていたということではないでしょうか。 間違いなく言えることは、先ほど田坂さんもおっしゃっていたように、無責任な人が増えても 問題ないという状態が、大問題なのだと思います。皆が自由と責任をきちんと持つ。成長した 大人であれば、本来なら法律もいらないのかもしれません。そうでない人がいるから政治家 がルールを決め、そのルールの中で生きていけば私たちは幸せでいられるという状況になっ ています。その結果、何も考えなくなって、言い方は下品ですがバカになってしまっているの だと思います。 自分たちで法律も変えられる、憲法も変えられる、ということを認識しないといけません。そ ういう事を意識出来るような社会になれば、考える事が当たり前の国民につながるのだと思っ ています。大きな責任を持つということはもちろん疲れる部分もあると思います。しかし、それ にも慣れるのではないでしょうか。 田坂:たしかに、伊勢谷さんが言われる通りかと思います。過去の方々への尊敬の念を持っ た上で、敢えて申し上げると、過去の国民と現在の国民とでは、やはり教育水準が違います。 その教育水準の違いは、民主主義を「国民の学びと成長」のプロセスとして捉えるならば、本 来、極めて良い条件であるはずなのです。 そもそも、「民主主義」という概念が生まれたとき、それは「未来における理想形」として語ら れたのだと思います。つまり、国民一人ひとりが賢い人間であり、その国民たちが議論をしな がら、社会のあり方を決めていくという理想形です。そうであるならば、民主主義というものは、 現在は不十分、不完全なものであっても、その理想形に向かって、国民が賢くなっていくプロ セスであると考えるべきでしょう。 その一つの例が、ブータンです。ブータンはずっと王制を敷いていました。そして、国王に対 する国民の支持は極めて高かったのです。しかし、その国王自らが、選挙制度を導入して民 主主義に移行すると宣言しました。多くの国民からは「国王は良い政治をしてくれているのだ から、現在のままでいい」という声も出ましたが、国王は「もし、未来において悪しき国王が生 まれたらどうするのか。そのためにも、いま、民主主義という制度を導入しなければならない」 と言って実行したのです。これは見事なリーダーの姿と言えます。 伊勢谷:かっこいいですね。ブータンには何度も行ったことがあって大好きなんですが、知りま せんでした。日本の政治家は学ばないと。 田坂:この国王が実行したことは、説教をして国民を成長させるということではなく、制度を導 入することによって国民の意識の成熟を促すということです。このブータン国王の民主主義の 捉え方は、民主主義というものが「国民の学びと成長のプロセス」であるということを深く理解 しており、その意味において、極めて先進的で、本質的な捉え方です。 一方、これまでの我が国の民主主義は、政治家の意識や情報共有の在り方の点では、こ の「国民の学びと成長のプロセス」を促すものにはなっていなかった。むしろ、政治家にも「民 主主義とは、選挙によって民意を問うことだ」といったレベルの理解しかなく、情報共有も、先 進国では当然になっているネット選挙一つを取っても、政治家の都合で実施が見送られてき たわけです。その結果、国民の意識は、「民主主義とは、選挙に行って投票することだ」という レベルに抑えられ、選挙においては、「ポピュリズム」と呼ばれる大衆迎合的政策が競われる 状況が続いてきたわけです。 従って、これから我々は、「民主主義」という制度を、「国民の学びと成長のプロセス」として 位置付け、国民が「社会の意思決定」に参加するという次元を超え、「社会の変革」に参加す るという次元へと高めていかなければならないでしょう。 「民主主義は最悪の形態」を超えられるか ――民主主義は今まさに進化の途上にあるということですね。 田坂:イギリスの首相だったウィンストン・チャーチルはこう言っています。「民主主義は最悪 の政治形態であると言える。ただし、これまで試されてきたいかなる政治制度を除けば」と。こ の「最悪の形態」を超えていくのが、現在の大きなテーマなのです。 では、これから民主主義は、どのようなものになっていくのか。そのビジョンを、デモクラシー 2.0 イニシアティブは、「民主主義 14 のパラダイム転換」として掲げています。しかし、その具 体的な制度や組織や文化は、まさにこれから我々が運動を広げていくなかから生まれてくる のかと思います。「パーソナル・コンピュータの父」と言われるアラン・ケイは、「未来を予測す る最良の方法は、それを発明することである」と言っていますが、こうした運動の中から、かつ て想像もしていなかったものが生まれてくるでしょう。 例えば、この「民主主義 14 のパラダイム転換」のビジョンの一つに、「現在の世代の利益 から、未来の世代の利益へ」というものを掲げています。現在の民主主義は、「現在の世代」 の間での利害調整の仕組みにとどまっており、「未来の世代」の利益を考えるものにはなって いません。これに対して、ハンガリーでは、「ゼロ歳児にも投票権を与える」という制度が議論 されています。これが実現すると、その投票権を代理行使する両親は、生まれたばかりの子 供の将来を深く考えて、選挙に行き、政治に関わっていくでしょう。 すなわち、民主主義の成熟とは、究極、「議論のテーブルに着くことのできない人のことも考 え、意思決定し、行動する」というレベルにまで高まっていくことを意味していますが、その一 番明確な例が「未来の世代」です。地球環境問題や核廃棄物問題を例に挙げるまでもなく、 「未来の世代」の利益を考えて、「現在の世代」が意思決定をする。それが、これからの民主 主義の成熟していくべき方向でしょう。 また、考慮すべきは「未来の世代」だけではない。例えば、アフリカなどの「発展途上国」の 人々のことを考えて、意思決定をする。それも「テーブルに着けない人々」のことを考えた民 主主義です。しかし、現在の民主主義は、「自分に有利だからこの政策に賛成、不利だから 反対」という利害調整の次元でしか機能していません。真に成熟した国民は、「自分にとって 有利であっても、相手の立場に立てば、こうするべきだ」という相手に対する想像力や共感力 に基づいて、考え、意思決定し、行動するのでしょう。 伊勢谷:子供のことを愛していると言いながら、子供のことを本当に考えたら、様々な問題に 対して無責任ではいられないはずです。原発の問題や食料の問題をぼんやりとは考えてい ても、お金がない、時間がないということで行動しない。しかし、単純化すれば、個人でもでき ることはたくさん見えてきます。複雑化してしまった社会の中で、諦めてしまっている自分から 抜け出す。その単純化作業を私が立ち上げたリバースプロジェクトでやっていきたいですし、 デモクラシー2.0 イニシアティブでも共有していきたいと思っています。 ネット革命が変える「無力感」と「無責任」 ―― 一人ひとりが尐しずつ無責任になってしまうという状況を変えることは簡単なことではな さそうです。 田坂:なぜ、一人ひとりが尐しずつ無責任になるのか。実は、この「無責任さ」の背景には、 「無力感」があります。誰も好んで無責任になっているわけではありません。しかし、牢固とし て変わらない社会や組織の中で、「自分一人が行動しても、世の中は変わらない」「私一人が 何か言っても、この組織は変わらない」という「無力感」が、一人ひとりの「尐しずつの無責任 さ」を生み出しているのです。 では、我々の中にある、この「尐しずつの無責任さ」は、どのようにすれば変わるのか。 この「無責任さ」が「無力感」から芽生えてきたものであるならば、人々の心の奥にある「無 力感」を払拭していくことが、本来の道です。アメリカのオバマ大統領が、4 年前に大統領に当 選したとき、語り続けた言葉が「We Can Change! Yes! We Can!」だったことを想い起すべきでし ょう。彼もまた、国民の中にある「どうせ我々は、この国を変えることができない」という無力感 を払拭するところから始めたのです。 そして、現実に我々国民は、素晴らしい「力」を獲得し始めているのです。それは、インター ネットがもたらした革命です。かつてアルビン・トフラーが『パワー・シフト』という本を書いてい ますが、インターネット革命の本質は、正にこのパワー・シフトです。我々は、「ネット革命」や 「情報革命」という言葉を、好んで使いますが、そもそも「革命」とは、何か新しいことが起こる ことをもって「革命」と呼ぶのではありません。「革命」とは、昔から、ただ一つの定義しかない。 それは「権力の移行」です。すなわち、ネット革命や情報革命は、それまで社会や市場や組織 において「情報の主導権」を持っていなかった人々へ、その主導権が移る革命であり、文字通 り「パワー・シフト」なのです。 そして、いま、ネット革命によって、この「パワー・シフト」が起こっているということを、一人ひ とりの国民が深く理解したとき、我々の中の「無力感」は消えていくでしょう。そうであるならば、 「無力感」を背景とする「無責任さ」を変えていくためには、まず、インターネットを使った「パワ ー・シフト」の事例を、数多く作っていくべきなのです。 伊勢谷:つくづく思うのは、日本は省庁ごとにまとまっていて、横のつながりが尐ないというこ とです。そのために物事の進行が遅いのです。東日本大震災の復興にかかわって、そのこと を実感しました。つまり、個人の先にシステムがあって、その先に実行者がいる。プロセスが 複雑なのです。 「シー・クリック・フィックス」もそうですが、社会の複雑なプロセスを分かりやすいものにして、 「できないことを想像するのが簡単」という社会から、「できることを想像するのが簡単」という 社会にしていかなければなりません。そうなれば、人は様々な問題を、「他人事」ではなく「自 分事」として考えるようになります。 田坂:「自分事」という意味では、社会を変革する上で、もう一つ重要な役割を果たすのが「社 会起業家」です。政府や自治体に対して「ああして欲しい、こうして欲しいい」と声を挙げること も大切ですが、「自分たちでやる」という人々が、東日本大震災を契機として増えました。 これまでも「社会起業家」と呼ばれる方々は、熱心に社会貢献の事業に取り組んできました が、被災地のあの「凄まじい現実」「目を背けたくなる現実」と格闘するなかで、彼らは本当に たくましくなったと感じています。昔から「最近の若者は」という否定的な言葉使いがあります が、私には「最近の若者は」という気持ちは全くありません。 伊勢谷:今の若者が置かれている状況は非常に厳しいものです。その中で頑張っている人も もちろんいますが、多くの若者にとっては今の社会は複雑すぎます。単純化してくれば見えて くるものもあると思うのですが、これまでは大人が「それは難しいからな」と言ってしまう社会だ ったのです。「それは必要悪だから」と言われるものもあって、そうしたものが社会をより複雑 化させてきたと思います。 そういう大人たちを見て、若者は何を学べばいいのでしょうか。このような状況の中で 10 代、 20 代の若者たちが動き出しているのは素晴らしいことです。団塊世代などの大人たちはそう いう若者たちをぜひ助けてあげてほしいと思います。 学生時代は「社会変革」を目指していた団塊世代 田坂:私も団塊世代のすぐ後の世代ですが、学生時代には 70 年安保闘争や全国大学闘争 が盛んでした。あの当時の大学には「若者が革命をめざし、社会変革をめざすのは、当たり 前だ」という雰囲気が溢れていました。ただ、そのエネルギーが、大学のバリケードストライキ や機動隊との衝突など、形だけの「過激さ」に流されていったのも事実です。 当時、クラス討論の場で、ある学友が、こう述べたことを憶えています。「いま、言葉で革命 を叫び、大学にバリケードを築き、機動隊に石を投げることは、決して難しいことではない。本 当に困難な闘いは、これから 30 年の闘いではないか。実社会の荒波の中でも、この社会変 革への思いを決して失わないことではないか」。若い学生らしい青臭い言葉と思われるかもし れませんが、40 年を経たいまも、この言葉が心に残っています。 いま振り返って、あの当時、革命や社会変革を語っていた団塊世代の若者の中で、数十年 の歳月、その志を失わず歩んだ方は、どれほどいるのでしょうか。その問いが心に浮かびま す。 そして、あの学生運動を行った世代、団塊世代が現役を終えつつある現在、我々が通り過 ぎた後のこの日本の姿を見つめるとき、私もその世代のすぐ後にいた人間として、強い責任 を感じます。もし、若い世代の方々に、「あれほど社会変革を叫んだあなた方が、なぜ、この 日本を、このような社会にしたのか」と問われたとき、返す言葉が見つからないのです。私が、 10 年前に社会起業家フォーラムを立ち上げ、昨年、デモクラシー2.0 イニシアティブという運動 を始め、若い世代の方々と一緒に、ささやかながらも、社会変革の仕事に取り組んでいるの は、そうした責任感からでしょうか。原発事故が起きたとき、敢えて内閣官房参与を引き受け たのも、同じ思いからです。 団塊世代は、社会起業家をめざせ 伊勢谷:田坂さんと同世代で、同じ思いを持ち続けている人にはぜひ出てきてもらいたいと思 います。そして、若者と団塊の世代が組んで、何か一緒に取り組んでいく。田坂さんと私がそ の一例かもしれません。団塊世代の中には社会的に力を持っている人たちがたくさんいます。 そのような人たちと組んで、有意義な活動ができればいいと思います。 田坂:それは大賛成です。例えば、いま若者たちが中心となって広がっている社会起業家の ムーブメントに、団塊世代にも参加して頂きたい。いまの若者たち中心の社会起業家のムー ブメントの問題は、深い志や熱い思いはあるのですが、ビジネススキルがついていかない点 です。しかし、社会起業家は、社会を変えようとしているのですから、やはりプロフェッショナル として、ある程度の腕を持っていないと、志や思いだけが空回りすることになってしまいます。 プロジェクトマネジメントのノウハウ一つでも、若い社会起業家にとっては、とても大切な学び の課題です。こうした点を、それなりのプロフェッショナルスキルを持った団塊世代がサポート してあげることができれば、素晴らしい連携になっていくでしょう。 欧米の社会起業家は、すでにそうしたプロフェッショナルスキルを身につけた人が多いので、 大きなスケールの社会的事業を立ち上げられるのです。私の知人でアキュメン・ファンドを創 設したジャクリーン・ノボグラッツ氏は、スタンフォード大学で MBA を取得した後、ウォールスト リートでバイスプレジデントまで務めた人物です。こうしたプロフェッショナルが社会起業家を 志すところが、欧米の素晴らしいところです。 しかし、日本でも、いずれ、大企業においてプロフェッショナルスキルを身につけた団塊世代 が、定年を迎え、第二の人生に向かいます。こうした方々には、ぜひ、何十年か前の社会変 革の志を思い起こして頂きたい。そして、若い社会起業家の方々と手を携え、社会貢献の活 動に取り組んで頂きたいのです。 伊勢谷:私は団塊ジュニアの世代ですが、私たちの世代と団塊の世代が組めば、数の観点 からも大きな影響力があると思います。 田坂:加えて重要なのが「ソーシャル・アライアンス」です。すなわち、大企業が自らの事業分 野で活動する社会起業家と連携し、「本業を通じた社会貢献」に取り組む活動です。こうした アライアンスが、CSR(企業の社会的貢献)の新たなスタイルになっていくでしょう。 日本の資本主義は、欧米の資本主義と違い、その始まりから社会貢献を重視してきました。 そのことを象徴するのが、渋沢栄一の「右手に算盤、左手に論語」であり、松下幸之助の「企 業は、本業を通じて社会に貢献する」という言葉です。だからこそ、日本の企業は、社会起業 家と手を結んで社会を変革する活動に取り組むことができるはずです。 日本が持つ「中途半端」というポテンシャル また、社会起業家の方々には「政治の変革」にも向かって頂きたいと思います。社会起業家 の方々の中には、「政治がやってくれなから、自分たちがやる」という気持ちがあり、どこか 「政治には期待していない」という思いがあります。しかし、これからの時代は、「社会起業家 が、政治も変える」という時代になっていきます。 デモクラシー2.0 イニシアティブでは、こうした動きをさらに加速するために、新たな人材ビジ ョンとして、社会起業家の中でも政治を変えていく人たちを「政治起業家」と呼び、彼らを支援 する活動を開始します。その最初は、11 月 30 日に開催されるイベント、「政治起業家グランプ リ」です。 ――なるほど、「政治起業家」とは、面白いコンセプトですね。これは、デモクラシー2.0 イニシ アティブの運動の中から生まれてきた、日本独自の新しい人材ビジョンかと思いますが、民主 主義の在り方についても、この運動の中から、日本独自の制度や組織や文化が生まれてくる のでしょうか? 伊勢谷:この日本という国には、独特のポテンシャルがあるんですね。日本はずっと、最先端 だけどアジアというある意味で中途半端な位置であり続けてきました。中途半端は私の中で はほめ言葉です。この「中途半端」がポテンシャルであり、希望なのです。デモクラシー2.0 の 運動も、一番うまくいく可能性がある国だと思っています。 田坂:日本という国の素晴らしさは、東洋文明の深い思想、精神、文化の土壌を持ちながら、 西洋文明の最先端の科学技術と資本主義を開花させているという点です。そして、日本とい う国は、「和魂洋才」という言葉に象徴されるように、西洋が生み出した「才」に、東洋の「魂」 を入れていくことができる、器の大きな国です。そのことを我々が深く理解するならば、この日 本において、資本主義というものも、民主主義というものも、深い思想、精神、文化に支えら れた、「新たな資本主義」、「新たな民主主義」の在り方が生まれてくるでしょう。我々は、そう した道をこそ、求めていくべきなのです。 田坂 広志(たさか・ひろし) 多摩大学大学院教授 1974 年東京大学卒業、81 年同大学院修了。工学博士(原子力工学)。1987 年米国シ ンクタンク・バテル記念研究所およびパシフィックノースウェスト国立研究所の客員研 究員を経て、1990 年日本総合研究所の設立に参画。取締役・創発戦略センター所長 を務める。2000 年多摩大学大学院教授に就任。同年シンクタンク・ソフィアバンクを設 立、代表に就任。2003 年社会起業家フォーラムを設立、代表に就任。2008 年世界経 済フォーラム(ダボス会議)GAC メンバーに就任。2010 年世界賢人会議ブダペストクラ ブ・日本代表に就任。2011 年 3~9 月、東日本大震災に伴い内閣官房参与に就任。 原発事故への対策、原子力行政の改革、原子力政策の転換に取り組む。2012 年民 主主義の進化をめざすデモクラシー2.0 イニシアティブの運動を開始。著書は 60 冊余。 近著に『官邸から見た原発事故の真実』『田坂教授、教えてください。これから原発は、 どうなるのですか』 伊勢谷 友介(いせや ゆうすけ) 俳優 映画監督 株式会社リバースプロジェクト代表 1976 年生まれ。東京藝術大学美術学部修士課程修了。大学在学中の 1998 年、ニュ ーヨーク大学映画コース(サマーセミスター)に短期留学、映画制作を学ぶ。1999 年 映画『ワンダフルライフ』(是枝裕和監督)で俳優デビュー。2003 年、初監督作品『カク ト』が公開。2008 年、地球環境や社会環境を見つめ直し、未来における生活を新たな ビジネスモデルを創造するプロジェクト『リバースプロジェクト』をスタートさせる。2012 年に「おまかせ民主主義から参加型民主主義へ」を掲げクラウドガバメントラボを設 立。主な出演作に『金髪の草原』(犬童一心監督)、『ブラインドネス』(フェルナンド・メ イレレス監督)、『CASSHERN』(紀里谷和明監督)、『嫌われ松子の一生』(中島哲也 監督)、『十三人の刺客』(三池崇史監督)、『あしたのジョー』(曽利文彦監督)、「白洲 次郎」(NHK)、「龍馬伝」(NHK)などがある(写真:©繰上和美)
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