Baul-‐Fakirs of Nadia Go to Japan

Baul-­‐Fakirs of Nadia Go to Japan 特筆点 •
西ベンガル州・ナディア郡からバウル・ファキールのアーティストが日本を訪れるのは初めてである。 •
ナディア郡にはスフィズムの哲学者かつ詩人のララン・ファキール ( Lalan Fakir , c. 1774–
1890) がかつて過ごした村があり、バウル・ファキール音楽の中心地のひとつであった。しかしその
伝統は時代とともに廃れ、ナディア郡にバウル・ファキール音楽の伝統があることはつい最
近まで殆ど知られていなかった。 •
ナディアにおけるバウル・ファキールの音楽活動は、カルカッタに本部を置く NGO,バングラナタ
ック・ドット・コム
が率いる「Art For Livelihood 」(文化による農村開発)プロジェクトにより再び蘇
る。同 NGO は文化を使った開発運動を専門としている。ナディア郡のバウル・ファキールたちはこの
プロジェクトにより、かつての芸術技能集団としての地位を再び得ることになる。 •
ナディア郡のバウル・ファキールは、プロジェクトの一環で、かつてベンガル地方の Fakir たちに
より演奏されていたが、一世紀以上前に廃れたとされる、バングラ・カワリを復興した。現在、こ
のバングラ・カワリを演奏するのは、ナディアのバウル・ファキールのみである。彼らの活動により、イ
ンドではバングラ・カワリの人気が徐々に高まってきた。 •
banglanatak dot com の支援により、近年、ナディアのバウル・ファキールはインド国内のみならず、
中国とイギリスで公演を行う機会を得た。今年の暮れにはヨーロッパ 5 都市のツアーも予定
されている。この日本公演は、ナディアのバウル・ファキールの音楽をを日本に紹介すると
ともに、banglanatak dot com が掲げる、開発のための農村芸能復興運動を支援することも意
図している。 •
この日本公演では、珍しい女性のバウル・シンガーも紹介する。従来、女性のバウルたちは
保守的な村社会の中で疎外されてきたが、最近ではアーティストとしての地位を得ることに
よって、偏見に立ち向かっている。 •
banglanatak dot com による、開発のための農村芸能復興プロジェクトは、模範例として、ユネス
コに高く評価されている。 はじめに バウルおよびファキールは、人間愛と神への帰依を説きながら遍歴する吟遊楽人である。辞典によれ
ば、スフィー神秘主義を信奉するイスラムの行者を「ファキール」と呼び、一方「バウル」はベンガ
ル地方で活動する神秘主義思想者たちの総称で、ヴィシュヌ派のヒンドゥー教徒およびスフィズムを
信奉するイスラム教徒の両方を指すとしている。しかし、ベンガル地方では一般的にヒンドゥーの行
者を「バウル」、そしてイスラムのスフィー行者を「ファキール」と呼び、区別しているようである。
バウルとファキールは、基になる宗教はヒンドゥとイスラムと異なりつつも、信仰・宗教の違いを超
えた人間愛、兄弟愛を呼びかけ、また音楽を神と一体となる手段としていることで共通している。そ
の哲学はスフィズムおよび14世紀から17世紀に勃興した Hindu-­‐Bhakti 運動の影響を大きく受けて
いる。今日の西ベンガル州では、バウルとファキールのコミュニティーは共存しており、演奏スタイ
ルやレパートリーは殆ど共通している。 アーティストについて 今回日本公演に参加するグループは、ナディア郡のバウルとファキール、そして同じ西ベンガル州の
プルリア(Purulia)およびバンクラ(Bankura)郡のトライバル・アーティストによ
る混成チームである。 ヌル・アラム・ファキール(Nur Alam Fakir) は才能豊かな若手ファキールアーティストで、ボーカル
のほかにドタラと呼ばれる弦楽器を得意とする。 スバドラ ・シ ャルマ (Subhadra Sharma) は数少ない女性バウルーシンガで今回始めて海外遠征をす
る。彼女の音楽活動は女性の地位向上の例としてバウルおよびファキールの女性たちに大きな勇気を
与えている。 アルジ ュン・ キャ パ
(Arjun Khyapa)はたぶんナディア一の美しいバリトンで、バウルに影響を
うけたタゴールの作品を得意としている。アルジュンはかつて、日雇いの牛追いをして生活費を得て
きたが、現在ではアーティストして稼いだ収入で子供たちを高校に通わせており、そのことを誇りに
思っている。 モーハン・パトラ(Mohan Patra)はタティ族出身のフルート奏者で、上記バウル・ファキールグル
ープと協力して数々のレコーディングとコンサートをこなしてきた。 シブサンカール・カリンディ(Sibshankar Kalindi)はドム族出身のアーティストで Dhol とよばれるパ
ーカッションとクラリネットを得意とする。上述モーハンと同様、数々のレコーディングとコンサー
トの経験を積んでいる。 ナディア郡について ナディアはバングラデッシュに隣接する西ベンガル州の郡(District)のひとつで、農業を主体として
いる。人口の大半が土地なし農民で、一般的には西ベンガル州のもっとも貧しい郡のひとつとして知
られている。そのため政府のさまざまな貧困削減政策の対象となればこそ、この貧しい地域に豊かな
バウル・ファキール音楽の伝統があることに注目するものは誰もいなかった。しかし、ナディアはか
つてこの地に住んだ高名なスフィーの哲学者かつ詩人であり、多くの歌を作ったララン・ファキール Lalan Fakir (c. 1774–1890) の伝統を受け継ぐ、バウル・ファキール音楽の中心地のひとつであったのだ。 現在世の中に知られているバウル・ファキールのアーティストの殆どは、タゴールで有名なシャンテ
ィ・ニケタンがあるビルブム(Birbhum)郡の出身であり、ナディア郡のバウル・ファキールが日本に
来ることはこれが初めてである。バウル・フェスティバルを主催したりと、バウル音楽の発信地とし
て国際的に有名な Birbhum のアーティストに較べ、ナディアのバウル・ファキールの音楽は素朴で荒
削りであるが、それがまた魅力ともなっている。 ナデイァ郡は、15世紀の後半から16世紀の始めに東インドで
改革者、かつ聖人とあがめられる
Hindu-­‐Bhakti
Chaitanya Mahaprahu (1486–1534)
運動を率いた社会
の活動の中心地であった。こ
の運動は信仰心を高揚するために数々の音楽を生んだことでも知られており、ナディア郡の音楽伝統
は、この Hindu-­‐Bhakti
運動の系統を引き継いでいるとされている。チャイタニアが、熱心なラダ・ク
リシュナ信奉者であったため、ナディアのバウル・ファキールのレパートリーには、多くのラダ・クリ
シュナに関わる歌が残っている。 Banglanatak dot com の「芸術による農村開発」( 英名・ Art for Livelihood) 2004 年にバングラナッタク・ドット・コムが「芸術による農村開発」プロジェクトの一環で 272 人のバウル・ファ
キールと活動をはじめるまで、ナディアにアーティストがいるということは殆ど知られてい
なかった。 「芸術による農村開発」は、もともと土着の演劇をつかった農村での開発キャンペーンを専門として
いたバングラナッタク・ドット・コムの試験的なプロジェクトで、消えつつある西ベンガル州の農村芸能を復
活させることにより、古来伝統芸能に携わってきた芸術職能集団の貧困を削減することを意
図している。また、そのことにより、悲観的なイメージの付きまとう農村に、豊かな伝統芸
能の残る「文化の発信地」としての新たなアイデンティティーを与えて地域開発の拠りどこ
とにしようとする試みである。 同プロジェクトは 2004 年から始まり、2005 年から 2009 年の間にインドの農村開発省 (Ministry of Rural Development)および東地域文化センター(Easter Zonal Centre for Culture)の支援をうけ、さらに 2009
年から 2011 年の間には EU の援助を得て展開している。
ナディア郡の 272 人のバウル・ファキ
ールを含め、西ベンガル州で最も貧しいとされる 6 の郡に伝わる 6 つの伝統芸能を対象とし、
総勢 3200 名あまりの農村芸能・技術保有者たちがプロジェクトの恩恵を得ている。 貧困削減と雇用拡大はインド政府の最大の課題のひとつであるが、農村ではその問題が特に
深刻である。都市部にくらべ、農村部は無職率が高くまた非識字者も格段に多い。教育の低
い貧しい農村の人にできることといえば、日雇いの簡単な作業しかないというのが現状であ
った。他方、「芸術による農村開発」では、古来から伝わる農村芸能に携わってきた芸術・職能集
団に注目することにより、文化による開発が可能なことを証明し、従来の政府の農村開発とは異なる
あらたな切り口を提案している。プロジェクトは、対象コミュニティーの念密な経済社会現状調査
からはじまり、さまざまなトレーニング・ワークショップ、Self Help
Group と呼ばれる協
同組合の編成、銀行口座の開設、個々のアーティストおよびその家族への健康保険の提供、
そしてアーティストの国内外へのマーケティング、コミュニティー文化センターの設置およ
び Village
Festival の開催と多岐にわたる。その包括的な手法が高く評価され、同プロジェクト
は近年ユネスコやUN‐WTOからモデル・ケースとしてとりあげられ、さらに NGO はユネ
スコ無形文化財保護国際条約のアドバイザーにも認定されている。 ナデ ィア の バウ ル・フ ァキ ール 、今 、 昔 プロジェクトが始まった 2004 年のナディアでは、深刻な生活苦のため、音楽活動を行っていた
バウル・ファキールは殆どいなかった。彼らの大半は演奏会に招待されたことがなく、仮に
そのような機会があったとしても 40 から 500 ルピーという僅かな謝礼をもらうだけであっ
た。6 年後の 2010 年には、演奏会招待回数は一年間平均 8‐10 回から 60‐80 回に増えた。
中でも売れっ子のアーティストは年間 200 回以上のショーに出ている。ショーごとの謝礼金
も、かつての 40‐500 ルピーから、2500‐一万ルピーと増えた。 経済事情の改善は、彼らの社会的立場にもよい影響を与えている。バウル・ファキールの自
由な生き方は(たとえば、彼らは結婚制度をもたない)村の保守的な層から非道徳的とみな
され、従来、疎外といじめの対象となってきた。バウル・ファキールの子供たちは、学校に
来ることをたびたび拒否されている。しかし、彼らの演奏活動の人気が高まるにつれ、村人
たちの見る目が変わってきている。かつて、ごみ拾いや荷車を押して日銭を得ていたバウ
ル・ファキールたちは、今では有名なアーテイストとして村人たちの自慢の対象となってい
る。このことに勇気付けられ、バウル・ファキールの音楽に関心を持つ若者たちも増えてき
た。現在のナディアでは 6 年前とくらべ、バウル・ファキールの平均年齢が、62 歳から 43
歳と若返っている。 甦ったバングラ・カワリ -­‐ カワリはスフィー音楽の重要な一ジャンルで、北インド、アフガニスタン、パキスタンおよびイ
ランでも演奏されているが、ベンガル地方に伝わるバングラ・カワリは、現在のバングラデ
ッシュ領にあるマイズバンダリ(Maizbhandari)地方にいたガウス・ウル・アザム(Gaus-­‐ul-­‐
Azam)という人物によって創作されたとされ、西ベンガル州のファキールの主要な伝統の
一部であった。ちなみにマイズバンダリ(Maizbhandari)はインドとバングラデッシュが分
割される前には、ジェッソール(Jessore)とよばれ、その一部は現在のナディア郡と重なっ
ている。バングラ・カワリは分割前のベンガル地方で 150 年ほど栄えたが、その後衰退して
いく。ナディアのファキールたちは、これを再び学びレパートリーに加え、古い伝統を甦ら
せた。 日本 の皆 様 への メッ セー ジ ナディアのバウル・ファキールの音楽を日本の皆様に紹介できることになり、大変うれしく
思います。日本と同じように、インドにも、数百年や数千年もの昔から伝わるといわれる、
豊かな民俗芸能があります。インドの人口の約 60%は農村部にいますので、それだけ多様
な農村芸能があるであろうということは容易に想像できます。一方で国土が余りに広いため、
インド全体でどれくらいの民俗芸能があるかということを把握するのは至難の業です。そし
て、近来の急激な社会変化により、それまで農村芸能を支えてきた人々の価値観も変わり、
伝統の多くはたぶん完全に途絶えたか、途絶えつつあるというのが現状でしょう。 多くの民俗芸能が消え行く大きな理由のひとつに、芸能者たちの貧困があります。ナディア
のバウル・ファキールの場合も同じでした。いかにも華やかな色とサウンドの裏で、インド
の多様な伝統を守ってきた芸能・職能者たちの貧困を想像するのは難しいかもしれません。
一方で、文化を守るためには、文化を継承してきたこれらのひとびとの生活がまず立ち行か
なければいけない、という基本的なことを忘れてはいけないと思います。そのため、「芸術
による農村開発」プロジェクトでは、アーティストたちの生活を支援することを第一の目的とし
て、アーティストと市場を直接つなげることを主な活動のひとつとしています。 ナディアのバウル・ファキールたちは、自分たちの音楽の可能性を信じ、2004 年からこつこ
つと歩み続けて、今日、日本の皆様の前にいます。貧しい村の中でさえ仲間はずれにされて
いた彼らですが、今日は西ベンガル州・ナディア郡の親善大使として日本に来ました。いつ
かナディアがインドの文化の中心となり、自分たちだけでなく村全体が栄えることが彼らの
夢です。