「徳成随風」(30) 還暦クラス会 2015.01.10 桑高同窓会長 西羽 晃 昨年末にインフルエンザに罹り、今年の正月は寝て暮らした。78 年の生涯 で初めての経験である。新年の抱負どころでないが、やっと治まってきたので、 遅れたが徳成随風を書く。 今年は 2015 年である。60 年前の 1955 年3月1日に私たちは桑高を卒業した。 最初の頃は普通科のうち2クラスだけで「桑実会」と称してクラス会を行って いた。他の組もそれぞれに行っていたようであるが、何時しか普通科4クラス 合同になった。何回くらい行ったか、正確な記録に欠けるが、2008 年6月1日 に桑名シティホテルで行ったのが最終かと思われる。その後は関東地区中心の クラス会など部分的な集まりはあった。今年は卒業から数えて還暦にあたるの で、4クラス合同で還暦クラス会を開くことにした。 久しぶりなので、名簿の整理に手間がかかる。取りあえず判っている分では 総勢 190 人のところ、逝去された方が 27 人である。高齢化を反映して元気な方 が多い。先生は1組松岡義一先生、2組宇野善也先生、3組林道明先生、4組 佐々木泰円先生であった。松岡先生、佐々木先生はすでに他界された。宇野先 生はお元気だが、足が悪くて外出できないとのこと。林先生のみが今回出席さ れる予定である。 卒業式は商業科棟の1階であった。狭いので、在校生は代表のみの出席だっ た。戦災で桑名中学校の校舎は全焼し、戦後は粗末な木造校舎で隙間だらけ、 真ん中に廊下があり、左右に教室が並んでいて、北側の教室は非常に寒かった。 生徒よりも先生方は大変だったろうと、今になって思われる。 卒業の際に一同で学校へ南門を寄贈した。当時は南門も通学に開けてあった が、今は締め切ったままになって、工事などで必要な時のみ開けられる。 普段は締切ってあり、忘れられたような存在であるが、 今日はグラウンド整地のため自動車が入っていた。 2015 年 01 月 08 日 桑高時代の最大の思い出は2年の時である。どういうわけか世界史を選択した のが男ばかりで、2年2組は男子ばかりの組になった。担任は林道明先生であ る。大学を卒業して3年目で初めての担任である。独身の若い先生で兄貴のよ うな感じで親しみをもった。当直の夜には、数人が押しかけ、トランプに興じ た。勿論、節度ある生徒たちであって、一緒に酒を飲んだり、麻雀を楽しんだ りしたのは大学に入ってからである。 ある時、座席を変えてほしいと頼んだら、 「明日の朝に早く来た者から、好き な場所に座れ」とのこと。そして私を含めて数人は午前0時に登校して、カバ ンだけを机の上に置いて帰った。その夜の当直の先生には大変なご迷惑をおか けしたと思うが、叱られた記憶はない。 一度叱られたのは、運動会の夜に興奮冷めやらず、教室の電気を消して暗い 中で騒いでいた。突如明るくなった「帰れ」の一言。見ると高岡先生の怒り顔。 運動場に出て、まだマゴマゴしていたら、再び高岡先生が出てこられた。級友 の一人が「私たちが悪かったので、林先生は何も悪くありません」と述べて解 散した。 こんなクラスメイトだったが、3年生なると猛然と勉強をした。桑高創立以 来7年の間に1人しか東京大学に合格していないのに、現役で東大2人合格す るという快挙を遂げた。この年には1年先輩で浪人した人も2人合格し、都合 4人の東大合格だった。その他にも名古屋大学に一番の成績で合格し、新入生 代表で宣誓した者もいた。名古屋大学・名古屋工業大学・岐阜大学にもそれぞ れ数人が合格し、三重大学にも過去最高の合格者を出した。浪人したが京都大 学に進んだ者もいた。 クラスメイトの絆は今も続き、メーリングリストで意見を交換している。外 国の本は原文で読まないと、味わいがない。翻訳本には誤訳が多いと指摘する 人もあって、知的なレベルの高いメーリングリストである。また農学部を出て、 農林省に務めた人は家庭菜園の指導もしてくれるし、大学の医者になった人か らは健康のアドバイスをしてくれる。高校時代の友人は多岐にわたり、それに 気楽に話せて得難い存在である。こんなクラスメイトが 60 年経って、どんな顔 になっているのか、その姿は自分自身の鏡であろう。楽しみな還暦クラス会で ある。
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