パート8 「ザッツ・エンターティメント ~海を渡った韓国芸能人~」

《「在日商工人 100 年のエピソード」パート8》
ザッツ・エンターティメント ∼海峡を渡った韓国芸能人∼
フリーライター 高 東 元
筆者の職場は都会の中心地にあるため、右
翼の街宣車を見かける事がある。最近も尖閣
諸島や独島(竹島)、北方領土など日本と周辺
国の軋轢が続いており、彼らは活躍の場に事
欠かない。数年前の北朝鮮の核実験では、十数
台の街宣車がパレードを組み、大音響で軍歌
を流していた。
“いざ征け 兵(つわもの) 日本男児”
この「出征兵士の歌」を聞くと少し暗い気分
になる。日中戦争が激しさを増した1939年、戦
意高揚を図るため大日本雄辯會講談社(現講
談社)が全国から応募した歌である。前年には
「愛国行進曲」が発表され、各レコード会社は
藤山一郎、灰田勝彦、東海林太郎ら錚々たる歌
手を総動員して販売していた。その第 2 弾とも
言えるのがこの曲であった。講談社のレコー
ド部門であるキングレコードからは看板歌手
の永田絃次郎と長門美保が選ばれた。負けら
れない、と永田は思った。永田絃次郎、韓国名・
金永吉。平壌のミッションスクールに特待生
で入学し、そこで西洋音楽に触れて才能を開
花させ、日本近代音楽の最高峰であった陸軍
戸山学校に二千人中 15 名の難関を突破して入
学、トップの成績で卒業した唯一の韓国人で
あった。その後軍楽隊を経てオペラ界に登場
し、「東洋一のテナー歌手」の名声を戴き、レ
コードデビューを果たしていた。が、彼はこの
歌を歌ったことで後に「戦争を賛美した対日
協力者」と指弾されることになる。彼の伝記を
読むと、本当に音楽が好きで、ただ歌う場があ
ればいい、多くの人に認めてもらいたい、とい
う想いで溢れている。しかし時代はそれを許
さなかった。
金永吉のように国家に翻弄された芸能人た
ちのことを考えると暗い気持ちになるが、同
時に時代と格闘しながら私たちの生活に芸能
の潤いを与えてきた彼らの生き様を知ると、
感動すら覚えるのである。
オーケーレコード社の広告
●オーケーレコードと李哲
延禧専門学校(現延世大)の学生だった李哲は
1 9 2 0 年代、新聞配達をしながら学校に通い、
ジャズバンドに加わってサキソフォンを吹いて
いた。妻の玄松子は東京目白の日本女子大に留
学するほどの才媛であったが、彼女は夫の音楽
への情熱を実現すべく同窓生であった帝国蓄音
機(現テイチク)の重役の娘を通じ、韓国にテ
イチクの支社「オーケーレコード」を設立する
ことに成功したのである。李哲は「帝国」の名
を嫌って「オーケー」と名付けたと言われてい
る。彼は自転車の荷台にレコードを積んで各店
に売り回ったが、同時に優秀な歌手を発掘し続
け、やがて韓国音楽業界のトップにのし上がっ
ていくのである。テイチク本社が直接乗り込ん
でくると自らは文芸部長となり、オーケーグラ
ンドショー団を結成した。そして人材の育成を
目指し、オーケー舞踊学院を設立したのであ
る。1 年生は舞台での群舞、2 年生になると韓
国国内をはじめ日本や中国への巡業に同行し、
3 年生は役が充てられた。宝塚や OSK と同じよ
うな運営であったが、学院生は宝塚歌劇団の袴
姿のように全員黒マントで外出するのが規則で
あったという。舞踊教師にはモダンバレエの第
一人者・石井漠の弟子であった金敏子が就任し
た。彼女の同門が「半島の舞姫」崔承喜であっ
た。
李哲はタレント発掘の名人で、そのエピソー
ドには事欠かない。1930 年、音楽のため日本
に留学した孫得烈少年は、帰省して学生服で
演奏しているところを李哲部長にスカウトさ
れた。ちょうどその頃、コロンビアレコード主
催の韓国歌謡コンクール大会で 3 位に入選し
た男性がいた。レコーディングは 1,2 位だけ
だったため、李部長は彼を口説いてオーケー
に入社させ、孫得烈が作った曲を歌わせたの
である。それが「他郷暮らし」であった。歌手
の名前は高福壽。「他郷暮らし幾年か」の歌声
は厳しい植民地統治のため故郷を離れなけれ
ばならなかった韓国人のいる日本、中国など
各地で大ヒットしたのである。同胞が多く住
む地域での公演は何度も何度もリクエストが
かかり、観客とともに涙を流しながら歌った
と言う。作曲した孫得烈はその後、孫牧人と名
乗った。そしてもう 1 人、女優に憧れ劇団に入
り地方巡業していた李玉禮が、日本での公演
が不入りで巡業中に解散してしまうという憂
き目にあった。15 歳で大阪・今里にたった一人
放り出されたのである。絶望の淵に立たされ
ていた時、彼女の才能を知った李部長が大阪
まで来て探し出し、無事にオーケーに入社し
李蘭影と名乗ることになった。そして孫牧人
が作曲した「木浦の涙」を歌ったのである。
「他
郷暮らし」と「木浦の涙」は韓国不滅の名曲で
ある。孫氏は朝鮮戦争が激しさを増した 1951
年、音楽事業のために当時国交のなかった日
本へ密入国したが、帰国出来ずそのまま東京
に暮らす事になった。そこで旧友と偶然出会
い、ペンネームで作曲活動を再開したのであ
る。久我山明の名
李蘭影
で発表した「カス
バの女」は大ヒッ
トし、韓国ではパ
ティ・ キムが歌っ
た。筆者が韓国の
歌に興味を持った
1980 年代半ば、日
本語訳付の「韓国
音楽大全集」が発
刊され随分活用さ
せてもらったが、
今回改めて表紙を
見ると「監修・孫牧人」とあり、私も孫先生に
お世話になっていたんだなあと思わされた。
●朝鮮楽劇団と 1930 年代の韓流ブーム
1930 年代、崔承喜や裵亀子歌劇団など主に
モダンバレエから火が付いて「韓流ブーム」が
日本に沸き起こっていた。裵亀子は 1910 年の
韓日併合時、伊藤博文など韓日首脳の間を暗
躍した女性・裵貞子の姪と言われている。裵亀
子は日本とアメリカで本格的に舞踊を学び、
伝統的な韓国民謡を融合させ舞踊化させ歌劇
団を設立したのである。1932 年、裵亀子歌劇
団は吉本興業と契約し花月劇場で初舞台を
飾った。洗練された少女たちのステージは評
判を呼び、当時のパンフレットでは「コリア
ン・ビユーテイス」
「10 人の半島の少女たちが
歌う『焼き栗の歌』のメロディはたちまち観衆
をエキゾチックな恍惚感に..」等々とある。最
近の K − POP グループ「少女時代」を想起させ
て面白い。
1913 年生まれの朴順東は妓生養成所を経営
する裕福な家庭で育ったが、村にカフェが出
来ると日ごと流れる蓄音機にすっかり魅了さ
れ音楽の虜になった。父親の病気で家産が傾
いてしまうと、日本からやって来た映画の巡
業隊に着いて行き、太鼓打ちに採用されるよ
うになった。無声映画の時代、活弁士の傍らで
BGM を流す役である。日本での巡業中に裵亀子
歌劇団の活躍を知り、入団を申し入れたが女
性だけの構成であるため断られてしまった。
その後歌劇団は帰国してしまったが、韓流
ブームが続くと見込んだ吉本興業は神戸の八
千代座で一級の韓国芸能人を起用して「アリ
ラン歌劇団」を結成し、そこに巡業に来ていた
朴順東も誘われたのである。メンバーの一人
であった映画監督の洪開明が彼に「いつも春」
という意味の「是春」というペンネームをつけ
た。「韓国の古賀政雄」と称された朴是春の誕
生であった。ソウルに戻った朴是春はオー
ケーに入社し、当時無名でやはり李部長にス
カウトされた 1 7 歳の姜文秀の歌を作曲した。
「哀愁の小夜曲」である。姜少年は南仁樹と名
乗り、4 4 歳で亡くなるまで千曲以上を歌い、
「歌謡皇帝」の称号を得るほどになった。歌手
は高福壽、李蘭影、南仁樹ら、演奏や作曲は孫
牧人、朴是春、そして李蘭影の夫である金梅松
らを総動員し、金敏子の指導を受けた舞踊学
院生らをバックステージに立たせたオーケー
グランドショーに人気が出るのは当然で、韓
国内をはじめ日本、中国でも大盛況であった。
日本公演は吉本興業が請け負ったが、「オー
ケーでは特色が出ない」とクレームをつけ、
「朝鮮楽劇団」と名乗るように要望したのであ
る。芸能人が出自を隠すのが当たり前の筆者
の世代では、考えられない事である。そして楽
劇団の中で人気歌手たちがグループを作り、
高福壽らの「アリランボーイズ」、李蘭影らの
「チョゴリシスター」など、東方神起や KARA な
ど吹き飛ぶようなネーミングで全国公演を果
たしたのであった。
李哲は「テイチク」の名を拒否するほど反骨
漢であり、朝鮮総督府の検閲をかいくぐって
ギリギリの公演を続け、時には投獄されたり
もした。新羅と唐の連合軍に滅ぼされた百済
を描いた「扶余回想曲」は身投げして王朝に殉
じた宮女三千人を演出したが、併合により消
滅した民族の悲劇を重ね合わせたものではな
いかと語り継がれている。一方、彼は総督府
に羽織袴姿で登庁し、南次郎総督に「内鮮一
体」を全面協力を誓うというパフォーマンス
を行うなど、実にしたたかなプロデューサー
であった。戦況が悪化すると芸能活動どころ
で無くなったが、戦時動員された韓国人労働
者の慰問に各地を巡業し、軍歌の合間に韓国
民謡や流行歌を演奏して苦しい労働に耐える
同胞の心を慰めたという。
●春香伝と金永吉
1948 年 1 月。在日朝鮮人連盟(朝連)第 13
回中央委員会が延々と続いていた。議題は書
記長の白武氏が「反組織行動」を行ったため、
罷免の可否を問うというものであった。その
内容は「半島南部の右翼勢力や韓国系の民団
と連絡を取り団体を結成した」ためだという。
東西冷戦がピークに達しようとする時期で
あった。3 日間にわたる議論のため幹部たち
はヘトヘトだったが、彼らを癒したのが閉会
後の懇談会であった。ゲストとして登場した
のが永田絃次郎、金永吉である。戦時中は軍楽
隊に復帰していたが、空襲で自宅を失い、戦後
は同胞恋しさもあって東京の韓国人部落であ
る枝川町に移り住んでいたのである。部類の
人情家であった。町内の集まりで酔うと「軍歌
を歌ったことが悔やまれてならない」と嘆き、
リクエストに応えてその美声を披露していた
という。彼の凋落ぶりを知った在日商工人た
ちが元気づけようとして今回の出演に至った
のであった。会場で「これからは民族のため
に」と「決意表明」した彼は万雷の拍手を浴び、
たちまち数千円のカンパが集まった。その勢
いは朝連文教部が 11 月 20 日から一週間にわた
り有楽座で開催した「グランドオペラ・春香」
に結実し、金永吉は主役の李夢龍役を務めた
のである。この公演には 200 万円もの予算が組
まれたが、おそらく在日商工人による多額の
カンパで実現したものであろう。韓国伝統芸
能である春香伝をオペラに脚本化したのは高
木東六であった。1938 年、春香伝の舞台を観
た高木氏はこの戯曲にオペラの要素を感じ、
1948 年、グランドオペラ「春香」のパンフレットから抜粋
何度も韓国を訪れ、脚本をほとんど書き上げ
ていた。しかし空襲のため惜しくも楽譜を
失っていたのである。朝連文教部は金永吉の
復帰を目指し、長野県に疎開していた高木氏
に「公演の実現まで生活費を出すから」と説得
して脚本が完成したのであった。こうして実
現したオペラ公演は大盛況で幕を閉じたが、
再公演は 2000 年にオペラ歌手の田月仙さんが
実現させるまで待たなければならなかった。
朝連はこのオペラ公演の 10ヵ月後の 1949 年 9
月に GHQ の命令で強制解散させられ、祖国では
朝鮮戦争が勃発し、南北分断の悲劇が襲った
のである。金永吉は 1960 年 1 月、朝鮮総連の
「帰国事業」で故郷に帰っていった。北での音
楽活動の場を求めて。船の前で見送る人たち
に「オー・ソレ・ミヨ」を披露し、皆を感激さ
せたという。韓日併合、戦争、そして解放と分
断と、韓国の芸能人たちにとって苦難の時代
が続いた。しかし、大衆が芸能を求める限り、
そして芸能人たちがその芸を磨き続ける限り、
エンターテイメントはあり続ける。 ステージに立つそんな第一線の芸能人につ
い眼が奪われるのは当然だが、同時に私たち
は支える人々にも眼を向けなければならない
だろう。作詞・作曲家をはじめ演奏家など舞台
裏の人々、そしてタイクーンと呼ばれるスポ
ンサー。ソウルのロッテ免税店では、韓流ス
ターの等身大ポスターが私たちを迎えてくれ
るように、芸能の庇護者はいつの世も庶民と
タイクーンである。韓国映画の名作「西便制―
風の丘を越えて―」では、祝席で歌う旅芸人に
タイクーンである両班がチップを渡し、パン
ソリを広告の前で歌って庶民に宣伝するシー
ンがあるが、この関係は今も昔も変わらない
のである。
【参考】
・朴燦鎬著「勧告歌謡史」
・宋安鍾著「在日音楽の 100 年」
・森彰秀著「演歌の海峡」
・田月仙著「禁じられた歌」
・高祐二論文「1946 年 8 月神戸の空に響いた朝
鮮解放歌謡」他
【高東元プロフィール】
・兵庫朝鮮関係研究会会員
・本業は人事コンサルタント