礼拝説教(2011:02:13) 顕現節第

礼拝説教(2011:02:13) 顕現節第六主日
聖書 レビ19:17~18
Ⅰコリント3:10~23
マタイ5:38~48
「出来ないことへの挑戦」
一つの祝福された世界
今日のマタイ福音書に「あなたの敵を愛し、自分を迫害するもののために祈れ」と書かれています。そ
れに続いて、
「あなた方の天の父は悪人にも善人にも、同じ様に太陽をのぼらせ、雨を降らせてくださる」
と語られています。天の父の大きな、大きな愛に包まれて生きているのだから、互いに愛し合うのは当然
であり、敵対関係があってはならないということなのだと思います。
私たちの世界には、実に多くの対立があり、隔ての中垣が聳え立っています。しかし、それにも拘らず、
そうしたものを越えて、天の父は双方を愛し、常に、双方に目を留め、慈しみ続けていてくださるという
ことです。両親にとって、子どもたちは等しく愛しいものであり、子どもたちのそれぞれが、嬉々として
与えられた命を生きてくれることを望んでいるのに、相互に対立し、或いは反目しあうことは、決して両
親の喜びではないのです。天の父はそれ以上に等しく愛してくださるお方です。
天の父にとって、人が敵意を取り除き、互いに和合して、それぞれの賜物を生かし、よりよい社会を築
いていくことこそ、喜びとされるものであると思います。また、そうして生きることの出来る環境を既に
与えていてくださるということです。
「太陽を昇らせ、雨を降らしてくださる」とは、そこに人が生きてい
く上で必要な全てが用意されているということです。人が争わなくても、人が敵意を持って対立しなく
ても、そこに生きていくことのできる確かな世界があるということです。私たちはこのような揺るぎの
無い世界に、しかも、天の父と言われる万人の父のもとで生かされているのです。この父の許から、人は
誰ひとりとして、はじき出されることはないのです。正しいものをご自身のみもとにおき、正しくないも
のをご自身の世界からつまみ出す方ではありません。正しい者も、正しくない者も共に保護されている
のが、天の父と言われるお方です。まして、教会というところ、この父のご支配を受け止め、信じている者
の集まりでありますから、何事があっても、共にあることが崩れてはならないのです。
諍いがこの世界をかき消す
しかし、私たちの世界は、そう簡単なところではありません。様々な問題の起きるところです。同じ地
球に生かされてありながら、同じ天の父の恵みの中に置かれていながら、争いの絶えたことがありませ
ん。北方領土問題や尖閣列島の問題なども、そこにある経済的な利益と国の威信というようなところか
ら、大きな対立軸となっています。そして、この様な対立は、いつの間にか一つの地球に生かされている
同じ人類ということを忘れさせてしまいます。対立を解消し、人類全体の益としていくために、どうする
ことが最もベターなのか、当事者が互いに知恵を出すことであるのだと思うのです。本来、所有権という
ものは誰にもないのかもしれません。様々な経緯から、託されてきた領土といえます。全てが天の父から、
全ての者のために託されているのです。ところが、人は天の父から共に生かされてあることを忘れて、神
が照らされる太陽や雨までも独占したがるのです。私たちの目が私たちの利益や私たちの威信といった
ものに向いている限り、あの天の父に祝された世界はかき消されていくように思います。
立ち戻るべきところ
今、エジプト社会は大きな転換期を迎えているようです。イスラム原理主義の方向に大きく舵が取ら
れていくのか、それとも民主化されていくのか、世界の注目が集まっています。しかし、たとえ原理化の
方向に進んだとしても、やがては民主化せざるを得ない世界です。その戒律的な宗教は、天の父が与えて
いてくださる人間性を大きく拘束するものとなっていますから、やがて内部から崩壊せざるを得ないの
だと思います。キリスト教も、教団、教派というものに拘束されている限りは、どこかで変革を迫られま
す。まさに諸宗教をこえて、天の父のご支配の許で、すべての人々と共に生きるものになって、はじめて
祝される宗教となるのでしょう。
非人間的な現状が改善されていくためには、対立という構図は避けられないものです。にも拘らず、そ
の対立する人間を抹殺していくことはあってならないのだと思います。例えば、今のエジプトの大統領
やその支持者を、国外に追い出せとか、抹殺しろという排除の論理は、この聖書の言葉から引き出すこと
は出来ません。戻るべきところは、共に生かされてある、揺るがない現実なのだと思います。争いは共に
天を仰いでいくところから、解消され、問題の解決へと導かれます。国と国同士の問題解決の難しさは、
それが多くの人々の生存権と結びついているだけにより難しいものです。
では、個人の関係において、それはどうなのでしょうか。
「あなたの敵を愛しなさい」というこの言葉の
意味は、天の父に共に生かされている者ものとして、互いに対応しなさいということなのではないでし
ょうか。憎しみや、恨みや、己の沽券といったことを乗り越えて、共に生かされているものとして、どうす
ることがベターなのか、よりよい関係を生み出していくのに、どうすればよいのかを追い求めることだ
と思うのです。
共に生かされてあるもの
これこそ、
「言うは易く、行うは難し」です。ここに私たちの悩みや苦しみがあります。様々な出来事に
対して、私たちは出来る限り客観的に対応したいと願います。ところが、その冷静に、客観的にという思
いと裏腹に、私たちの言動は、いつの間にか、感情に支配され、それを願っていないにも拘らず、一層、対
立的な状態へと落ち込んでしまいます。
こうした人間関係のトラブルは至るところで見出せます。昔からよく言われる姑と嫁の関係、或いは
又、師弟関係、そして上司と部下の関係。上司の機嫌を損ねたら昇進できないと、多くのサラリーマンが
イエスマンとして働いているのではないでしょうか。この間、郵便局の局員が、あまりにも過酷な働きを
強いられるので、上司に相談しますが受け入れられず、不当な労働を強いられたとして裁判を起こしま
したが、今はそのような労働に従事している人々が多くて、彼の労働を一般通例からして特別ではない
との判例がなされています。
「一般の状況からして特別ではない」というのは、どういうものでしょうか。
企業は人間を奴隷化してよいのだというのでしょうか。企業を経営するのは人間です。その企業家たち
の人間観はどうなっているのだろうかと思います。
共に生かされてあるものとして、よい方向に物事を提案しても、或いは非人間的な現実を少しでも変
えて行きたいと問題提起されても、なかなか通らないものです。通らないばかりか、かえってそうしたと
が、人間関係をこじれさせてしまうということも起きてきます。共に生かされているものとして、どうす
ることがよいのか、そこの見方が失われて、利害関係の中でのみ、対応されていくと言うようなことが現
実です。
出来ない現実に挑戦し続ける
私たちの弱さ、それは凡、共に生かされてある兄弟として、共に神の懐に抱かれている兄弟として、何
処まで一人ひとりを見ていくことが出来るかという点です。凡、諸問題の解決の原点はここにあるのだ
と思います。ところが、現実は、このことを忘れて、私たちは事にあたってしまいます。このことは、私た
ちの共通した弱さです。中には、何処までも客観的に、何処までも冷静に対応する人がいます。こうした
人を見るときに、大変うらやましい思いを持たされます。しかし、私たちの殆どの者は、いつの間にか、客
観的に判断しなくてはならないものまで、感情の中に持ち込んでしまう傾向を持ちます。
しかし、主イエスは「あなたの敵を愛しなさい」と言われます。
「愛しはじめる」ことは、既に、敵ではな
く兄弟となっています。兄弟だって、兄弟争いがあると言われますが、ここでの兄弟は、神の愛の許で、共
に相手の人格を尊んで生きていくようにと言われているすべての人々です。そこでは、何があっても排
斥されず、神の支配の許に置かれている兄弟として受け取れながら、共によりよい人間関係を築いてい
くために、切磋琢磨しろと言われているのだと思うのです。
様々に難しい問題が私たちの周りには起きてきます。しかし、それらの問題が起きる背景には必ず、不
合理な問題が横たわっているからです。私たちは、そうした問題に、前向きにいつも対応していく勇気を
持ちたいと思います。そして、自分を空にしながら、兄弟と共に、天の父の御心のなるように、神からの助
けを求めながら、努力をして行きたいと思います。あなた方の天の父が完全であられるように、あなた方
も完全なものになのなさい」と言われます。神がすべてを受け入れ、その懐の中で、愛によって私たちを
義なるものへと導かれるように、私たちもまた、兄弟を愛において受け入れていく懐を深めて行きたい
ものです。
到底、そんな人にはなれないと、多くの人が知りごみをすることだと思います。けれども、神はきっと
私たちをそのようなものに導こうとされています。私たちの前に、その具体的な歩みをなさった方、イエ
ス・キリストがいます。神が共に居られたからこそ、主イエスはあのように、全ての者を受け入れる歩み
をなさいました。私たちもまた、不可能を可能としてくださる神を信じて、出来ないことに挑戦をしてい
きたいと思うのです。