特集 1 パネルディスカッション 日本トルコ友好 125 周年記念シンポジウム ∼未来に伝える日ト友好∼ パネリスト <映画『海難 1890』の撮影を終えて> 映画監督 田中 光敏 女 優 忽那 汐里 串本町長 田嶋 勝正 トルコの現場でのお話なども聞かせていただき たいと思います。 今回は記念すべきシンポジウムで、5年 忽那 よろしくお願いします。 前の 120 周年記念シンポジウムで、田嶋町長 そして、田嶋町長です。今回の映画につ が映画化をしたいという熱い思いを語られて、 いていろいろお話いただきたいと思います。そ それが実現するということです。きょうは、そ れでは、まず初めに町長が 10 年ぐらい前から の画期的な出来事にふさわしいパネラーの方々 映画化をしたいというお話をずっとされてきた にお越しいただいております。 と聞いているのですが、発端などをお伺いしま まず初めに、田中光敏監督。今回の映画の『海 す。 難 1890』の映画監督として、また田嶋町長の 田嶋 ちょうど 10 年前になりますが、監督に 大学時代の同級生で親友ということです。 1通の手紙を書きました。なぜかと言いますと、 田中 トルコから3日前に帰ってまいりまし 串本のお寺から、エルトゥールル号に関する本 た。やっと皆さんとの約束を果たせたなと。きょ 当に心温まる文書が出てきた。これを見て、何 うは、映画に出た素敵な女優さんも来ています。 か1つの形にしたい。そう思ったときに、まず ぜひ楽しい話を皆さんに聞いていただきたいな 同級生の田中監督が頭に浮かびました。まず、 と思っています。 手紙を書こうということで、びっしり手紙を書 次に、今回の映画のヒロインとして出演 かせていただきました。串本町にはこんなすば された忽那汐里さんです。忽那さんは、映画で らしい史実、歴史があるんだ、これを映画化で は内野聖陽さん演じる医師をサポートする役 きないかということで手紙を書かせていただい と、それからテヘランの日本人学校の教師、一 たのが、まず最初だったのです。 人二役で出演されたということで、ぜひ串本と メディアの中で映画を選んだというの 2 経済情報 は、田中監督との友人関係ということがあった こんなん流れてるよ」、「いやいや、俺、それ見 のでしょうか。 てないけど」とかとぼけましたけれども、それ 田嶋 そうですね。まず、それは第一にありま からいろいろな流れが動き出したというのがあ すけれども、監督もよく言うのですが、テレビ りました。 というのは1回放映されると、それがだんだん 田中 だけど、本当に歴史に残るすばらしい日 消えてしまうという傾向にありますけれども、 本の真心、そういうものが全く国境を越えて、 映画というのは、その映画を見た後にでも、今 東の端と西の端の両国が、顔も言葉も文化も理 はDVDになったりとか、いろいろな形で多く 解できない、そういう2つの国が結びつく。そ の方々に見ていただける。だから、こういった れが今もこういう形で残っているというのは、 史実をずっと伝えていくツールとしては、本当 すばらしいことだと思いますね。 にすごいものなのではないかなということで、 だから、ここにいる忽那汐里さん、彼女も二 映画というのが頭にありました。 役を映画の中で演じてくれて、やっぱり彼女が 田中 10 年前に町長から手紙をもらって、ど 参加してくれるに値するすばらしい物語、事実 うしてこんなに長い手紙が書けるのだろうと。 そういうものがこの町から生まれて紡がれたの しかも、最後には「私の町には金がない」と書 だと思いますね。 いてあるのですよ。お願いするだけが9ページ。 10 ページ目に金がない。ということは、金も 含めて頑張って集めてこいということなのです ね。 <撮影期間中のエピソード> 忽那さん、串本町にはこの映画で初めて 何年か前に僕もこの町に来させていただい 来られたのですね。まちの印象とか、土地のお て、ちょっと話をしたのですけれども、さすが いしいものとか、いかがですか。 町長です。私にちょっと来いと。『火天の城』 忽那 本当に食べ物は毎日おいしくいただいて のキャンペーンをやらせてやると。僕は喜び勇 いました。ここ串本に訪れることに関しては、 んでキャンペーンに来て、そうすると報道陣も この映画のお話をいただいて、台本を何度も読 たくさん用意してくれて、さすがに大学の友達 み、このお話がみっちり入っていました。そし だと。そしたら、皆さん、『火天の城』のキャ て、まずは実際座礁したところに行きまして、 ンペーンのときには、記者の方々はメモもとら いきなりその映画のイメージで串本に入ったの ない。僕の顔も写さない。1回写真を撮っただ で、私としては本当にいろんな感情を感じさせ け。「さあ、では、ちょっと田中、記念碑のと ていただくような町でした。どこに行っても、 ころへ行こうか」と言って、そして「どうだ、 皆さんこの映画の話を気さくにしてくださいま うちの町にはこんなすばらしい話がある。手紙 すし、それは作品にかかわる上ですごくありが のとおりだろう」と。 たい経験でした。 そうすると、忘れもしない、ここにもいるだ 町民の方も 140 名ぐらいの方がボラン ろうNHKさん、民放さんの皆さんが、「監督、 ティアというかスタッフなどで協力されたと これは映画になるような話ですか」と。僕も か。 ちょっと色気といいますか、口を滑らせて、 「い 田中 本当にあのときは寒くて、現場は救出劇 やあ、本当にいい話です」と言って、次の日に ですから波をかぶったり、体が冷えている中 家で寝転がってテレビを見ていました。朝のN で、温かい味噌汁や温かい飲み物、それだけで HKのニュースで僕の顔がアップになって、 「エ はなくてトルコから来た俳優たちにはトルコの ルトゥールル号、映画化」、ポンと切りかわると、 料理を、皆さんが本当に勉強して、夜通しで多 僕が「すばらしい物語です」。そこから僕の人 分 100 人分とか 150 人分の料理をたくさん何 生は大きく変わりました。 種類もつくってくれた。だから、今でも僕らが 田嶋 全く、「勝ったなあ」とそのときは思い トルコで撮影をしていると、そこに参加したト ましたね。よくぞNHKさん、流してくれたと。 ルコの俳優たちは「あのときのあの料理はおい すぐに電話がかかってきまして、「おい、田嶋、 しかった」。それと、「樫野、大島、そして串本 経済情報 3 の人たちの人を招く心というのは、125 年たっ いたので、とにかくコミュニケーションをとっ た今でも変わっていないんだね。ああいう人た て、みんな最後のほうは別れるのが名残惜しい ちがいるから俺たちの先祖、エルトゥールル号 ような雰囲気ができるまで、今回はふだんより の乗組員は助けられたんだね」ということを、 は近い位置で協力し合いながら撮影していたと 今でも現場で言っています。本当に温かく迎え 思います。 入れてくださって、ありがとうございます。 トルコ料理というのは世界三大料理の1 1月に町長も現場のほうに行かれたとい つで、おいしい料理もたくさんいただきました う話を聞きました。天候もかなり厳しかったよ か。 うですが。 忽那 トルコ料理はほんとにおいしいです。私 田嶋 陣中見舞いという形で行かせていただき はイスタンブールに先月、2週間撮影で行かせ ましたけれども、天気が最悪の状態でして、こ ていただいたのですけど、普通、外国へ行って れで映画が撮れるのかなと思っていたら、監督 食事が合わなかったりすると大変なのですが、 がつかつかと来られまして、「町長、最高の日 食事も地元の方も文化も全て肌に合うような感 になったで」と言うんですよ。なぜかなと思っ じで、すごく楽しかったです。 たら、嵐の場面が串本で必要だと。あの海岸で 監督、トルコ料理は。 すごい波が襲ってきそうな雰囲気の状態が必要 田中 本当においしかったです。トルコ料理も だったらしいのです。それがもし起こらなかっ おいしかったですし、トルコが大好きになった たらどうするかというと、時間をかけて待つか、 し、トルコの人の心がすごく伝わってくるとい 扇風機を回して起こすか、らしいのですが、そ うか、やっぱり僕らの共通の根底に流れるもの れが一発目に来たときに起こった。「これは町 というのは一緒のものがあるのではないかなと 長、ついてるよ」と監督から言われました。こ 感じるぐらい素敵な人たちがたくさんトルコに れはいいな、すごいいい映画になっていくので いて、そういうものが多分映画の中にもたくさ はないかなと、そのとき予感がしました。 ん出ているのではないかな。だから、映画で協 監督の印象はどうでしたか。 力してくれた方は、エキストラ参加で日本、ト 田中 そのとおりですね。僕らの一番の最大の、 ルコ合わせておよそ1万人。この映画の中に、 どうしようもできない敵は天気なのですね。こ 延べですけれども、空港シーンだけでも1日に れはクランクインからクランクアップまでおよ 集めた人の数は 800 人から 900 人で、5日間 そ6カ月間、撮影でいうと5カ月やっていたの やっていますから。テヘランの大通りのシーン ですが、全ての天気がドンピシャというか、い だとか、樫野でも住民の方々にも協力していた い形で恵まれて、「串本の皆さんの思いと、こ だきました。 の殉難将士のエルトゥールル号の御霊が守って くれているんだね」ということをスタッフと話 しましたね。 ありがとうございます。トルコのほうで <映画の見どころは?> 町民の方々の協力なども入った形で映画 もかなり撮影のほうは進められたと思います がつくられていくというのが、本当によくわか が、トルコの方とのコミュニケーションは英語 るお話でした。映画の見どころですが、忽那さ でされていたのですか。 んは、串本とテヘランの両方で一人二役で出演 田中 英語といえば汐里さんです。彼女はオー されていますが、いかがでしょう。 ストラリア育ちで、「ちょっと汐里ちゃん、ご 忽那 見どころは、まさしくこの素敵なお話に めん、通訳して」とお願いしていました。 なります。トルコの方というのは、現地に行っ キャストとはいろいろ親しくなられたの ても毎日感じることだったのですが、本当にな ですか。 じみのあるお話で、撮影で来ているというと、 忽那 そうですね。今回は、撮影期間が映画の 映画の情報も本当に早くて、町の人にも出回っ 中でもとても長く、人数も多いので、お互い助 ていて、皆さん楽しみにしてくださっているの け合わないと、何だか本当に毎日ドタバタして ですけれども、日本の方はなかなかなじみのな 4 経済情報 い方が多いのがとても残念だなと思うので、と ク戦争のときに日本が助けてもらい、トルコ地 にかくこの作品で私は1人でも多くの日本人の 震のときには、日本が救援隊を出した。そして、 方にこの話を知っていただくきっかけになり、 東日本大震災のときには、一番最初にトルコが 日本とトルコだけでなくて、ほかの世界の方に 日本を助けに来てくれて、一番最後までいたの もこの両国で築き上げてきたきずなというもの がトルコなのです。こういう正の連鎖を世界中 を知っていただくきっかけとなればいいなと に起こしていかなければならないんじゃない 思っています。 か。この映画は本当に平和を求める大きなメッ 監督、見どころについて如何でしょうか。 セージを持った映画になるのじゃないかなと思 田中 トルコではスタッフが 150 名、そして います。 トルコの国がプロデュースをしていただいて、 ふだん撮れないような場所で撮らせていただい た。それは本当に見事に映像の中にあらわれて いると思っています。そして日本では、この樫 <未来に伝える日本とトルコの友好> 今まで映画の撮影についての感想とかエ 野、串本、和歌山の方たち、そして日本全国か ピソードをずっとお話しいただいたのですけど ら、遠くは長崎からもエキストラで参加してい も、せっかく映画化をされたということで、日 ただいて、映画の中にその人たちのこの物語に 本とトルコの友好をどのように未来の世代に引 対する思いがたくさん詰まっています。それが き継いでいきますか。 スクリーンというか、僕が映像を編集している 田嶋 歴史というのは、やはり語り継いでいか と、随所にその思いが伝わってくるシーンがあ なければならないというのが我々の責任でもあ るので、これからたくさんの人たちに伝わって ると思います。正直、旧串本町時代、平成 11 いくものになるのではないかと思っています。 年に串本大橋ができるまで、なかなか大島に渡 るという機会は、巡航船に乗ったりフェリーに 乗ったりということで渡りますが、特に用事が <映画への期待について> なかったら大島に行く機会もあまりなかった。 12 月の5日公開と聞いています。 その大島の一番端のところにある慰霊碑自体も 田中 トルコでは 11 月 27 日、実は日本より あまり知られていなかった。そういう時代が も上映館が多くて、今の時点で 400 館ぐらい。 ずっと長くあったわけでありますが、それにも 今日本は 300 館以上。トルコでも何百万人と かかわらず、ずっと伝えられてきたというのは、 いう人が見る規模の映画の公開になっていま やはり樫野の、また大島の人たちが清掃活動を す。だから、トルコと日本で同時に公開される してくれたり‥ということが続けられてきた。 映画になったということは、本当にすばらしい その思いをトルコの人は受けとめてくれた。今、 ことです。 町長という仕事をさせていただいている中で、 町長、12 月5日に封切りがされて、観 やはり多くの皆さん方にこのことを知っていた 光客が増えたり、この物語が非常に広く知られ だかなければならないと思うし、できればこれ ることになると思いますが。 を町の経済につなげて、多くの観光客の皆さん 田嶋 今世界中に憎しみの連鎖が起こってい 方に来ていただいて、町にお金を落として、今 て、憎しみが憎しみを生んで、いろいろな事件 度は次に監督に映画をつくってもらうときには が起こっている。特にトルコの周辺ではそう 「金がこれだけあるからつくってよ」と言える いったことが起こっているのではないかなと思 ような、そういうことになりたいなと思ってい いますが、125 年前に起こった未曽有の遭難 ます。 事故、この遭難事故が起こったときに、大島の 監督は東京のほうでもご活躍されている 樫野の島民が、見たこともない、話をしたこと と思いますが、東京に向けての発信、未来に向 もない、相手の文化もわからない、そういった けてこれを語り継いでいくためのコメントをお 人を自分たちの身を挺して助けた。エルトゥー 願いしたいのですが。 ルルで助けて、今度は 1985 年のイラン・イラ 田中 この樫野、串本、大島でロケをさせてい 経済情報 5 ただいて、この町にはすばらしい宝物がたくさ 道路が手前まで来ないからとか、本当はそんな んあって、多分それは皆さんがふだん見ている ところに価値観なんかなくて、もっと大切なも 串本のすばらしい風景、そして朝日、夕日、四 のを皆さんが手にしているんだということを、 季折々の織りなす風景、そういうものと同時に、 僕は映画の中のフィルムにおさめられたと思っ そういうところで育った皆さんの心の温かさだ ていますので、またぜひとも映画で見ていただ とかおもてなしの心だと思います。忙しさの中 けると、そのすばらしさが日本、世界へ広がっ で日本人が忘れてしまったたくさんの大切なも ていくのじゃないかなと思っています。 のが、この町の中にはまだ忘れられずにちゃん 本当に元気が出る、未来への懸け橋にな と残っているのではないかなと思います。 るような映画をつくっていただきました。あり ただ、例えば大阪から3時間半かかるからと がとうございました。 か、飛行機に乗って電車で来るからとか、高速 (本稿は、平成 27 年 6 月 4 日、串本町文化センターで開催された パネルディスカッションをまとめたものである。司会は、元(一財) 和歌山社会経済研究所研究部長 髙田朋男) 映画『海難 1890』(日本・トルコ合作) 2015 年 12 月 5 日より、全国で劇場公開中。 東映配給 キャスト:内野聖陽 ケナン・エジェ 忽那汐里 アリジャン・ユジェソイ 脚本:小松江里子 音楽:大島ミチル 企画・監督:田中光敏 製作:Ertugrul Film Partners(『海難 1890』製作委員会&トルコ共和国文化観光省映画総局) 6 経済情報
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