長く続けてほしい学びの場 尾崎 護 米津さんはかねがね、私の書いた「おじいちゃんの塾」という本に啓発されて、米津塾を始めた といってくださる。私としては、恐縮しつつも、少しうれしくもある。 ただ、私の塾は塾生が 2 人の孫 ( 当時小学生 ) と彼らのおばあちゃん、つまり私の妻の 3 人だけだった。 塾の目的は 2 人の孫に「漢文の調子」を教えることだった。 漢文は日本語である。漢字で書かれた中国の文章や詩をそのまま日本語として読んでしまう。 翻訳の労を省略するという世界に冠たる発明の産物である。 何しろ、相当高いレベルの漢文の愛好者でも、「それを中国語で読め」と言われたらたいていお手上 げだと思う。漢文のよさは「日本語であること」にある。 日本語はやまとことばの系列と漢文の系列が入り混じっている。漢文調の日本語は、簡潔で力強く、 歯切れがよくて明快である。やまとことばのほうは、まるで「ひかりのどけき春の日」のようにや わらかくておっとりしているが、春霞がかかったようにどこか字義がぼんやりしている。檄文や法 律の条文などにはやまとことばは向いていない。 孫は 2 人とも男の子だから、私としては男らしい簡潔な章が書けるような人間に育ってほしいと 思った。そのために、漢文のあの名調子を身につけてもらいたかった。だから声を出して読み上げ ることに重点を置いて教えた。それだけの、いわば寺子屋である。 このたび米津さんの講義録「にっぽんの民放と凶家」に拙文を寄せるよう求められた機会に、講義 録の一部を読ませていただいて鷺いた。仏教、道教、キリスト教、ユダヤ教、ヒンズー教といった 世界の宗教の教義から、ソクラテス、カント、孔孟の教えにいたる洋の東西の哲学を網羅する高次 元の講義である。 「おじいちャんの塾」のような寺小屋風ではなく、むしろ堂々たるアカデミー風ではないか。 しかし、読み進むうちに、これはやはりアカデミーではなく塾だと思い始めた。なんといっても米 津さんには . 長年設計事務所を経営しているビジネスの裏づけがある。 病院や介護施設の設計など通じて社会保障の世界にも理解がある。政治の世界との付き合いも少な くない。世事に通じた苦労人であって、理屈を捏ね回すだけの観念的思考の人ではない。 もしこのような私の理解が正しければ、酸いも甘いもかみ分ける米津さんのお人柄は米津さんの 人生体験から作り上げられたものだと思う。だから、小むずかしい教義も哲学も、米津さんによっ て消化されると、親しみゃすく人間味が濃いものに変わってしまう。そして、哲学や宗教の話が、 どこか落語に出てくる横丁の大家さんの人生訓のようにわかりやすいものに変わるのである。たぶ ん、そんなところに米津塾が大勢の人を惹きつける魅力があるのであろう。啓発と親睦の場といわ れる米津塾が繁栄するいわれでもあろう。 米津さんも私も日本男子の平均寿命に達しようとしているが、年老いても学ぶことは楽しい。米 津塾がかつてアテネの街角にできていたという哲学者を囲む人垣のように、参加者が思うままに自 由で率直に意見を交換する学びのつどいとして長く続くことを心の底から願っている。 2012 年 6 月
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