史跡称名寺境内で行われた発掘調査で建物の屋根

けられている史跡です。
これまでに、 大正11年に中心部を国史跡指定、昭和47年
の 国史跡追加指定 を 含めて約16haが国史跡の範囲となって
おり 、 横浜市が7haあまりの境内地の買収 を 行いました。
史跡全体 の管理団体の立場で、 昭和53年度から昭和62年度
史跡称名寺境内 で行われた発掘調査で建物の屋根に使わ
え んち
にわたって苑池 の 整備を実施しています。 その後、 苑池部
れた 瓦 の 破片 が 発見 されました。 軒先に一列に置
のきひらがわら
分 を 除 く 旧伽藍全体 の状況を把握するため、
が とう
かれる軒平瓦で 、 端 に瓦当が つ け ら れ て
3か年にわたる確認調査計画を策定し、
います。瓦当のところに「福」と
平成12年と 平成13年に 発掘調査 、
「寺」 の 字 がみえま す 。 こ の 瓦
平成14年に整理・報 告 を国庫補
ようふくじ
は 鎌倉 の永福寺で 使 われ て い
助により行いました。
る 瓦 と 同 じものです 。 こ の
◆発掘の目的と方法
永福寺 は源頼朝が奥州平定
史跡称名寺境内の旧伽藍
の 際 に 平泉 の 壮大 な寺院
跡 を 追究 するといっ て も
も う つ じ
群 に 目をみはり、 毛越寺
創建当時 なのか 、 顕時 の
を 手本 として 文治5年
時 なのか 、 どの 時点に求
(1189)につくられ た 寺 で
めるかは 問題 です 。 幸い
す 。 中の島をもつ池、 二
国 の 重要文化財「 称 名 寺
階堂・ 阿弥陀 堂 ・ 三 重 塔
け っか いき
絵図並 結 界 記 」 が あ り ま
が らん
などを 配した伽藍配置をし
す 。 この 絵図 は 結界記によ
ています 。 称名 寺 は こ の 鎌
れば 元亨3年(1323)2月24 日
倉 の 永福寺 を 直接 の モデルと
に 営 まれた結界作法のために描
してつくられ た と い い ま す 。 こ
かれたといいます 。 結 界 は 戒 律 を
の 瓦 の 発見 はそうした 説を支持する
守 るため 一定 の 浄域 を設けた区域をい
ものといえます。
こう どう
◆国史跡称名寺境内のあらまし
「永福寺」銘の瓦
く いん
うん どう
きょうぞう
の 建物、 顕時 や貞顕の墓などが描かれています。 それとと
かね さわ
る 好位置 に 立地 した金沢北 条
おさむ
もに、森蘊氏が結
氏 の 菩提寺 です 。 その特徴と
界図によって称名
して 、 最盛期 における 伽藍 配
寺境内旧伽藍復原
置 が 明確 に 理解可能 な詳しい
図をつくっていま
重要文化財の絵図、国宝になっ
す。これらを参考
あき とき
史跡 称名寺境内
にすることにしま
さ だゆ き
貞 顕、 貞 将の 肖像画、 歴代当
した。
主 および 歴代住職 の 墓塔群 、
調査は、今まで
県立金沢文庫 に 膨大 な 中世 文
書、 などの 明確 な 史料 に裏付
そ うぼ う
むじ ょう いん
的 に 重要 な 役割を果たした中世鎌倉の外港の六浦を防御す
さ だあ き
ご ま ど う
宮・ 別当房・ 僧庫・ 浴室・ 無常院・庫院・雲堂・経蔵など
む つら
ている歴代当主の実時、顕時、
りょうかいどう
両 界堂・ 護 摩堂・ 僧 房・ 三重塔・ 別院称名寺・ 新
横浜市金沢区の史跡称名寺境内は、 経済的、 政治
さね とき
ほうじょう
います。この絵図には池・金堂・講堂・方丈・
の方針にしたがっ
遺跡の場所
[1]
講堂基壇の検出状況
て 、 金堂 と
仁王 門 を 中
軸 とし た 基
線、 並 び に
それ に 直 交
した 基 線 を
もとに 10 m
グリ ッ ト を
境内にかけ、
この グ リ ッ
トラ イ ン に
三重塔北側調査区内の柱穴群
沿 うよ う に
トレ ン チ を
称名寺伽藍復元図(森蘊氏の図を参考に作図)
で観察するために、 一部を基盤層まで掘削しました 。 こ の
設けました。
結果、基壇周辺で確認された地業面より70∼80cm下に基底
これ ら の ト
面 があり 、 基壇周辺 の地業面のレベルで土層の堆積状況が
レン チ は 先
異 なることが 明 らかにされました。 地業面より上位が比較
にのべた 「称名寺絵図」 に 描 かれている建物がありそうな
的大 きな シルト 岩ブロックを乱雑に積み上げられ、 隙間に
ところに配置しました。
灰褐色土やシルト岩ブロックが充填されているのに対して、
◆平成12年度の発掘調査
下位 では シルト 岩 ブロックと黒褐色土を互層とする版築が
じょう
「称名寺絵図」に描かれている講堂・ 方丈・ 両界堂・ 浄
施されていました。
ち
地・ 僧坊並 びに 僧坊裏の建物群が存在したかどうか、 およ
方丈 とみられる 部分 では砂質凝灰岩製とシルト岩製の礎
びそれらの位置・規模などを確認する調査を実施しました。
石 とみられるものが 発見 されています。 他のトレンチの観
この 年度の調査の目玉の講堂は、 「絵図」によると、 正
面七間 の 建物 で、 他の建物址が礎石のみを用いたものなの
かめ ばら
に 対 して、 講堂は亀腹状の基壇があります。 発掘は講堂の
部分 に 十文字 にトレンチを設定して、 まず基壇端部および
上面 の状況を確認することにしました。 この結果、 東西25
m、南北19m、高さ約40cmの規模を有すること、礎石など
が遺存しないこと、基壇周囲に幅0.7∼1.9mの浅い溝状の窪
みがめぐり 、 一部 に 砂質凝灰岩製の礎石が見られることな
どが 確認 されました。 ついで、 講堂基壇の築成状況を断面
阿弥陀堂南東部の地業層
察から砂質凝灰岩製のものが方丈に伴うものと思われます。
両界堂 は 講堂の西側後方に位置する建物です。 調査の結
果柱間 が2.10mで 3 つの 砂質凝灰岩製 の礎石と、礎石が抜
き 取 られたような 痕跡が1か所、 さらにその西側では粉砕
した シルト 岩 ブロックが遺存した部分、 および玉石敷きの
部分 で 礎石 が抜き取られた痕跡が2か所あります。 また、
最 も 東側 に 位置する礎石から直交し南側にも礎石が抜き取
両界堂の玉石敷き検出状況
られたような 痕跡 が 2か所見出されています。 これらの遺
[2]
70cm、 深 さ 20cmのものです。 両界堂側 では 砂質凝灰岩の
切石 を 用 いているのに対して、 講堂側では意識的にシルト
岩 の 切石を縁石に用いています。 また、 両界堂側の縁石の
西端 と 東半分 はすでに石が抜き取られています。 これらの
底面 には 平瓦・ 丸瓦の他に、 コケラ状の薄い木製品が敷き
つめられているような 状態 で 見出されました。 冒頭の瓦は
ここから発見されたものです。
◆平成13年度の発掘調査
この 年度 は、 「称名寺絵図」に描かれている称名寺(阿
弥陀堂)・ 三重塔・ 雲堂・ 庫院・ 経蔵・行堂・無常院・東
司・ 浴室・ 僧庫があるかどうか、 およびそれらの規模・ 位
置などを確認することを目的としています。
無常院推定地の石列遺構
発掘の結果つぎのようなことが分かりました。
構はいくつかの時期にわたって築かれたものとみられます。
じぎ ょう
称名寺境内 の 全面にわたって大規模な 地業が施されてい
講堂 の 北東 にある浄地の調査では明確な建物址が認めら
ました 。 そのうち 、 特に大規模なものについては金沢貞顕
れませんでした。ただ多量の炭化物が発見されています。
が 苑池 を 造営 する以前に行なわれた可能性が高いとみられ
僧房 と 僧房裏建物址群 が推定される場所の発掘では礎石
ます。そうした地業層の下にも数枚の地業面がありました。
状 のものいくつかと 少 なくとも 6面の地業面が見出されて
最下層 にあたる 地業層 については 北条実時が持仏堂を建て
います 。 調査範囲 が 広いために遺構相互の関係を知ること
た時期にも比定することができると思います。
は困難でした。
阿字 ヶ 池 の西側の地業面の上面は江戸時代にはすでに削
以上 の 他に「称名寺絵図」に記載されていない、 やぐら
平 されており 、 阿弥陀堂 に比定される遺構は確認すること
と 水路状遺構 がありました 。 両界堂を推定したところの南
ができませんでした。
を 発掘 した 時に水路状の遺構が発見されました。 これは幅
三重塔 のところでは 、 表土層のすぐ下がシルト岩盤層に
なっていて、方形のピッ
どっちが顕時のお墓なの?
ト群が発見されました。
『称名寺絵図』 には 清浄 な 区域 を朱線で示し、 この朱
線の外に五輪塔・宝篋印塔・板塔婆等が描かれています。
その 中 に 西側 の 山裾 に 板葺きの棟門を構えた連子欄間の
塀 で 南 と 東 を 区切った墓域があります。 そこには五輪塔
3基 と 宝形造宝珠付 の 小堂 が 描かれています。 その上の
方 に 右 よりに 「貞顕宗顕」、 左 よりに 「顕時恵日」と墨
書 きがあり 、 金沢北条氏 の 当主貞顕、 顕時 のお墓と見ら
れます。
実際三重塔 の 西 に 金沢貞顕公廟 と 金沢顕時公廟があり
ます 。 東側 の 五輪塔 が 金沢貞顕のもの、 そして西側が金
沢顕時 のものです。 しかし、 金沢貞顕が元弘3年 (1333)
に没し たのに元亨3年 (1323) にかかれた『称名寺絵図』
に 墓塔 があること 、 金沢貞顕 の 墓 とされている石塔の下
から 蔵骨器 の 青磁壷 が 発見 されて 元弘3年に鎌倉の東勝
寺 で 火炎 の 中 で 自刃 した貞顕の遺骨を集めて収めること
は 難 しいとみられることから 、 東側 が 金沢顕時 のものと
考えられます。
五輪塔 は 下部から方形、 円形、 三角形、 半月形、 団形
を 積 み 重 ねた 塔 をいいます。 この五つの形は密教の標幟
で 、 方形 は地、 円形は水、 三角形は火、 半月形は風、 団
形 は 空 をあらわしています 。 この 五輪塔 は密教で説く宇
宙 の 生成要素 である 五大 をかたどっています 。 各輪の4
方 に 1字 ずつ 梵字 を 刻すことが多く、 それによって胎蔵
界四仏をあらわしたものといわれています。
礎石 と 思 わ れ る 遺 構 も
検出されました。
「絵 図 」 に 描 か れ て
いる 北 条 顕 時 ・ 金 沢 貞
顕 の 墓所 に い た る 階 段
は 検出 す る こ と が で き
ませんでした。
阿字 ヶ 池 東 側 に 展 開
して い る 経 蔵 ・ 雲 堂 ・
庫院 ・ 行 堂 な ど の 建 物
群 にあ て は ま る 遺 構 は
検出 す る こ と が で き ま
せん で し た 。 ま た 、 伽
藍完 成 時 以 降 に 何 回 か
の 地業 が な さ れ て 遺 構
が 存在 し て い る こ と も
分かりました。
[3]
度 か ら 70 度
をはかります。
堀 は 幅が5m
前後、深さが
約3mで す 。
また、空堀の
なかの上部に
は宝永火山灰
層が堆積して
寺尾城址の説明板
いました。こ
◆遺跡への行き方
東京急行電鉄東横線の菊名駅の改札口を出て右手に行き、
のことはこの 堀 がつくられたのが18世紀初頭以前であるこ
階段 を 降 ります。 川崎鶴見臨港バスの停留所があります。
とを示しています。
鶴見駅西口行 に 乗り、 バス停の殿山で降ります。 道路を渡
◆寺尾城について
り 、 バス の進行方向にすすみ、 某クリニックの脇すぐ右に
寺尾城 は 主脈の台地から西側の池谷、 東側の馬場谷と呼
入 る 道 があります。 これを道なりに下っていくと上寺尾小
ばれる 支谷 によって 開析され、 南に舌状に張り出した台地
学校 の 正門前 に出ます。 さらに道を進むと右手に殿山公園
上 に 占地 しています。 この台地の基部に東西に延びる空堀
があります 。 このなかを 西奥 にさらにすすんで階段を上っ
があったといいます 。 台地 の 基部を掘り切って城を築いた
ていくと 台地 の 上にでます。 左手に教育委員会の説明板が
のです 。 城 の 南にあるキガクボという小さな谷をはさんで
あります。
西側 は 横浜市立東高等学校付近 までが城域となります。 城
◆寺尾城址の発掘
に 関連 する 土塁 の一部がキガクボ西奥のマンションのなか
横浜市 は 緑 あふれる環境づくりに関連して殿山公園の樹
に 保存 されています 。 城の東側は観音山の先端までです。
木の植栽を伴う整備事業を行うことになりました。そこで、
この 観音山 の 直下 で北宋銭を中心に二千枚近くの古銭を伴
平成5年12月に 殿山公園の西端を発掘しました。 調査面積
う 瀬戸瓶子 が発見され、 15世紀前半から中葉以後に埋めら
は 約170平方メ ー トル です。 調査区域の南端には東西方 向
れたと 考 えられます 。 寺尾城の城主は『北条氏所領役帳』
に 東 へ下る溝
(永禄2年、 1559)にある「諏訪三河守」 でしょうか 。 城は
状 の 落ち込み
永享年間(1430
があり 、 「空
∼1440)につく
堀」 と 考えら
られ 、 永禄 12
れるものです。
年 (1569) の 武
発掘 の 結果、
田信玄の小田
この 空堀 は断
原攻めの時に
面 が 逆台形を
落城したとみ
られています。
した 形で、 壁
殿山公園への入口
発掘当時の空堀
面 の傾きが50
*「埋文 よこはま 」 は 、 横浜市域 で 発掘調査された遺跡
や出土した遺物を紹介する広報紙です。
埋蔵文化財センターのご案内
出土品や整理作業のようすを見学できます
(予約が必要です)。埋蔵文化財や歴史に関
する質問も歓迎します。
開所:午前 9 時∼午後 5 時。土・日・祝日
休み。
交通:東横線「綱島駅」より東急バス 1 番
乗り場「勝田折返所」行終点。田園都市線
「江田駅」より東急バス「綱島駅」行「勝田」
下車。
ホームページアドレス
埋 文 よ こ は ま 7
発 行 日 2003 年2月 28 日
編集・発行 財団法人 横浜市ふるさと歴史財団
埋蔵文化財センター
〒224-0034 横浜市都筑区勝田町 760
TEL 045-593-2406
FAX 045-593-2403
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