83歳の親鸞は、面映い心地で絵筆を走らせる絵師朝円と対座していた。朝円 は似せ絵(肖像画)の名人として著名で、殊に写実的な手法で生き写しのような 絵を描くことで評判の高かった人物である。 親鸞が肖像画を描かれるのは2度目のことであった。13年前の70歳の時、専阿 弥陀仏という絵師によって描かれたのが最初である。この時は、顔は似顔絵風で、 体は太い墨の線のみで表現された。わずかに半刻もたたぬ間に絵はできあがっ たが、線で描かれた顔と体つきがまるで鏡に移したようだと言われ、「鏡御影」と 称されるようになっていた。 「鏡御影」の時はさほど時間もかからなかったが、今度の朝円は絵具を用いて 親鸞の顔や姿を克明に捉えようとしている。その朝円の目や筆先からは、芸術に 懸ける者の執念がほとばしっていた。 「綺麗に描こうと思わずに、ありのままの私を画いてくだされ。」 親鸞は、法然や多くの僧たちの肖像画が、実像から離れて極めて美しく創作され ていることを知っていた。美しく描かれた絵は、本人は元より、見る人を楽しませ てくれるだろうが、虚実であることには変わりない。親鸞は虚実を描かれること を嫌ったのである。 事実、親鸞は日常つねに身につけているものを持って、朝円の前に座ったので あった。麻の衣と袈裟は元より、茜裏の下着も普段とは変わらない。赤色の下着 は、僧侶や貴族が身につけるものではなく、庶民の印であった。親鸞は「僧に非ら ず俗に非ず」を生活の中でも体現していたのである。さらに親鸞は、常に用いて いる猫の皮を巻いた鹿杖(かせづえ)と、猫皮の草履、そして狸の皮の敷物も描い てもらうことにした。それは念仏聖としての親鸞の実体を如実に現すものであっ たからだ。 動物の皮を身につけるのは聖としての象徴であった。仏法では、殺生をなす者 たちは不浄の者とされていたが、民衆の立場に立って仏法を弘める聖たちの多 くは、殺生や不浄を厭わずに生活していた。そこには、民衆のための真実の仏法 があると信じていたからである。踊り念仏を唱導した空也や、常に鹿皮を着てい たために革聖と言われた行円などが、そうした聖の先駆者である。 虚を排す親鸞の意気込みは、朝円の写実欲を刺激した。朝円は親鸞の眉毛の 白毛の数まで克明に描いたのであった。この肖像画は、三河国安城の専信房専 海が、朝円に依頼して描かせた物である。出来上がった絵は、専信の住んだ地名 を採って「安城の御影」と呼ばれた。 この絵は専信を開基とする願照寺に長く保存されていたが、蓮如の求めに応 じて修理され、蓮如の子実如の代に本願寺へ進納された。「安城の御影」が願照 寺にあった時、これを披見した覚如の子存覚は、その写実性に驚嘆して、思わず、 「うそをふかせまします御口なり」 と語った。「うそ」というのは「嘘」ではなく、口をすぼめて息を吐き出す「嘯き」 のことで、親鸞の口はまさにそのように描かれていたのであった。そのため、こ の絵は別名「嘯きの御影」とも呼ばれている。(武田鏡村)
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