降誕前第 6 主日・終末前主日≪救いの約束(モーセ)≫ 礼拝説教抄録 2015 年 11 月 15 日 レビの家の出のある男が同じレビ人の娘をめとった。 彼女は身ごもり、 男の子を産んだが、その子がかわいかったのを見て、三か月の間隠してお いた。 しかし、もはや隠しきれなくなったので、パピルスの籠を用意し、 アスファルトとピッチで防水し、その中に男の子を入れ、ナイル河畔の葦 の茂みの間に置いた。 その子の姉が遠くに立って、どうなることかと様子を見ていると、 そこ へ、ファラオの王女が水浴びをしようと川に下りて来た。その間侍女たち は川岸を行き来していた。王女は、葦の茂みの間に籠を見つけたので、仕 え女をやって取って来させた。 開けてみると赤ん坊がおり、しかも男の 子で、泣いていた。王女はふびんに思い、「これは、きっと、ヘブライ人 の子です」と言った。 そのとき、その子の姉がファラオの王女に申し出 た。「この子に乳を飲ませるヘブライ人の乳母を呼んで参りましょうか。」 「そうしておくれ」と、王女が頼んだので、娘は早速その子の母を連れ て来た。 王女が、「この子を連れて行って、わたしに代わって乳を飲ま せておやり。手当てはわたしが出しますから」と言ったので、母親はその 子を引き取って乳を飲ませ、 その子が大きくなると、王女のもとへ連れ て行った。その子はこうして、王女の子となった。王女は彼をモーセと名 付けて言った。「水の中からわたしが引き上げた(マーシャー)のですか ら。」 出エジプト記2 章1~10 節 だから、天の召しにあずかっている聖なる兄弟たち、わたしたちが公に 言い表している使者であり、大祭司であるイエスのことを考えなさい。 モ ーセが神の家全体の中で忠実であったように、イエスは、御自身を立てた 方に忠実であられました。 家を建てる人が家そのものよりも尊ばれるよ うに、イエスはモーセより大きな栄光を受けるにふさわしい者とされまし た。 どんな家でもだれかが造るわけです。万物を造られたのは神なので す。 さて、モーセは将来語られるはずのことを証しするために、仕える 者として神の家全体の中で忠実でしたが、 キリストは御子として神の家 を忠実に治められるのです。もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続ける ならば、わたしたちこそ神の家なのです。 ヘブライ人への手紙 3 章1~6 節 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 1 2 3 4 5 6 1.モーセ 教会は、旧約聖書から主イエス・ キリストに至る神の救いの歴史を辿る 降誕前の期節を歩んでいます。降誕 前第 6 主日を迎えたこの日曜日には、 聖書日課によって≪救いの約束(モ ーセ)≫という主題が与えられていま す。今日、ご一緒に聞きました聖書は、 出エジプト記 2 章、モーセと呼ばれる 人物の誕生物語です。モーセは、旧 約聖書でもっとも偉大な指導者です。 エジプトの地で 430 年もの間奴隷状 態にあったイスラエルの人々を導き出 します。 モーセが生まれた時代、イスラエ ルの人々は、度重なる飢饉のために エジプトに移り住むようになりました。 エジプトでは、ナイル川のゆえにいく らか安定的に生活の水を確保するこ とができたのです。広大な土地に増 大する人口。文明が開化していきま すが、「エジプト」を指すヘブライ語(ミ ツライム)は、「圧迫の場所」を意味し ます。エジプトは神を畏れない王、フ ァラオが支配する土地でした。ファラ オは、イスラエル人が数を増す中でエ ジプト人を脅かすことを恐れ、彼らに 過酷な労働を課して抑圧しました。し かし、抑圧されればされるほど、イスラ エルの人々は増え広がります。 それを知ったファラオは、今度は ヘブライ人の助産婦たちを呼び出し、 男の子が生まれたら殺してしまうよう にと命じました。ところが助産婦たち は、ファラオよりも神を畏れたために、 取り上げた男の子の赤ん坊を殺すこ とができませんでした。「ヘブライ人の 女性はエジプト人よりもずっと丈夫で、 助産婦が行く前に産んでしまう」など と言い訳をして、絶対と言われたファ ラオの命令をかわしていきます。ファ ラオは、さらに乱暴な手段を講じます。 ヘブライ人に向けて、男児が生まれた らナイル川にほうり込み殺してしまうよ うにと命じるのです(出 1:22)。 2.死の淵を行く舟 男児を残らず川に放り込むように というファラオの命は、すべての家族 を恐怖に陥れました。あるレビ人の夫 婦の間に男の子の赤ん坊が生まれ、 母親は 3 か月間隠し通しました。もう 隠しきれないと感じた母親は、ナイル に向かいます。念入りに防水加工をし た「パピルスの籠」( パピルスの籠」(3 節)の中に、まる でゆりかごに入れるかのようにモーセ を移し、ナイル河畔の葦の茂みに置 いたのです。そのままでナイルの流れ に入れば、間違いなく死んでしまいま す。モーセは、水の中に身を委ねな がらも、「籠」に包まれて水に脅かされ ません。「籠」(テーバー 「籠」(テーバー) テーバー)というヘブラ イ語は、創世記のノアの物語の中に 出てくる「箱舟」(テーバー 「箱舟」(テーバー) テーバー) と同じ言 葉です(創 6~9 章)。元々はエジプト からの外来語で「棺」を意味する言葉 です。小さな生命を守る「籠」は、死の 淵を行くものであることを思わせます。 「籠」に納められた生後 3 か月のモー セは、死の淵を行く冒険に押し出され ました。もっとも家族にとっては、隠し きれなくなって家で見つかるよりも、川 で見つかる方に、希望を置きます。 もちろん、だれかが赤ん坊を引き 上げて助けてくれるだろうという希望 ばかりでなく、失敗するかもしれないと いう恐怖もあったと思います。母親は、 死の淵を行く「籠」に愛する子を委ね るしかありませんでした。大人たちは どんなに強く願っても自分の手ではど うにもできない悲劇があることを知っ ています。一方、姉のミリアムは、きっ とだれかが救ってくれるに違いないと いう確信に満ちてその子を見守って いるように見えます。彼女は、遠くから 弟の様子を見張っています。 エジプトの王女たちが川に水浴 びに来て、籠の中のモーセを見つけ ると、ミリアムはすぐに近寄って行って、 勇敢にも、赤ん坊の乳母を手配する 提案をしてみせるのです。「この子に 乳を飲ませるヘブライ人の乳母を連 れて参りましょうか?」(7 節)と。 節)と。王女 は驚いたでしょう。「そうしておくれ」( 「そうしておくれ」(8 節)と言うと、ミリアムは、急いで母親を 連れてきます。王女は、「ヘブライ人 の乳母」というのが、この男の子の産 みの母であることに気づいていたのだ と思います。深い同情からだまされた ふりをしているのです。 3.モーセの名に刻まれた計画 水の中から、再び母の腕の中に 抱かれたモーセは、すぐに泣き止ん だでしょう。それでも母子の生活には 期限があり、モーセが乳離れすると、 母親は、彼を王女のもとに連れて行 かねばなりませんでした。最後に手放 す日が来ると、「その子はこうして、王 女の子となった」(10 節 b)のです。モ ーセは、このようにして由緒ある祭司 の血筋であるレビ人の出自でありなが らも、まったく対極にある家柄の中で、 抑圧者であるエジプトの王女の養子 として育てられます。モーセは、エジ プトの王宮で何不自由なく暮らします。 しかし、この矛盾した育ちは、モーセ のこれからの人生に大きなひずみを 与えるものとなります。 「モーセ」という名を与えたのは、 実の親ではなく養母である王女です。 「モーセ」とは、エジプト名で「息子」 「子ども」を意味すると言われています。 モーセを見て一目でヘブライ人と悟 った聡明なこの王女は、命名にヘブ ライ語の語呂を大切にしています。彼 女は言います。「水の中からわたしが 引き上げた(マーシャー)のですから」 (10 節 d)と。この名は、後に特別な 意味を持つようになります。モーセは、 無力な裸の赤ん坊であったときに、水 の中から「引き上げられた」のですが、 神に召されて後、イスラエルの人々を 奴隷状態から「引き上げる」者とされる のです。それは偶然ではなく、神の深 いご計画の中に示されたことでした。 一人の人に対する神のご計画は、 壮大です。わたしたちは、今神のご計 画という眺望に立って、モーセの誕生 を見つめることができます。母は、そ の子を水の中に手放しました。その子 は、一度、母の胸の中に戻されるで すが、それも束の間のことで、すぐに 母はその子に別れを告げねばなりま せん。その子の人生は、母がナイル 川に差し出した時、すでにまったく新 しい方向に進み始めました。このモー セの誕生物語は、御子イエスのご降 誕を指し示すものでもあります。 4.先駆者モーセ 聖書がモーセの出生の背景とし て、忘れてはならないこととして明記し ているのが、ファラオという暴君による 男児の殺害の命令です。新約聖書を 読んだことのある人は、「男児殺害」と いう言葉から、ある場面を想い起こし ます。御子イエス・キリストのお生まれ になるクリスマスに、時の王ヘロデが 命じた男児殺害の出来事です(マタ 2:16~18)。 ヘロデは、東方の占星術の学者 たちが「ユダヤ人の王としてお生まれ になった方」を探してエルサレムを来 訪したために、大きな不安を抱きまし た。ヘロデは、自分もその「ユダヤ人 の王」を拝みたいので見つけたらすぐ に知らせるようにと言って、学者たち を送り出します。お生まれになったみ 子イエスを見つけた学者たちはみ子 を礼拝すると、ヘロデのところには寄 らずに帰りました。学者たちが戻って 来ないことに激昂したヘロデが、学者 たちに確かめておいた時期に基づき、 ベツレヘムとその周辺一帯にいた 2 歳以下の男の子を「一人残らず」(マ 「一人残らず」(マ タ 12:6)殺させたのです。イスラエル 人の勢力に不安を抱いたファラオも 命じました。「一人残らずナイル川に ほうり込め」(出 1:22)と。この物語は、 明らかに響き合っています。 神は、ご自分の民を「引き上げる 者」としてモーセを立てられました。モ ーセをとおして、神の民は自由を得、 神との契約を更新し、新しい故郷を目 指しました。出エジプトという解放の出 来事は、奴隷たちの長い苦しみ、幼 い子どもたちの殺害がその始まりとし て記されます。これらは、神の民の自 由への道を開くために支払われた代 価の一部です。 東日本大震災以来、「なぜ神は このような悲劇をお許しになるのか?」 と問われることが何度もありました。そ のたびに苦しみました。「震災で亡く なられた人たちに対してどう感じまし たか?」という質問はつらいものでし た。わたしは聞き返すこともありました。 「あなたは今どこに立ってそうお尋ね になるのですか?」と。わたしたちに は答えはないのです。「なぜ?」フラ ンスで起こった連続テロでは、再びこ の問いが頭をもたげて来きます。 わたしたちの地上の悲劇の中に、 主イエスはお生まれになりました。 人々の叫び、悲嘆の中に、キリストは 確かにお生まれになったのです。神 による解放は、再生と同様に死、喜び と同様に悲しみ、創造と同様に破壊 を伴う課程として描き出されます。神 は、長い歴史を経て、ご自分の民を 救い出す御子をお送りになります。御 子をとおして、わたしたちが罪から解 放され、困難の中にも新しい故郷を 目指す者とされるように、です。 (祈り)
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