No.3289 2016年2月14日 るのです。だからそれ以後のモーセの定 先週の説教要旨 江守秀夫 めは意味を成さないというのです。ファ 「 あなたは誰を守るのか 」 リサイ派の反論(7) マタイによる福音書19章 1~12節 にも、モーセは「命じた」のではなく ▼「離縁について教える」という小標題 「許した」に過ぎず、「あなたたちの心 が揚げられます。マタイでは18章で が頑固なので」(8)やむを得ない譲歩だっ 教会運営を最期に第四の説教ブロック たと解釈するのです。ですからファリサ が終わります。つまり、これによってイ イ派が離婚を当然の権利とし、あとはそ エスのガリラヤでの宣教活動は終わり、 の理由次第だとして解釈の論議に入るな ここからはエルサレムへの旅と受難に ら、彼ら自身の「心が頑固」であること 移ってゆきます。 の証明に他ならず、神に背いた論理立て ▼しばらく教会運営に関する記述のた になるということです。 めにマタイはマルコの編集順序から離 ▼イエスの活動期にユダヤ教にはシャン れていましたが、ここで再びマルコの記 マイ学派とヒレル学派が主流でした。こ 述に戻ってゆきます。本日の3節以下の のうちヒレル学派は、妻の小さな落ち度 物語は離婚についてのファリサイ派と さえ離婚の理由になると唱え、これがフ の論争です。この記事は降って湧いたわ ァリサイ派に受け継がれていました。こ けではなく、その背景には14章1節以下 のシステムは男性優位を前提にしていま で洗礼者ヨハネが領主ヘロデ・アンティ す。男性はどんなささいな理由でも一方 パスの離婚と再婚を非難したため命を 的に妻を離婚出来る特権を認めるという 落としたというストーリーがあります。 ものでした。これに対しイエスの解釈は そのためファリサイ派が悪意をもって 「平等性」を創造にまで遡って論破する 仕掛ける離婚についての律法解釈は、何 のです。分かり易く言えば、社会的に弱 とかイエスを政治的に追い落とす口実 い立場に追いやられた女性を、たとえ律 となり得たのです。 法を棄ててでも守り通すのが福音である ▼マタイが用いたマルコ(マルコ10;1- という宣言なのです。 12)では、ファリサイ派の質問に対して ▼わたしたちには何かそれぞれに負わさ イエスは離婚を認めるモーセの律法(申 れているものがあります。それが良いも 命記24;1)を論じた上で、離婚自体を否 のか悪いものかは別にして、その負わさ 定するというもってまわった理論が展 れてどうにもならないものが、結局はそ 開されます。後年、この分かりにくさか の人の自分というものなのでしょう。お らおそらく誤解が多々生じたのでしょ 互い自惚れが強いので、いろいろと自分 う。マタイはマルコの順序を逆にしてす の姿を空想します。そしてそれが思いと っきりした分かり易い筋立てに書き換 異なると運命とか宿命などとぼやくので えています。さらにマタイはファリサイ す。その思い通りにゆかない姿こそ、実 派の質問の冒頭に「何か理由があれば」 は本当の自分の姿なのです。運命などあ を付加して、彼らが離婚を前提的に認 りません。あるのは自惚れだけです。こ め、どこまでが合法的であるのかという れがマタイが自惚れに起居するファリサ 程度を問うているように限定させてい イ派の主張を退け、神は平等に人を愛さ ます。 これに対しイエスは創世記 1; れることへの回帰を語るのです。 27、2;24ではっきりと離婚そのものを否 定しています。つまり、神の創造と言葉 とに依って離婚を根本的に否定してい
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