本願寺聖人伝桧 (上 ) 本願寺聖人伝絵 (下 )

ご で ん し ょう
ほんがんじしょうにんでんね
かくにょしょうにん
『御伝鈔』は正式には『本願寺聖人伝絵』と
たた
いい、本願寺第三代 覚 如 上 人 一
(二七〇~一三
あらわ
五一 が)、親鸞聖人のご生涯を讃え絵巻物として
れんにょしょうにん
ことば
広く世に伝えようと 著 されたものです。
しかし、絵巻物では大ぜいの人が拝観できな
ご え で ん
いので、 蓮 如 上 人 時代に 詞 と絵に分けられる
ようになりました。その詞を『御伝鈔』
、絵を『
ないじん よ
ま
御絵伝』といい、ことに江戸時代になると全国
しょうれん
左
< 青
>蓮
各地の真宗寺院の報恩講では内陣余間に『御絵
伝』が掛けられ、
『御伝鈔』が拝読されるように
なりました。
『御絵伝』には一般に四幅絵伝のものと二幅
絵伝があります。どちらも内容は同じで、上巻
=八段、下巻=七段の計十五段に分け、二十の
絵が描かれています。四幅、二幅とも右側の掛
軸の下から上へと聖人の行実を見ていきます。
本願寺聖人伝桧 上( )
よ うわ
第二図
第一段 出家学道
しょうれん も ん ぜ ん
と く ど ていはつ
青 蓮 門前
ま つ わ か まろ
はんねん
しょうれんいん
右< 得>度剃髪 養和元年 一(一八一 、)親
第一図
きゃくでん
客殿
しゅっけ と く ど
鸞聖人 幼
( 名 。 松若麿 九
) 歳 の 春 、 青蓮院 の
じ え ん そ う じょ う
慈円僧正もとで出家得度し、 範
「宴 と」名のりま
す。
ぎょうじつ
伝 絵で は比 叡山 での 二十年 間の 修行 の 行 実
く もま
は雲間で包みかくして省略しています。
第二段 吉水入室
よ し み ずにゅうしつ
第三図 吉水 入 室
けんにん
ご
せ
建仁元年 一
(二〇一 、)聖人二十九歳の春、比叡
ほ う ね んしょうにん
山の自力修行では、後世の助かる道を見い出せ
ず、聖人は、法然 上 人 の門に入ります。
吉水での六年間の修学は聖人の一生を決定しま
す。
第三段 六角告命
せ かんのん
ろ っ か くごうみょう
く
第四図 六角 告 命
建仁元年 一(二〇一 四)月五日の夜、聖人は京
しんしゅう
都・六角堂で救世観音の告命をうけます。この
れ んにむ そう
第四段 蓮位夢想
夢告で、聖人のほんとうの生きかた 真
)い
(宗 が
よいよはっきりしたのです。
けんちょう
第五図 連位夢想
れんにぼう
み
だ
建 長 八年 一(二五六 二
)月九日の夜、聖人 八(十
け しん
あお
がっしょう
四歳 の)弟子・蓮位房は、聖徳太子が聖人を弥陀
し ん ね い め いも ん
左< 真>影銘文
の化身として仰ぎ 合 掌 される夢をみます。
せ ん じ ゃ く ふぞ く
右< 選>択付属
第五段 選択付属
第六図
げんきゅう
あかし
元 久 二年 一(二〇五 四)月、聖人三十三歳。法然
せんじゃくほんがんねんぶつしゅう
しょうぞう
上人は信望のあつい弟子である 証 に『
こうせい
、さらに上人の 肖 像 を写すこ
選択本願 念 仏集 』
り ょ う ざし ん げ ん
第六段 信行両座
しんぎょうぶ ん ぱ ん
とを許し、その教えを後世に伝えていく使命を
聖人に託します。
ぜんしん
おうじょう
せ い か ん ぼう
ね ん ぶ つ ぼう
(
ぎょう
第七図 右< 両>座進言 左
< 信
> 行 分判
元久二年 一
( 二〇五 九
) 月、 吉 水 の 禅房 で 聖人
善信 の)「 往 生 は信心で定まるか、それとも 行
か」の立場を明確にしようとの進言により、三
百余の門弟は着座の決断を求められ、法然上人
しょうはん
し ん じ んじょうろん
第七段 信心諍論
の 正 判 をうけます。
しょうしんぼう
第八図 信心 諍 論
他力の信心について、
建永元年 一(二○六 八)月、
じょうぜん む そ う
左< 定
> 禅 夢想
聖 信 房 、勢観房、念仏房との問答が行われ、法
然上人の正判をうけます。
にゅうさいか ん ざ つ
右< 入
> 西 鑑察
第八段 入西鑑察
第九図
に んじ
仁治三年 一(二四二 、)聖人七十歳。弟子の入
ほっきょう
しょうぞう
ず
が
じょうぜん
西房に 肖 像 の図画を許されます。絵師の 定 禅
きゅうけい せ ん ぎ
法 橋 は聖人を拝し「先日、夢の中に出てきた方
だ」とその夢を語り、聖人を讃仰し描きます。
本願寺聖人伝絵 下( )
ちょうじ
第一段 師弟配流
右< 越
>後 巡 錫
じゅんしゃく
第 十 図 念 仏 停止 第 十 一 図 九 卿 僉議
第十二図 法然配流 第十三図 親鸞配流 第
じょうげん
十四図
る ざい
承 元 元年 一(二〇七 ニ)月、聖人三十五歳。念
そうせき
だつ
仏弾圧で師弟とも流罪になります。法然上人は
けんりゃく
ごんげん
しゃびょう
しんかん
ていねい
文暦元年 一(二三四 、)聖人六十二歳。関東か
えんおう
第五段 熊野示現
第十六図 左< 洛>陽訪問 第十七図 熊野参
ら帰洛の途中、箱根権現で 社 廟 の神官から丁寧
なあいさつをうけます。
詣
らくよう せ ん げ
延応二年 一(二四〇 三)月、聖人は関東の門弟
平太郎の熊野参詣について教示されます。
びょうしょう せ っ ぽ う
第六段 洛陽遷化
び
ふ
中
< 洛
> 陽 遷化
そうそう だ
右
< 病
> 床 説法
にゅうめつそ う そ う
第十八図
こうちょう
左< 入
> 滅 葬送 第十九図 葬送荼毘
墳墓 を あ ら た め て 、 そ れ よ
り 西 、 吉 水 の北 の ほ と りに
仏 閣 を 建 て 影像 を 安 置 しま
す 。 こ れ が いわ ゆ る 本 廟の
はじまりです。
ふ んぼ
年目の 文永 九年 一
( 二七 二 、
)
弟子たちによって大谷の
ぶんえい
第二十図 本 廟 創立
聖人が亡くなられ て十一
ほんびょうそ う り つ
第七段 本廟創立
じ んうそ うず
と り べ の
れます。そして遺骨は同じ山の 麓 、鳥部野の北、
大谷の地に納められました。
ふもと
法院で入滅。遺骸は京都東山の延仁寺で火葬さ
しゃてい
弘 長 二年 一(二六二 十)一月、聖人は病床に臥
ぐ と く しんらん
土佐へ、聖人は越後へ。僧籍をはく奪された聖
されます。同月二十八日、舎弟・尋有僧都の善
左< 弁>円済度
い がい
人は「愚禿親鸞」と名のられます。五年後の 建 暦
元年 一(二一一 十)一月、罪は許されますが、聖
き らく
左< 稲>田興法
い な だ こうぼう
第二段 稲田興法
人は帰洛せず、越後の教化
に努めます。
け んぽ
第十四図
ひ たち
建保二年 一(二一四 、)聖人四十二歳。越後よ
第三段 弁円済度
いたじき せ っ け
右< 板>敷摂化
べんねん さ い ど
り常陸国 茨(城県 稲)田に住まわれます。念仏の
教えを説く聖人のところへは、身分に関係なく
多くの人々が集まってきて、ここでも教えが民
衆の生活の中に根をおろします。
か んぎ
第十五図
うら
寛喜三年 一(二三一 、)聖人五十九歳。多くの
やまぶし
人 々 の尊 敬 を一 身に 集 めた 聖 人に 恨 み を 抱く
みょうほうぼう
山伏弁円は、聖人を殺害しようとします。板敷
山での待ちぶせに失敗した弁円は稲田の禅室へ
行きます。そこで聖人に出会った弁円は恨み憎
しみの心が消え、それまでの心の内を語り弟子
の(ちの 明 法 房 と
)なります。
右< 箱>根示現
じ げん
第四段 箱根示現
第十六図