(1, )天皇の摂政として、天皇中心の国家体制 1

●律令体制
聖徳太子の政治 :女帝(1, )天皇の摂政として、天皇中心の国家体制を目指す。
(2, )[603年]:家柄に関係なく人材を登用。
内政
飛
(3, )[604年]:役人としての心得。
鳥
外交
遣(4, )使の派遣[607年]:(5, )を(4, )の煬帝のもとへ派遣。
[
5
留学生(6, )・南淵請安、学問僧 旻らが随行。
9
2 大化の改新[645年]
年 蘇我氏の打倒:(7, )皇子と中臣鎌足〈藤原氏の祖〉らが実行。
〜 初めて(8, )の年号をたて、都を飛鳥から(9, )宮に移す。
7 改新の詔[646年]:改新の方針
1 ・豪族の私有地を取り上げ(10, )制を確立。→中央集権の確立
0 ・戸籍、計帳を作成し、公民に(11, )を供給。 →税制の整備
年 新政の動揺:豪族の反発、陰謀事件の頻発。
] ・(12, )の乱
原因:天智天皇の死後、子の大友皇子と弟の大海人皇子の皇位継承争い。
結果:大海人皇子が勝利。近江大津宮から飛鳥浄御原宮へ遷都[672年]。 翌年、天武天皇となる。
奈
良
[
7
1
0
年
〜
7
9
4
年
]
1、推古
2、冠位十二階
3、憲法十七条
4、隋
5、小野妹子
6、高向玄理
7、中大兄
8、大化
9、難波
10、公地公民
11、口分田
12、壬申
律令制度:710年、(13, )京へ遷都、律令国家の展開。
13、平城
律令の制定:文武天皇の命により(14, )律令[701年]、養老律令[718年]
14、大宝
律令官制
・中央 → 二官八省
神祇官、太政官の二官 と 中務・式部・治部・民部・兵部・刑部・大蔵・宮内の八省。 ・地方 → 国司、郡司、里長、九州に太宰府
公民の生活
・班田制:(15, )法で6歳以上の男女に一定の(11、 )を班給。
・租税
(16, ):区分田にかかる。稲の収穫の約3%。
庸 :都の労役〈歳役10日〉にかえて布で納付。
(17, ):諸国の産物を納付。 絹、糸、綿、鉄、鍬、海産物など。
雑徭 :国司の命による地方での労役〈年間60日以内〉。
兵役 :各地で服役のほか、都での衛士や九州での(18, )。
15、班田収授
11、口分田
16、租
17、調
18、防人
平
安
時
代
[
7
9
4
年
〜
1
1
8
5
年
]
●平安時代
平安遷都[794年]
(1, )天皇は、人心の一新と政治の刷新を目指して長岡京から遷都。
蝦夷の征伐:(2, )を征夷大将軍に任命。鎮守府を多賀城から胆沢城[802年]
へ移す。
摂関政治の展開
(3, )氏の勢力拡大:他氏排斥 → 承和の変[842年]で橘・伴氏、(4, )の変
[866年]で伴氏失脚。
摂関政治[10世紀後半〜11世紀半ば]:太政官の上に立って(3, )氏が天皇の外戚として
摂政・関白を独占し、国政を握る。
・冬嗣→嵯峨天皇の信任を得、蔵人頭に任命。北家の台頭。
・良房→842年の承和の変で橘・伴氏らを失脚。 858年 摂政。
866年応天門の変で伴善男らを配流し、正式に摂政となる。
・基経→887年、関白となる。
・時平→901年(5, )を太宰府に左遷。
道長・頼通の頃[11世紀前半]全盛期:天皇の外戚、太政官一族独占。
・道長→摂政をつとめ、30年権勢を誇る。
・頼通→3人の天皇に仕え、50年権勢を誇る。平等院鳳凰堂を建てた。
荘園の発達と武士の勃興
自墾地系荘園〈貴族・大寺社の開発〉:743年(6, )法発令後。
寄進地系荘園:10世紀以降発達。開発領主が権門勢家に寄進 → 不輸・(7, )の権
武士の起こり:名主らの武装化
承
(8, )の乱[939年〜40年] →関東を占拠。新皇と称す。
平
・
平貞盛、藤原秀郷が鎮定。
天
慶
藤原純友の乱[939年〜41年] →瀬戸内海の海賊を率い太宰府にも侵入。
の
乱
源経基らが鎮定。
地方での中央政府の権威失墜と武士の力を貴族に印象づける。
延久の荘園整理令:1069年、(9, )天皇は摂関家を外戚にもたなかったため
天皇親政を行う。→(10, )〈記録所〉
院政と平氏政権
(11, ):直系の子孫にあたる天皇を後見しながら国政を主導する政治形態。
1086年(12, )上皇〈堀川・鳥羽・崇徳天皇〉が院政開始。
(13, )の武士を登用して権力強化。以後、鳥羽・後白河と
100年余り院政時代続く。
●鎌倉時代
鎌倉幕府の創設
平氏滅亡:1180年(1, )が伊豆で挙兵。1185年壇ノ浦の戦いで平氏滅亡。
鎌倉幕府:根拠地→(2, )。1192年源頼朝(3, )に任命。
中央→侍所、公文所〈のち(4 )〉、問注所 地方→(5, )〈国ごとに置く〉、(6, )〈荘園、公領に置く〉
※大犯三カ条が任務
執権政治
北条氏の覇権:源氏は頼朝・頼家・実朝の3代で滅び、北条時政〈頼朝の妻政子の父〉が
実権握る。→(7, )政治
承久の乱〈1221年〉:(8, )上皇・・・北条義時〈2代執権〉追討の命令
上皇敗れ、隠岐へ配流。 以後、京都に(9, )設置。
鎌
倉
時
代
[
1
1
8
5
年
〜
1
3
1224年(10, )設置〈執権の補佐〉・・・御家人の合議制
3 執権政治
〈3代泰時〉
1225年 評定衆 の設置・・・有力御家人11人による政務処理
3
1232年(11, )の制定〈武家最初の法典〉
年
・大犯カ条〈大番役・謀反人の逮捕・殺害人の逮捕〉明文化
] 幕府の衰退
(12, )の襲来:8代時宗のとき、1274年 文永の役、1281年(13, )の役
幕府の衰退
北条氏の専制に対する反発〈得宗制〉
御家人の窮乏〈元寇で多大の出費〉→永仁の(14, )令
1、桓武
2、坂上田村麻呂
3、藤原
4、応天門
3、藤原
5、菅原道真
6、墾田永年私財
7、不入
8、平将門
9、後三条
10、記録荘園券契所
11、院政
12、白河
13、北面
1、源頼朝
2、鎌倉
3、征夷大将軍
4、政所
5、守護
6、地頭
7、執権
8、後鳥羽
9、六波羅探題
10、連署
11、御成敗式目
12、元寇
13、弘安
14、徳政
室
町
時
代
[
1
3
3
6
年
〜
1
5
7
3
年
]
●室町時代
建武の新政
鎌倉幕府滅亡[1333年]:(1, )は六波羅探題を、(2, )が
鎌倉を攻略。14代執権高時〈北条氏最後の得宗〉で最後。
(3, )天皇による新政:天皇中心の「公家一統の世」の実現
しかし、武士の不満増大。
新政の失敗:恩賞が公家・寺社に厚く、武士に薄い。→足利尊氏 挙兵。
南北朝の動乱:尊氏は持明院統の光明天皇擁立〈北朝〉
大覚寺統の後醍醐天皇は(4, )へ逃れる〈南朝〉
室町幕府成立
1338年、尊氏征夷大将軍となる。→幕府開設〈有力守護大名の連合政権〉
3代将軍(5, )
京都室町に(6, )造営。[1378年] ← 室町幕府と呼ばれる所以
1392年 南北朝合一:(7, )の天皇に一本化
(8, )貿易:明の(9, )鎮圧要求、明への朝貢貿易〈勘合貿易〉
幕府の仕組み
三管領四識〈管領のもとに侍所・政所・問注所・評定衆〉
将軍
・(10, ):将軍の補佐。細川・斯波・畠山氏交代で任命
・ 所司:侍所の長官職。京極・山名・赤松・一色の4氏から任命
鎌倉府〈公方と関東管領〉
九州・奥州・羽州に(11, )を置く
守護・地頭
財源:(12, )〈直轄地〉からの年貢収入、京都の高利貸しの(13、 )・
酒屋に課す倉役・酒屋役、土地に課す段銭、家に課す(14, )、
関銭、日明貿易の利益〈※4代将軍義持のとき中止。6代将軍義教のとき再開〉
●戦国時代
惣村と土一揆・国一揆・一向一揆
惣村の発達:農民の成長→領主や(1, )の圧迫に対抗→
自治的運営〈(2, )で運営〉
土一揆:農民による年貢減免要求
・(3, )の土一揆〈徳政一揆〉[1428年]・・・近江坂本の馬借が徳政要求。
・嘉吉の徳政一揆[1441年]・・・将軍義教暗殺後、京都を中心に起こる。
国一揆:国人・土豪の下剋上
・(4, )の国一揆[1485年]・・・守護の畠山氏を追放。国人自治。
一向一揆:一向宗(浄土真宗)が惣結合を利用して、信仰組織である講を組織して反抗。
・(5, )の一向一揆[1488年]・・・守護富樫氏を倒す。以後、100年自治支配。
応仁の乱[1467年〜77年]
原因:将軍家・畠山家・(6, )家の家督相続争い、
管領 細川勝元 と 四識(7, )の対立
将軍家
畠山家
斯波家
幕府内部
義視(将軍義政の弟)
政長
義敏
細川勝元
義尚(将軍義政の子)
義就
義廉
山名持豊
日野富子(義政の妻)
経過:東軍〈細川方〉と西軍〈山名方〉が京都で交戦。戦乱は地方へ拡大。
結果:京都は荒廃→公家・文化人は地方へ、(8, )領国は家臣による下剋上。
将軍家の権威失墜。
戦国大名の出現:将軍の権威に頼らず実力で(9, )〈分国〉を形成、支配。
富国策・・・治水工事による農業生産力の増加、鉱山の開発、(10, )町を建設し、
商業を振興。
強兵策・・・軍事及び政治の拠点として城の建設、家臣団の形成、軍役の賦課、戦力の強化。
(11, )法・・・分国支配のために定められた基本法。家臣・農民統制。
今川氏→今川仮名目録、 伊達氏→(12, )
武田氏→甲州法度 など
1、足利尊氏
2、新田義貞
3、後醍醐
4、吉野
5、足利義満
6、花の御所
7、北朝
8、日明
9、倭冦
10、管領
11、探題
12、御料所
13、土倉
14、棟別銭
1、国人
2、寄合
3、正長
4、山城
5、加賀
6、斯波
7、山名持豊〈宗全〉
東軍
西軍
8、守護
9、領国
10、宿場
11、分国
12、塵芥集
安
土
桃
山
時
代
[
1
5
7
3
年
〜
1
6
0
3
年
]
●安土桃山時代
鉄砲・キリスト教伝来と南蛮貿易
(1, )伝来:1543年、種子島に(2, )人漂着
(3, )伝来:1549年、(4, )会の(5, )人宣教師
フランシスコ=ザビエルが鹿児島に渡来。
:1582年(6, )のすすめで天正遣欧使節を派遣。
中等教育を施し下級の神学校であるセミナリオ、聖職者養成のコレジオ設立。
:ルイス=フロイスは信長と謁見、秀吉とも親しくする『日本史』執筆
南蛮貿易:1584年、スペイン船が肥前平戸に来航。スペイン・ポルトガルと交易。
天下統一
織田信長の統一:(7, )の戦い[1560年]で今川義元を破る。→京都へ入京[1568年]
延暦寺焼き討ち[1571年]→室町幕府滅亡[1573年](8, )追放
→(9, )の戦い[1575年]で鉄砲隊を使い武田氏を破る→
→安土城築城[1576年]→(10, )の変[1582年]で明智光秀に背かれる
政策:指出検地、楽市楽座・撰銭令、関所撤廃、仏教の弾圧とキリスト教保護
豊臣秀吉の統一:山崎の戦いで光秀を破る→(11, )城築城開始[1583年]→四国平定し、
(12, )となる[1585年]→86年(13, )となり、90年全国統一
政策:五奉行・五大老、太閤検地・京枡の使用・一地一作人、刀狩・兵農分離・身分統制令、
朱印船貿易、バテレン追放令・サン=フェリペ号事件、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)
1、鉄砲
2、ポルトガル
3、キリスト教
4、イエズス
5、スペイン
6、ヴァリニャーニ
7、桶狭間
8、足利義昭
9、長篠
10、本能寺
11大坂
12、関白
13、太政大臣
江
戸
時
代
[
1
6
0
3
年
〜
1
8
6
7
年
]
●江戸時代
(1, )の幕府開設
1600年、関ヶ原の戦いで石田三成らの西軍を破り、最高実力者となる。
1603年、(2, )に任ぜられ幕府を開く。※1616年 太政大臣に就任
1605年、将軍職を秀忠に譲る。
1614年、大坂(3, )の陣。※京都方広寺の鐘銘
1615年、大坂夏の陣で豊臣氏滅亡。
大名統制:(4, )・・・御三家(尾張、紀伊、水戸)の徳川一族
(5, )・・・関ヶ原の戦い以前から徳川家に従う。
(6, )・・・関が原の戦い以後、徳川家に従う。
(7, )法度の制定・・・大名の取り締まり。一国一城令[1615年]
金地院崇伝が起草 1635年、参勤交代。
朝廷・公家統制:禁中並公家諸法度[1615年]、京都所司代の設置。
寺社統制:幕府は寺院を利用し、庶民を支配。檀家制度、寺請制度、寺院法度〈本山・末寺の制〉
幕府機構
経済力:幕領((8, )400万石と旗本知行地300万石で全国の4分の1)
主要鉱山(佐渡・伊豆の金山、生野・石見の銀山、足尾銅山)⇒貨幣鋳造権独占
都市の直轄(京都・大坂・奈良・堺・長崎・伏見・駿府)
軍事力:将軍直属の家臣団
・(9, )・・・将軍に謁見できる1万石以下の家臣。
・(10、 )・・・将軍に謁見できない1万石以下の家臣。
政治組織:(11, )・・・4〜5名の譜代で政務を総括。 ※大老は非常時の職。譜代大名が任にあたる。
(12, )・・・3〜5名の譜代大名で老中を補佐。
大目付・・・旗本から選任され4〜5名で老中の耳目となり、大名・諸役人の監察にあたる。
目付・・・若年寄の耳目となり、旗本・御家人の監察にあたる。
三奉行 寺社奉行・・・寺社・神官・僧侶の支配と関八州以外の天領の訴訟を受理。
(13, )奉行・・・財政・天領の監督、関八州の訴訟を受理。
町奉行・・・江戸の市政、治安、裁判にあたる。南北二つで月番制。
(14, )・・・皇室・公家の監察。
幕府の確立
民衆支配 農村 (15, )百姓中心〈田畑・屋敷をもつ〉、水呑百姓
村役人・・・村方三役:(16, )=庄屋〔関西〕・肝煎〔東北〕
組頭→名主の補佐役。
百姓代→農民の代表。
(17, )・・・近隣数戸がまとまり納税・犯罪などに連帯責任。
(18, )の御触書〔1649年〕・・・生活を細かく規制。
田畑永代売買禁止令[1643年]、分地制限令[1673年]、田畑勝手作の禁
租税・・・本途物成〈収穫高の40〜50%米納〉、小物成〈山野川海での収益〉
身分制度 武士:(19, )・帯刀・切り捨て御免
農民:幕藩体制の基礎。全人口の80%を占める。
町人:(20, )・・・手工業に従事。
商人・・・商業に従事。
えた・ひにん・・・最下層の身分として厳しく差別。
鎖国体制の確立
(21, )の禁止[1612年]:天領に禁教令。翌年全国に及ぶ。
1637年(22, )の乱 首領天草四郎時貞。
幕府の貿易統制:西南大名の富強化を恐れ、貿易の独占をねらう。
1616年 ヨーロッパ船の来航を平戸・長崎に限定
1624年 スペイン船の来航禁止
1633年 奉書船〈老中が発行した許可証〉以外の海外渡航を禁止
1635年 日本船の海外渡航及び帰国を禁止
1636年 ポルトガル人を(23, )に移す
1639年 ポルトガル船〈かれうた〉の来航禁止
1641年 オランダ人を出島に移す⇒(24, )の完成
鎖国後は、オランダ・中国・朝鮮とのみ交渉
文治政治
武断政治からの転換・・・改易・減封→牢人の出現 (25, )の乱〈慶安の変〉
以後、末期養子の禁緩和
元禄の政治・・・5代将軍(26, )の治世
・天和の武家諸法度
・学問の奨励〈(27, )を建て、朱子学を保護〉
・(28, )の令[1685年]
・金銀悪貨鋳造・・・明暦の大火、仏教保護による出費、金銀産出減少
→荻原重秀の建策。 元禄小判発行
正徳の治・・・学者(29, )の政治〈6代家宣、7代家継を補佐〉
生類憐みの令の廃止。儀礼の簡素化、貨幣改鋳〈正徳小判〉、
朝廷支援〈閑院宮家の創設〉、金銀の海外流出防止〈(30, )〉
1、徳川家康
2、征夷大将軍
3、冬
4、親藩
5、譜代
6、外様
7、武家諸
8、天領
9、旗本
10、御家人
11、老中
12、若年寄
13、勘定
14、京都所司代
15、本
16、名主
17、五人組
18、慶安
19、苗字
20、職人〈工〉
21、キリスト教
22、島原
23、出島
24、鎖国
25、由井正雪
26、徳川綱吉
27、湯島聖堂
28、生類憐み
29、新井白石
30、海舶互市新例
幕政の三大改革
(31, )の改革 財政再建:(32, )・・・1万石につき100石上納
8代将軍 吉宗
倹約令、新田開発、年貢増徴〈(33, )法採用〉
1716〜45年 享保の改革
田沼意次の政治
座を設ける⇒専売制
寛政の改革
老中(36, )
1782〜87年 天明の大飢饉
1987〜93年 寛政の改革
31、享保
32、上げ米
33、定免
34、足し高
幕政整備:(34, )の制・・・人材登用
公事方御定書・・・裁判の基準を明確化
(35, )の設置・・・庶民の意見を聞く
35、目安箱
→小石川養生所
相対済令・・・旗本・御家人の金銭貸借関係の訴訟は扱わない
町火消しの創設
甘藷の栽培奨励
農村復帰:旧里帰農令で帰村を奨励・援助。
36、松平定信
(37, )の制で飢饉に備える。各地に義倉・社倉。 37、囲い米
商業政策:(38, )令〈旗本・御家人の救済〉
38、棄捐
七分積立金。
人足寄場。
思想統制:寛政(39, )の禁、出版統制〈林子平らの処罰〉 39、異学
1793〜1841年 11代 家斉による大御所政治
(40, )の改革
老中 水野忠邦
1804年 レザノフ 長崎来航 通商要求。
1808年 間宮林蔵 樺太探検
フェートン号事件
1811年 ゴローウニン事件
1825年 異国船打払令
1832〜36年 天保の大飢饉
生活緊縮:倹約令、風俗取締令、出版統制
経済統制:(41、 )解散・・・物価引き下げを目指す
人返しの法・・・江戸に流入した下層民を帰農させる
政治統制:(42, )令・・・大名・旗本の反対で撤回
江戸湾岸防備
40、天保
41、株仲間
42、上知
明
治
時
代
[
1
8
6
7
年
〜
1
9
1
2
年
]
●明治・大正時代
明治維新
江戸幕府滅亡
開国条約
(1, )条約[1854年]
(2, )条約[1858年]〈不平等条約〉
1、日米和親
2、日米修好通商
箱館・神奈川・長崎・新潟・兵庫開港、関税自主権なし、治外法権認める
※朝廷からの勅許を得ず
幕政分裂。(3, )の変[1868年]
3、桜田門外
下田・箱館開港、薪水・食料供与、領事駐在、最恵国待遇など
幕政の混乱
安政の大獄[1860年]に憤慨した志士が井伊直弼暗殺。
幕府の滅亡
新政府発足
中央集権国家の形成
中央集権体制
薩長連合[1866年]。
徳川慶喜(4, )[1867年10月]
1867年12月(5, )の大号令〈天皇中心の政府〉
68年3月(6, )〈天皇が神に誓う〉
〃 (7, )の掲示〈人民の心得〉
68年4月 政体書〈政府の組織を定める。アメリカの制度を参考〉
〃 一世一元の制〈明治改元〉
69年 東京遷都
4、大政奉還
5、王政復古
6、五箇条の御誓文
7、五榜
(8, )奉還〈土地と人民を奉還〉→(9, )〈藩を廃し、府県〉
官制改革〈太政官・三院八省〉・・・要職を薩長土肥が占める⇒藩閥専制
8、版籍 1869年
9、廃藩置県1871年
富国強兵の政策
(10, )改正〈財政基盤の確立〉:地価を定めて所有者に地券を発行
税率は地価の(11, )%
近代軍隊創設:(12, )令〈国民皆兵、満20歳以上の男子〉
学制公布:フランス制の学制。86年小学校の義務教育化、学校令公布
10、地租 1873年
11、3
12、徴兵 1873年
殖産興業
産業育成:(13, )工場設立〈1872年 富岡製糸場〉
貨幣制度:1871年新貨条例〈円・銭・厘〉、1872年国立銀行条例〈渋沢栄一〉
北海道開拓事業:開拓使を設置し、(14, )兵による開拓
交通・郵便制度:東京〜横浜間の鉄道敷設。1872年
郵便制度〈(15, )の建議。1871年〉
文明開化:四民平等⇒華族・士族・(16, )
13、官営
立憲制の成立
新政府への反抗:一揆〈地租反対⇒地租率2.5%へ・徴兵反対⇒血税一揆〉
不平士族の反乱・・・1876年廃刀令、(17, )処分 〈士族の特権を奪う〉
1874年佐賀の乱〈江藤新平〉、76年神風連の乱→秋月の乱→萩の乱
77年(18, )戦争〈西郷隆盛〉
征韓論の中止:1873年、西郷隆盛、板垣退助らは、不平士族の不満をそらすため推進。
大久保利通、木戸孝允らの内治派は反対。征韓論推進派は下野。
⇒明治六年の政変
自由民権運動
発端:(19, )設立建白書[1874年]・・・板垣退助、後藤象二郎、江藤新平ら
⇒政府黙殺〈大久保〉⇒板垣退助(20, )社設立
政府対応:大阪会議[1875年]〈大久保と板垣・木戸会見〉
政府譲歩・・・漸次立憲政体樹立の詔〈立憲政治の樹立を約束〉
政府弾圧・・・(21, )律、新聞紙条例で言論弾圧
国会開設要求:(22, )期成同盟会[1880年]・・・請願署名運動全国へ
⇒(23, )条例
政党の結成:(24, )の政変[1881年]⇒(25, )の勅諭
板垣退助が(26, )党、大隈重信が(27, )党
民権運動の敗北:松方財政で不況→自由党解党[1884年]→秩父・大阪事件など
1887年三大事件建白運動に対し、伊藤内閣は保安条例を制定
14、屯田
15、前島密
16、平民
17、秩禄
18、西南
19、民撰議院
20、立志
21、讒謗 22、国会
23、集会
24、明治十四年
25、国会開設
26、自由
27、立憲改進
地租軽減・言論の自由・外交の挽回
憲法と議会
議会
第1議会
第2議会
第3議会
第4議会
第5議会
第6議会
1885年、内閣制度。初代内閣総理大臣(28, )任命。→太政官制廃止 28、伊藤博文
88年、89年に市政・町村制、府県制・郡制←ドイツ人モッセの助言。山県有朋を中心
に起草。
88年、(29, )院〈天皇の諮問機関〉設置。
29、枢密
1889年(30, )憲法発布→第1回(31, )議会[1890年]
30、大日本帝国
ドイツ人ロエスレルの助言。井上毅・伊東巳代治・金子堅太郎らが起草。
31、帝国
衆議院選挙資格→満25歳以上の男子で直接国税15円以上納入者⇒人口の1%
政府は議会の動向に左右されない(32, )主義の立場
32、超然
1890年頃、フランス人(33, )を招いて、刑法・民法等制定。
33、ボアソナード
期間
1890.11〜91.3
1891.11〜91.12
1892.5〜92.6
1892.11〜93.2
1893.11〜93.12
1894.5〜94.6
内閣
山県(1)
松方(1)
〃
伊藤(2)
〃
〃
議会の内容
政府の超然主義と民党の予算削減→政府の買収
軍事予算削減→解散(→総選挙→選挙干渉)
軍事予算削減→内閣総辞職
軍事予算削減→建艦詔勅→自由党が政府と提携→民党消滅
条約改正問題で紛糾→解散(→総選挙)
条約改正問題で内閣弾劾→解散(→日清戦争)
条約改正の動き
年
1872年
1878年
担当者
(34, )
寺島宗則
交渉の内容
条約改正を打診
関税自主権の回復
治外法権の撤廃
関税自主権の一部回復
(35, ) 外国人判事の任用
日本国内を外国人に開放
(内地雑居)
井上案の継承
1888〜89年
大隈重信
大審院に外国人判事の任用
1882
〜
87年
1891年
1894年
1911年
日清・日露戦争
日清戦争
青木周蔵
治外法権の撤廃
外国人判事は任用せず、内地雑居
も制限
経過及び結果
改正交渉失敗〈視察のみ〉
アメリカとの交渉は成功。
→イギリス・ドイツの反対により無効。
34、岩倉具視
極端な(36, )政策をとり、鹿鳴館で西
洋風の夜会、舞踏会がしきりに行われた。
→外国人判事の任用や(36, )政策に
反対する国民の反感などにより失敗。
〈86年にノルマントン号事件〉
35、井上馨
36、欧化
秘密草案〈大審院への外国人任用〉への違憲論、
国粋主義者からの反発で失敗。
大津事件の責任に伴う辞職で失敗
1894年、日清戦争の直前に日英通商航海
条約
→(38, )の撤廃、関税自主権一部回
復
(39, ) (40, )権の完全回復 日露戦争後、アメリカと交渉し成功
→各国の同意を得て(40, )権回復。
治外法権の撤廃
(37, ) 関税自主権の一部回復
経緯:1882年壬午軍乱〈親日派 閔妃 VS 親清派 大院君〉日本公使館を襲う。
→済物浦条約〈日本は首謀者の処罰・賠償金・公使館守備兵駐留を獲得〉
1884年甲申事変 金玉均らが日本公使館の援助でクーデター→清国軍に平定
1885年日清間で天津条約〈1、日清両軍は朝鮮撤退 2、出兵の際は互いに通告〉
1894年(41, )農民戦争〈東学党の乱〉→朝鮮側が清国に出兵要請
→日本も清に対抗し、派兵
原因:(42, )の支配を巡る日清両国の対立
結果:95年(43, )条約調印→三国干渉〈(44, )・独・仏〉
・朝鮮の独立を認める ・遼東半島、澎湖諸島、台湾を日本領
・賠償金2億テールを日本に支払う→八幡製鉄所建設 ・4港の開港
日露戦争
37、睦奥宗光
38、治外法権
39、小村寿太郎
40、関税自主
41、甲午
42、朝鮮
43、下関
44、ロシア(露)
経緯:1900年「扶清滅洋」を掲げる(45, )事件→列強出兵→北京議定書 45、義和団
1902年(46, )同盟〈露に対する利害が一致〉 ※ 列強は北京に駐留 46、日英
経過:1904年日露戦争 開戦→05年(47, )条約
47、ポーツマス
・セオドアルーズベルトの仲介。日本全権大使小村寿太郎、ロシア全権大使ヴィッテ
大 大正時代
正 第一次世界大戦
時
代
[
1
9 大正デモクラシー
1
2
年
〜
1
9
2
6
年
]
→(48, )焼打ち事件 ※日本が賠償金を放棄したため
その後:1910年(49, )併合、満州進出、重工業の発達
48、日比谷
49、日韓
1914年(1, )同盟を理由に(2, )へ宣戦
→(2, )領の青島・南洋諸島占領
1915年中華民国の袁世凱に対し(3, )の要求→排日の五・四運動
1918年〜ロシア革命への干渉戦争(4, )出兵
1919年朝鮮にて三・一独立運動
第1次護憲運動:尾崎行雄、犬養毅を中心に「(5, )打破・憲政擁護」の倒閣運動
→桂内閣50日余りで退陣
政党内閣:1918年(6, )騒動で寺内内閣辞職
→立憲政友会総裁(7, )内閣成立 ☜本格的政党内閣
第2次護憲運動:憲政会〈加藤〉、立憲政友会〈高橋〉、革新倶楽部〈犬養〉の護憲三派による
護憲三派内閣。以後、政党内閣が「(8, )の常道」
1、日英
2、ドイツ
3、21か条
4、シベリア
1925年(9, )法、治安維持法成立
5、閥族
6、米
7、原 敬
8、憲政
9、普通選挙
●昭和時代
第一次大戦後の恐慌
1920年、原敬内閣のとき、戦後恐慌
1923年9月1日、組閣中の第2次山本権兵衛内閣のとき、(1, )
→震災(2, )発行
1927[昭和2]年、若槻内閣のとき、片岡失言により銀行への取り付け騒ぎ
→中小の銀行が休廃業。(3, )恐慌
田中義一内閣による(4, )〈支払猶予令〉
田中内閣による中国進出 前内閣の若槻内閣の外相幣原喜重郎は協調外交←軟弱外交と批判
田中義一内閣は軍部と手を結び、積極外交。
1927年、(5, )率いる国民政府軍の北伐妨害のため山東出兵
1928年、関東軍による(6, )爆殺事件〈満州某重大事件〉
→隠密に処理しようとしたが明るみに出て田中内閣総辞職
浜口内閣と世界恐慌
1、関東大震災
2、手形
3、金融
4、モラトリアム
5、蒋介石
6、張作霖
1929[昭和4]年、浜口雄幸内閣成立。外相(7, )
1930年(8, )海軍軍縮会議
補助艦 対米7割 主力艦対米6割 ⇒海軍より天皇の統帥権干犯と非難
経済政策として蔵相井上準之助を据え、
1、緊縮財政 2、産業合理化 3、(9, ) を実施
→1929年 ニューヨークウォール街での株価暴落に端を発した(10, )
により、より深刻な事態へ
7、幣原喜重郎
8、ロンドン
満州事変
1931[昭和6]年9月、(11, )事件〈南満州鉄道爆破事件〉
→不拡大方針の第2次若槻内閣総辞職→立憲政友会(12, )内閣
1932年、関東軍、溥儀を執政として(13, )国建国→日満議定書
同年2月、国際連盟は(14, )調査団派遣
→33年、日本は国際連盟脱退 全権大使松岡洋右
11、柳条湖
12、犬養毅
13、満州
14、リットン
軍部の台頭
1932年5月15日、血盟団と関係のあった(15, )軍の青年将校中心にクーデター15、海
→(12, )首相暗殺
1936年2月26日、岡田啓介内閣のとき(16, )軍皇道派青年将校らクーデター 16、陸
→高橋是清蔵相、斎藤実内務大臣暗殺
1937年7月、近衛文麿内閣のとき北京郊外の(17, )で日中両軍が衝突
17、盧溝橋
→内閣は不拡大方針も軍部の圧力に押され、全面戦争へ⇒(18, )戦争 18、日中
1939年、ドイツは独ソ不可侵条約を締結し、ポーランドへ侵攻
→イギリス・フランスと開戦 ⇒(19, )戦
19、第二次世界大
→日本は、大戦不介入宣明〈阿部信行内閣〉
1940年、第二次近衛内閣は(20, )三国同盟→北部仏印へ進駐
20、日独伊
→アメリカを刺激→駐米大使野村吉三郎を対米交渉役→国務長官ハルと交渉
しかし、外相松岡洋右が41年(21, )中立条約を締結→日米交渉破局
21、日ソ
→アメリカを中心にイギリス・中国・オランダによる(22, )包囲網
22、ABCD
→41年10月、対米強硬派の(23, )英機内閣→アメリカはハル・ノート
23、東条
→12月8日、日本はハワイの真珠湾攻撃⇒(24, )戦争へ 24、太平洋
日中戦争
第二次世界大戦
9、金解禁
10、世界恐慌
新体制と国民統制
年次
1937年 6月
38年
39年 1月
40年
日本の敗戦
内閣
第1次近衛
平沼騏一郎
米内光政
第2次近衛
内容
国民精神総動員運動
国家総動員法
国民徴用令
大政翼賛会
大日本産業報国会
1942[昭和17]年6月、(25, )海戦の敗退を機に戦局は日本に不利
→44[昭和19]年、(23, )内閣総辞職→小磯・米内の連立内閣
1945年4月、鈴木貫太郎内閣が戦争終結を目標に成立
→8月(26, )宣言受諾。
降伏とともに東久邇宮稔彦内閣成立→9月2日降伏文書調印
25、ミッドウェー
26、ポツダム