日登の歩み 《地名の由来》 ※以下、 「新集 木次町誌」より引用 ○日登とは、 『日が早く昇る日向の集落』 (日本地図地名索引) ○全国でただ一つの地名であると考えられる。 …確かに、国土地理院の地名検索でもこの地域しか出てこない。 ○『日登』の地名の起りについての文献は現在見当たらない。 (1351 年、南北朝時代の記録に「出雲国日登郷」の地名あり) ○奈良時代(8世紀)には、旧木次町を含めて「来次郷」であった。それがいつ「日登 郷」となったかは不明。 (出雲国風土記図にも「来次郷」と記載されている) ○1665 年、毛利家臣著作の「陰徳太平記」には、「日昇」と記してある。 出雲国風土記によると… かんどのこおり へ き のさと ○冬至の日に、神門郡日置 郷 (出雲市塩冶町辺り)から日の出を拝むと、太陽は、日 登地区から昇ってくる。また、夏至の日に、日置郷から日没を拝むと、太陽は日御碕 神社(別名:日の沈む宮)に沈んでいく。つまり、地図上で、日登-日置郷-日御碕 は一直線に並んでいる、とされている。 へ き のさと ※「日置 郷 」とは…欽明天皇の時(6 世紀)に、日置の部族の人々が派遣されてきて、 この地に住みついて、まつりごとをした所。日置の人々は、縄と棒 と太陽で東西を正確に測り、木の日陰の長さを毎日同じ時間に測る ことで暦をつくった。つまり、太陽の道を測る部族、太陽を祭る部 族だった。 《日登村の成立》 「新集 木次町誌」によると、次のような内容が載っています。 要約すると… ○封建時代に、寺領、宇谷、東日登、西日登の4村となった。 ○明治維新後、寺領・宇谷で一つ、東日登・西日登で一つの区になった。 (この間、各村に戸長役場があった。…期間 6 年間) ○明治 17 年に、4村連合で東日登外3村役場を東日登に設置した。 ○明治 22 年(1889 年)4 月、町村制が実施されて 4 村合併し、日登村となった。 《日登公民館の設置》 ※以下、「新集 木次町誌」より ● 昭和 22 年(1947 年)4 月、日登中学校に加藤歓一郎校長赴任 ● 加藤校長は、地域に密着した特色ある学校教育を実践 ● 同時に、学校教育と社会教育が一体となった教育の重要性に着目。 ● 昭和 25 年(1950 年)7 月 3 日、中学校独立校舎新築に伴い、校舎として 使用されてきた元青年学校の建物を活用し、公民館を設置。 ● 当時の構成は次のとおり。 《構成》 館 長 副館長 主事・書記 運営審議会 教養部 図書部 産業部 体育厚生部 調査部 生活科学部 (部長 1 名、副部長各 2 名) 公民館は 《発足当初の組織》 基本理念『人づくりが地域づくり』 ○郷土民が集ま って互いに ○村民のための ○村内の 各団体機関 ○村民の 話し合い 読書し 生活や産業の指導を受け 場所である である お互いの交友を深める 公民学校 図書館 博物館 研究室 試験場 指導所 が連絡提携し て郷土の振興 計画をたてる 拠点である ものである 青年団 婦人会 文化団体 農場 その他機関 熱意によって設けられ 手で運営され ために利用される 日登の特徴 日登地区の特徴 ○旧来より、『日が昇る』地域(「日登」は、全国唯一の地名) ○町内の公民館のはしり(全国的にも先駆的取り組み) ○公民館発足当初の基本理念は、『人づくりが地域づくり』 (住民企画による自主的な文化活動を支援し、地域行事へ協力援助) ○精神的支柱となり得る優れた人材を輩出している。
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