1 鈴田 照次 展 ギャラリートーク 平成25年6月8日(土) エイブル2階交流プラザ 鈴田照次さんの三男で人間国宝の鈴田滋人さんに、工芸デザイナーとしての照次さんについて語っ ていただきました。 おはようございます。 今回、父のデザイナーとしての足跡をたどるということで、展 覧会には着物とか帯などをたくさん出品しておりましたが、父は 東京高等工芸という学校で図案の勉強をしていた関係で、とくに 初期においてはいろんな生活に係わる工芸デザインに携わってお りましたので、そういう観点から今回展示をすることになりまし 鈴田滋人さん た。 今日は、私よりはるかに父のことをご存知の方々にもおいでいただいており、私の方が聞きたいく らいですが、「家族から見た」ということで、父のことを語らせていただきます。 す こ 父は、大正5年に杵島郡白石の須古に生まれまして、鹿島中学 校から東京高等工芸の図案科に入っております。 東京高等工芸学校(現千葉大学工学部)は、アーツ・アンド・ クラフツ運動(19世紀イギリスで始まった美術工芸運動)の影 響を受けたのだと思いますが、モダンデザインという近代工芸の 流れを、特に産業というものを意識したデザインの勉強をする学 故 鈴田照次さん 校だったと聞いております。そこで、後に佐賀大学の教授になる と よ だ か つ あ き※1 か し ま えい じ※2 豊田勝秋先生(金工)やろうけつ染めの鹿島英二先生に出会い、染色の道に入ったようです。 昭和10年に入学して間もなく戦争が始まり、昭和13年に久留米の歩兵第48隊に入営しており ます。それから中国各地を転戦するようになるのですが、シンガポール作戦に合流するために南下し ていく船の中で吐血して、最終的には療養生活を送るようになります。でも、もしそちらに行ってい たら亡くなっていたと思うのですね。 そういう厳しい状況の中で、今回は出してないのですが、スケッチをしています。そういうものを 友達に預けたりして最終的にうちに残っているのですが、その中に友達を描いたデッサンがあるので すね。その方にご遺族がおられたら是非渡したいと思うくらい、しっかりしたデッサンです。戦地の 中でもスケッチを忘れないで、ずっと続けていたということですね。 病気をして帰って療養生活を送る中で、父が最も最初に影響を受けた人物に、版画家のウイリアム・ ブレイク(1757-1827)がいます。この人はイギリスのロマン主義の先駆的詩人で、この人の本を ずっと手元に置きながら、戦地でもその詩を読んでいたみたいですね。この人の活動というのは、そ の後のウイリアム・モリスやアーツ・アンド・クラフツ運動に影響を与えるものだと思うのですが、 2 そういう流れの中で、最初にウイリアム・ブレイクという詩人に出会って、その本を大事にしていた ということです。 しょういぐんじん 昭和19年に傷痍軍人となって除隊して帰ってくるのですが、白石の高等女学校で、図画、工作、 数学の先生をしています。そこで、母と出会い結婚し、その後終戦を迎えます。 ※3 父は結婚してすぐ、 ろうけつ染めと郷土玩具を始めるのですが、 そこのケースの真ん中に、木形の人形というか、おもちゃみたい な木工玩具を持ってきています。昭和21年の佐賀新聞の記事が 残っておりまして、 「土の香高い郷土芸術」という見出しで「郷土 の美術工芸家、白石高女教諭鈴田照次氏の木工玩具試作展は納富 画伯指導で目下鹿島町前山薬店陳 列窓で開催中だが、かつての軍艦 初期のごみ人形(木工玩具) は笹舟に兵隊はお百姓姿にと、土の香たかい郷土芸術の再興へ努力の あとがうかがへる」という記事が残っているのです。のごみ人形とい うのは土人形ですが、最初は木のこういうものだったのですね。 父は、昭和21年に佐賀県窯業試験場の嘱託として陶磁器のデザイ 昭和21年の新聞記事 ンを指導するようになります。今回焼き物の絵付けのデザインをたくさん展示していますが、これは ほんの一部でして、焼き物が相当好きだったのではないかと思うくらい、たくさん絵付けをしていま す。たぶんその頃から、のごみ人形は土人形にしようと思っていたのではないかと思います。いろい ろな人に話を聞いて、窯のことを勉強して、マキ窯で土人形を 焼いていたのを私も覚えています。 昭和22年頃、佐賀県の経済商工課の要請で和紙やイグサな んかのデザインをして、須古にもござがありましたので、須古 ござのデザイン指導もやっていたみたいですね。当時民芸が非 ※4 やなぎ む ね よ し 常に盛んになって、柳 宗悦 さんなんかが各地回っておられて、 須古にも来られたようです。柳宗悦さんにも興味を持ってもら のごみ人形(土人形) えるような仕事をしていたのではないかと思います。 民芸運動も先ほど話したアーツ・アンド・クラフツ運動の影響をかなり受けており、父も民芸運動 ※5 とみもとけんきち に非常に興味を持っていました。父の尊敬する先生で、富本憲吉さんがおられるんですが、近代工芸 の先駆者的な陶芸家です。大正 15 年に民芸運動の設立趣意書が出るのですが、柳宗悦さんたちと名 しんしょうかい 前を連ねている人です。ただ、ちょっと考え方が違うということで、昭和 22 年に新匠会というのを しんしょうかい 立ち上げられるんですが、父は、そういう流れの中で、昭和25年くらいに新匠会に作品を出すよう になります。 ※6 いながきとし じ ろ う ※7 か た え ぞ め そこで、稲垣稔次郎さんという型絵染の作家に出会うんですね。生涯の師として両先生を慕うので すが、稲垣先生に出会うことで、型絵染をするようになるんですね。父の作品の中で一番作品量とし ては多いと思いますが、型絵染を昭和 24 年頃からするようになります。それまではろうけつ染めで すね。そういう流れの中で、父の仕事は展開していきます。 今回一番見ていただきたいのはこれらのデザイン帳ですね。全部で 52 冊くらい、自分できちんと まとめています。時には 1 年に 2 冊くらいありますが、非常に丁寧にまとめています。 3 これは、ろうけつ染めの時の布団カバーですね。初期の頃は、ありとあ らゆるものをデザインして、染めています。こちらのデザイン帳は昭和 29 年の時のもので、これはろうけつ染めですが。ここら辺になると型絵染を 少し意識し始めたデザインになってくるのですね。ちょうどここら辺が過 渡期に当たり、ろうけつ染めから型絵染に変わってきます。 型絵染に変わった理由の一つとして、ろうけつ染の自由な線は非常に楽 しいのだけど、型の持ってるもう少し整理した線が欲しいと思ったらしい んですね。稲垣先生の作品を 見ると、非常に柔らかい、絵 布団カバーのデザイン 画的な線なのだけれど、型の 持ってる陰影のある非常に特 徴のある仕事なんですね。そういうのに惹かれて型絵染 の世界に入っていったのだと思います。富本先生や新匠 会の持っている考え方に非常に影響を受けておりまして、 よう 昭和29年のデザイン帳より 生活を前提とした「用」を大事にした工芸美術、まさに び 「美」を求めていくのですが、絵画のような純粋芸術とは違って、 「用」を踏まえた「美」を求めてい く流れに変わってきます。ただやっぱり、もともと絵を描きたいというのが父の中にあり、そのため に納富先生や岩永先生、金子先生たちとの交友があり、絵を基本的にベースにしていたというのがあ ります。色紙も描いていますし、絵付けもしておりますので、デザインとともに絵をベーシックにし ていたというのが、最後まで貫かれた考え方ではなかったかと思います。 伝統工芸展の第 1 回展が昭和 29 年に開かれますが、第5回展くらいから父は推薦を受けて出品を するようになります。推薦された方が富本先生や稲垣先生で、それらの先生方が審査員もされていま す。そういう中で、父もかかわりを持つようになります。 昭和 38 年に、染織部門で第一次鑑査を任され、その時に病床にあられた稲垣先生の代わりに審査 員で出たのですが、6 月 8 日に富本先生が、6 月 9 日に稲垣先生が亡くなられたのです。不思議なも ので、続けて次の日に亡くなられ、お互い本当に支えあってこられた先生方なのかなあと思います。 ただ、お二人が同時に亡くなられたということで、父は大変ショックを受けていたようです。その後、 先生たちの遺志を継いで、伝統工芸展に出品しています。その頃から着物と帯が作品の中心となって いきます。 ふすま その間にも壁面装飾や 襖 なん かたくさん作っています。染色で きるありとあらゆるもの、座布団 の れ ん や暖簾から、テーブルセンター、 パラソルなんかも型絵染でたくさ ん手掛けていました。その陰には、 母が東京家政大学を出て裁縫の勉 昭和38年 のれんデザイン 年賀状、マッチ箱デザイン 強をしていたので仕立てをすることができたということもあったと思います。お互いに協力し合うこ 4 とによってできあがった一つの形でもあると思います。 床の間コーナーの展示ケースに大きな屏風を飾っていますが、このデザインはもともと昭和 45 年 に制作した雲仙のホテルの貴賓室の壁面装飾です。インターネットで見たらまだあったので、たぶん 今も残っているのではないかと思い ますが、母の話では、昭和天皇が何 度かお泊りになっていて、そういう ことのなかで是非貴賓室にこういう ものが欲しいということで話がきた ようですね。 これは秋の紅葉をデザインして染 めたものですが、雲仙は硫黄があり 床の間コーナー展示ケース(前期) ますよね。それに対して、これは植 物染料を使っているんですが、それで変色しないように何度も試してやったようです。 実際に今回展示しているのは、亡くなる年、昭和 56 年に東京の銀座で個展をやった時に合わせて、 屏風形式に作り変えたものです。型絵染ですから、構成を自由に変えてやることもできるんですね。 この絵画的表現ですが、大きな一つの型紙がありまして、これは一人では絶対持てないので私も手伝 ったのですが、葉っぱの部分の組み合わせが、基本的には 3 つか 4 つの型の繰り返しで構成されてい るんですね。そういう構成ができるということで、個展に合わせて屏風形式に作り替えているのです が、空間表現がおもしろいと思いますね。型染めというのはどうしても繰り返しの世界になるのです が、それを絵画的に表現するということですね。 ぶ ど う すりはく の う しょうぞく 私の好きな作品の一つに、桃山期に作られた葡萄の摺箔の文様の能装束がありますが、型紙をひっ くり返して反転させたり、とにかく自由に使っているのですね。そういう仕事をひょっとしたら父も 見ていたのではないかと思うのです。型というのは中型とか小紋とか、非常に精緻な仕事が最終的に は高く評価されるところがあるのですが、もともとはそういう型の自由な発想というか、型という制 約だけではなくて、型の持っている繰返しを自由に扱う という空間表現ですね、そういうものが既に桃山期に作 られていたということを思いますと、まだまだ型という のは自由な発想で表現につなげられるのではないかと思 っています。 父は、型絵染を長年仕事としてやっていたのですが、 鍋島更紗と途中で出会います。最初に出会ったのは、昭 和34、5年だったと思いますが、当時博物館に骨董屋 さんから秘伝書とか見本帖が持ち込まれたらしいのです。 ギャラリートーク風景 当時、声をかけていただいた父は、それを見た瞬間、これは自分が生涯かけてする仕事だと直感し たらしくて、それで研究に入っていくのです。 実は、父は戦後身体を壊して帰って療養して、それが回復した後に女学校の先生をするのですが、 建築の勉強をしたいという思いもあり、上京を考えていたようです。ただ、後で稲垣稔二郎先生から、 5 「君はもうそんな出てくることないよ。田舎にとどまってそこでしかできない仕事をしなさい。」とい うことを言われたらしいんですね。それで、その思いがたぶん鍋島更紗に見いだされたのではないか と思うのです。 昭和35年くらいにそれに出会って、昭和39年にインドの方に旅行するんですね。昭和38年は のごみ人形が年賀切手になった年、昭和39年は東京オリンピックですね。その年にインドと東南ア ジアを旅行しているのですが、それはあくまでも鍋島更紗の研究、その技法を解明するために、源流 を求めて旅行をしているのですね。39年に旅行して帰国後、鍋島更紗の研究を続けます。 昭和47年にやっと第一作を発表するようになるのですが、その時にやっぱり稲垣先生に一番報告 したいと、もうその時にはおられなかったのですが、自分の思いをそういう形で支持していただいた 稲垣先生に一番そのことを報告したいと話していましたので、稲垣先生の言葉は非常に重い言葉とし て受けていたのではないかと思います。 昭和47年から発表するようになって、それから型絵染の大きな仕事はしなくなって、ほとんど更 紗の仕事に入っていくのですが、昭和46年頃、大きな病気をするのです。肝臓を患うのですが、そ ※8 みつたけたいぞう の時光武岱造先生から、 「あんたは後10年も生きないよ」と言われています。今で言えば、C型肝炎 ですね、当時はわからなかったんですが、ただ大変な病気だということを先生から伝えていただいて、 私も多少は聞いていたんですが、そんなにすぐ亡くなるとは思っていませんでした。亡くなったのは 昭和56年ですから、まさに10年後に亡くなったわけです。 その間に鍋島更紗の復元という仕上げをしたのですが、秘伝 書を昭和56年に仕上げるんですね。最後の仕事として秘伝書 を仕上げるのですが、その時に私も光武先生から「おまえ帰っ て来い」と、そして「お父さんを手伝え」ということがありま したので、私もその手伝いをしたのですが。本当にそれが最後 の仕事となりました。秘伝書がうちに残っていますが、本当に 作品説明をする鈴田さん それが最後の仕上げで、亡くなってしまうんですね。 私も今59歳になりますが、父の仕事を見ていたら、すごい「量」なんですよね。私が父の仕事を 継ぐということで、父の亡くなった後ずっと整理していたら、膨大な失敗作が出てきたのです。それ を見た時に、これだけ失敗して、結果としてこういうのが残っているんだと思った時に、これならひ ょっとしたらなんとか継げるかもしれないと思いました。見えないところでかなりいろんなデザイン の工夫とかいろんなことをやっていたのかなあと思いました。 その一環として、これらのデザイン帳を持ってきておりまして、このデザインというのは本当に入 口なんですね。イメージを固めたのがデザインということになります。その前にスケッチ帳がありま す。父は写真も使ったのですが、かなりきちんとス ケッチをしています。スケッチを見ると、これがこ ういうふうにデザインになっていったんだなあとい うことがよくわかります。今回はスケッチ帳は持っ てきていないのですが。デザイン帳を作って、それ でもう一つ精密な下図を作って、着物の場合はさら にこれの四分の一の下図を作って、それで型紙を 型絵染壁面装飾「老松」 6 彫って染めていくのです。その染めたものがやっと世の中に出ていくのですね。仕事量からしたら膨 大な仕事量であることを考えると、他に人形のデザインとかいろんなことをやっておりますので、私 なんかまだまだ、「とにかく、良いとか悪いとか言う前に、仕事をたくさんしてみろ。 」と言われてい るような気がしておりまして、そういう意味では、時々父の作品を見る中で刺激を受けることがたく さんあります。 こちらに焼き物がありますが、これもデザイン帳が下にあります。先ほど昭和46年くらいに入院 したとお話しましたが、ちょうどこのころ焼物のデザインをしていたデザイン帳があるんですね。嬉 お の ※9 は く こ 野の国立病院に入院するのですが、近くにおられた小野珀子先生が絵付け用の焼き物をたくさん持っ て行ってくださって、それにたくさん絵付けして、退院する時はトラック一台借りて焼物を持って帰 ったというエピソードがあります。何しに行ったかわからないくらい(笑)。肝臓は病気といっても何 もできないような状態ではなかったと思いますが、その中でたくさんの焼物を残しています。その一 部を今回展示しています。 ふきずみ この皿のウサギは吹墨ですね。型紙を置いて吹墨をやっているんで すが、十三代今泉今右衛門先生がよく吹墨をされますが、一度うちに 来て、 「えっ、先生吹墨をやられたんですか」とびっくりしておられま した。父の発想力って、既成概念にとらわれないで、どんどんイメー ジを展開していくことがありましたので、面白いなと思っています。 こちらに人形がありますが、これも一番最初にお話ししたように木 の人形ですね。実は私は三男で、長男がおりまして、その子のおもち 吹墨の技法による陶画 ゃみたいな感じで作ったんではないですかね。だから、これはくるく る回るんですよ。足が半分固定されていて。単なる遊び道具ではない のでしょうが、郷土玩具として田舎に根付くようなものが欲しいと思 ったのでしょうね。 父がのごみ人形を作るきっかけの一つは、祐徳稲荷神社に時々友達 を連れてお参りするとき、地元で作っているものが何もなかったと、 陶画のデザイン みんな外からきているものしかなかったということなんですね。何か 郷土にちなんだものがほしいということで、ちょうどその頃窯業試験場でデザインの指導をして、焼 物に携わる仕事をしていたこともあって、それから土人形に変わっていくのですね。 こちらのウサギは昭和38年に年賀切手になったものです。ただ、当時は人形の方が有名になって、 中央では染色作家として、ある程度仕事をしていたのですが、地元では「のごみ人形の先生」と言わ れたりしていたようです。 郷土玩具というのは、父が目指していた民芸の、要するに「大衆の中で生まれる」という意識がど こかにあったのでしょうね。染色はあくまでも作家として仕事を続けていたのですが、郷土玩具の場 合は職人さん、ここのスタッフにまかせて、自分の手から離れて育っていくという発想があって、ま さに民芸の発想だと思いますが、自分の両方の思いを、人形と染色で続けていったのではないかと思 います。もちろん原型は自分で作るのですが。 こちらの作品は、結婚する前の栗山照次のころ描いたものですが、正倉院とかそういうところの模 写ですね。父は学生時代に図書館に行って文様の写しを熱心にしていたと母からよく聞いていました。 7 ですから、絵が好きなのと同時に文様に対する興味が非常 に高かったのではないかと思います。別の展覧会で、ある 方が「お父さんの作品って昔の柄を想像させるようなとこ ろがありますね。 」と言われたのですが、古いというのでは なくて、一つの勉強の仕方として、こういう昔の柄をよく 見ていたのだと思います。私なんかまだまだ、やっぱり昔 のことを勉強しなければいけないなと最近思っています。 「栗山照次」の頃のデザイン ※1 豊田勝秋(1897-1972)・・・福岡県久留米市生まれの工芸家(金工)。 ※2 鹿島英二(1874-1950)…鹿児島生まれの工芸家(染色)。 ※3 ろうけつ染め…模様部分を蝋で防染し染色する伝統的な染色法。 ※4 柳宗悦(1889-1961)…東京府(現東京都)生まれの民藝運動を起こした思想家。 ※5 富本憲吉(1886-1963)…奈良県生まれの陶芸家。1955 年、重要無形文化財「色絵磁器」保持者 (人間国宝)に認定。1961 年、文化勲章受章。 ※6 稲垣稔次郎(1902-1963)…京都市生まれの染色家。1962 年、重要無形文化財「型絵染」保持者 (人間国宝)に認定。 ※7 ※8 ※9 型絵染…型紙を用いて絵画的な文様を染めること。 光武岱造(1923-1995)…鹿島市生まれ。開業医。文化面にも造詣が深い。 小野珀子(1925-1996)…愛知県生まれ、のちに嬉野市に移住する。釉裏金彩の陶芸家。 床の間展示ケース(後期展示風景) 鹿島市役所陶壁画「獅子舞」下図 鹿島市役所陶壁画「面浮立」下図
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