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私は物静かな⽥舎町に住んでいて、毎⽇をつつましく暮らしている。家には年⽼いた⺟と⽝
が⼀匹と猫が⼆匹いて、さびしくはないがにぎやかでもない。男は⽉に2⽇だけ、私に会いに
やってくる。都会から、お⼟産を持ってやってくる。⺟には包丁や眼鏡といった実⽤的なもの
を、⽝と猫にはおもちゃやおやつを、私にはおいしいお酒を。男は私がお酒を好きなことを
知っていて、私がお酒を飲んでいる姿を好いている。私は⼣⽅の早い時間から料理にとりかか
り、たくさんのごちそうを⽤意する。旬の⾷材を使った男の好きな料理ばかりである。乾杯の
ワインは私が⽤意して、冷蔵庫でキンキンに冷やしてある。⺟は⾵変わりな娘を最近ではすっ
かり諦めていて、普段はほとんど⾒せない年甲斐もなくはしゃぐ娘の姿に、むしろ少し機嫌が
よくなる。
最寄りの駅からは、歩いて20分。少し遠いが、私はいそいそと迎えに⾏く。秋だとすでに⽇
が暮れる頃、少し⼤きめのバックと紙袋を持った男が⼩さな単線の駅に降り⽴つ。私が遅れた
ときは、⼩さな⽸コーヒーを買って、駅から町を眺めている。久々に会う⼆⼈は少し気恥ずか
しい。もしかしたら前に会ったときからしわ⼀本、⽩髪⼀本増えているかもしれないと、お互
いに無意識に顔や頭に⼿をやる。意味もなく笑ってしまう。私は⽬もろくに会わせずに、笑い
ながら紙袋のほうを持つ。紙袋からは酒瓶がのぞいている。男はやさしい⽬をして、私をのぞ
きこむ。私は恥ずかしいので、先に歩きだす。お互いの近況をぼそぼそと話す。近況といって
も、⺟の話と⽝の話と猫の話だ。私は、本当は会いたかったよと⾔いたいけれど、それは⾔わ
なくても通じるので⾔わない。夏だとまだ⼦供たちが騒いでいる商店街を抜けて、私のうちの
ほうへ歩く。⼩さな川に架かった橋からは、⼣⽇が沈んでゆくのが⾒える。少し泥臭い川の匂
いが、⽣ぬるい⾵に乗って漂ってくる。男は釣りをするらしく、今度釣りでもしたいねという
が、私は男が釣りをしている姿を⼀度も⾒たことはない。そのあたりに来ると、すっかり⼈通
りがなくなるので、男は私にそっと顔を近づける。私は、男が今⽉も来てくれたことに感謝す
る。
家では、⺟がお膳の⽀度をして待っている。すぐにでも始められるように、グラスまで出て
いる。男はまず⺟に、そして⽝と猫にあいさつをする。⺟も気恥ずかしそうに笑っている。男
は廊下をきしきしと⾳を⽴てて歩く。飾ってある絵が変わったことに気が付き、それをじっと
⾒る。私が料理の仕上げをしに台所へ向かうと、男は後ろをのろのろ付いてきて、私の肩越し
に料理をみる。好きな⾷べ物を⾒つけて、⼦供のようにはしゃぐ。テーブルにのりきらないほ
どの料理を並べると、私はおごそかに3つのグラスにワインを注ぐ。男はその間に⽝と猫にお
やつを与えている。⼩さく乾杯をすると、私たちはがやがやと⾷事をはじめる。
男は話がとてもうまく、私も⺟もすぐに引き込まれてしまう。⼤きな声で笑うのは久しぶり
だ。⺟が楽しそうなのもうれしい。男も⽬を細めて、私たちが笑うのを満⾜げに⾒つめる。
男は不動産の仲介業を営んでいて、⾯⽩い家や変わった客との不思議な体験を話してくれ
る。今⽇はある客の話だった。紹介した物件は、線路を挟んだ向かい側に桜が⾒えるアパート
で、家賃は相当安かった。都会にしては、窓から空が望める。近くに保育園があって、線路沿
いを歩く園児たちの姿が⾒えた。電⾞と踏切の⾳が意外とうるさく響いた。割と神経質そうな
細⾝の男性客を⾒て、男はこのアパートはよしたほうがいいと⾔った。ところが、客はとても
気に⼊った、すぐにでも引っ越したいと申し出てきた。私と⺟はすっかり引き込まれていた。
客があまりにもうれしそうだったので、男は契約のときになぜ気に⼊ったのかを尋ねた。する
と客は、⼩さい頃に線路のそばで育ったので、電⾞の⾳がするとぐっすり眠れるのだと答え
た。そしてこう続けた。彼には別居中の妻と⼦供がいて、その街には単⾝で仕事をしに来てい
る。窓から⾒える保育園児に、⾃分の娘を重ねて、毎⽇が頑張れそうだと。そういうものかと
思い、しばらくその客のことは忘れていたのだが、昨⽇そのアパートの⼤家と会う機会があ
り、彼のうわさを⽿にした。なんとその客は先⽇園児に対するわいせつ罪の容疑で警察に連れ
て⾏かれたらしい。引っ越してくる前も何度か警察のお世話になっていたが、はっきりとした
証拠がないのと、引越しを繰り返していたことで、⼊居のときはわからなかったのだ。はっき
りとした証拠がないってどういうこと?何をしたの?と私が聞くと、男が少し⼩声になって話
した。
⼿を握るんだって。
⼿を?
そう、近づいていって握⼿する、それだけなんだ。園児たちも何が悪いのかわからない、で
も⺟親たちは気味悪がってね。彼も居づらくなって結局引越しを繰り返すんだよね。男は最後
の⿃の唐揚げを⼀⼝でほおばった。
⼣⾷はほとんど終盤を迎え、ワインも空になっている。それで今回その客の男はどうなった
の?今度は⺟が聞いた。引っ越しました、唯⼀の⾝内のお⺟さんが⽚付けに来たそうですよ。
あらあら、と⺟。男は苦笑いをしながら続けた。僕は騙されたのかな、今でもわからずじまい
なんですが、でも電⾞の⾳がするとよく眠れるっていうのだけは、本当だったと思うな。ふふ
ふ、と私。そのあと、⼈間はどんなときに嘘をつくのかという話に変わり、⼣⾷はお開きに
なった。⽝はずっと私たちのそばにいるが、猫はいるときもいないときもある。真⿊くて細⾝
の「コーヒー」は、たいてい⾷事が終わったころにやってきて、⾜の周りをうろうろする。⽩
くておでぶの「チャーリー」は、たいていテレビの脇で寝ている。男はチャーリーを抱いてな
でくりまわすが、いつもその重さに五分と耐えられない。コーヒーは⼈⾒知りのくせに、男に
だけは抱っこを許しているように⾒える。コーヒーはメスだ。
⼣⾷後も話が終わらないと⺟が紅茶を⼊れてくれるが、話が終わると気を使ってチャーリー
を抱いて⾃室に⾏ってしまう。お⾵呂はいつも⺟が新しいお湯で焚いておいてくれる。タイル
張りの、昭和の⾹りのする⾵呂である。交互に素早く⼊ると、私と男は簡単なつまみと男の
持ってきたお酒を持って離れの⼩さな部屋へ移動する。
この部屋は私が三⼗歳になったときに、物置⼩屋を改築したものだ。⾬の⽇は⽊と埃の匂い
がする。冬ならば⼤きなダルマストーブを焚いて、夏ならば開け放した窓にすだれを引いて、
⼤きなソファに並んで座る。庭の⽊々を⾒ながら、男の持ってきたお酒をグラスに注いで、さ
らにどうでもよい話をする。聞こえるか聞こえないか程度の⼩さな⾳で古いジャズを流す。ほ
どよく酔っぱらってくると、男は弱⾳を吐きだす。私はだまって⺟のようにやさしくうなず
く。慰める。褒める。男は泣きだすこともあった。男が泣くと私はどうしようもなく慌てる
が、どうしようもないので頭をなでる。男が強く出たら、仕⽅がないので負けたふりをする。
たまに、奥さんと娘さんは元気?と意地悪く問うと、男は柔らかく笑って元気だよ、と短く答
える。どう元気なの?と問うと、この間の運動会の100m⾛でメダルをもらってたよとか、この
間友達と韓国に⾏ってたよとか答える。私はなんでそんなつまらない質問をしたのかと⾃分を
呪う。いじけた私の⼿を引っ張って、男は私をベッドへ連れて⾏ってくれる。男は終始私をや
さしく扱ってくれるが、疲れているので終わるとすぐに眠ってしまう。
私は寝顔を⾒ながら、昨⽇までの渇いた気持ちを忘れて、充⾜した気持ちになる。できれば
起こして今の気持ちを伝えたいが、男の安⼼しきった寝顔を⾒ると、トイレに起きるのさえた
めらわれる。この夜が時間と切り離されて、永遠に続くような気がしてくる。薄くなった前髪
をなでると、くーと寝⾔を⾔う。たるんだあごのお⾁を引っ張ると、すーと寝⾔を⾔う。次の
瞬間には、これが最後かもしれないと絶望を感じる。たたき起こして⽬の前で泣いてみせたく
なるが、声を殺して男のあごに頭を付ける。そのまま私も眠りに就く。
男の隣で眠る夜は、不思議な夢を⾒ることが多い。今⽇は⾒たこともない踏切で園児と握⼿
をした。その園児は男に似ても似つかないが、男の⼦供だとわかった。私は⼿を放さなければ
と思うのだが、思えば思うほど⼿が離せなくなる。園児は泣きそうな声で訴える。
放して。
私はわかったと答えるが、⼿は⾔うことを聞かずにどんどん⼒が⼊っていく。
⽬が覚めると、⽇は⾼く昇っていて、男は相変わらず私の横で眠っている。私が起きたこと
に気がついて、⽬を閉じたまま抱きしめる。私は⼒を抜いて、されるがままに抱かれている。
なんの夢を⾒たのかを忘れていることに気が付く。でも怖かったよ、と男にいうと、⼤丈夫だ
よと⾔ってくれる。だらだらしていると、お腹がなる⾳がする。
遅く起きると、たいてい⺟が朝ご飯を作ってくれている。すでに⺟は⾷事をすませ、洗濯や
掃除を始めている。私と男はお礼を⾔って、キッチンの⾷卓につく。⽞関からついてきた⽝
が、しっぽを振りながらテーブルの下に座る。⽝は右の後ろ⾜が不⾃由だった。男は⽝の頭を
なでると、ハムを⼀枚⽝に与える。男はついでに私にもハムを⾷べさせてくれる。私はワンと
⾔いながら、男の差し出したハムを咥える。
朝⾷を⾷べると、私たちはたいてい外に出かける。先⽉は⼟⼿沿いを永延と歩いて隣町まで
⾏き、電⾞で帰ってきた。男は⼩さなトイカメラを持って、私は⾊鉛筆とB5のスケッチブック
を持って外に出る。男の撮った写真は1000枚を超えた。私の部屋には⼤きなボードが⽴てかけ
てあり、そこにはほぼすべての写真が貼り付けてある。私は2冊のスケッチブックしか使ってい
ない。光を描きたいと思うが、まだうまく描けない。男は、いいとも悪いとも⾔わず、私の絵
をじっと⾒つめる。そのまなざしを⾒ただけで、その絵を描いて良かったと⼼から思う。
裏の路地を抜けて、線路沿いに広がる⽥んぼの畔を歩く。そういえば、私の家からも電⾞の
⾳が聞こえる。線路の下のトンネルを抜けるとき、わざと声を出して反響を楽しむ。にやにや
してしまう。男は、電線や電柱や鉄塔の類をカメラに収める。この辺りは撮りつくしただろう
に、飽きずに撮っている。今⽇はこの線路に沿って歩こうか、と男が提案した。昨夜のめそめ
そした男とは別⼈のように、男らしく頼もしい。私はうなずいて、少⼥のように後を歩く。⼿
をつなごうと⾔うので、私は少しどきりとして、それからそっと⼿を差し出した。男の⼿はゴ
ワゴワして暖かくて、私に来⽉の約束をする。私の⼿は、期待しないで待ってるね、と握り返
した。(終)