見知らぬ観客50

生前から「伝説の女優」と称せられた昭和の名女優、原節子が昨年の9月に亡くなったと11月下旬に報道された。95歳の
大往生だった。
原節子が映画デビューを果たしたのは1935年のことである。女学校を中退して15歳で銀幕にデビューし、その日本人離れ
した派手な容貌と初々しさでたちまち人気者となった。その後、天才山中貞雄監督の「河内山宗俊」(36年)では、河原崎長
十郎、中村翫右衛門といった名優に囲まれてヒロインを演じ注目された。日本とヒトラー率いるドイツが急速に親しくなると
合作で映画を作ろうという話がまとまり、原は日独合作映画「新しき土」(37年、アーノルド・ファンクと伊丹万作の共同監督)
の主役に抜擢された。このとき原は芳紀17歳であった。
戦後東宝の黒澤明は原節子を起用して、いち早く民主主義をテーマとした作品「わが青春に悔いなし」(46年キネマ旬報ベ
ストテン第2位)を発表した。ところが、彼女は「来なかったのは軍艦だけ」といわれた第二次東宝争議(駐留米軍が鎮圧に動
いた大規模なストライキ)に嫌気がさして組合を脱退し、黒澤などと共に東宝を去る。それで吉村公三郎の「安城家の舞踏
会」(松竹、47年同ベストテン第1位)に主演した。それから、「古い上着よ、さようなら」と歌われた今井正の「青い山脈」(東
宝、49年同ベストテン第2位)およびその続編に主演し、まさしく旧体制に別れを告げて戦後の新たな民主主義体制に脱皮
することを高らかに宣言した明るい名作をヒットさせた。
しかし、一見順風満帆に見える原のキャリアも演技面では決して自他を満足させるものではなかった。そのキャリアに箔がつくきっかけとなったのは
小津安二郎との出会いである。小津映画に初めて主演することとなった「晩春」(49年同ベストテン第1位)は男やもめの父親(笠智衆)がひとり娘(原節
子)を嫁がせた夜に蝉の抜け殻のようになって2階に上がり孤独に慟哭するラストシーンが有名な傑作である。一般的に原の演技は大味で、うまいとい
う評価からは縁遠い女優だったが、小津の原に対する信頼はきわめて厚く、それ以降6作にわたって小津映画では無くてはならない人となった。黒澤の
「白痴」(51年、ドストイェフスキー原作)に森雅之と共演した年に小津の「麦秋」(51年同ベストテン第1位)にも主演し、これもまた小津映画のピークを示
す傑作となった。さらに成瀬巳喜男の「めし」(51年同ベストテン第2位)では上原謙と倦怠期の夫婦を演じ、ベストテン女優の面目躍如たるものがあっ
た。
そうして、日本映画の最高峰のひとつ、いや今では世界映画の至宝とも呼ばれることが多くなった小津の傑作「東京物語」(53年同ベストテン第1位)
に至る。原の代表作中の代表作である。尾道から老夫婦(周吉=笠智衆、とみ=東山千栄子)が長男幸一(山村聡)、長女しげ(杉村春子)に会いに上京
してくる。幸一は開業医をしており休日も急患となればじっとしていられない。長女は美容室を自営しているので日曜日も忙しい。というわけで、老夫婦の
相手をする暇がない。
息子も娘も相手にしてくれないので、老夫婦は戦争に行っまま消息を絶った次男の嫁紀子(原節子)のアパートを訪ねる。彼女は再婚もせずに戦死
公報が来ない夫の帰還を待ち続けている。考えてみれば戦争終結からまだ7~8年しか経っていない。再婚を促す老夫婦を仕事の休みの日に東京見物
に連れ出して歓待する。ふたりは実の子どもよりよほど親切だと紀子に感謝して東京をあとにするのである。そのふたりが寝床でしみじみと話す場面が
ある。
とみ「孫らも大きうなっとって・・・」
周吉「ウム。――よう昔から、子供より孫の方が可愛いと云うけえど、お前、どうじゃった?」
とみ「お父さんは?」
周吉「やっぱり子供の方がええのう」
とみ「そうですなァ」
周吉「でも、子供も大きうなると、変るもんじゃのう。しげも子供の時分は優しい子じゃったじゃに
やァか」
とみ「そうでしたなァ」
周吉「女(オナゴ)の子ァ嫁にやったらおしまいじァ・・・」
「東京物語」の撮影で原節子(右、後
姿)と笠智衆(左)に指示する小津監
とみ「幸一も変りやんしたよ。あの子ももっと優しい子でしたがのう」(日本シナリオ大系巻2「東京物語」より抜粋)
このように野田高梧と小津安二郎による脚本は老夫婦の絶妙のやりとりを活写する。
帰路の途中で大阪にいる三男(大坂志郎)に出会い、次女(香川京子)が待つ尾道の自宅に帰るのだが、体調の思わしくなかった老妻が倒れ、つい
に帰らぬ人となるのだ。失意の夫は葬儀を執り行う中で再び子どもたちや次男の嫁に囲まれる。一段落して子どもたちがそれぞれ帰り支度を始める。再
び周吉が紀子に再婚を促すと、紀子は「再婚しない」といいながら、義理の両親に好い子ぶっている自分をずるい人間だと自己批判するのである。
小津は決して声高に何かを訴えるでもなく淡々と、ごく一般的な家族の日常をスケッチし、そこから人生の意義や家族のありようが自然に立ち上って
くるような、まことに滋味深い傑作を撮ったのである。そうして、嫁に扮した原は帰って来るはずもない夫の生還をひと筋に待ちわび、誠実に夫の両親に
尽くすような古いタイプの女性でありながらも、毎日を健気に屈託なく生きる現代性をも併せもつ女性を好演した。
改めて原の出演履歴をざっと見渡してみて目を瞠るのは、上記に取り上げた監督以外でも衣笠貞之助、島津保次郎、阿部豊、山本嘉次郎、マキノ正
博、内田吐夢、渡辺邦男、稲垣浩、豊田四郎、山本薩夫、木下恵介、川島雄三など、日本映画史に燦然と輝く錚々たる名匠、巨匠たちと一緒に仕事をし
ていることだ。こう見てくると、原は映画黄金期の巨匠たちに愛されて多くの名作を残したことがわかる。ついに溝口健二は原節子を起用しなかったが、
溝口における田中絹代の存在が、既述したとおり小津においては原節子であった。しかし、出演本数という観点だけで見ると、意外にも山本薩夫作品が
一番多くて7本。特別に小津とのコンビ(6本)が突出していたわけではなくて、島津や今井作品にも多く出演している。ただ、配役の重要性や演技の密度
とでもいえばよいのか、作品における立ち位置で評価すれば、俄然小津作品が際立ってくるというべきか。
引退後はいっさい公式の場に姿を現さず、師である小津が63年12月の誕生日の当日に60歳という若さで亡くなったときもひっそりと通夜の席に姿を
見せて多くを語らなかったようだ。その後も甥の一家が住む鎌倉の土地の一角で隠遁生活を続け、たまに近くへ買物に行く姿が目撃されたらしい。
(2016年2月1日)