売春婦「ナデイア」から教えられたこと

月刊『選択』
思い出の国
連載
忘れえぬ人々
第十二回
売春婦「ナデイア」から教えられたこと
元世界銀行副総裁
シンクタンク・ソフィアバンク シニア・パートナー
西水美恵子
思い出の国 忘れえぬ人々
第十二回
売春婦﹁ナデイア﹂から教えられたこと
十 二 月 一 日 は 世 界 エ イ ズ デー 。 毎 年 こ の 日 に は 出 張 し 、 エ イ ズ 問 題 に そ っ ぽ
を 向 く国 家 首 脳 連に 説 教 し 歩い た も の だ っ た。 H I V ︵エ イ ズ ︶ は単 な る 病 気
ではない、経済や国体の維持までをも脅かす貴国のリスクなのです、と。
エ イズ は 社 会 の 最 適生 産 年 齢 にあ る 青 壮 年 層 を 襲う か ら 、 国 家 経 済 の 生 産 性
を 構 造 的 に 脅 か す 。 ま た 、 人 の 抵 抗 力 を 直 撃 す る ので 、 負 担 医 療 費 は エ イ ズ の
み に と ど ま ら な い 。 ま ん 延 化 状 態 に 至 ら な くて も 、 国 家 財 政 そ の も の に 大 影 響
を及ぼす。すでにアフリカの数カ国は、国家経済そのものが溶け始めている。
感 染 経 路 は 、 輸 血 や 血 清 薬 品 の 安 全 性 は もと よ り 、 麻 薬 、 売 春 、 性 生 活と 、
個 人 の 品 行 、 習 性 、 私 生 活 のふ る ま い に 深 く 関 わ る 。 人 と 人 と の 深 い つ な が り
と 信 頼 関 係 を 腐 食 し 、 家 庭 まで を も 破 壊 し う る 。 人 間 の 幸 せ の 根 を 揺 さ ぶ り 、
放っておけば国家社会安泰の基礎までをも犯す。
手 遅 れ にな ら な い う ち に 貴 国 のエ イ ズ 管 理 対 策 を と 、 い く ら 説 いて も 、 馬 の
耳 に 念 仏 ば か り だ っ た。 エ イズ の よ う に タ ブー 的 な 社 会 問 題 の 対 策 は 、 まず ト
ッ プ リ ー ダー が 動 か ず に は 始 ま ら な い 。 な の に 、 頭で わ か っ て く れて も ハー ト
に つ な が らな い か ら 、 行 動 に出 て く れ な い 。 動 い て く れて も た ま の 演 説 く ら い
で 、 長 続 き し な い し 、 実 に な る こ と を して く れ な い 。 政 治 家 は 皆 近 眼 だ と 、 い
いかげん頭にきていた。
そ んな 時 、 あ る 売 春婦 の グ ル ー プ に 会 っ て く れ と 、 バン グ ラ デ シ ュ 担 当 の 部
下 に 頼 ま れ た 。 国 民 意 識 を 高 め る た め に 、 報 道 界 にエ イ ズ 問 題を 真 剣 に 考 え て
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も ら い た い 。 有 能で 信 頼 で き る 新 聞 記 者 数 人 を ま ず 釣 り た い 。 餌 に な っ て く れ
と頭を下げられた。もちろん喜んで、オフレコなしの取材許可とした。
首 都 ダ ッ カ の 下 町 、 貧 民 街 の 一 角 に 、 売 春婦 の 休 憩 所 が あ る。 早 朝 、 路地 奥
から湧き出るように集まってくる売春婦たちに、あるカリスマを感じて驚いた。
彼女らは、ナデイアという名のリーダーに率いられて共済組合を運営していた。
明 る い顔 に目 が き らき ら と 輝 く 美し い 人たち だ っ た。 水 浴 、 食事 、洗 濯や 、 老
いた仲間や子供の世話をすませ、健康診断、共済預金や会費の集金、読み書き、
護身術、職業訓練と、休む暇もない。想像を絶する苦境におかれた彼女たちの、
その強さと優しさに、同行の記者たちと共に泣いた。
一息ついたナデイアが﹁世界銀行のシスター﹂にエイズのことを教えようと、
みんなと輪になって床に座った。
﹁エイズと予防法に無知では身の破滅を招きま
す よ ﹂と 、 噛 み 砕 く よう に 教 え て く れ る 。 コ ン ド ー ム の 使 い 方 ま で 手 と り 足 と
り の 丁 寧 さ に 赤 面 す ると 笑 い 、 女 性 用 コ ン ド ー ム な ど 見 た こ と も な い 我 ら を 叱
ってくれた。
帰 り 道 、 自 動 車と 人 力 車 が 芋 を 洗 う 渋 滞 を 車 窓 か ら ぼ ん や り 見 て い た ら 、 ナ
デイアが手を強く握って言った別れ言葉が脳裏をよぎった。
﹁シスター、知識は
良い人生を築く力だということ、忘れてはいけませんよ﹂
。その途端、バングラ
デシュが自動車事故世界一の国だという事実を思い出した。
背 筋 に 冷 た い も の が 走 っ た 。 も し も 今 、 交通 事 故 に あ っ た らど う な る 。 ダ ッ
カ で 入 院 さ せ ら れ た らど う な る 。 エ イ ズウ イ ル ス で 汚 れ た 針 で 注 射 さ れ る か も
しれない。エイズに感染した輸血を受けるかもしれない。
心 臓が コ ト リ と 鳴 っ た 。 エ イ ズは 彼 女たち 売 春 婦 も 私 も 差 別し な い 、と 肌 に
感 じ た 。 そ の 瞬 間 、 ハ ッ と 気 づ い た 。 自 分 の頭 と ハー ト が 、 今 の 今 ま で つな が
っ て い な か っ た のだ 。 エ イ ズ を 自 分 自 身 の 危 機 と して と ら え て い な か っ た 。 首
脳連への説得力に欠けたのは当たり前だ。﹁姉御﹂ナデイアよ、ありがとうと、
心の手を合わせてまた泣いた。
翌 日 、 シ ェ イ ク ・ ハ シ ナ 首 相 と 会 見 の日 、 朝 刊 の一 面ト ッ プ に ﹁世 界 銀 行 副
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総 裁 、 売 春 婦 か ら エ イ ズ 講 義 を 受 け る ﹂ と 写 真 入 りで 載 っ た 。 コ ン ド ー ム を か
ぶ っ た 木 製 の 男 根 を 囲 ん で 、ナ デ イ ア と 彼 女 の 仲 間と ﹁ 世 銀 の シ ス タ ー ﹂ が 、
楽しそうに笑っていた。
国 会議 事堂 の 首相 控 室 に 着席す るな り﹁ 今 朝 の 新 聞 、 読 んだわ よ﹂と 微笑む
首 相 。 待 って ま し た と ば か り 、 姉 御 ナ デ イ ア の 共 済 組 合 の 活 躍 を 話 し た 。 そ し
て 、 ナ デ イ ア の お か げで 得 た 帰 路 の 車 中 の 体 験 を 語 っ た 。 バ ン グ ラ デ シ ュで 輸
血 さ れ る 血 液 の 九 割 は 、 エ イ ズ の 検 査 が さ れて い な い 事 実 も 付け 加 え た 。 ご 用
心 、 感 染 リ ス ク は 首 相で さ え 同 じ で す か ら と く く っ た ら 、 彼 女 の 顔 色 が 変 わ っ
た。サリーからのぞく首相の腕に、鳥肌が立っていた。
翌 年 の 世 界 エ イ ズ デ ー 。 バ ン グ ラ デ シ ュ は 、 大 々 的 な エ イ ズ 知 識 の 普 及運 動
を 開 始 し た 。 ハ シ ナ 首 相 自 ら の 先 導 は 言 う まで も な い 。 茨 の 道 、 先 は 長 い 。 し
かし、人口一億四千万人の国がようやく動き出した。
代 わ っ て お 隣 イン ド で は 、 一 九 八 六 年 、 世 界 が エ イ ズ に 無 関 心 の 頃 、 す で に
対 策 を 開 始 し て い た 。 当 時 の 厚 生 省 次 官と 数 人 の リ ー ダー が 、 イ ン ド 初 の 感 染
者 発 見 に 危 機 感 を も っ た 故 と 聞 く。 即 時エ イ ズ 対 策 委 員 会 を 設立 、 翌 年 に は 国
家 エ イ ズ 管 理 機 関 を 立ち 上 げ た 。 感 染 率 は 低 い が 大 国 イン ド のこ と 故 、 エ イ ズ
人 口 は 今 日 世 界 一 。 二 十 年 前 、 先 見 の 明 あ る 指 導 者 ら が 動 か な か っ た ら イン ド
は今どうなっていただろう。想像するだけでゾッとする。
九 九 年 世 界 エ イ ズ デー の 前 夜 、 私 は 、 イ ン ド 南 部 タ ミ ル ナ ド 州 の 首 都 チ ェ ン
ナ イ ︵ 旧 名 マ ド ラ ス ︶ 郊 外 、 国 道 五 号 線 の 脇で 棒 立 ち にな っ て い た 。 南 は イ ン
ド 大 陸 の 先端 か ら 、 北 は バ ン グ ラ デ シ ュ 、 ブー タ ン 、 ネ パ ー ル 、 パ キ ス タン 、
果 て は ア フ ガ ニ ス タ ン ま で つ な が る ハ イウ エ ー は 、 一 日 七 千 台 の ト ラ ッ ク で 、
ご う 音 を たて て 流 れ る 川 の よ う だ っ た 。 一 台 平 均 三 人 の 男 が 乗 り 込 む か ら 、 こ
こ だ け で 毎 日 二 万 人 以 上 が 国 道 沿 い に 春を ひ さ ぐ 女 た ち に 誘 わ れ る 。 こ の 膨 大
なエイズリスクを管理するなど人間技ではない、と唖然とした。
し か し 、 そ れ を 人 間 技 と す る N G O ︵ 非 政 府 組 織 ︶ の一 団 が い た 。 全 員 が エ
イズに感染した元運転手や売春婦たち。
﹁赤い丘﹂と呼ばれる休憩所にたむろす
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る 運 転 手 や 売 春 婦 を 集 め て は 、 エ イ ズ 教 育 を し 、 安 全 な セ ッ ク ス の 紙 芝 居を 見
せ 、 カウ ン セ リ ン グ を し て い た 。 裸 電 球 に 黄 色 く 染 ま っ た テ ン ト のな か は 和 や
かで、笑い声が絶えなかった。
﹁初めは昔の仲間に殴られ、唾をかけられたけれ
ど、母国が危ないと励まし合った﹂と言う。
彼らのリーダーシップと粘り強い努力は、政府の援助を受けるまでに成長し、
多 く の 人 々 を 励 ま し 奮 起 さ せ た 。 全 イ ン ド ・ト ラ ック 運 転 手 組 合 は 、 我 ら の 団
結 力 を 国 の た め にと 運 動 に 参 加 。 組 合 員 の ト ラ ッ ク は ﹁ ハ イ ウ エ ー で 予 防 ﹂ と
書 か れ た 丸 い 大 き な シー ル を 貼 って 、 行き 会 う 組 合 員 と 警 笛 を 鳴 ら し 合 う 。 あ
るコ ン ド ー ム 製 造会 社 も 、 国 の た め に も 商 売 の た め に もな ると 協 力。 活 動 の 資
金 援 助と 共 に 、 暗 い イ メ ー ジ を 一 転 す る マ ー ケ テ ィ ン グ 戦 略 を 実 施 、 何 万 と い
る小売業者教育に乗り出した。
リ ー ダ ー シ ッ プ の 輪 は 輪 を 呼 び 、 多 く の 人を 鼓 舞 し 続 け て い る 。 そ し て 数 年
前、タミルナド州のエイズ感染上昇率が減速の傾向を示し始めた。
日 本 の エ イ ズ 感染 人口 は 二 万 人 に 足 ら ぬ と 推 定 さ れ る。 し か し 、 十 代 二 十 代
の 若 者 に 広 が り つ つ あ り 、 感 染 者 の 急 増が 危 惧 さ れて い る 。 安 堵 は 禁 物 。 エ イ
ズは国境を知らない。
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著者紹介
西水 美恵子( にしみず
みえこ )
1975年、米ジョンズ・ホプキンズ大学大学院博士課程修了後、プリンス
トン大学助教授(経済学)
。80年に世界銀行入行。97年、南アジア地域
担当副総裁に就任。2003年に退職。現在は独立行政法人経済産業研究所
コンサルティングフェロー。07年に、シンクタンク・ソフィアバンク シ
ニア・パートナー就任。著書に『貧困に立ち向かう仕事』。
著者へのご意見やご感想は、下記アドレスにお送りください。
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本稿は、西水美恵子氏が、月刊誌『選択』二〇〇五年十二月号に
寄稿したものです。
著作権は、著者に帰属しますが、配布は自由に行っていただけます。
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