Robert Venturi 『建築の多様性と対立性』 京都大学田路研究室 第四学年 野村祐貴 1 はじめに 彼らは様々な要求を受け入れ、それらを重ね合わせるので 2 ヴェンチューリの建築思考 はなく、要素を分離または排除することを禁欲的なほどに 2-1 建築の多様性 唱えていったのである。 2-2 曖昧さ 3 建築の構成 全体を獲得する責務 3-1 「部分」と「全体」 3-2 「内部」と「外部」 4 結語 近代建築において、建築における多様性は、不十分もし くは気まぐれにしか認めてこなかったのである。 ヴェンチューリは単純化を行う近代建築家たちに対して、 次のように述べている。 単純性(simplicity)がうまく作用しないと、ただ単純さ (simpleness)が残るだけである。あからさまな単純化は味 1 はじめに ロバートベンチューリ(1925-)は、アメリカの建築 気ない建築を意味するのだ。より少ないことは退屈である。 「less is bore」(P39-L8) 家で、1991 年にはプリツカー賞も受賞しいまや誰しもが ヴェンチューリは「単純性 simplicity」と「単純化 知る建築家であるが、ヴェンチューリが最初に世に知れわ simpleness」とを明確に区別する。ゆえに機能主義や合理 たるのは、著作『建築の多様性と対立性』 (1966)、 『ラス 主義と合致し正当化され広がっていった、豊かさを伴わな ベガス』(1972)の出版によってである。 い単なる建築の単純化はすべての問題を解決できること とくに『建築の多様性と対立性』は建築表現のあり方に ついて 1960 年代までの近代建築を正面から批判した書物 はなく、ミースの言葉の拡大解釈によるいきすぎた「単純 化」を行う追従者たちに対し、批判をしたのである。 としては最初のものであり、近代建築の 1960 年代におけ 単純性と秩序の間に合理主義が生まれたのだが、合理主義は る転機を論理付けたものとされている。 激変の時代にあっては物足りないことがわかってきている。 その時代に多大な影響を与えたヴェンチューリの建築 思想、および建築の多様性とは何であるのか。 本著をとおして迫ってみたいと思う。 それとは正反対のものから、均衡が作り出されるべきなので ある。そうして得られた内的平衡が、対立性と曖昧さとの間 に緊張をもたらす。…逆説をよしとする感情は、いくらか対 立すると思われるものの共存も許容し、それらの不調和その 2 ヴェンチューリの建築思考 2-1 建築の多様性 正統な近代建築家は、現代的機能の複雑さを無視し、初 ものがある種の真実を提示するのだ。 (P37-L7) オーギュスト・ヘッシャーの言葉を引用し、代弁する。 何かを排除するのではなく、受け入れようとする建築に 源的で一元的なものを理想と考え、単純性を追求した。 おいては、断片、対立性、即興、またそれらの緊張状態な ル・コルビュジエは「明確でしかも曖昧さの無い偉大な単 どを取り込む余地があるのである。 純形態」に言及し、ミースは「less is more」という言葉 を残し、カーンは「単純性への欲求」と言った。 ヴェンチューリはここに可能性を見ていたのであろう。 建築における多様性を認めることは、ルイス・カーンの言 これに追随するように、近代建築の改革運動者たちは、 う「単純性への欲求」を否定するものでない。それどころ 建築の機能の複雑さを無視し、その新規さに喝采を送り、 か、精神の満足となる美学的な単純性(simplicity)は、 それが有効で奥深いものである限りは、内的多様性から引 め、シェイクスピアなどの17世紀イギリスの形而上詩の き出されるものである。 精密な分析を加えて、それを七つの型に分類している。 ル・コルビュジエやアアルトはひとつのまとまりの中に、 ここで、 「曖昧な」という言葉をもちいるとき、普通「ぼ より豊かな多様性を引き出すために、単純化、すなわち引 んやりした」とか「不決断の」という意味にとりやすいの き算による単純性を拒否した。しかし、彼らの作品に見ら だが、これらの用法は派生的で、むしろ「両義的」とか「多 れる多様性と対立性は見過ごされていることが多いよう 義的」という、二つ以上のものがせめぎ合うような状態を である。多様な建築への欲求は、十六世紀のイタリアや古 さしていると解するのが正確である。 典時代のヘレニスム期のような、マニエリスムの時代にお 著書の中でエンプソンは、詩の表現が二つ以上の意味に いて、共通にみられる姿勢である。ミケランジェロから とれる場合、一つだけを正しいものとして選択するのでは ル・コルビュジエ、アアルト、カーンにいたるまで連綿と なく、すべてをふくみこませて、多様な味わいを持たせ詩 続いているひとつの流れなのである。 を豊かにするべきだと考えた。逆説や曖昧さをもつ表現に 多様性は、分析の一過程として有効な単純化を否定する ものばかりでなく、多様な建築を創造する手法を否定する ものでない。 単純化は多様な芸術を得るために分析過程のひとつの 手法なのであり、最終目標が見失われてはならない。 よって、ふくらみや重層性を与える理論とされる。 ヴェンチューリは「こうした考えは建築にもよくあては まると思われる。」と述べており、特にヴェンチューリの 理論がウィリアム・エンプソンによる『曖昧の七つの型』 によるところは大きい。磯崎はまた、『曖昧の七つの型』 が、彼の建築の分析にあたって、その下敷きになっている 2-2 曖昧さ ヴェンチューリは「多様性」について二つの側面がある という。それは、建築の「目的」と「方法」における「多 様性」である。 「目的」とは先に述べたように、 「精神の満 のではないかと思われるほど、決定的な役割を果たしてい る。とも指摘している。 ヴェンチューリは、建築の思考と分析に「曖昧」という 概念を正当な意図によって導入したのである。 足する」多様(豊か)な建築を得ることである。「方法」 多様性と対立性を備えた建築には曖昧さと緊張がつきもので における多様性とは、実際のイメージと想像されたイメー ある。建築は形態であるとともに実質でもあり、抽象でもある ジを並列するところから生ずる多様性であるという。 とともに具体的であり、そしてその意味は、内部の特徴からと ジョセフ・アルバースは「物理的事実とその心理的な反応と ともに外部の環境から引き出されるのだ。(中略)このような のずれ」がすなわち「芸術の源泉」となる対立性に他ならな 固定的でない関係、すなわち多様性と対立性が、建築の方法の いと言っている。そして実際にも、意味の多様性や、その結 特徴である曖昧さと緊張の源泉なのである。(P46-L17) 果としての曖昧さとか緊張などは、芸術批評においては十分 「多様性」も「対立性」もともに「曖昧性」を成立させ に認識されていることである。(P44-L5) 文学の分野でも、批評家は多様性と対立性を、方法として躊 躇せず受け入れている。(P44-L13) 磯崎新は『建築の解体』の中で「ニュークリティシズム」 るための具体的な統辞法的道具なのである。 また、ヴェンチューリは「内的多様性」が読み取れる契 機を「視覚の曖昧さ」の中に見出している。 エンプソンはさまざまな英詩を、ヴェンチューリは古今 と呼ばれる文学批評の方法や概念を徹底的に援用したふ 東西の建築を、各章ごとに具体例をあげて精密に分析し、 しがいたるところにうかがわれるという。 併記的、あるいは比較法的記述をつうじて、近代建築の正 ウィリアム・エンプソンは著書『曖昧の七つの型』にお いて、詩を詩的たらしめる契機を「曖昧 ambiguity」に求 統派が組み立ててきた規範の解体をはかっているのであ る。 3 建築の構成 3-1 全体を獲得する責務 「部分」と「全体」 について、建築に当てはめ、次のように記述している。 建築における屈曲とは、部分の位置よりも、個別の性質を利 単純化よりも統合を して全体を暗示する、そのような方法である。自分以外の何 排除によって達成される安易な統合よりも抱合によって かに向けて屈曲することによって、部分相互の間につながり 達成される複雑な統合を が生ずるのである。屈曲した部分は、そうでない部分よりも、 ヴェンチューリは、「多様性と対立性を備えた建築は、 もっと全体にとって肝心なものとなる。屈曲は連続性を暗示 全体に対する特別な責務を持つ。真実はそれ自身の全体性 しながらも、多様な部分を認識させる手段でもある。そこに のうちに、もしくは含意された全体性のうちに存在するに 断片の働きが生じる。有用な断片は、自分以上の豊かさと意 違いない。」とし、本著の中で度々、統合を目指すことの 味を生じる。(P197-L6) 必要性を唱えている。 屈曲は部分相互に「つながり linkage」を生じさせ「意 「ニュークリティシズム」の文学批評の方法や概念を援 味」が生ずる。このことは先出した「コンテクスト」と非 用することで、建築を「部分」に「解体」し、その後、 「統 常に深く結びついているといえる。さらに「部分」はつな 合」する。この「解体」「統合」という過程を経ることに がることにより「連続性」を暗示し「全体」にいたる。屈 よって「全体性」のうちに「多様性」が成立するとしてい 曲のよって個々の要素が「部分」と「全体」の関係と「意 るのである。この「部分」と「全体」の概念はヴェンチュ 味」を同時に獲得するというのである。 ーリの建築思想において非常に重要である。 さらに、 「部分」と「全体」と関連して「コンテクスト」 についても言及する。 屈曲した要素は、方向性を持った空間における方向性を 持った形態であるとし、空間にも言及する。このことは、 個別の建築の例示で示しているが、さらに「町のスケール ゲシュタルト心理学によれば、コンテクストが部分に意味を になると、屈曲はそれ自身は屈曲していない要素の配置に 与え、コンテクスト上の変化が意味上の変化の因をなすとい よって生ずる」とし都市のスケールでも当てはめられてい う。それに従えば建築家は、部分を組織することを通して、 る。 全体のうちに、部分にとって意味を持つコンテクストを作り 例示としてピアッツァ・デル・ポポロがあげられている 出すのだ。(P86-L1) が、ここには広場には通りをはさみ、一対の教会堂がある。 知覚された全体は、各部分の集合の結果ではあるが、各部分 それぞれは独立だが、中心の塔が各々の教会堂を、より大 の寄せ集め以上のものとみなされている。(P163-L7) きな全体へと屈曲している。個々の配置によって、空間全 とされ、単に多様な「部分」を集めただけではそれ以上 の「意味」はなく、それが「全体性」をもつがゆえに「コ ンテクスト」との関係において、多様な「意味」が発生す るのである。 また「部分の寄せ集めは、知覚全体に影響を及ぼし、さ 体を抱合し広場全体として大きな複合体となって、 「全体」 を獲得している。 また「槇文彦の言う「グループ・フォーム」にも、ある 種の暗示的な連続性ないしは屈曲が見出される。」と述べ、 「全体」を獲得する方法として、言及している。 らに進んだ分別を可能にする」とし、「部分は多少なりと 「グループ・フォーム」は槇による建築の集合についての もそれ自身が全体でありうるし、ひとつの全体はより大き 定義のうちの一つで、小さな形態が群・集合(グループ) な全体の断片なのである。多様な構成においては、全体を をなすものを指す。 「グループ・フォーム」により、 「全体」 獲得しようとする特別な責務が個々の断片を鼓舞するの は「部分」の屈曲した性質ではないが、部分間の階層(ヒ だ」という。ヴェンチューリはトリスタン・エドワーズの エラルキー)関係によって統合され、「多様性」を獲得す 言葉を借り、 「屈曲 inflect」であるとしている。この屈曲 ることができる。階層は、様々な「意味」をもった建築の 中に存在する。部分の並置、隣接とか、大きなものと小さ 共同体にも、都市にもあてはまる。」この考えは、空間の なもの、重要なものとそうでないものの対比の結果、目は 中の空間としての部屋から始まるものだと思う。」と述べ、 「全体」に向けられるとしている。これらは対立性をもた さらに内部と外部の区分のもう一つの現れ方として外壁 らす要素として言及されていたが、階層性を有した全体を と内周面との間の空間、残余の空間(poche)に言及して 形成する要素でもあるのだ。 いる。 ヴェンチューリは第4章で「両者共存という現象の源泉 ヴェンチューリはある「空間」を規定する「内部」と「外 が対立性にあるとすれば、その基礎となるのは、様々な価 部」の境界を「空間的な層」 、また「壁」のことを「建築 値をともなった要素に何種類かの意味を付与する階層関 的出来事」と呼んでいる。 「空間」における「部分」と「全 係である」と述べており、ある「部分」が「全体」との関 体」の階層関係を見いだし、 「意味」を付加しているので 係において、ある「意味」を発生するなら、それは異なる ある。 階層において異なる「意味」を発生させる。ゆえに、階層 関係の下で「全体」を獲得することが「部分」において発 生する「意味」の「多様性」をもたらすのである。 4 結語 ヴェンチューリのいう「多様性」とは表層的な建築の形 態についてのものではなく、建築の「内」に存在する「内 3-2 「内部」と「外部」 的多様性」であった。 ヴェンチューリは本著において空間について記述して 建築を「部分」に「解体」し、「統合」する。この過程 いるところはあまり見られないが、「建築における対立性 を経ることによって「全体性」のうちに「多様性」が成立 を考えるとき、外部と内部の対比は、最も主要な現象であ するのである。 「部分」だけではそれ以上の意味はなく、 ろう。 」とし、第9章内部と外部にて、近代建築と比較し それが「全体性」を持つがゆえに「コンテクスト」との関 つつ、記述している。 係において、多様な「意味」が発生するのである。 ミースに代表される水平な面と垂直な面を組み合わせ ヴェンチューリは、世の中が「多様化」する時代におい た建築を意味する「流れるような空間 flowing space」は て、世界はそもそも「多様」であるという前提に立ち、 「対 近代建築において外部と内部の連続性を獲得すべく考え 立」する要素を「単純化」するのではなく、それらを「抱 られた。 合」し、多様な「意味」を持たせ「精神の満足する」多様 ヴェンチューリはこれに対し、外部と内部の連続性を否 (豊か)な建築を得ることを試みたのである。 定する。「建築の内部の最たる目的とは、空間に方向性を 与えることではなく、空間を囲うことであり、内部を外部 から隔離することである。カーンは「建物は、物を碇泊さ せるところである」といった。古くから、住宅の機能とは、 参考文献: 物理的にも心理的にも、庇護し、プライバシーを提供する 『建築の多様性と対立性』 ことであった。 」として建築の内部の根源に触れ、本質か Complexity and Contradiction in Architecture らとらえようとする自らの立場を示す。 Robert Venturi 著, 1966、 また、「内部」には機能やプライバシーに関する秩序が あり、 「外部」には周辺環境や都市との関係に関する秩序 がある。サーリネンの引用をもちいて、 「建築とは、空間 の中にさらに空間があるような組織のことである。これは 伊藤公文訳, 鹿島出版会, 1982 『建築の解体』 磯崎新 著, 美術出版社, 1975
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