修善も雑毒なるゆえに 仏教の生きる意味を現代へ 通信コース[初級]⑱ この通信コースは、2600 年前、仏教に解き明かされた本当の生きる意味を、半年で 体系的に理解するための講座です。このコースを終了した時、あなたは現代の誰より も深い人生観が身についたことに気づくでしょう。 Buddhism All-Japan Network Copyright(C) Buddhism All-Japan Network. All Rights Reserved. 著作権について 本教材は著作権法で保護されている著作物です。 本教材の著作権、その他あらゆる権利は、Buddhism All-Japan Network に属します。 著作権者の書面による事前許可なくして、本教材(テキスト、動画含)の一部または全部をあらゆるデータ 蓄積手段(印刷物、DVD、電子ファイル、CD、テープレコーダー、ビデオ、インターネットサーバー等)に より、複製、流用、転載、翻訳、販売(オークション含む)することを禁止します。 使用許諾契約書 以下は、あなた(以下、甲と称す)と Buddhism All-Japan Network (以下、乙と称す)との契約となり ます。本教材を開くことをもって、甲は本契約に同意したとみなされます。 第1条 本契約の目的 本契約は、乙が著作権を有する本教材に含まれる情報を、本契約に基づき甲が非独占的に 使用する権利を許諾するものです。 第2条 一般公開の禁止 本教材に含まれるあらゆるコンテンツは、著作権法によって保護されています。 甲は、本教材から得たコンテンツを、乙の書面による事前許可なくして、各種媒体(電子メディア等 の配信を含む)により公開、並びに転売してはならないものとします。そのようなことをせずとも、希 望者は以下のサイトで乙が正規に公開している本教材を入手することができます。 http://buddhism.ne.jp/ 第3条 契約解除 甲が本契約に違反したと乙が判断した場合、甲に何の通告もなく、本契約を解除することが できるものとします。 第4条 損害賠償 甲が本契約第2条に違反した場合、本契約の解除に関わらず、甲は乙に対しその違約金として 違反件数と基準額を乗じたものの10倍の金額を支払うものとします。またインターネット等で公開 した場合は一律、基準額に700を乗じた金額を支払うものとします。 第5条 責任の範囲 本教材に含まれるコンテンツの使用の一切の責任は甲にあり、このコンテンツを使用して 発生した損害に関して、乙は一切の責任を負わないものとします。 Copyright(C) Buddhism All-Japan Network. All Rights Reserved. 1 通信コース⑱ 修善も雑毒なるゆえに 三枚の鏡から、実は「真実の自己」シリーズに入っていたのですが、 3回目の今回で最後になります。 最後、あなたのどんな姿があらわれるのか、 さっそく始めましょう。 Copyright(C) Buddhism All-Japan Network. All Rights Reserved. 2 法鏡にうつった本当の姿 仏教は法鏡といわれます。 「法」とは真実ですから、 仏教は、真実の私のすがたをうつしてみせる鏡のようなものだ ということです。 鏡に近づけば近づくほど 自分のすがたがハッキリ見えてくるように 仏教を聞けば聞くほど知らされてくるのは 自分の本当のすがたです。 仏教を聞くということは、 法鏡にうつった自分の本当のすがたを見せて頂く ということなのです。 では、法鏡には、どんなすがたがうつっているのでしょうか。 前回学んだように、法鏡にうつった真実の自己のすがたを お釈迦様は、このように説かれています。 Copyright(C) Buddhism All-Japan Network. All Rights Reserved. 3 心常念悪 心常に悪を念じ 口常言悪 口常に悪を言い 身常行悪 身常に悪を行じ 曽無一善 曽て一善無し すべての人は、心と口と体で常に悪を造っている。 いまだかつて一つの善もやったことがないのだ。 とお釈迦様は説かれています。 全人類は、悪人だということです。 いまだかつて一つの善もないといわれると 「でもたまには、いいことすることもあるよ 生まれてから今までに、一つ位は善をやったことあるでしょ」 と思います。 では「曽無一善」 かつて一善なしとは一体どういうことなのでしょうか。 仏教の法鏡で真実の自己をすがたを照らし抜かれた 親鸞聖人が教えられています。 Copyright(C) Buddhism All-Japan Network. All Rights Reserved. 4 親鸞聖人とは? 親鸞聖人は、約800年前(1173-1262)、仏教を正確に伝えられた方で、 今日、大変多くの人たちからほめたたえられています。 有名な作家の司馬遼太郎は、こう言っています。 鎌倉時代というのは、一人の親鸞を生んだだけでも偉大だった。 (司馬遼太郎「この国のかたち一」) 日本の三大哲学者の一人、田辺元は、 私は『教行信証』の宗教哲学をもって、西洋に相手を見出だすことが 困難な深さを持つと思わざるを得ない。(田辺元) 親鸞聖人の主著「教行信証」は、西洋に相手が見つからないほど深いと言 っています。 有名な作家の井上靖もこう言います。 人類が、今日ほど、親鸞聖人を必要としている秋はない。 (井上靖「讃歌親鸞」) 20世紀最大の哲学者の一人、 Copyright(C) Buddhism All-Japan Network. All Rights Reserved. 5 ドイツのハイデガーは、老後の日記に、こう書いています。 もし10年前にこんな素晴らしい聖者が東洋にあったことを知ったら、 自分はギリシャ・ラテン語の勉強もしなかった。 日本語を学び聖者の話を聞いて、世界中にひろめることを 生きがいにしたであろう。だが、おそかった。(老後の日記) このように多くの人たちから尊敬される親鸞聖人は、 「見真大師」という大師号が贈られています。 「見真」とは、真実を見た。 真実の自己を見たということです。 文豪・夏目漱石もこう言います。 彼は人間の代表者であるが、自己の代表者である。 (夏目漱石「模倣と独立」) 今回は、その親鸞聖人の和讃に学んでみましょう。 「和讃」とは、「和語讃歌」の略で、大和言葉で分かりやすく 平仮名まじりで教えられたものです。 Copyright(C) Buddhism All-Japan Network. All Rights Reserved. 6 悪性さらにやめがたし その中の一つに、このような和讃があります。 悪性さらにやめがたし こころは蛇蝎のごとくなり 修善も雑毒なるゆえに 虚仮の行とぞなづけたる (悲歎述懐和讃) 「悪性さらにやめがたし」とは 「あの人は、悪性な人だ」 と言いますが、 「悪性」とは悪い本性で、 欲や怒り、ねたみそねみなどのことです。 「さらにやめがたし」とは、 少しもやまらないということです。 少しもやまらないということは、 悪のやり放題で開き直っているのではありません。 やめようとしたけれど、やまらないということです。 Copyright(C) Buddhism All-Japan Network. All Rights Reserved. 7 これは、やめようとしなければ、分かりません。 因果の道理にしたがって、 廃悪修善、何とか悪をやめてよいことしようと つとめればつとめるほど知らされたことは 「悪性さらにやめがたし」 欲や怒り、ねたみそねみなどの悪性は、少しもやまらなかった と言われています。 心は蛇蝎のごとくなり 「心は蛇蝎のごとくなり」とは、 「蛇蝎」とは、蛇やサソリです。 蛇やサソリを見たら、ぞっとしますが、 「心は蛇蝎のごとくなり」 そういう蛇をみた時のような、 ぞっとする恐ろしい、嫌らしい心があることを このように表現されています。 これは特に、とても人には言えない ねたみやそねみやうらみの愚痴の心です。 Copyright(C) Buddhism All-Japan Network. All Rights Reserved. 8 自分よりもすぐれている人に対して、 ねたみやそねみの心が起きてきます。 自分よりも才能がある、美しい、かっこいい、 お金や地位がある人を見ると ねたましく、何とか失敗してくれないかな、 ひきずりおろしてやりたくなってきます。 例えば、受験でも、自分よりも成績が低い人を ライバル視する人はありません。 自分と同じか少し上の人をライバルと思います。 そして、二人で同じ大学を受けにいったところ、 その友達は合格して、自分は落ちたとなったらどうでしょう。 本来は友達なので、友達の幸せを共に喜ぶべきなのに どうも喜ぶことができません。 「何であいつだけうかっておれが落ちるんだ」 相手の合格がねたましくなってきます。 相手は相当努力したのに 自分は勉強不足だったという反省はできず、 なぜか努力よりも結果だけを見て、 Copyright(C) Buddhism All-Japan Network. All Rights Reserved. 9 ねたましく思ってしまいます。 このように、自分よりもすぐれている人に対して ねたみやそねみ、うらみの嫌らしい心が起きてきます。 人の幸せは、喜ばないといけないのに 人の幸せが許させない、醜い心があります。 自己を見つめられ、それに気づかれた親鸞聖人は、 「心は蛇蝎のごとくなり」と言われています。 修善も雑毒なるゆえに 「修善も雑毒なるゆえに」とは、 「雑毒」とは、毒がまじっていることです。 「修善」とは、善いことするということです。 善いことをするけれども、毒がまじっている。 「毒」とは、見返りを期待する心です。 せっかく善いことをしても、見返りを期待する心がまざっているのです。 例えば人に親切した時、 「私が」「誰々に」「何々を」 Copyright(C) Buddhism All-Japan Network. All Rights Reserved. 10 この3つを記憶してしまいます。 例えば人からお金借りたりした場合には、 すっかり忘れます。 「お前、あの時、金貸したよな」 といわれても 「え?そんなことあったったけ」 そこで 「あの時、こういう時に、こういう状況で、こうだっていうから、 貸してやったじゃないか」 といわれてようやく、 「あ、そうそう、そういえば、借りた借りた、うん、今返すから」 と思い出します。 逆に、自分が人にお金を貸したらどうでしょう。 「私が、彼に、これだけのお金を あの場所で、あの時、貸した」 と深く記憶に刻み込まれ、常に 「いつ返してくれるのかな、覚えているのかな、 少しは感謝してるのかな」 と心にかかります。 それでもなかなか返してくれないと、どんどん恨みの心が Copyright(C) Buddhism All-Japan Network. All Rights Reserved. 11 起きてきます。 このように、 お金を借りた時にはすっかり忘れてしまうのに お金を貸したら、ずーっと覚えていて お礼や感謝を要求しているのです。 私たちの本性は、我利我利なので、 結局、人に親切する時でも、 自分の利益しか考えていないのです。 自分さえ助かれば、人はどうなってもかまわない。 人に親切するのも、実は自分の為に ここで親切にしておけば そのうち見返りがあるかもしれないと思います。 自分を犠牲にして、他人を幸せにするというのは、 大変難しいことです。 自分は苦しいだけで何の見返りもない。 それでも相手に幸せになってもらいたい。 そんな心がけで親切しているでしょうか。 Copyright(C) Buddhism All-Japan Network. All Rights Reserved. 12 以前学びましたが、布施の心がけとして、 「三輪空」が教えられています。 「三輪空」とは、三つのものを空じなさい、 忘れなさいということです。 三つのものとは、 施主 受者 施物 の三つです。 他人に親切した時、私が誰々に、何々を、 この三つを忘れるようにしようということです。 そうしないと毒がまじってしまいます。 例えば電車で席をゆずったら、その人はさも 「若者が立って当たり前だろう」 とでもいうかのように、 お礼も何も言わずにドスンと席にすわった。 すると、何となく嬉しくない心が起きてきます。 Copyright(C) Buddhism All-Japan Network. All Rights Reserved. 13 でも本当は、 「自分が苦しくても相手に幸せになってもらいたい」 というのが「親切」であって、 別にお礼を要求して席をゆずったわけではないはずなのに、 どうもしっくりきません。 また、挨拶をしても返事がない。 これはきついですね。 聞こえたかな?もう一回挨拶したくなります。 それでも無視したとなったら大変です。 挨拶は大変善いことですが、 見返りを要求している心があるかもしれません。 挨拶しなければ、そういう心に気づきません。 挨拶したから、見返りを期待する心が知らされたのです。 善いことをすると本当の自分が見えてくるのです。 廃悪修善に心がけて、知らされることです。 昔、博多に、生き仏のように敬われていた 仙崖という僧侶がいました。 Copyright(C) Buddhism All-Japan Network. All Rights Reserved. 14 ある冬の寒い日、橋を通ると 下で乞食が寒そうにしている。 自分が着ていた上着を一つ脱いで、橋の上から与え、 そのまま通り過ぎようとしたんですが、 相手は無言だった。 どうもしっくりこなかったので立ち止まってきいてみました。 「 どうだ、少しは暖かくなったかな?」 すると、 「着れば暖かいに決まっている。 分かり切ったことなぜ聞くか。与える身分をよろこべよ」 と言われたそうです。 それを聞いた、仙崖は真っ赤になって恥じ入ったと言われています。 暖かくなるに決まっているのだから、お礼を期待していなかったら 「少しは暖かくなったかな」 と聞かないのです。 仏教では「利他」に徹して、 「自分は苦しくてもいいから人に幸せになってもらいましょう」 「三輪空」を心がけて 「人に親切した時、私が誰々に何々を、この三つを忘れるようにしよう」 Copyright(C) Buddhism All-Japan Network. All Rights Reserved. 15 と教えられているのに、 暖かくなったかなと聞いてしまったんですね。 その見返りを期待する心を乞食から指摘されて、 仏の教えが身に備わっていなかったと知らされた。 親切するには苦労しますので、 その分、苦労を認めて欲しい 相手に感謝して欲しい という心が出てきてしまいます。 大善ほど猛毒を含む しかも、苦労が大きくなるほど、認めて感謝して欲しいのです。 100円あげた時にお礼がなくても、 「まあいいか、忘れているんだろう」と思えるかもしれません。 では1万円あげて、お礼がなかったらどうでしょう。 100円ならこちらも忘れてしまう場合がありますが、 1万円となると、やはり次に会った時には、 「この間はありがとう、本当に助かったよ」 一言くらいは欲しいところです。 Copyright(C) Buddhism All-Japan Network. All Rights Reserved. 16 では、100万円あげて、お礼がなかったらどうか。 100万円あげて礼なしは、これは厳し過ぎではないでしょうか。 普通100万円あげた場合、次の1回くらいではなく、 会う度にお礼言ってもらわないと 「本当に助かった、あの100万円、本当にありがとう」 1年間くらいはお礼が必要です。 では、1千万円でお礼がないとなったらどうでしょう。 これはもう発狂するかもしれません。 「あの時の1千万円、あれでおれの人生は救われたよ、心の友よ」 1千万円だったら、もう一生会う度にお礼を言ってもらっても いいくらいです。 100円とは全く違います。 1千万円あげて 「私が」「誰々に」「何々を」忘れられるでしょうか? 「あれ、誰かに何かあげたと思うんだけど?まあいいか」 そんなふうに忘れることはできず、 一生記憶に焼き付いてしまいます。 Copyright(C) Buddhism All-Japan Network. All Rights Reserved. 17 このように、親切が大きければ大きいほど、毒も大きくなります。 善が大きければ大きいほど、猛毒を含んでいるということです。 これを、龍樹菩薩の「大智度論」には 四十里四方の池に張りつめた氷の上に、二升や三升の熱湯をかけても、 翌日そこは、ふくれ上がっている。(龍樹菩薩「大智度論」) と、たとえで教えられています。 四十里四方(約160km×160km!?)の池に張りつめた氷は、 二升や三升の熱湯をかけると、確かに少しはとけますが、 翌日そこは、余計にふくれ上がっています。 これではいいことやってるんだか、 悪いことやってるんだかわからないんですね。 大善ほど猛毒を含んでいるということです。 虚仮の行とぞなづけたる 和讃の4行目 「虚仮の行とぞなづけたる」とは、 Copyright(C) Buddhism All-Japan Network. All Rights Reserved. 18 「虚仮の行」とは、 「行」とは善のことなので ウソ偽りの善であるということです。 「修善も雑毒なるゆえに 虚仮の行とぞなづけたる」 毒まじりの善だから、ウソ偽りの善なのだということです。 善をする時は、 人のため、人のためといいます。 「あなたのために、 あなたが幸せになるようにと思って、こうしているんですよ」 人の為と言うのですが、 「人」と「為」は、くっつけて一つの漢字にすると、 「偽(ニセ)」となります。 結局、人の為といいながら 人の為ではなくて、自分の為にやっているということです。 例えば「謝恩セール」という言葉があります。 恩に感謝する。 Copyright(C) Buddhism All-Japan Network. All Rights Reserved. 19 今までお世話になったお客様のご恩に感謝して、セールをします。 これは結局、その方が儲かるから自分の為にやっているだけです。 結局、相手の為といいながら自分の為と分かります。 このように、仏様のまなこからご覧になると まことの善は一つもない。 これが、かつて一善無し 「曽無一善」ということです。 「そんな見返りを期待する心なんて私ありませんよ」 という人がもしいれば それは善をやったことがない人です。 その人は、まだ自分の心に気づいていないのです。 もちろん布施をしたことはあると思いますが、 きっとその人にとっては、100円位のものです。 だから、そんなに見返りを期待しないのです。 そんな程度の善しかしたことがないということです。 善をしたら知らされます。 Copyright(C) Buddhism All-Japan Network. All Rights Reserved. 20 松陰の暗きは月の光かな という言葉があります。 「松」は、そもそも曲がりくねって、ひねくれた木です。 その松が、自分の姿を知るには、陰を見ると知らされます。 夜、松の陰がくっきり見えるのは月の光が明るいからです。 月が出ていないと見えませんが、 月が出て、しかも明るければ明るいほど、 陰がくっきり見えて自分の姿が知らされます。 ちょうどそのように、 光に向かえば向かうほど、自分の姿が知らされるということです。 悪いことやめて善いことしよう。 廃悪修善を心がけるほど、 本当の自己のすがたが知らされる。 これが、 「松陰の暗きは月の光かな」 という歌です。 Copyright(C) Buddhism All-Japan Network. All Rights Reserved. 21 善い行いをすればするほど、 毒まじりの善しかできない自己が知らされる。 極悪は極善によってのみ照らされる という言葉もあります。 ちょっとした善ではあまり悪は知らされません。 大きな善ほど猛毒を含んでいますから、 善いことをすればするほど、知らされるのです。 「曽無一善」なんて言われても、 「自分は一つくらい善をやったことあるけどな」 とあわてて答えを出さず、 まず廃悪修善を心がけてみましょう。 Copyright(C) Buddhism All-Japan Network. All Rights Reserved. 22 まとめ 仏教という法の鏡には、本当の私たちのすがたがこのように映っています。 心常念悪 心常に悪を念じ 口常言悪 口常に悪を言い 身常行悪 身常に悪を行じ 曽無一善 曽て一善無し 最後の「かつて一善なし」とは、一体どういうことでしょうか。 これは、仏様の眼からご覧になると、まことの善は一つもないということです。 善をやっても、見返りを期待する、毒のまじった「雑毒の善」なのです。 しかも大善ほど猛毒を含みます。 まだ善をそれほどやったことのない人は 見返りの心も小さいので気づきません。ところが、 「松陰の暗きは月の光かな」 「極悪は極善によってのみ照らされる」 廃悪修善を心がければ心がけるほど、 法の鏡に照らされて、真実の自己が知らされます。 今すぐ実行してみましょう。 Copyright(C) Buddhism All-Japan Network. All Rights Reserved. 23 覚えましょう あくしょう 悪性さらにやめがたし じゃかつ こころは蛇蝎のごとくなり しゅぜん ぞうどく 修善も雑毒なるゆえに こ け ぎょう 虚仮の行 とぞなづけたる ひたんじゅっかいわさん (悲歎述懐和讃) Copyright(C) Buddhism All-Japan Network. All Rights Reserved. 24
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