ポーランド映画「地下水道」を思い出す!

ポーランド映画「地下水道」を思い出す!
何気なく開いた10月12日の日経新聞文化欄にポーランド文化研究家久山宏一さんの
「アンジェイ・ワイダ監督を悼む」の記事が掲載されていた。この映画監督の名前は忘れ
もしない映画「地下水道」の監督である。私がこの映画に見たのは有楽
町の映画館で高校を卒業して間もない頃だった。見るきっかけとなった
のは、我が家の近くに住んでいる同級生の友が彼女を誘うために鑑賞券
を買ったものの、振られてしまったので私を誘ってくれたのである。友
が彼女と鑑賞していたら永久に映画「地下水道」を見ることはなかった
だろうと推測する。当時の日本は敗戦から立ち直りつつあるとはいえ、
まだ戦争の悲惨さが多くの人々の脳裏に焼き付いており、社会情勢とし
て石橋湛山首相の後を引き継いだ岸伸介内閣が日米安保条約改定、自衛隊の増強し、憲法
調査会を発足させるなど、国民と逆コース政策を強めていたので、野党や労組・市民団体
が激突を繰り返していた時代でもあった。安保闘争の盛んな時であり、私自身も大学生の
時で盛んに参加していたこともあって、この映画を見て、ヨーロッパ戦線の悲劇の一部を
垣間見た思いがした。また、平和であることが一番と痛感した映画でもある。
映画「地下水道」は、第二次大戦下のポーランドにおける対独ゲリラ戦の一挿話を描い
たイェジー・ステファン・スタウィニュスキーの原作『下水渠』をスタウィニュスキー自
ら脚色、三十一歳の若手アンジェイ・ワイダが監督した。ナチスに対する抵抗を描いたも
のであるが、市民も参加しその中で戦争の悲惨さだけでなく、作曲家も抵抗運動に参加し
ていて戦争最中なのにピアノで音楽を奏でたり、愛し合う場面が織り込まれていたり、人
間の喜びも悲しみも表現されており、私の脳裏に強く焼き付いたことは言うまでもない。
アンジェイ・ワイダ監督が社会主義政権下のポーランドで、映画の製作を通じて一貫し
て自由の尊さを訴えて、ナチス占領下のポーランドを舞台に若者の反ナチス運動などを描
いた「世代」を製作してデビューし、
『地下水道』
(原題:Kanał)は、アンジェイ・ワイダ
の名を一躍世界に知らしめた作品で、第 10 回カンヌ国際映画祭審査員特別賞を受賞してい
る。
『世代』に次ぐいわゆる「抵抗三部作」の 2 作目として知られる。その後に制作した『灰
とダイヤモンド』と共に“抵抗三部作”といわれている。
アンジェイ・ワイダ監督は、共産主義体制下にあったポー
ランドで、弾圧を受けながらも反骨精神に満ちあふれた映
画を撮り続けたことは、祖国の弾圧危機に対し祖国愛から
迸る抵抗運動の一つとしてとらえることができる。この映
画の地下水道アンジェイ・ワイダ日本語字幕 - YouTube で
公開されており、誰でも見ることができる。
「地下水道」のあらすじを紹介しましょう。
《第二次世界大戦末期、1944年のワルシャワ。ポーラ
ンド国内軍による武装蜂起は、ドイツ軍による容赦ない攻
撃で追い詰められ、悲惨な最終段階に達していた。194
4年9月末、爆撃と戦火で廃墟化したワルシャワの街。過
去数年つづけられてきたパルチザン部隊による地下運動も悲惨な最終段階に達した。ザド
ラの率いるパルチザン中隊もドイツ軍に囲まれ、もはや死を待つばかり。そこで彼らは地
下水道を通り市の中央部に出て再び活動をつづけることにした。夜になって隊員は地下水
道に入った。中は広いが汚水が五十センチから一メートル半にも達している地下水道は暗
黒と悪臭の無気味な世界である。隊員はやがて離ればなれになり、ある者は発狂し、また
ある者は耐え切れずマンホールから表に出てはドイツ軍に発見され射殺された。地下水道
へ入る日、負傷したコラブ(タデウシュ・ヤンチャル)と、彼を助けて道案内してきたデ
イジー(テレサ・イゼウスカ)の二人も、やっと出口を見つけたと思ったのも、そこは河
へ注ぐ通路と知って、落胆の余りその場に坐りこんでしまった。そのころ、先を行くザド
ラと二人の隊員は遂に目的の出口を見つけた。が出口には頑丈な鉄柵が張られ、爆薬が仕
かけられていた。一人の隊員の犠牲で爆薬が破裂、出口は開かれた。ザドラと残った一人
の従兵は地上へ出た。がこのときザドラは他の隊員がついてこないのを不審に思い、従兵
に尋ねた。従兵はザドラが隊員を連れてくるようにとの命に背き、彼らは後から来ると嘘
を言い、自分だけが助かりたいばかりにザドラについてきたのだ。これを知ったザドラは
従兵を射殺。そして彼はこの安全な出ロまで地下水道をさまよう隊員を導くため再びマン
ホールに身をひそませた。》
この背景としてワルシャワ蜂起は、1944年8月 1
日から10月初めにかけて起こった。ソ連赤軍の猛反撃
によってドイツ軍に混乱が生じたことを背景に、ポーラ
ンド国軍が対独戦に立ちあがったものだが、その背景に
は複雑な事情があったと言われる。ポーランド国軍は、
一方ではロンドンの亡命政権の意向を汲みながら、他方
ではソ連赤軍による応援を期待していた。しかし、ロン
ドン政府とソ連との間には信頼のパイプがなかったと言われ、そのため、ロンドンとつな
がりがあったワルシャワ蜂起に対して、ソ連側は冷淡な態度を取ったと言われる。そんな
こともあって、ポーランド国軍は弱体化したドイツ軍を攻略できず、かえってドイツ側に
屈服させられた。ワルシャワで1万数千人の国軍兵士と20万人前後の民間人が死亡した
と言われる。映画「地下水道」はワルシャワ蜂起の最終局面を描いたものである。蜂起が
始まってから56日目というから、ワルシャワ蜂起が敗北に終わる直前の 9 月 25 日から翌
26 日にかけてのわずか二日間の出来事が描かれている。
★毎年 8 月 1 日の午後 5 時、サイレンの音を合図にワルシャワ市内では人によりその場で
直立不動となり 1 分間の黙祷を捧げるとされる。この 1 分間は全ワルシャワ市の部分的な
機能が停止するとも云われる。これは 1944 年 8 月 1 日午後 5 時に開始されたワルシャワ蜂
起での犠牲者を追悼する行事となっている。
★1939 年にナチス・ドイツがポーランドへ侵攻、ワルシ
ャワはドイツ軍の電撃戦による空襲に晒され、ナチス・
ドイツの占領下におかれた。ポーランド政府は降伏せず
ポーランド亡命政府としてパリ次いでロンドンに拠点を
置き抵抗運動を開始。いっぽうワルシャワ市内居住のユ
ダヤ人はドイツによってワルシャワ・ゲットー(ユダヤ
人居住区)へ集められ、1942 年の移送と 1943 年 4 月 19
日に親衛隊少将ユルゲン・シュトロープによるゲットー解体で、国内の絶滅収容所に送ら
れた(ワルシャワ・ゲットー蜂起)。1944 年 8 月 1 日、ソ連軍がワルシャワに迫り、市民
に対してドイツ軍への蜂起を呼び掛ける放送が行われた。呼応したワルシャワ市民がワル
シャワ蜂起を起こすが、ソ連軍は「補給の途絶」を口実にワルシャワを目前にして進撃を
停止。ドイツ軍はソ連軍の救援が無いのを見越して、反撃に転じた。結局、63 日の戦闘の
末、蜂起は鎮圧された。その後、ドイツ軍は苛烈な報復を行い、大勢の市民が殺戮され市
内の建物の多くが破壊された。
★アンジェイ・ワイダ監督の父親もまたカティンの森事件の犠牲者である、アンジェイ・
ワ イ ダ が 、 80 歳 の と き に 取 り 組 ん だ 作 品 「 カ テ ィ ン の 森 」 で あ る
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%81%AE%E
6%A3%AE - cite_note-allcinema-1。原作者のアンジェイ・ムラルチクが執筆した『死後カテ
ィン』を『カティンの森』として構想に 50 年、製作に 17 年かかって映画化している。
●カティンの森事件は、弱小国ポーランドの悲劇のはじまりで、1939 年 9 月、ナチス・ド
イツとソ連の両国によってポーランドは攻撃され、
全土は占領下に置かれた。武装解除されたポーラン
ド軍人や民間人は両軍の捕虜になり、ソ連軍に降伏
した将兵は強制収容所へ 25 万人が送られた。その
うちのソ連のグニェズドヴォ近郊の森で約 22,000
人のポーランド軍将校、国境警備隊員、警官、一般
官吏、聖職者がソビエト内務人民委員部によって銃
殺された事件である。
●ソビエトでは 1985 年に就任したゴルバチョフ書
記長の下でペレストロイカが進み、グラスノスチ(情報公開)の風潮が高まると、ソ連にお
いても事件を公表する動きがあらわれた。1987 年にはソ連・ポーランド合同の歴史調査委
員会が設置され、事件の再調査が開始された。1990 年には NKVD の犯行であることを示す
機密文書が発見された。1990 年 4 月 13 日、ソビエト国営のタス通信はカティンの森事件
に対する NKVD の関与を公表し、「ソ連政府はスターリンの犯罪の一つであるカティンの森
事件について深い遺憾の意を示す」ことを表明した。同日、ポーランドのヴォイチェフ・
ヤルゼルスキ大統領がゴルバチョフと会談し、ゴルバチョフはカティンの森事件に言及す
るとともに、発見された機密文書のコピーをポーランド側に渡し、調査の継続を伝えた[7]。
これにはカティンと同じような埋葬のあとが見つかったメドノエとピャチハキ、ビコブニ
アの事件も含まれている。
●1992 年、ソビエト崩壊後のロシア政府は最高機密文書の第 1 号を公開した。その中には、
西ウクライナ、ベラルーシの囚人や各野営地にいるポーランド人 25,700 人を射殺するとい
うスターリン及びベリヤ等、ソ連中枢部の署名入りの計画書、ソ連共産党政治局が出した
1940 年 3 月 5 日の射殺命令や、21,857 人のポーランド人の殺害が実行されたこと、彼らの
個人資料を廃棄する計画があることなどが書かれたフルシチョフ宛ての文書も含まれてい
る。しかし、公表された文書で消息が明らかとなった犠牲者はカティンで 4421 人、ミエド
ノイエで 6311 人、ハルキエで 3820 人、ビコブニアで 3435 人であり、残りの 3870 人は依然
として消息不明のままである。(郷土の会 岡村)