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これは多摩美術大学が管理する修了生の論文および

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これは多摩美術大学が管理する修了生の論文および
「多摩美術大学修了論文作品集」の抜粋です。無断
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多摩美術大学大学院
e-mail: [email protected]
2004 年 12 月 21 日Ở 深澤友晴Ở
Ở 修士論文「アンゼルム・キーファーの宇宙」要約Ở Ở Ở Ở Ở Ở Ở Ở Ở Ở Ở
Ở
アンゼルム・キーファーという、ドイツで 1945 年 03 月 08 日に産まれたアーティストの作品は鑑賞されるに
あたり、もっぱらその政治性を強調され、また論じられてきた。リザ・ザルツマンはその著 AnselmỞKieferandỞArtỞ
AfterỞ Auschwitz(※1)で、そのタイトルが示す通り、
「アウシュビッツ以降」の表現の可能性の一つの例とし
てキーファーの作品を論じている。そこでは、ザルツマンは悲しむことの不可能性(InabilityỞ toỞ mourn)を示
すものとしてキーファーの作品を示すことによって、キーファーの作品に対し政治的に中立な立場を取っている。
だが、政治的に中立な立場を取るということがかえってキーファーを(そして自分自身を)擁護するようにも見
える。同様のことがアンドレアス・ハイセンにも言える。ハイセンは、
「アンゼルム・キーファー:歴史の恐怖、
神話の誘惑」と題する文章で、キーファーの作品について、「知られざる戦士の知られざる英為はここではよく
知られた画家、アンゼルム・K の英為に置き換えられてしまっている。彼は立ち向かうべく用意した誘惑に自ら
囚われてしまっているのかもしれない」
(引用者訳)と述べている(※2)。また、逆に「AnselmỞKiefer’sỞwillỞtoỞ
theỞpower」という文章で「キーファーにはナチズムへの共感がある」と短絡に結論づけるドナルド・カスピッ
トにも(それがおそらく事実として間違っているというだけで無く)問題があるだろう(※3)。この結論は「芸
術作品には政治性がある」というよく知られたテーゼによって、その「政治性」の部分において倫理的にキーフ
ァーを攻撃しようとするものだろう。しかし、「政治性」が語られるならば、同時に芸術の「非政治性」も語ら
れねばならないと思う。なぜならば芸術はまず第一にフィクションであるし、芸術の政治性にのみ注目すること
は逆に芸術の政治的可能性を閉じ込めてしまうものだからだ。Ở
多岐浩二はそのキーファー論『シジフォスの笑い』(※4)を「20 世紀ほど人間が深い傷を受けた時代はなかっ
た」という語で始めている。しかし、果たして本当にそうであろうか?人間性に刻まれた傷において 20 世紀と
いう時代を特権化することは、20 世紀の人間に特有のナルシシスムのように感じる。前述のザルツマンもそうだ
が、アウシュビッツを世界史的な悲劇として特権化し、世界史を「アウシュビッツ以降」とすることは(そして
芸術におけるその線上にキーファーを置くことは)、それ自体がそれを経験した人々やそれを知る人々を特権化
することになりかねない。あるいはまるで、アウシュビッツの後には廃墟以外の何も残されていないとでもいう
ように、世界を一元化して見せてしまう。Ở
しかし、さいわいにして、我々はすでに 21 世紀を生きるに至った。悲劇はかつてあったし、これからもある
であろう。ただ、人間という生き物は生きれる限り生きるだけ、である。Ở
『プリズメン』の中で「アウシュビッツ以降、詩を書くことは野蛮である」と言ったアドルノは後、『否定弁
証法』の中で「拷問された人間が叫び声を上げてしまうように、永続する傷は表現されてしかるべきものかもし
れない。それゆえ、アウシュビッツ以降もはや詩を書くことはできない、と言ったのは間違いだったかもしれな
い」と述べている。傷は、もはや個人の問題であろう。傷を受けた者が叫び声を上げるようにしてなした表現は、
それが表現されていいということにおいては正当化される。あとは、それを受け取る側の問題である。我々はそ
1
れを見なくてもいい。Ở
キーファーの作品は、政治的、歴史的な主題が多いにも関わらず、よく見てみれば彼の取り上げるテーマが彼
個人の周辺にあるものたちであることが明らかになる。もし彼が本当に、政治的、歴史的、神話的要素ばかりに
注目しているとしたら、なぜ自分自身を描くのか?なぜ自分の妻を描くのか?なぜ、パレットを描くのか?なぜ
「無題」の作品があるのか?キーファーが扱う主題には実は彼独自の偏りがあることに我々は注意しなければな
らない。彼が扱うテーマは一見、人類史的に巨大な、普遍的なテーマを扱っているようにも見える。だが、だが
彼の多くの作品の主題を比較検討してみれば彼の扱うテーマがアンゼルム・キーファーという個人を中心とした
テーマによっていることがあきらかになる。彼がドイツの歴史を描くのは彼がドイツ人だからであり、彼が北欧
神話を描くのはドイツに生まれたからそれに親しんでいたからである。Ở
本論では、彼の多くの作品を比較検討し、その偏り、その相互の関係性を明らかにすることによって、アンゼ
ルム・キーファーというアーティストが彼個人の視点から作品を制作しているということを立証していく。第1
章ではまず、キーファーの作品に現れる様々な文脈を紹介していくこととなるだろう。自宅でいくつかのカタロ
グやパソコンの中に収められた画像を見ながらキーファーの作品を俯瞰するようにして眺めていると、キーファ
ーの作品には様々な彼独自の文脈がキーワードのようにして繰り返されているのが分かる。まず、それを認識す
ることがキーファーという作家を理解する上で重要なことであるだろう。Ở
第2章では1章の内容を踏まえてキーファーの作品が、どのように相互に関連づけられているのかを述べる。
キーファーの作品は、様々な文脈を持っていながらも、それぞれを裏切るようにしてある作品が他の文脈と繋が
ったり、類似していたりする。分かりやすい例で言えば例えばタイトルが二重になっている作品がいくつかある。
タイトルが二重になっているということはそれ自体作品が二つの文脈に同時所属することになるだろう。Ở
第3章では、キーファーの作品における位相の変化について述べる。キーファーの作品には絵画、写真、木版
画、オブジェ・・・など実に様々なメディウムが使われる。多彩なメディウムを組み合わせることでキーファー
が作品上で何を表現し、実現しているのかをここではあきらかにしたいと思う。Ở
終 章 で あ る 第 4 章 は 、 タ イ ト ル を キ ー フ ァ ー の 最 初 期 の 作 品 『 JederỞ MenschỞ stehtỞ unterỞ seinerỞ
Himmelskugel』から採った。わたしがキーファーの作品について(そして芸術というものについて)さしあた
って述べるべき言葉、そして示すべきビジョンはこの作品のタイトルにすでに要約されていると感じたからだ。Ở
Ở
1
Ở LisaỞSaltzman,ỞAnselmỞKiferỞandỞArtỞAfterỞAuschwitz,ỞCambridgeỞUniversityỞPress,1999Ở
Ở
Ở AndreasỞHuyssen,”AnselmỞKieferỞ:TheỞTerrorỞofỞHistory,theỞTemptationỞofỞMyth”,October,MITỞPress,48,SpringỞ
1989Ở
Ở
3
DonaldỞKuspit,ỞỞ "AnselmỞKiefer'sỞwillỞtoỞtheỞpower",ỞContemporenea,ỞContemporeneaỞ
LTD.,NY,vol.1,no.4(Dec/Nov,1988)Ở Ở
Ở
2
4
多木浩二,『シジフォスの笑いỞ アンゼルム・キーファーの芸術』,岩波書店、1997年Ở
2
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