『全国寺院名鑑』にはその寺々の由緒に、越後に向った親鸞から教えを請うな ど、親鸞と関わりを持った幾つかの寺を紹介している。それらの寺を記してみる と、 (滋賀県) 蓮通寺 (福井県) 誠照寺、万法寺、上野別堂、証誠寺、称名寺、本覚寺 (石川県) 勝林寺、浄願寺、本誓寺 (富山県) 願海寺、極成寺、極性寺、聖安寺、浄蓮寺、照顕寺、光久寺、浄永寺 辻徳法寺、勝満寺、光西寺 (新潟県) 大雲寺 などで、合計22ヶ寺もある。『全国寺院名鑑』に載っている寺院は、全国の寺院全 てではなく、ほんの一部である。したがって『名鑑』に載らない寺院で親鸞流罪に 関わる由緒を持つ寺院を全てにわたって調べてみると、もっと多くなることは当 然であろう。これらの寺の縁起と旧跡の伝えとをどうみるか、単なる作り話とし てみるか、真実としてとるか。 ※ 大津をあとにした北陸道は湖西の海津手前で牧野町上開田に親鸞の旧跡「念 仏池」があり、さらに進むと七里半越えの難所である愛発(あらち)山の峠を超え ると、そこは福井県で、疋田経由で敦賀に向う。また、伝えによると、親鸞は琵琶 湖を渡ったと言われている。だとすると、大津から船で湖西のある港に上り、そこ から疋田に向うことになろう。 愛発(あらち)は有乳とも荒血、荒道、荒茅、阿良知などとも記されている。伊勢 の鈴鹿、美濃の不破と共に、畿内に入る古代3関の一つに数えられる愛発関のあ った地とされている。この関は天智の頃設けられ延暦8年(789)に廃止された。 峠を越え、2kmも進んだあたりの坂の途中にたかさ3mほどの「親鸞聖人有乳 山旧跡」と刻した石碑が建ち、また右と左に「越路なるあらちの山に行きつかれ、 足も血しほに染むばかりぞ」と和歌を刻した石碑が建っている。親鸞がこの地に 建っていた医王院に一泊したという伝えがあるからである。『義経記』には、奥州 に下向する義経がこの山の名を尋ねたところ、あらい山路のため人が足から血 を流すので「あらち山」と名づけたと記している。 この道は山が幾つも重なって敦賀に達するため、敦賀の近くまでは潮の香が しない。親鸞は松原に辿り着いてはじめて海を見たのであろう。生まれて初めて 見る荒々しい日本海であった。色も濃くて深い。比叡にいた時波静かな琵琶湖は よく見ていた。その何百倍もの広さである。 『教行信証』には海の文字が80字記されているそうだ。親鸞はきっと海が好き なのだ。寄せては返し返しては寄せる波は、まるで浄化作用があるように、人の 心の塵芥を洗い清めてくれる。 ※ 越後松原に入った親鸞は北陸道を北上し、木ノ芽峠を越え今庄を経て越前の 国府であった丹生に向った。京の罪人はこの峠を越して北上せねばならず、この 峠を越えた国というところから「越の国」の語源になったという説があるくらい、 厳しくまた険しい峠である。今庄を過ぎ、南条近くになって初めて善法が開けて ホッとする。親鸞が木ノ芽峠の険しい山道を登り降りする姿が彷彿とする。 ※ 武生駅およそ5kmの地に真宗出雲路派の真柄山城福寺がある。長い参道の先 に山門、その奥に本堂があり、山門手前に「正二位権大納言平頼盛御廟所」とい う3mもある石碑が建っている。この寺は寺域約3000坪。平氏一門の菩提寺で、 頼盛とその母池禅尼の墓所でもある。 伝えによると、城福寺は平清盛の弟頼盛の子保盛の開いた寺である。保盛は 父頼盛の荘園が越前にあり、また自身も越前守になったこともあり、平氏没落の 際に真柄に住んでいた乳母を頼ってきた。そして、そこで平氏一門の菩提を弔っ ていた時、越後に下向してきた親鸞にたまたま逢い、教化を受けて弟子になり、 如成という法名を受けて一寺を建立し城福寺と名づけた。最初に寺が建てられ た真柄は北西およそ2kmの地にある。 その後、一向一揆や信長との関係もあって、現在地の東400mの五分市に寺基 を移し、さらに寛永元年(1624)に現在地に寺基を定めたそうである。そして越前 福井藩主が平氏供養に参詣、ために庭園が元録に造られ、観桜のために代々来 訪したという。 なお、この寺の西300mの地に真宗出雲路派の本山豪摂寺がある。寺伝による と、親鸞が天福元年(1233)61歳の時、京都出雲路に一宇を草創し、長子の善鸞に 与えたのが始まりという。その後幾多の変遷があり、慶応元年(1596)、現在の地 に寺基を定め現在に至っているという。 ※ 鯖江には、鯖江駅北西700mの繁華街に真宗誠照寺派の本山九晶院誠照寺が ある。8000坪という広い寺域に下がり藤の紋を棟に三つ打った大きな御影堂と 阿弥陀堂が両面に並び、庫裡、忠霊堂、鐘楼、経蔵などが程よく配置されている。 この寺は同じ鯖江市の証誠寺、武生の豪摂寺、福井の専照寺とともに「越前真宗 四箇本山」と呼ばれている。 鯖江はこの誠照寺の門前町として栄えた。また寺の四脚門は左甚五郎の作と 伝えられる唐獅子と龍が彫られており、その彫刻が余りに見事なため、鳥も恐れ て近寄れず、鳥棲まずの門といわれている。 ※ 広い墓地の裏手の高台に上野別堂を見つけることができた。誠照寺からおよ そ500mであろうか。また鯖江駅の南西500mの地にある。坂の下の別堂の入口 に「本山誠照寺、上野別堂」「親鸞聖人御旧跡、車の道場」という石碑が2つ並ん で建っている。そこからわずかに登ると平地があり、その上の平地に別堂の比較 的新しい間口6間ほどの本堂と庫裡などがあった。 寺伝によると、配所に向う親鸞から、波多野景之が一族と共に鯖江の屋敷で法 話を聞いて歓喜し、その屋敷を念仏の道場にしたという。そしてその時親鸞は、 護送用の輿車に乗って立ち寄ったので、その道場を「車の道場」と呼んだと伝え られている。 承元の世をまのあたり春の風 句仏がこの寺に参詣した時の句である。句仏とは東本願寺23世彰如の俳号であ る。なお、鯖江駅東1.5kmに真宗山元派本山の山本山証誠寺がある。寺伝による と、親鸞が越後下向の時、今立郡本庄に宿泊し、光明本尊を残したのを起源とし ている。また鮒江田町の立光寺は、親鸞が茶漬けに出された焼栗を植えたら芽が 出て木になり、三度栗といって年に三度花が開いて実を結ぶようになったと伝え られている。 ※ やがて福井の町に入った親鸞は、福井駅西南1.5kmの橘家に一泊し、南無阿弥 陀仏の名号を書いたという伝えがある。その橘家の南すぐの地に真宗山門徒派 本山の中野山専照寺がある。また、福井駅の東16kmの永平寺は、親鸞が下向した 時から38年後に創建された。 その後、親鸞は洪水に遭って寄安の長者の所に3夜逗留した。長者が菓子に黄 楊の楊枝を出した。親鸞は仏の教えが栄えるのであれば芽を出せといって地に 差したところ、その日のうちに芽が出たという。そして長者の願いによって十字 の名号を記したと伝えられている。 ※ 三国町加戸にある法性山常楽寺は、もともと天台宗であったが、越後に向う親 鸞から教えを受け真宗に改めたと寺伝はいう。またおなじ加戸にある高本流院も もとは三国湊の律宗の寺であったが、親鸞に帰依して真宗となり、現在の地に寺 基を移したと伝えられている。 ※ 北陸道を北上した親鸞は、金津の細呂木を経て加賀に向う。途中、北潟湖が見 えてくる。幅1km、長さ6kmの細長い湖で、この湖が日本海に出る所に吉崎がある。 吉崎は本願寺8世蓮如がこの地に来て、わずか4年の間に浄土真宗を驚異的に 弘めた地であるが、当時親鸞知る由もなかった。この吉崎から2km戻った地に、 音にきくのこぎり坂にひきわかれ、身の行くすえはこころ細呂木 と、親鸞の和歌を刻した石碑が建っているそうである。 ※ 吉崎から東北3km大聖寺川沿いの加賀市三木町に真宗大谷派の勝林寺があ る。北陸道の朝倉駅はこの近くにあったといわれている。だが、寺のある集落は 人気がない。幾つかの石段の上に比較的新しい山門がある。それをくぐると、さ ほど広くない境内の正面が本堂、右手が庫裡、左手に可愛らしい小さな墓石があ る。側に与市の墓と刻した小さな石碑が立っている。石見国の浅原才市や越中の 赤尾の道宗らに代表されるような妙好人で名高い与市の墓である。 妙好人というのは浄土真宗の篤信者のことをいい、この寺の門徒である与市 は江戸中頃にこの地で生まれ、若い時毎晩5里の道をいとわず、越前三国に法話 を聞きに出かけたという、その篤信ぶりは履善の『教導記』に詳しく紹介されてい る。 伝えによると、この地の北の丘陵に天池山勝林院という真言宗の寺があった が、了順という住職の時、越後に向かう親鸞がこの寺に立ち寄った時、教えを受 け改宗したという。この地に寺基を移したのは寛永2年(1625)の時であるそう だ。 ※ 朝倉駅を北上し、潮津駅、安宅駅を過ぎると比楽の駅のすぐ側の美川町南条に 真宗大谷派の浄願寺がある。徒歩で手取川から5∼6分の所で、北陸本線美川駅 から5分くらいであろうか。 『日本寺社大観』によると、承元元年、親鸞が越後に下向した時、たまたま手取 川が出水して、その上風雨が強かった。そこで親鸞が九字の名号を書いて川に投 げたところ、たちまちにして風雨が収まったという。この様子を見ていた渡し守 の藤塚嘉藤太は大いに驚いて親鸞の弟子になり、この寺を建てたという。その後、 覚如や蓮如がこの寺に来錫したという。また、ある書によると、この寺はもと天台 宗であったが、親鸞から教えを受け九字の名号をもらった縁で真宗に改宗したと いわれている。 道路に面した山門はさして大きくはないが、楼門で階上に鐘がぶら下がってい る。山門が鐘楼の役目をしているのであろう。 ※ 北陸道の田上駅にあった金沢を北上すると、倶利伽羅峠がある。加賀越中の境 である。標高300mに満たないこの峠は、それでもなかなかの見晴らしである。木 曽義仲が夜陰に乗じて数百頭の牛の角に松明を立て、「田単火牛」という奇襲作 戦によって総攻撃をかけ、平氏を谷に攻め落として大勝した倶利伽羅合戦のあっ た峠である。 雨が降ると、現在でもすすり泣きの声が聞こえてくると言われているが、その 合戦は親鸞がこの地を通った時から30年も前のことである。 ※ JR富山駅南500mの安田町に館定山極性寺という真宗大谷派の寺がある。 『富山大百科事典』によると、この寺は延長元年(923)北陸道の水橋駅のあっ た新川郡館村に真言宗の寺として創建され、教順の時越後下向の親鸞の弟子と なって越後の国府に同行した後、帰国して教化に努め、真宗に改宗したという。 この時教順が、 我が法は賎山かつの九十九髪、結うも結われず解くもとかれず と詠むと、 我が法は朝なでし稚児の髪、結うも結わるる解くもとかるる と親鸞が答えたと伝えられている。 寺は現在の魚津市、滑川市、富山市とめまぐるしく寺基を移したそうである。 また、『遺徳法輪集』に、「昔より越中には三坊主とてあり、聖人御直弟子なり。 願海寺、持専寺、極性寺、是れなり」と記しているように、越中三坊主の一人であ る。すると、昔はかなりの大寺であったのであろう。ご本尊は行基作と伝えられ、 他に行基作の聖徳太子像、法然筆による六字名号など、寺宝が多いのは寺に歴 史があるからであろう。 ※ 富山駅南東600mの柳町に真宗大谷派の極成寺がある。 極性寺と漢字の寺号も似ていれば、その読み方もまぎらわしく似ている。そし てまた山号は同じ館定山と号し、その成り立ちもほとんど同じようである。もと寺 号を極性寺といったが、本山の命令で寛文12年(1672)今の寺号に改めたそうで ある。 こちらの寺は本堂前の石柱に「本願寺二十四輩」の文字が刻されていた。 ※ 黒部市の三日市は北陸道の布施の駅があった所といわれている。 繁華街のほぼ中ほどに辻徳法寺という真宗大谷派の寺がある。街中にしては 境内が広々としてその片隅にかつての下寺であろう、2ヶ寺が建っている。 寺伝によると越後下向の折り、この地で親鸞は一夜の宿を借りようとしたが、 誰一人として貸す者はいない。幸いにして辻源衛門の門前に石があったので、親 鸞はそこで休んでいた。源衛門が邪見の眼で親鸞を見ていると、親鸞の眼から光 明が放っている。夫婦は、これは聖者であると家に招き、終夜にわたって教えを いただいた。そして弟子になり、祐円という法名を賜った。別れに際して、親鸞は 「帰命尽十方無碍光如来」の十字の名号を染筆した。源衛門は後に一宇を建立し、 その名号を本尊にしたという。 また、襖の陰で法話を聴聞していた経田屋の老婆は、親鸞の出発に際して、食 事の後串柿を出した。親鸞はたいそう喜んで、「我が法末世に栄えるならば再び 芽を生ぜよ」と、炉中にあった半焼の串柿の種を植えた。やがて芽が出て繁茂し た。その芽は3本とも同じ根のように繁茂したので三本柿と人々は言ったという。 この話は『遺徳法輪集』にも出ている。 法衣に着替えられた住職が宮殿の扉を開くと、ご本尊の十字名号が現われた。 この寺の親鸞筆の十字名号は「辻名号」ともいわれ、川越六字名号・柿崎九字名 号とともに、北陸の三名号と言われているそうである。 寺の正面の街路に面した地に、玉垣で囲まれた一本の老樹がある。これが三 本柿であり、市指定史跡になっている。また、親鸞が休んだ石という聖人腰掛石 が三本柿のすぐ側にある。 ※ 黒部市金屋に長井山浄永寺と号する真宗大谷派の寺がある。 伝えによると、篠原の合戦で戦死した斎藤別当実盛の孫に斎藤五、六という兄 弟がおり、平家が滅んだ時に2人とも仏門に入ったが、弟の六は越後下向の親鸞 と会い、その教えを得て帰依して宗玄という法名を授けられた。また、兄の五の 息子である源蔵は天台宗の寺を創建していたが、親鸞がその寺に3日宿泊したこ とから親鸞に帰依し、宗真という名に改め、寺も改宗したと伝えられている。 ※ 黒部を発ち入善を北上すると、間もなく越中・越後の国境である。 境を超えると市振で、ここから外波までの約7000mが親不知、外波の東の歌 と青海の落水までの間約3500mが不知子知。共に切り立つ絶壁の海岸で、古来 北陸道最大の難所。芭蕉も『奥の細道』に、 今日は親知らず、子知らず、犬もどり、駒返しなど云う北国一の難所を越えて つかれ侍れ。 と、ぐったりした様子がありありである。古くは山中にも道があったにや思われる が、こんな難所を親鸞はいつ、誰と、どこの道をどんな思いで越えたのだろうか。 ※ 青海町外波に真宗大谷派の飛龍山大雲寺がある。 外波は見たところ20数件の集落である。集落を貫通する街道から少し奥まっ た一段高い場所に寺がある。 寺に伝わるところによると、親不知の難所で渡れないで困っている親鸞を立 竦(たちすくみ)という老いた漁夫が背負って渡し、その後姿を消した。そして外 波村に住む右近大夫平宗昭の妻佐野が仏檀を見ると、安置している立竦如来が 後ろ向きになり、足に砂をつけて腰から下が水に濡れているのに気がついた。親 鸞はつい先刻、夫婦から一夜の宿を断られ、門前の石を枕にして休んでいた。夫 婦は親鸞が如来に背負われて親不知を渡ってきたのを知り、早速家に招いて帰 依し、宗昭は宗雲という法名を賜り、家を寺にしたのが大雲寺の始めという。 寺宝として立竦の如来などがあるそうで、また境内には親鸞の枕石が置かれ ていた。 外波を出れば居多浜は目と鼻の先くらいに考えていたが、荒波に面した海岸 は60kmはゆうにある。なお、『遺徳法輪集』に、 聖人外波よりお立ちなされ、小野浦というより・・・小田の浜へあがり給うと ころの伝説なり。 と書かれているように、能生町の木浦(このうら)で船に乗り、海路居多浜に向っ たともいわれている。また、国司は越中から越後に入ると、魚津から船に乗り郷津 に着き、居多浜に上陸したといわれ、親鸞も国司と同じようなルートを辿ったとい う伝えがある。 我々は、親鸞が越後に流されたと知っても、当時の状況というものを明確に知 らないため、普通はどうしても現代の感覚でそれを捉えてしまう。だが、親鸞の 越後下向を振り返ってみると、 愛発の峠 木ノ芽峠 福井・金沢の平原 倶利伽羅峠 富山の草原 親不知・子不知 の難所を越えての旅は余りに長い長い、辛く厳しい旅であった。(新妻久郎)
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