第3章 丹波王国

第3章 丹波王国
第1節 丹後の古代遺跡について
ガラス釧(くしろ)が、平成10年9月に、与謝野町岩滝の阿蘇海と天橋立を見下ろす高
台に作られた弥生時代後期(西暦200年頃)の墳墓(大風呂南1号墳)から出土した。
鮮やかなコバルトブルーのガラスの腕輪が完全な形で出土したのは国内で初めてで、今で
は国の重要文化財になっている。
奈良国立文化財研究所の成分分析によれば、中国産のカリガラス製である可能性が高い
ことが判った。その他にも銅釧13・ガラス勾玉6・管玉363・
鉄剣15・鉄鏃など
当時の貴重品が多数埋葬されていた。当地方には、古代から日本海ルートで大陸と交流す
る強大な力を持った集団が存在していたのである。
ガラス釧(国指定重要文化財)
また、平成11年には、和歌山県御坊市の堅田遺跡から、弥生前期後半の青銅器を作るた
めの日本最古の鋳型が見つかった。これは九州で発見されたものより古い。したがって、
渡来文化がいったん北部九州や出雲地方にもたらされ、しばらく経って近畿地方に伝わっ
たという従来の考えを完全に覆すもので、渡来の波は西日本一帯に、一気に押し寄せたと
考えざるを得ない。その中心的な地域として丹後が今浮かび上がってきている。
渡来人は、朝鮮半島からのものが圧倒的に多いが、黒潮にのって南九州にやってきた。そ
のことを示す遺跡や伝承は南さつま市(合併前の加世田市)のものが有名であるが、確か
に「海の道」が太平洋にも日本海にもあったのだ。朝鮮半島における縄文時代の遺跡から
糸魚川産の翡翠が数多く出土しているので、日本列島と朝鮮半島との交易があったことは
明らかである。
渡来文化は、縄文時代からわが国に入ってきて、そのお蔭でわが国の文化は飛躍的に発達
する。そのことは間違いない。しかし、ここで私は、声高に主張したいのは、本来わが国
の技術水準は高く、日本の文化が渡来文化に頼り切っていたということではけっしてな
い、ということだ。このことについては、私のブログを是非ご覧戴きたい。
http://iwai-kuniomi.cocolog-nifty.com/blog/2013/05/post-3613.html
明治時代もそうだが、古代も外来文化を積極的に取り入れながら、それを日本化し、新た
な文化を創造する、それがわが国の特質であることを忘れてはならない。そのことを十分
認識していただいた上で、丹後地方の渡来文化の濃厚なところを勉強してほしい。丹後の
渡来文化については、伴とし子の「前ヤマトを創った大丹波王国」という力作があるの
で、是非、それを読んでほしい。
丹後地方では、すでに弥生時代前期末から中期初頭の峰山町扇谷(おうぎだに)遺跡から
鉄器生産に伴う鍛冶滓(かじさい)が出土しており、鉄器の生産が行われていたことが知
られている。このため丹後が古代の鉄生産の一つの拠点となっていたのではないかと考え
られている。
ガラスの釧(くしろ:腕輪)で一躍有名になった大風呂南遺跡だが、実は、「鉄」の遺跡
としても非常に貴重な存在なのだ。全国最多の11本の鉄剣が出土しているが、その内9
本は柄が着いておらず、「はじめから鉄製品を作るための素材だった可能性もある。」と
言われている。
弥生時代鉄製品の出土例は、平成14年現在、丹後からは330点を数えるが、同時期の
大和では13点にしかならない。
丹後の古代製鉄は大規模で、一貫生産体制のコンビナートであった。京都府立大学の門脇
禎二教授は、遠所遺跡から製鉄遺構だけでなく、鍛冶遺跡も発掘された事をとらえて、こ
こを奈良時代の一大製鉄コンビナートともいうべき、驚くべき遺構だと位置づけている。
しかしながら、丹後の古代製鉄の原料である砂鉄は、現在までの調査の結果、丹後地方の
ものではないことが判明している。原料の砂鉄はいったいどこから来たのだろうか? こ
の点は、まだ研究者間でも解明されていない。門脇教授によると、丹後地方には「車部」
(くるまべ)という氏族がおり、この「車部」は物品の運搬を司る氏族で、丹後の古代製
鉄の原料である砂鉄や、出来上がった鉄や鉄製品の運搬を担当していたのではないか、と
推論しているが、その砂鉄がどこから来たか、製品はどこへ運ばれたかについては依然
のままだ。
また、弥栄町溝谷の奈具岡遺跡(なぐおかいせき)では、弥生時代中期にあたる約200
0年前の玉作り工房跡が発見された。遺跡からは、水晶の原石、玉製品の生産
工程にお
ける各段階を示す未製品や、加工に使われた工具などが多数出土した。生産された水晶玉
は、小玉・そろばん玉・なつめ玉・管玉でした。ここでは、原
石から製品まで一貫した
玉作りが行われており、国内でも有数の規模と年代を誇っている。水晶玉とともに中国や
朝鮮半島から入ってきたと考えられる鉄製工具類なども大量に見つかった。これは、九州
北部よりも先に鉄加工の技術が伝来していた可能性を示すものとして注目されている。
この奈具岡遺跡(なぐおかいせき)については、次のホームページが詳しくて判りやす
い。
http://inoues.net/tango/naguoka.html
さらに、平成13年5月、宮津市の隣、加悦町の日吉ヶ丘遺跡からやはり弥生時代中期後
半の大きな墳丘墓が発掘された。紀元前1世紀ごろのものである。30m×20mほどの
方形貼石墓といわれるスタイルで、当時としては異例の大きさである。墓のなかには大量
の水銀朱がまかれ、頭飾りと見られる管玉430個も見つかった。しかも、墓に接するよ
うに環濠集落があるようだが、これについては今後の調査が期待される。この墓は、あの
吉野ヶ里遺跡の墳丘墓とほぼ同じ時代で、墓の大きさも吉野ヶ里よりわずかに小さいが、
吉野ヶ里の場合は、墳丘墓には十数体の遺体が埋葬されているのに対して、日吉ヶ丘遺跡
の場合はただ一人のための墓である。当然、王の墓という性格が考えられ、「丹後初の王
の墓」と考えられる。
全国的に見ても、この時代にはまだ九州以外では王はいなかったと考えられているが、
丹後では王といってもよい人物が登場してきたわけだ。
第2節 物部氏の祖神・ホアカリ
はるか遠い先祖に渡来人を持つ場合、よほど言葉に注意をしないといけない。ゆめゆめそ
の子孫を渡来系などと言ってはならない。今私は,物部氏の系譜を語ろうとしている。物
部氏のはるか遠い祖先は、確かに渡来人であるかもしれない。しかし、混血に混血を重ね
て、物部氏という言葉が生じた古墳時代には、物部氏はすっかり日本人になっているので
あって、古墳時代の物部氏を渡来系と呼ぶのは適当ではない。
技術というのは伝承されるので、その技術の源流に渡来人の技術があれば、その技術者集
団を物部氏が統括するということがあったかもしれない。一般的に言って、職能集団とい
うのは、結束が硬く、同じ神を祀っている場合が少なくない。だから、古くからその職能
集団を束ねているボスというのは、代々、そのボスとしての地位を引き継いできたと思わ
れる。今、私が重要な関心を持って話をしたいのは、鉱山師並びに冶金の技術者集団とそ
れを統括してきた物部一族のことである。そして、私が今申し上げたいのは、物部氏を渡
来系の氏族というのは、あまり適当ではないということだ。古墳時代の物部氏は、その後
の秦氏もそうだが、鉱山師と冶金の技術者集団を統括していたらしい。それらの源流に、
渡来人がいたとしても、物部氏や彼が率いる技術者集団を渡来系というのは、適当ではな
い。彼らは、すっかり日本人になっているのであって、いつまでも渡来系というのは、如
何なものか。私はそう思う次第である。
しかしながら、後年は混血によってもはや渡来系と呼ぶのは適当でないとしても、その源
流に渡来人、そして渡来文化があるという意味で、便宜上、渡来系一族と呼ぶ方が彼らの
特質を言い当てている。したがって、私は、今後、あまり厳密に渡来系という言葉を使い
分けしないので、お許しいただきたい。前節で述べたように、日本の技術力というもの
は、縄文時代から、否旧石器時代から連綿と続く世界に冠たるものであり、外来技術が
入ってきても、すぐに日本化してしまうのである。確かに縄文時代から弥生時代、そして
古墳時代に、日本列島には外来文化の波が押し寄せてきた。しかし、それをもって、日本
が中国の植民地であったかの如く考えてはならない。そのことを十分ご承知いただいた上
で、私は,物部氏の祖神ホアカリのことを語りたい。渡来系という言葉が時々出てくかも
しれないが、渡来系という言葉については以上に述べた通りなので、その点、ご注意願い
たい。
伴とし子という人がいる。丹後の人で、学者ではないが、永年、「海部系図(あまべけい
ず)」の研究をした人で、「前ヤマトを創った大丹波王国・・・国宝・海部系図が解く真
実の古代史」という本(平成16年1月、新人物往来社)がある。それにもとづいて「丹
後王国論」を展開している人である。
http://www.youtube.com/watch?v=XzifEGky4Sg
私は、これから国宝「海部系図」によって明らかになる古代史の真実について、その結論
部分を紹介する。彼女がなぜそういう結論に達するのかは、是非、「前ヤマトを創った大
丹波王国・・・国宝・海部系図が解く真実の古代史」という本を読んでいただきたい。そ
れでは、以下に、国宝「海部系図」によって明らかになる古代史の真実についての結論部
分を紹介しよう。
1、「海部氏系図」には、海部氏の始祖として「彦火明命」とあり、「正哉吾勝勝也速日
天押穂耳尊」「第三御子」と書かれ、天孫の一人であることが明記されている。
2、ホアカリノミコトは、丹波国(今の丹後)の凡海息津嶋に降臨した。これは、今、冠
島と呼ばれている。そして、養老3年3月22日、籠宮に天降る。
3、天孫降臨した人物は、ニニギノミコトとホアカリノミコトである。そして、ニニギノ
ミコトは、九州に降臨したのである。そして、ホアカリノミコトは、丹後に降臨したので
ある。
4、問題の焦点は、天皇家の流れに当たるニニギノミコトと、この海部氏の祖であるホア
カリノミコトとはどういう関係か、ということである。兄なのか、弟なのか。政権を持つ
のはどちらなのか。
5、丹波系伝承では、ホアカリノミコトが第三御子、すなわち弟となっている。
6、今の感覚では、家を継承するということに、通常、兄も弟もないが、長く儒教の影響
をうけてきたため、兄が継承する風習があった。つまり、長子相続であった。
7、「海部氏系図」の注目点であるホアカリノミコトが「第三御子」であるという注釈
は、重大な意味を持つ。ホアカリノミコトを「第三御子」と注釈したことからは、そのこ
とを、伝えようとしたのが「第三御子」の表示だったのだ。
8、ヤマトスクネノミコトの妹の名に「
木地方が浮上するのである。古代
前、奈良、
木」とある。こうしたところから、ヤマトでも
城王朝説がある。これは、大和朝廷が成立する以
城地方に発生し、崇神天皇に滅せられたとするものであり、この論のすべて
に同意とはいかないが、この古代王朝が深くかかわったことは否めないと考える。
9、アマテラスの孫に当たるホアカリノミコトは、まぎれもなく、丹後に降臨し、ホアカ
リノミコトの三世孫に当たるヤマトスクネノミコトが大和に入ったのである。
10、ヤマトスクネノミコトといわれても、ちょっとピンとこないというのが本音ではな
かろうか。ヤマトスクネノミコトとはどういう人なのだろうか。
11、このヤマトスクネノミコトの存在意義とは、非常に大きなものがある。
12、「海部氏勘注系図」の記録を見ると、神宝は、ヤマトスクネノミコトも祖神から受
け継ぎ、そして、次代にも伝えたということが判る。
13、神武東征について、これを崇神の東征とか応神の東征などといろいろな説がある。
私見によれば、「記紀」の神武東征伝説は応神の東征をあらわしていると考えている。そ
して、神武を水先案内したウズヒコはヤマトスクネノミコトである。
14、いわば、ヤマトスクネノミコトがたどった丹後・丹波∼近江∼山城∼大和、この
ルートこそ最初の東征ルートといえるのではないか。
伴とし子の
国宝「海部系図」に関する解釈は以上の通りである。私は、彼女の解釈は正
しいと考える。しかし、私がこの一連の論考においては、彼女の
国宝「海部系図」に関
する解釈は私の論考の傍証にとどめて、もっと大きな歴史の流れのなかで、邪馬台国のこ
と、物部氏のことを考えていきたい。前節で述べたように、丹後には輝かしい王国があっ
た。そして、丹後王国と近江王国と
城王朝とは深いところで繋がっている。そのことを
しっかり抑えておけばそれで十分である。それでは丹後王国に引き続いて、近江王国につ
いて語ることにしよう。
ヤマトスクネノミコト