しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。

大きな利益の道
「しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。」6:6
一世を風靡したホリエモンこと堀江貴文氏が二年半の獄中生活を告白。刑務所での初月給が267円だったそうです。彼は、
刑務所でどうしても欲しかったスポーツサンダルを半年かけて手に入れた喜びを語りました。一時は、25億のプライベートジ
ェットを所有し欲しいものは何でも買えました。しかし、すべてを失い、獄中で働く事を通して、ものの大切さ、お金の大事さを
学びました。聖書は「大きな利益の道」は、敬虔によると教える。聖書が教える大きな利益の道とはどの様なものでしょう。
Ⅰ.キリストの健全なことばへの同意
「私たちの主イエス・キリストの健全なことばと敬虔にかなう教えとに同意しない人がいるなら、」v3
まず、大きな利益の道は、キリストの健全なことばへの同意によります。キリストのことばは、人を建て上げるものです。キリス
トのことばによって、言葉、態度、考え方、生き方が建て上げられます。健全という言葉は、英語で Sound と訳す事ができます。
Sound が調和、バランスが不可欠であるように、神の健全なことばに同意する時人は、調和とバランスのとれた健全な状態
に建て上げられますい。同意するは、愛着を持って近づくという意味があります。神のことばに同意し愛着を持って近づき実
践する時それは大きな利益となります。ある時、イエス様は漁を終えたばかりのペテロに深みに漕ぎ出して網を下ろしなさ
いと言われました。漁を終えたばかりの彼は疲れていました。漁師としての経験がありました。しかし、彼がイエス様のことば
に同意した時、大きな利益を得ました。「でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。そして、そのとおりにすると、たくさん
の魚がはいり、網は破れそうになった。」ルカ 5:5-6 私たちもキリストの健全なことばに同意する者でありたいと願います。し
かし、聖書は同意しない人の姿について教えています。「その人は高慢になっており、何一つ悟らず、疑いをかけたり、ことば
の争いをしたりする病気にかかっているのです。そこから、ねたみ、争い、そしり、悪意の疑りが生じ、また、知性が腐ってしま
って真理を失った人々、すなわち敬虔を利得の手段と考えている人たちの間には、絶え間のない紛争が生じるのです。」6:4
-5 同意しない人は、高慢になります。高慢とは煙に巻かれることです。人は、高慢になると煙に巻かれ自分も周りも見えな
くなってしまいます。高慢になった人は、①何も悟ることができません。神のことばの真意を何一つ理解できず、返ってみこ
とばに対してひとつ一つ疑いをかけます。②病気にかかります。言葉の争いの病気にかかると、妬み、争い、そして、悪意の疑
りが生じます。③真理を失います。今まで学んできたことを否定し、正しい判断をすることができなくなるのです。④敬虔を
利得の手段と考えます。成功のためのスキルアップを図る How to ものがあります。それと同じように、本質を見失い、目的が
自分の利益追求になってしまうのです。旧約時代ウジヤ王は、祭司ゼカリヤの存命中は、神を認める王としてユダをしっかり
治めました。しかし、ゼカリヤが死に、自分達が強くなると高慢に陥り、自分の身に滅びを招きついには自分自身がらい病に
かかってしまいました。私たちは、絶えずキリストの健全なことばにアーメンと同意する者となりましょう。それは、自分自身
だけでなく周りの人々にも大きな利益をもたらすからです。
Ⅱ.満ち足りる心を伴う敬虔
「しかし、満ち足りる心を伴う敬虔こそ、大きな利益を受ける道です。」V6
二つ目に、満ち足りる心を伴う敬虔こそ大きな利益の道です。満ち足りる心は、今もっているもので満足する事です。ダビデ
は、満足する人でした。「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」詩篇23:1 乏しいことがないとは、不満も不平も
なく、満足していることを表しています。パウロも同様です。「乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっ
ても満ち足りることを学びました。」ピリピ4:11 牢獄に捕われている時でもどんな境遇でも満足する心を持っていたのです。
一方満足しない人は、どれだけ多くを持っていても満足することはありません。丁度蛭の様です。蛭は、体重の10倍~20倍
の血を吸います。はちきれそうになっても求め続けます。正に満足しない人の姿です。「蛭にはふたりの娘がいて、「くれろ、
くれろ。」と言う。飽くことを知らないものが、三つある。いや、四つあって、「もう十分だ。」と言わない。」箴言30:15 満ち足
りる心を伴う敬虔は、自分には何一つないことを認めることです。「私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一
つ持って出ることもできません。」V7 私たちは生まれた時何も持たずに生まれました。死ぬ時も同じです。どんなに多くの
財産を築いてもそれを持っていく事はできません。ヨブは、東の国で一番の富豪でしたが、家を失い、子どもを失い、財産を
失なって初めて、元々何一つなかったことに気づかされました。「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰
ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」ヨブ1:21 また、衣食で満足することです。「衣食があれば、それ
で満足すべきです。」V8 衣食は、なくてはならない最低限のものです。しかし、神はそれで満足しなさいと命じておられます。
そこに「住」は、ありません。何故なら、この地上でどんなに家がなくても天国という最高の場所がすでに約束されているか
らです。また、私達は金銭を愛することをしません。なぜなら、金銭を愛することがあらゆる悪の根だからです。私たちは、何
よりも神を愛します。たとえこの地上で何もなくても神を知ることができました。天の御国が与えられました。今日もう一度
これらのものを感謝して歩みを続けましょう。主は満ち足りる心を伴う敬虔を通して大きな利益を与えてくださいます。