農場経営の視点からのプロダクションメディスンの課題 木田 克弥

農場経営の視点からのプロダクションメディスンの課題
木田 克弥
帯広畜産大学 畜産フィールド科学センター 助教授
はじめに
わが国の産業動物獣医療において、プロダクションメディスン(PM)という概念が導入されて久し
い。今日では、産業動物獣医師の誰もが、程度の差こそあれ PM に携わっており、今や産業動物
獣医療=PM の時代になったと言えるだろう。
繁殖検診からスタートした酪農家(乳牛)に対する PM も、今日では極めて多岐にわたり、乳房
炎の搾乳立会とミルカー点検、代謝プロファイルテスト(MPT)による栄養管理診断、飼料計算・飼
料設計、牛の快適性や牛舎換気システム、伝染病(BVD-MD、ヨーネ病、サルモネラ症、PDD)や
蹄病対策など、実施項目には際限がないほどである。
一方、今日、酪農経営やそれを取り巻く環境もまた大きな変貌を遂げている。大規模な法人経
営や共同経営による雇用労働(サラリーマン従業員)、センター方式による TMR 製造、子牛委託
哺育システムの出現、そして家畜福祉にも配慮した飼育管理や生産物に対する「食の安全・安
心」といった社会からの負託などである。このような新しい時代を迎えている酪農経営において、
獣医師に対するニーズも当然ながら変化してきているものと考えられるが、それに対して PM サー
ビスは充分に応えているだろうか。
本講演では、酪農経営の始点から、演者自身が大学の農場経営(牛群管理)を通して体験し、
また直面している問題について、−ご批判と嘲笑を覚悟の上で―実例を列挙しつつ、話題提供し
たい。
-- 講師紹介 -----------------------------------------------------------------------------------------------------木田克弥 先生
1955 年 12 月 16 日生まれ
1980 年 帯広畜産大学大学院(臨床繁殖)修了
1980 年 滝上町農業共済組合に奉職
臨床獣医師として活躍
1987 年 北海道農業共済組合連合会家畜臨床講習所
(現 研修所)に勤務。MPT を活用した牛群検診システムを開発する。
2005 年 帯広畜産大学に勤務。
畜産フィールド科学センター助教授として、現在に至る。
乳牛の飼養管理と健康を研究テーマにし、聴診器・注射器をもたず、飼養管理の修正によって牛
群の生産病の治療を行なっている
信条;牛は健康に飼えば、能力一杯の働きをする
1. 帯広畜産大学畜産フィールド科学センターの概要
帯広畜産大学畜産フィールド科学センター(以下、センター)は、1975 年に建築したフリーストー
ル牛舎で乳用牛 160 頭(常時搾乳頭数約 60 頭)を飼養し、生産した生乳はセンターに併設する乳
製品工場で『畜大牛乳』に加工し、学内外に販売している。粗飼料は、循環型酪農を標榜しつつ、
約 120ha の圃場で栽培する牧草とトウモロコシにより完全自給している。これらは酪農部門 10 名、
牛乳製造 3 名の職員により運営し、また、搾乳は非常勤雇用の学生サークル「うし部」により朝夕
5 時から 2 回行われている。このように当センターは、中規模経営の酪農家、雇用労働による法人
経営、乳製品の加工販売を行う企業的経営といったそれぞれの経営体の要素を備え、今日の酪
農家が抱えるさまざまな課題を縮図のように抱えている。
2. 栄養と繁殖
2005 年、当センターは繁殖の失敗から例年 100 頭程度存在していた分娩牛が 59 頭にまで減少
し、搾乳牛消滅の危機に陥っていた。MPT 成績では、貧血、低蛋白血症、低尿素窒素が認められ、
牛群全体に BCS は正常なるも被毛につやがなく、粗剛感を呈していた。これらの所見は明らかに
蛋白欠乏を示しており、このことは、飼料給与診断からも明らかであった。そこで、大豆粕(蛋白飼
料)を補給するなどの対策を実施したところ、2 月の厳寒期でありながら被毛が生え替わり、その
後受胎率が向上し、2006 年には分娩頭数が平年並みに回復した。
本事例を検証したとき、そもそも、何故このような低受胎に陥っていたのかという疑問がある。こ
の理由として、2003 年から開始した研究的な受精卵移植の技術的問題と 2004 年夏季の猛暑の
影響が考えられる。それに加えて、栄養管理上の誤りも抱えていたようである。何れにせよ、一定
の繁殖効率を維持するためには、適切な栄養管理の徹底と正しい繁殖技術の遂行が不可欠であ
ることを痛感させられた。
3. 栄養管理の基本
(ア) サイレージ変質の問題
サイレージの変質に伴う、下痢や肝機能障害は、多くの酪農家にとっても日常的な問題で
ある。当センターでは、例年、コーンサイレージの一部はチューブサイロを利用して調製して
いたが、2005 年製造分では、チューブに多くの穴が開き、変質が目立っていた。そのため、そ
れを原料とする TMR は発熱し、採食低下が起き、月例の MPT では、カビ毒が原因と思われ
る肝機能障害が顕著であった。さらに、追い討ちをかけるように、取り出し部のフィルムをカッ
ターで切断する際に切断方法を誤り、サイロ全体が一気に裂けてしまう事故が発生した。そ
の結果、サイレージの大量廃棄を余儀なくされ、飼料不足を招くこととなった。
これらの事例は、明らかな人災である。チューブサイロの穴は、カラスの食害であり、これ
はチューブ全体をシートで被覆することで簡単に防止可能であった。また、チューブの破裂は、
担当者の交代に際してフィルムの切断方法が伝達されなかったことが原因である。要は、ほ
んの少しの注意と問題発生時の速やかな対応で、被害は最小に食い止めることが出来たは
ずである。あらゆる酪農技術には、何故そうしなければならないのか明確な理由があることを
酪農家は知っていなければならないし、獣医師もまた、そのことに無関心であってはならな
い。
(イ) 高品質サイレージ給与の問題
良質サイレージ調製は、最も優先されるべき粗飼料収穫の課題である。当センターにおい
て 2004 年秋に収穫された、アルファルファ3番草のラップサイレージは、まさしく高品質で、採
食性が極めて高かった。ところが、それをパドック内に設置している草架で給与開始して間も
なく、血乳症が多発した。原因は、草架に群がる牛の後方から、突入を試みる牛の頭突によ
る打撲であった。対策として、草架による給与を中止し、TMR に混合する方法に切り替えたと
ころ、血乳症の発生はなくなり、乳量も増加した。
この事例は、良質牧草の確保が重要なことはいうまでもないが、それをいかにして摂取さ
せるかについても考えなければいけないことを示唆している。例えば、分離給与において、い
かに良質な牧草が確保できても、そうでない牧草と交互に給与しようとすると、結局、そうで
ない牧草は採食されず、残飼として廃棄されることになる。その結果、牛群は乾物不足そして
栄養不足に陥ってしまうことも少なくないのである。粗飼料の調製に際しては、一年を通して
の給与方法まで十分に検討し、どうすることがその農場において最も合理的かを決定しなけ
ればならない。当センターでは、本年は、チューブサイロはシートで被覆して冬越しを行い、フ
ィルムの穿孔による腐敗は最小限に食い止めることが出来た。また、本年産のマメ科牧草は、
全て細切サイレージに調製し、TMR として給与している。
4. 牛の快適性と疾病(乳房炎)
牛の快適性(いわゆる、カウコンフォート)は、家畜福祉という観点からも、酪農経営上、無視で
きない時代が到来している。当センターの施設も、建築後 30 年の間に、さまざまな増改築が行わ
れ、至る所に構造上の不合理や欠陥が目立っている。例えば、搾乳牛のフリーストール牛床は壁
に向かって設置されヘッドスペースが確保されていなかったため、牛は牛床で横臥することを嫌い、
糞尿で汚染された通路やパドック内の草架周辺で寝ていた。その結果、牛体・乳房への汚染が著
しく、搾乳の作業効率低下や乳房炎感染の増加を招いていた。そこで、牛床の後方への延長と牛
床マットの敷設を行ったところ、牛床利用率が明らかに改善し、牛体汚染も減少した。
また、クローズアップ群でも乳房汚染が生じ、初産牛までもが分娩直後の乳房炎を発症する事
態に陥ってしまった。ここでも牛床で寝ない理由として、牛床の構造的欠陥が認められた。そこで、
火山灰牛床の保守と敷料の充填ならびにネックレールの位置調整を行ったところ、牛たちは劇的
にベッドで休息するようになり、牛体汚染が解消した。
本事例は、乳房炎発生の理由に関する職員との論議の中で、牛体汚染の問題が提起され、牛
体を汚さないためにはどうすればよいかというひとつの解決策として、牛床の改修に至ったもので
ある。カウコンフォートの重要性、特にそれが疾病や生産に直結することを再認識した事例でもあ
った。現在は、フレックスタイム制で早朝の搾乳時間帯にも除糞作業を実施し、いっそうの改善に
チャレンジしている。
5. クリプトスポリジウム症(Cr)とネオスポラ症(NC)の対策
子牛の下痢症の原因のひとつに、Cr がある。当センターにおいても、2005 年 2∼3 月に、出生
後間もない子牛の間に下痢が発生し、検査により本症と診断した。当センターの哺育は、生後数
日から自動哺乳機(哺乳ロボット)を用いた集団飼育を行っており、そのほぼ全頭の糞便からオー
シストが検出された。さらに、分娩房の床、育成舎の給水槽周辺の床の汚染も確認された。
対策として、哺育舎を一旦オールアウトして床を乾燥させた後、石灰乳塗布を行い、分娩房も同
様に石灰乳塗布を行った。子牛の管理に際しては、必ずゴム手袋を装着すると共に、オルソ剤に
よる長靴消毒を徹底したところ、下痢症の発生は解消した。
また、本症の牛群全体への浸潤状況を調査するために、抗体検査を実施したところ、下痢発生
終息直後の 6 月には検査頭数 131 頭中 14 頭、内 12 か月齢未満 12 頭が陽性であったのに対し、
半年後の 11 月には 145 頭中 5 頭、内 12 か月齢未満ではわずかに 1 頭のみが陽性となり、対策
が奏功したことが確認された。
本事例は、感染症の恐ろしさと防疫の重要性を喚起する絶好の機会でもあった。本症は、乳牛
にとっては、下痢から回復しさえすれば、その後は影響が殆ど認められないため問題視されない
ようである。しかし、ホル雄子牛を肥育する素牛導入農家では深刻な問題になっており、その対策
が急務であろう。さらに、言うまでもなく本症は人獣共通感染症であり、免疫を持たない一般の人
たち、とりわけ子供たちが感染牛に接触することが想定されるような農場では、特に注意が必要
である。
2005 年、当センターでは、妊娠 5∼6 ヶ月での流産が目立っていた。Cr 抗体検査に併せ、NC 抗
体検査を実施したところ、牛群の約 2 割の牛で抗体陽性が確認された。さらに、流産を確認した 8
頭ではその 6 頭が陽性で、流産が NC と関係があることが強く疑われ、2006 年 1 月に発生した流
産では胎児の病理解剖により NC が確認された。
本事例の侵入経路は明確ではないが、犬の糞中に排泄されるオーシストを経口摂取することで
感染するとされている。当センターでも各所に犬の足跡が認められたため、外部からの犬の侵入
防止の啓蒙を行った。本年は、1 月以降の流産発生は確認されていない。
6. 従業員に対する教育
PM において、獣医師は提案者であり、PM として提案された対策を酪農技術として実行するの
は酪農家(技術職員)である。また、さまざまな問題(原因)も、酪農家自身の日々の牛群観察の
中で発見され、提起されることが少なくない。新しい時代の新しい PM を成功裏に遂行するために
は、技術職員にも高い見識眼を醸成し、獣医師と共に取り組んでいただくことが不可欠である。そ
のためには、問題がある(疑われる)場所に共に足を運び、一緒に原因探求するバーンミーティン
グが有効であり、改善方策の提案に際しても、机上の論議に終始することなく、必ず現場で確認
すべきである。
おわりに
大学農場での、1 年半の経験から、演者自身、PM をその一側面だけで過大評価していたことを
思い知らされている。牛群の生産阻害要因は、日常の牛群管理の中に潜んでいるのである。獣
医師がやれることは、PM が扱うべき酪農技術のごく一部に過ぎない。獣医師は、酪農技術全般
に対して乳牛の健康や生産に及ぼす影響について深い洞察力を身につけなければならない。さ
らに、酪農家に対しても、酪農家自身が酪農技術を PM 的視点から検証できるよう教育していくこ
とも重要である。そして、それぞれの酪農家の経営目標を十分に理解した上で PM を実践してはじ
めて、PM は成功するであろう。