再生医療の可能性と倫理的限界 第1章 はじめに ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

再生医療の可能性と倫理的限界
2年7組 39 番
第1章
はじめに
第1節
第2節
第3節
研究の内容
2
研究の方法
1
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2
研究の展開
第1節
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3
再生医療の必要性
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・3
臓器移植における必要性
(1)臓器の不足
2
(2)免疫反応による移植臓器への拒絶
薬剤の安全な使用における必要性
第2節
1
これまでの再生医学の変遷と倫理的観点による評価
・・・・4
クローン
(1)技術的要点
(2)倫理的評価
ES 細胞(胚性幹細胞)
2
(1)技術的要点
(2)倫理的評価
iPS 細胞(人工多能性幹細胞)
3
(1)技術的要点
第3節
1
(2)倫理的評価
これからの再生医学・医療の可能性
・・・・・・・・・・・10
細胞単位での再生
(1)血液細胞
2
(2)神経細胞
組織単位での再生
(1)軟骨
3
(2)角膜・網膜
(3)心筋
器官単位での再生
(1)皮膚
第4節
(2)その他の臓器
再生医療の倫理的限界
1
人間の誕生に関する限界
2
人間の終末に関する限界
第3章
図
智裕
主題設定の理由
研究のねらい
研究の内容と方法
1
第2章
山中
終わりに
・・・・・・・・・・・・・・・・・14
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・15
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 17
再生医療の可能性と倫理的限界
所属:医学・歯学・医療系Ⅱ
2年7組 39 番
第1章
山中
智裕
はじめに
第1節
主題設定の理由
2012 年に京都大学の山中伸弥教授が iPS 細胞に関する論文によってノーベル医学・
生理学賞を受賞したことを一つの契機に、現代の社会では世界規模で再生医学 ・医療に
関する関心が高まってきていると言える。したがって、今後、技術開発やその応用にお
いて再生医学の重要度が高まっていくことは想像に難くない。しかし、人体の一部を再
生するといいうことは、見方によっては人格の一部を複製することであると捉えること
も可能である。そのような技術を医療において活用する際には、当然倫理的な観点から
何らかの制限が掛けられるはずである。
又、私は医療従事者を志す者として、その 可能性を理解することや、倫理的限界を見
極めること、あるいはその限界を知ることは有意であると判断した。これは、今後拡大
が予想される技術への理解が深まると同時に、他者の健康や命に少なからず影響を与え
る職業に就くにあたって不可欠な生命倫理・医療倫理について、その一端を知ることが
できると考えたためである。
以上の理由より、私は上記のテーマを設定した。
第2節
研究のねらい
本研究は、再生医療の変遷を辿るとともにその倫理的問題点の推移を理解し、その上
で今後想定される再生医療のあり方について、倫理的観点からその可否を 考察すること
をねらいとする。
また、研究全体を通して生命倫理についての理解を深め、将来職業に就くにあたって
の価値観を構築する一助とすることもねらいとしている。
第3節
1
研究の内容と方法
研究の内容
本研究は、現在の先端医療の一つである再生医療について、その変遷を辿ることを
通して今後の可能性を調査するとともに、倫理的観点からその内容を検討し、技術的
側面だけではなく倫理的な側面からも理解を深めるものである。
2
研究の方法
本研究は、文献及びインターネット上の情報を用いて行った。
尚、論文中の図表は全て後方のページにまとめた。
2
第2章
研究の展開
第1節
再生医療の必要性
これから再生医療の可能性について考察するにあた って、まずはその必要性について
検証する必要がある。この節では、再生医療が必要とされる理由について記す。
1
移植臓器における必要性
技術が進歩した現代においては、臓器が疾患に冒された場合に、他者の臓器を移植
することによってその機能を補完することが可能となった。しかし、このような解決
法には大きく二つの問題が残っている。
(1)臓器の不足
第一に挙げられるのが、絶対的な臓器数の不足である。臓器移植には大きく生体移
植と脳死移植がある。生体移植については移植可能な臓器の種類に限りがあったり、
あるいは生きているうちから自分の臓器を手放すことへの心理的拒絶があったりする
ために、あまり多くの移植はなされていない。一方の脳死移 植も、近年はドナー登録
への理解・関心が高まっており、移植され得る数は増加してきているが、脳死者から
臓器を必要とする患者まで臓器を運搬する時間を考慮する必要があったり、特定の種
類の臓器を希望する患者が多かったりするために、未だに十分であるとは言えない。
また、心臓などの一部の臓器を除いて、その機能を人工的な機械で補完することは
極めて難しいとされている。つまり、不足する臓器を工業技術によって補う ことは絶
望的であると言える。
しかし、再生医療に関する技術が十分に発展すれば、患者自身の体細胞をその素材
として、新たに臓器を作り、そして移植することが可能になる。 この技術が実用化さ
れれば、金銭的な問題を除き、全ての患者が、必要とする臓器を手にすることができ
る。
(2)免疫反応による移植臓器への拒絶
ヒトが、他者の臓器に対して拒絶反応を示すことはよく知られている。これは特に、
HLA(ヒト白血球型抗原)と呼ばれるタンパク質が引き起こす。したがって、臓器移
植を行う際には、できるだけこの HLA の型が近い臓器を用いる必要がある。しかし、
この型が完全に一致する人物がいる可能性は限りなくゼロに等しい。そのため、臓器
を移植した後は一生、免疫抑制剤を使用し続けなければならない。 免疫抑制剤を使用
すれば、当然本来の免疫作用も抑制され、感染症に対するリスクは大きくなる。又、
服用を忘れればすぐに拒絶反応が起こる危険もある。これらのリスクはその人の QOL
(生活の質)を低下させかねない。
しかし、再生医療技術によって、患者自身の体細胞から作られた臓器を移植するの
であれば、この問題は容易に解決できる。(ただし、現在の iPS 細胞生成技術を用い
た場合、完全に安全とは言い切れない。これは、生成段階で使用する、患者自身のも
のでない「因子」がどこまで影響力を持つかについて、現段階では明確 な研究結果が
3
出ていないためである。)
2,薬剤の安全な使用における必要性
現在使用されている薬剤のほとんどは、適正な審査を経て安全性が確認されている。
しかし、患者のほんの少しの異型遺伝子によって、予期しない重大な副作用が発生す
る場合がある。その数はアメリカのみでも年間約 200 万人であり、そのうち 10 万人
が死亡しているとも言われる。
これらの異型遺伝子は通常の生活においては特に問題をきたさないため、 現在では
予期することが難しい。しかし、培養された iPS 細胞や ES 細胞(詳細は後述)のよ
うな多能性の細胞を利用することによってこの問題は解決可能である。これは、培養
した細胞から体組織を作り、体外で薬剤を投与することによって、患者に直接投与す
ることなくその安全性を、患者一人ひとりに対して確認することができるためである。
尚、現在の段階では、前項で挙げた、臓器を再生するという利用法よりも、この薬
剤の安全性を確認するという利用法の方がより早期に実現可能なものとして研究され
ている。
第2節
これまでの再生医学の変遷と倫理的観点による評価
この節では、実際にこれまで研究されてきた再生医学の内容について、その変遷を 辿
り、またその倫理的観点における評価を示す。
ここで、これらの内容を倫理的に評価するにあたって、一定の倫理基準を定める必要
がある。そこで、本研究では書籍及び WMA の定める綱領等を参考にして、以下のよう
にその基準を定めるものとする。
①
人命は最大限に尊重される。
②
医療は患者の最善の利益のために行使される。つまり、医療の最大の目的は、患
者の QOL を向上させることである。
③
医学研究はその利益が患者のリスクや負担に勝る場合のみ行われる。
④
全ての人命は同等の価値を持つ。
⑤
人命は、受精卵より定義される。
①はジュネーブ宣言、②は医の国際倫理綱領、③はヘルシンキ宣言(いずれも WMA)
の内容を解釈し直したものである。④は、基本的人権の尊重を掲げる日本国憲法を参考
にした。⑤については、受精以前の生殖細胞は自然の状態で放置しても人間とならない
が、受精卵以降の段階においては人間となり得ることを 考慮して定めた。これは人工妊
娠中絶を容認する日本の法律に矛盾をきた すようであるが、法律によって妊娠 22 週未
満のみに規制されていることから、この場合は妊娠による親の QOL の低下が、望まれ
ない中でも生存することによる胎児の QOL の向上に勝ると判断されるものと解釈する。
尚、以降本論文中で用いる丸番号は、上記の基準の番号を示すものとする。
1
クローン
4
(1)技術的要点
クローンが再生医療の第一段階であると捉えることは、視点によっては誤りかもし
れない。しかし、クローンの代名詞のように扱われる、羊の「ドリー」に関する一連
の研究は、それまで不可逆的であるとされてきた遺伝子発現の可逆性を示した点にお
いて、その後の再生医学研究に大きな役割を果たした。 遺伝子は生体に関するあらゆ
る情報を持っているものの、細胞分裂をしてそれぞれの細胞が組織や器官の一部にな
るにしたがって、利用されない情報は読み取れなくなってしまい、これを「メチル化」
と呼ぶ。一般的に、メチル化が解かれることはないため、一度分化した細胞は他の機
能を持つ細胞に分裂することはできない。(図1)例えば、怪我をして出血したとき、
血球や血小板は止血こそするが、皮膚を修復することはできない。これをできるのは、
皮膚のもととなる線維芽細胞のみである。
しかし、
「ドリー」においては、もともと成体の羊の分化した細胞から採取した細胞
核を用いて新たな生体を作ることに成功した。これは、メチル化した DNA が再びメ
チル化以前の状態に戻ったこと(リプログラミングされたこと)を示す。なぜなら、
もしこの DNA がメチル化した状態のままであれば、その DNA からは分化した組織
のみしか構成されないはずだからである。
クローニングの手順を簡略化すると、次のようになる。(図2)
Ⅰ
体細胞から核を取り出す。
Ⅱ
核を取り出した卵細胞にⅠの核を融合させる。
Ⅲ
Ⅱの卵細胞を代理母の胎内に入れ、育てる。
「ドリー」の研究を成功させた Ian Wilmut 以前にも、受精卵の核を別の受精卵に
移植することによってクローンを作成した成功例はあったが、これはメチル化する以
前の DNA を用いているという点で再生医学の発端とは言い難い。 したがってクロー
ン技術の中でも特に、この「ドリー」に関する実験をここでは再生医学の発端と捉え
る。
この技術を用いることで、理論的には自分と同じ遺伝子を持った人間を作ることが
可能である。
(2)倫理的評価
クローニングは技術的に価値がある一方で、多くの倫理的課題があることは広く知
られている。特に、この技術をヒトに対して用いようとする場合、その障壁は大きい。
第一に、材料である卵子の入手方法に課題がある。考え られる方法としては、ボラ
ンティア女性からの提供、体外受精用の余剰 の提供、中絶胎児の卵巣からの摘出など
があるが、いずれにおいてもその是非を問う余地がある。そもそも生きている人間か
ら卵子を取り出す際には提供者に多大な負担を背負わせることになる。これは、倫理
的観点②からして不適切である。提供者との間で同意がなされているとしても、その
QOL が他者のために低下することは容易に認められるべきではない。又、亡くなった
胎児から摘出する際には、そもそも所有者である胎児との同意がなされるはずがない。
同意がなされない医療は傷害として捉えられる危険をはらむ。
第二に、作成されたヒトクローンのアイデンティティや人権に課題がある。クロー
5
ンとして生まれた人間であっても、個人としての意思が存在することは疑う余地もな
い。又、最近の研究では、人格は遺伝子だけではなく、その生育環境にも大きく左右
されることがわかって来ている。したがって、仮にヒトクローンを作成したとしても、
その意思はもとの遺伝子所有者と異なるものであると予測される。そのような一つの
独立した人格として存在するにもかかわらず、その存在理由は生命の自 然摂理に反し、
又自分は他の人間と根本的に違うことを突きつけられるクローンのアイデンティティ
は、他の人間に比べて自由を損なうものである。これもまた、②の QOL 低下に直結
する問題であり、容認されるべきではない。
加えて、クローンの HLA はもとの遺伝子所有者と同一であるために、クローンは
臓器のストックとして存在させられる可能性がある。これは①や④の観点から認めら
れるべきではない。人命は最大限に尊重され、それぞれの人命には同等の価値がある
とする以上、一方の人命を救うために他方の人命を失わせることは許されない。
そして最後に、技術的な安全性に問題がある。
「ドリー」の例を挙げれば、
「ドリー」
は一般的な羊よりも短命で、それにもかかわらず死期には老化現象が見られた。この
ことから、一般にクローンは最初から老化しているのではないかという考え方がある。
これは DNA に備わっている「テロメア」という塩基配列の影響だとされている。 テ
ロメアは染色体の末端の領域であり、ここでは「TATGGG」という塩基配列が 2000
回ほど繰り返されている。この繰り返し部分が、細胞分裂によって染色体が分裂する
度に数個から数十個ずつ失われ、全て無くなるとそれ以上細胞は分裂しなくなる。ク
ローンの場合は、細胞分裂を繰り返した段階にある体細胞の DNA を用いるために、
卵子に DNA を入れた時点で、既にテロメアが少なかったのではないかと言われてい
る。これが事実だとすれば、クローンは他の個体に対して著しく短命であることにな
る。これは④の基準を踏まえて考えると、 クローンの QOL は低下させられていると
捉えられるため、②の観点からして許されない。
又、体細胞の遺伝子を卵子に入れる行程では、遺伝子に異常が生 じることもある。
これはクローンが重大な先天性異常を持って生まれてくる可能性を示唆するが、これ
も QOL を低下させる要因となるため、許されることではない。
以上のことから、クローンは技術研究的分野、或いはヒト以外の種 における改良等
については価値のあるものだが、ヒトに対する研究や治療には倫理的課題が多く、開
発は推奨できないものである。
ES 細胞(胚性幹細胞)
2
(1)技術的要点
ES 細胞は、正式名称を「胚性幹細胞」といい、次のような手順で作成される。
Ⅰ
受精卵を一定の段階まで成長させる。
Ⅱ
成長した胚から幹細胞(ES 細胞)を取り出す。
ここで言う「一定の段階」とは、生物学的には「胚盤胞」と呼ばれる段階であり、
これはヒトの受精卵の場合は受精後5~7日目にあたる。受精直後の受精卵は細胞分
裂を繰り返すが、この胚盤胞に至るまでは全ての細胞が同じ働きをしている。しかし、
胚盤胞になる段階では、「栄養外胚葉」という羊水や胎盤に分化する細胞と、「内部細
6
胞塊」という胎児の身体に分化する細胞に分かれる。ES 細胞は、このうちの後者の
みを取り出し、人工的に培養したものである。(図3)したがって、ES 細胞は身体を
構成するあらゆる細胞に分化できるが、胎盤や羊水だけには分化できない。
ES 細胞自体が発見されたのは、先述の「ドリー」誕生よりも前である。しかし、
発見当初の ES 細胞の主な使用目的は、遺伝子操作をした細胞、組織、或いは個体を
作り、遺伝 子に関す る 様々な研究 を容易に す ることにほ とんど限 定 されていた 。 ES
細胞によって様々な遺伝子操作をした個体を生み出せるようになった結果、あらゆる
遺伝子がどのような働きをするのかが解明された。例えば、灰色のマウスの DNA の
うち、
「A」という遺伝子だけを働かせないようにした結果として白色のマウス が生ま
れたとすれば、
「A」という遺伝子は毛を灰色にする働きのある遺伝子であるとわかる。
加えて、人工的に細胞や組織を作り出せるために、薬品やあらゆる物質がヒトにど
のような影響を与えるかについて、実際に患者に投与することなく実験することがで
きる。これは技術的なハードルを下げることだけではなく、実験のコストを削減する
ことにも繋がることから、基礎研究の発展に大きく寄与する。
又、ES 細胞には多能性が備わっていることを考慮すれば、理論的には組織や臓器
を作成することも可能である。これが可能であれば、提供者が現れるまで臓器 を待つ
ことなく臓器提供を受けられるため、より多くの人命を助けることに繋がると期待さ
れた。
しかしこれらは、再生医学の直接的な成果とはなっていない。ES 細胞が再生医学
を担う重要な技術となり得たのは、クローンに関する一連の研究によって、DNA の
メチル化を解除できること、すなわちリプログラミングが可能なことが示されたため
である。従来の ES 細胞の遺伝子は、元々その受精卵が持っている遺伝子であった。
しかし、これにクローンの技術を導入し、リプログラミングされた遺伝子を組み込む
ことができれば、これらの技術は患者自身の遺伝子を持った細胞の培養に繋がる。
(こ
の細胞をクローン ES 細胞と呼ぶ。図4)この結果、患者個々に対する薬剤反応を事
前に調査したり、患者が免疫反応によって拒絶することのない組織や臓器を生産でき
たりする可能性が生まれた。そしてこれこそが、現在に至るまで再生医学の根幹をな
す考え方であると言える。
(2)倫理的評価
再生医療について大きな可能性を見いだしたのが ES 細胞であるが、ES 細胞もまた、
いくつかの倫理的課題を持っている。
第一には、その材料が受精卵・胚であることである。このことは多くの国で議論を
呼び、倫理的観点から ES 細胞について一切の研究を禁止する国や、研究のみを目的
とする胚の作成を禁止する国なども多い。又、研究のみを目的としない 、不妊治療に
用いた胚の余りを研究材料として活用するという考え方もある。しかし、いずれの方
法を用いたとしても、胚を破壊するという現実に変わりはなく、これは⑤の観点から
許されるべきではない。又、クローンと同様に、胚を採取するためには卵子を提供し
てもらう必要があり、これは提供者の QOL を低下させる一因と言える。
第二には、技術的な問題で、ES 細胞はしばらく培養すると「がん化」してしまう
7
ことである。そもそも ES 細胞とがん細胞は、その遺伝子発現状況からよく似ている。
そのためか、ES 細胞は、移植して分化させる際に、目的の細胞に分化するよう誘導
しておかないと高い確率でがん化する。又、この処理を行ってもがん化の確 率がない
とは言えない。がん化する危険のある細胞を人間の体内 に不用意に移植することは極
めて危険である。治療目的の疾病が完治したとしても、後にがんが発生するとすれば、
それは患者にリスクに見合った利益を与えているか どうか判断することを難しくする。
これは③の観点から考えると躊躇せざるを得ない。
しかし、ES 細胞が再生医学に対して与える利益は非常に大きい。一連の研究が示
した各遺伝子の働きやリプログラミングの技術は後の iPS 細胞の研究にも大きく役立
っているし、今後同様に有意な成果が上げられることが予測されている。これらのこ
とを考慮に入れると、研究のために胚の提供者に強いる負担や、或いはただ廃棄され
る運命にある不妊治療の余りを活用することによるデメリットは、研究成果によるメ
リットに及ばない可能性もある。
以上のことから、ES 細胞は現段階では技術的な安全性のために臨床研究に用いる
ことは推奨できないものの、基礎研究によって生命の仕組みを探るという観点におい
ては推奨されるべき技術であると考える。ただし、その材料が胚であることを十分に
考慮した上で、研究の名の下に過剰に胚が生産されたり、或いは胚の提供を 金銭取引
にしたりすることは避けるべきである。
iPS 細胞(人工多能性幹細胞)
3
(1)技術的要点
iPS 細胞は正式名称を「人工多能性細胞」といい、次のような手順で作成される。
Ⅰ
皮膚などの体細胞を採取する。
Ⅱ
細胞核に特定の遺伝子を組み込む。
iPS 細胞の最大の利点は、生殖細胞を用いることなく多能性を持っ た細胞を作成で
きることにある。又、材料となる細胞が患者自身のものであることも大きな利点であ
る。しかしその性質は ES 細胞とほぼ同様であり、ES 細胞における倫理的障壁を取り
払いながらも ES 細胞と同様の治療効果をもたらす可能性を期待されている。
細胞核に組み込む遺伝子は、2006 年の最初の論文では、「Oct3/4」「Klf4」「Sox2」
「c-Myc」の四つの因子であり、これらは一般に「山中因子」と呼ばれる。 これらの
因子を予め毒性をなくしたウイルスの RNA に転写し、そのウイルスを細胞に送り込
む。このウイルスはベクターと呼ばれ、送り込まれた細胞の核にある DNA を切断し、
そこに自分の持つ RNA、つまり山中因子を含んだ RNA の情報を取り込ませる。この
情報をもとにして作成されたタンパク質の働きによって、細胞はそれまで分化したも
のであっても「リプログラミング」され、多能性を得る。(図5)ただし、iPS 細胞の
場合も ES 細胞と同じく胎盤に分化することはできない。
しかし、山中因子のうちの一つ、
「c-Myc」はがんを引き起こす因子として知られる
ものである。そのため iPS 細胞はがん化が懸念され、実際に研究段階で作成された iPS
細胞の多くはがん化、もしくは(良性の)腫瘍化を起こした。ES 細胞の倫理的評価
でも述べたように、これは医学・医療分野での応用において大きな問題となり得る。
8
そこで現在は、
「c-Myc」を用いない方法や、その構造によく似た別の因子を使用す
る方法などで iPS 細胞を作成する技術が開発され、がん化のリスクは大きく減少した
と言える。又、ES 細胞と同様に移植の際には目的とする組織に分化するよう予め制
限することで、更にそのがん化のリスクは低下している。
加えて、遺伝子を組み込む方法にも問題はある。当初の方法ではもともとある DNA
の中に新たに RNA の情報を加えるため、結果としてできる DNA はもとの DNA と異
なっている。この変化は僅かなものであるが、この遺伝子改変が将来的に何らかの疾
病に繋がる可能性も否定できない。そこで現在ではもとの DNA に遺伝子を組み込ま
ないで iPS 細胞を作成する技術が新たにいくつも開発されている。例えば、同じよう
にウイルスを用いる方法でも、自己の RNA の情報を DNA 化できないウイルスを用い
れば、もとの DNA に新たな情報を加えることなく目的のタンパク質を作らせ、細胞
をリプログラミングすることができる。(図6)
このような特徴から、iPS 細胞は ES 細胞のあらゆる役割を代替することができ、
今後 ES 細胞の必要性はなくなると考えられることがあるが、これは誤りである。な
ぜなら、iPS 細胞があくまで人工的な混入物を用いてリプログラミングをし、多能性
を獲得している一方で、ES 細胞は人工的に分離させる行程があるとはいえ、もとと
なる内部細胞塊は自然発生的に多能性を獲得しているためだ。このことから、多能性
の精度についてはあくまで ES 細胞が基準とされ、それを追随する形で iPS 細胞の多
能性が確認される。つまり、ES 細胞は多能性の絶対的な基準として、これからも存
在意義があり続ける。
(2)倫理的評価
iPS 細胞は、これまで再生医学に関する技術につきまとっていたあらゆる倫理的課
題を克服したと言ってもよい。クローニングにおける倫理的課題はその作成過程と作
成物の両方にあった。しかし、ES 細胞は人格を形成し得ないために、このうち作成
物における倫理的課題をほとんど克服した。そして iPS 細胞は、その材料として生殖
細胞や胚を用いないために、遂に作成過程における課題をも克服した。
それでは iPS 細胞において倫理的な課題は全くないかというと、そうではない。現
在最大の課題と考えられているのは、細胞のリプログラミングの行程が解明されてい
ないことである。本来リプログラミングは 、生殖など一部を除いて自然界では起き得
ない。それを人工的に起こすことによって、何らかの異常が発生する可能性もある。
より患者に対する安全性を確保し、この技術を②のように患者の最善の利益のために
使うためには、行程に問題がないことを示す必要がある。そのためには行程自体を科
学的に解明するか、或いはマウス等を用いて、長期的・遺伝的に問題がないことを実
験的に示すかしなければならない。しかし、いずれの方法を採ったとしても時間が掛
かることは確かである。
又、がん化のリスクについても考慮すべきである。様々な技術によってそのリスク
は低下しているが、その発現の原理が解明されていない以上は、リプログラミングの
問題と同様に、安全とは言い切れない。
最後に、iPS 細胞があらゆる細胞に分化できる故の問題として、生殖細胞の生産が
9
挙げられる。この技術を用いることで、理論的には男性の細胞から卵子を作ることも、
女性の細胞から精子を作ることも可能である。更には、一人の細胞から両方の細胞を
作ることも可能である。すなわち、有性生殖の原則にとらわれることなく生殖を行う
ことが可能になる。このことを先に挙げた倫理基準によって評価することは難しいが、
同性婚が認められていない現在の日本における倫理観から鑑みて、現段階では倫理的
に不適当だと結論づけるべきである。
以上のことから、iPS 細胞はその医学研究分野における活用にはほとんど問題が無
いものと考える。ただし、その成果を医療分野において応用する際には、患者の利益
を損ない、QOL の低下を招くことがないように、事前にリスクを十分に低減しておく
ことが必要である。又、その活用分野は個々の人間の組織にとどめ、自然の摂理に反
する生殖医療に用いるべきではないと考える。
第3節
これからの再生医学・医療の可能性
前節では再生医療に関する様々な技術について検討してきたが、この節ではそれらの
技術が今後どのように利用される可能性を秘めているかについて検討する。また、前節
を受けて、クローンや ES 細胞など、数々の技術は技術開発分野においては大きな価値
がある一方で、倫理的観点を考慮すると、臨床応用には問題を抱えていると考える。 し
たがって、この節では再生医療に関する技術の中でも特に、iPS 細胞に焦点を当てて検
討していく。尚、検討内容は主に細胞から器官までの再生に関する技術であるが、これ
らの倫理的問題は、前節第 3 項(2)から、個々の人間における再生ではほとんどない
ものと考えられる。したがって、以降の項においてその検討 は省略する。
1
細胞単位での再生
iPS 細胞を用いた臨床応用の中でも、最も早期に実現が期待されるのは、 iPS 細胞
を用いて目的の細胞を作成し、それをそのまま臨床医療に用いることである。これは、
細胞単体を作成することは、様々な細胞の集合によってできている組織、或いは器官
を作成するよりも技術的に容易であるためである。
(1)血液細胞
まず研究されているのは、血小板を工業的に大量生産する技術である。 血小板は体
外に出ると脆い上、容易に凝固するために、 現在、保存することは困難であり、献血
等で人間から採取した血液がある場合でもこれを保存することはできない。しかし、
血小板はヒトの止血作用の上で重要な役割を果たす細胞である。 したがって、血小板
を常に使えるように用意しておくことは、手術や治療に直接的に役立つ可能性がある。
又、遺伝的にその質が低い血小板無力症の患者に定期的に供給することが可能になれ
ば、止血作用を向上させることもできるだろう。この技術については、 2014 年 1 月
に東京大学や京都大学と民間企業が合同研究を行い、臨床医療への実用化を目指す考
えを表明しており、実現は秒読み段階にあると言える。
更に、血液関連の技術としては、造血幹細胞(HSC)を作成・移植する技術も研究
されている。HSC は血液中の細胞を作る働きを持つ細胞であるが、白血病や再生不良
10
性貧血などの血液疾患はその働きが十分でない、又は正常でないために発症し、難治
性の疾病とされている。現段階では、移植に必要な HSC は、骨髄移植や「へその緒」
の血液である臍帯血からの採取などで賄っている。 どちらも骨髄バンク・臍帯血バン
クが整備されてきたことによって HLA 型の適合するドナーを探すことが容易になっ
て来ているために、免疫拒絶反応が起こる可能性は低下してきている。しかし HSC
は体外で増幅することが困難で、細胞数の不足が懸念されている。 したがってこれを
iPS 細胞の応用によって作ることができれば、その問題を解決することに繋がる。加
えて、生体由来の血液を導入する際には、感染症の危険を排除しきれない。世界有数
の検査技術を誇る日本の献血でさえも、昨年 HIV の感染問題が発生したことが、これ
を象徴していると言えよう。iPS 細胞由来の HSC は、もととなる患者の細胞さえ感染
していなければ、この危険性は排除できると言ってよい。
(2)神経細胞
神経疾患には、脳梗塞などの虚血性疾患、脊髄損傷などの外 傷性疾患、パーキンソ
ン病などの神経変性疾患などが挙げられるが、いずれの場合も重大な後遺症や運動障
害が発生する場合が多い。これは、神経細胞は損傷後の修復能力が低いためである。
又、神経細胞を作る神経幹細胞(NSC)は脳において存在が確認されているものの、
それ以外の部位においては極めて少ないか、或いは存在しないとされており、これも
神経ネットワークが修復されない大きな原因であると考えられる。
そこで現在研究されているのは、iPS 細胞を用いて体外で人工的に NSC を作成し、
それを体内で神経ネットワークの再生が必要とされ ている部位に移植して神経細胞を
作成させるという技術である。もっとも、NSC の移植による治療は iPS 細胞を用いず
に生体から直接移植する方法で既に臨床実験がなされているが、その普遍的かつ十分
な有効性は証明されていない。したがって、今後この技術を利用していくためには、
ただ細胞を作成・再生するのみではなく、それらの細胞が体内でどのように働いてい
るかについて更に研究し、効果的な治療法を模索する必要があると言える。
2
組織単位での再生
組織単位での再生は、その構造が複雑であるために、一般的に細胞単位での再生よ
りも技術的に困難であるとされる。しかし、ヒトの体内において細胞単位で働いてい
る部位は極めて少ないため、それに関する再生医療の成果は大きく制限されると言え
る。したがって、それよりも大きな単位、すなわち組織単位での再生は、再生医療の
成果を向上させるために必要な技術である。
(1)軟骨
軟骨は血管に乏しい組織であり、通常は損傷時にも生体内では増殖しない。そのた
め、加齢とともにその減少は著しくなり、結果的に関節炎を引き起こす。しかし、軟
骨細胞自体は増殖能力を持つため、軟骨細胞を一度採取して体外で培養した後で、再
び体内に戻すことで治療は成立する。ただし、軟骨細胞を患者の関節から採取するこ
とは患者にとって負担となるために、現在では骨髄由来の間葉系幹細胞(骨・軟骨・
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脂肪等を生産する細胞)を利用した培養方法が研究されている。間葉系幹細胞も iPS
細胞を使って生産することは可能であるため、より効率的な生産方法として iPS 細胞
の利用は検討されている。
(2)角膜・網膜
角膜は免疫拒絶反応が比較的生じにくい組織と考えられているために、容易に他者
から移植することが可能であるが、現段階では角膜のドナーが不足しており、十分な
移植は行われていない。又、角膜の中でも血管が進入している部位では免疫拒絶反応
が起きるために、他者からの移植は困難である。したがって、角膜の細胞を作る角膜
上皮幹細胞を採取して移植する方法や、角膜上皮幹細胞を体外で培養して角膜シート
を作り、移植する方法が臨床でも実験されており、良好な結果が報告されている。こ
の分野において iPS 細胞が期待されているのは、専ら効率的な角膜細胞の生産であり、
技術的な問題はほとんど解決されていると言える。
一方網膜に関しては、網膜疾患の例として加齢黄斑変性(網膜の細胞が変性し、視
覚以上を起こす疾病)などがあるが、現段階で根本的な治療法は発見されていない。
現在研究されている治療法の一つは、iPS 細胞から網膜細胞を作成・培養して移植す
る方法である。ES 細胞を用いた研究では既に一定の改善傾向があることが報告され
ており、iPS 細胞によって効率的な生産が可能になれば、網膜疾患の多くは治療可能
になり、成人失明者は大きく減少すると考えられている。
(3)心筋
心臓はヒトの生命活動において重要な役割を果たしているだけに、心筋梗塞後の心
不全や、心肥大などの疾病は生命に直結する問題である。しかし、これまで 幹細胞等
の移植がなされてきたものの、明確な成果は上がっておらず、治療は困難であると考
えられている。
そこで、障害された心筋を直接的に再生する手段として、iPS 細胞を心筋細胞に分
化させ、移植する技術が研究されている。これまで移植されてきた細胞は、厳密には
心筋細胞とは異なる細胞であったため、この技術によって心筋細胞自体を移植するこ
とが可能になった場合、有効な治療方法となり得るのではないかと期待されている。
一方で研究は未だ初期段階にあるため、実現には時間が掛かると予想される。
3
器官単位での再生
ヒトの器官は極めて複雑な構造をしている。そのため、再生医療技術によって 再建
することは困難だと考えられている。
しかし同時に、再生医療の研究者達が目指している究極の目的は、この 器官、すな
わち臓器の再生という分野にある。臓器を自在に再生することができれば、あらゆる
疾病を治療することが可能であろう。例えば肝臓が、がんに侵されたとする。肝臓は
あらゆる機能を持った器官であり、その喪失は生命に直結するが、重度に進行した肝
臓がんを治療する手だてはほとんどない。つまり、進行した肝臓がんはそのまま死に
結びつく。しかし、肝臓を体外で再生できる技術があれば、患者の肝臓を取り替え、
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がんを根本的に治療することも可能である。再生医療の目的がより多くの患者の QOL
を向上させることにあることを踏まえると、臓器単位での再生は最高の技術であると
いえる。
(1)皮膚
現在、器官単位での再生において成果を上げている分野は、唯一皮膚であるといっ
ても過言ではない。皮膚は生理的に一定の再生機能を有するが、重度な火傷や外傷な
どで再生機能を損なった場合や、損傷の範囲が広い場合には自然治癒は見込めない。
移植をする方法としては、患者自身の他の部位から移植する方法と 他者の皮膚を移植
する場合があるが、前者は新たな損傷部位ができてしまうこと、後者はそれに加えて
免疫拒絶反応が起きることから、どちらも有効な方法とはなっていない。
皮膚は他の器官と比較して立体構造が複雑でないために、比較的容易に体外での培
養が可能で、既にアメリカでは医療用製品として培養皮膚が承認されている。 この分
野において iPS 細胞に期待されていることは、主にその生産効率を上げることである。
又、患者の HLA 型に適合した皮膚の生産が可能なために、より安全なものを生産す
ることも可能であると考えられている。
(2)その他の臓器
現在ほとんどの臓器は、臓器単位での再生を可能とする技術の開発の目処が立って
いない。実際、体外で細胞の立体構造を構成することは極めて難しく、この課題を解
決するためにあらゆる手段が考案されているものの、実用化には至っていない。しか
し、臓器を再生する方法には大きく二つの方法が考えられる。
まず一つは、多能性幹細胞を体外環境で培養し、臓器を再生 する方法である。DNA
には臓器を自然に構成する情報があり、幹細胞を特定の種類の細 胞に分化するよう制
限した後で環境を整えれば、必要な細胞に分化し、臓器を再生することが動物実験に
よってわかっている。したがって、その環境を人工的に整えることができれば、理論
的には体外で臓器を再生することも可能なはずである。しかし、 現在の段階ではこの
方法はヒト以外の動物実験においても成果は出ていない。
もう一つは、多能性幹細胞を他の生物の体内に入れ、その状態で臓器を再生する方
法であり、この方法は体外環境で再生する方法よりも有力視されている 。2010 年、東
京大学では、遺伝子操作によって膵臓を作れないようにしたマウスの胚盤胞内 にラッ
トの iPS 細胞を導入することで、ラットの膵臓をマウスの体内で作成する実験に成功
している。(図7)この技術を応用することで、ヒトの iPS 細胞を他の動物の胚盤胞
に導入し、臓器を作成できると考えられている。もっとも、他の動物の体内で作成さ
れた臓器を人間に移植することについては議論の余地がある。尚、この方法は導入す
る動物が目的とする臓器を持たない状態で誕生することが条件となるため、患者本人
の体内で行うことは不可能であると考えられる。
しかし、これらの技術が進歩していることには疑う余地もない。 あまり希望的観測
を述べるわけにはいかないが、臓器単位での再生を可能にする技術が発見 され、あら
ゆる臓器を再生できる日は来ると言えると考える。
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第4節
再生医療の倫理的限界
私は、再生医療に限らず、医療の限界は 大きく二つに分類されると考える。それは、
人間の誕生と、終末である。人間はよりよく生まれ、よりよく生き、そしてよりよく死
ぬことを目指して医学・医療を発展させてきたと言っても良いだろう。しかし、人間が
手を加えて良いのは、あくまでその生を受け、そして生を全うするまでの間に限定され
るべきであると考える。その範囲を超越して人間が人間に手を加えることは、人間が他
の人間の人格を左右することに繋がりかねない。人間は全て個人の尊厳を持つべきであ
るし、それは倫理的に疑いのないことであると考える。したがって、この節では人間の
誕生と終末、それぞれの観点における限界を検討する。
1
人間の誕生に関する限界
人間の誕生をどのように定義するかは難しいが、第2節では、その誕生は受精卵に
あると定義したため、ここでもその定義を用いることとする。
第2節第3項(2)では、iPS 細胞を利用することで、様々な形式の生殖の可能性
が生まれることを示した。そして、その中でも自然の摂理に反する形式において、技
術は用いられるべきではないという見解も示した。ここではその理由を詳しく記す。
主な理由は、再生医学技術を用いて本来自然の状態ならば作られ得なかった生殖細
胞を作成することは、本来あり得ない個体を生むことになるからである。例えば、同
性間の生殖や一人の細胞から両性の生殖細胞を作成しての生殖は、 再生医学技術を用
いることで理論的には可能になるが、そのようにして生まれる個体は、自然の摂理に
従えば決して生まれることのなかった個体である。自然の摂理に反して 生み出された
人間にも、当然その他の人間と同等の尊厳が与えられるべきであるが、一般的には余
りに不可解なその誕生について疑問を呈する人間が少ないとは考えられない。これは、
その生み出された人間が、好奇の目にさらされ、社会的な尊厳を損なう可能性がある
ことを、少なからず示唆する。結果的にその人間の尊厳が損なわれる可能性がある以
上、そういった人間を生み出すことは、倫理的に許されないだろう。そして、そのよ
うな個体を生み出すことが許されない以上、これを目的とした生殖細胞の作成も許さ
れるべきではない。
以上より、人間の誕生に関する限界として、自然の摂理に反する生殖に再生医学技
術を用いることは許されるべきではないと判断する。
尚、これは生殖医療において、再生医学技術の使用を全面的に否定する訳ではない。
純粋な不妊治療などの、自然の摂理を逸脱しない分野であれば、当然患者の利益のた
めにこれらの技術は活用されるべきである。
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人間の終末に関する限界
人間の終末とは言うまでもなくその人命が尽きることを意味する。そして、多くの
場合それは心臓死を定義とする。このために日本では、 臓器移植の場合を除いて、脳
死状態の人間もそのように定義される。しかし、こ の定義には議論の余地があるよう
に思われる。なぜなら、臓器を提供する場合に限って脳死を死と 定義することは、そ
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の人間の一部が他者のために利用され得る場合のみその人間は死者として定義される
ことになり、これはその人間の命を他の命のために活用していると捉えることができ
るためだ。その点を考慮すると、この日本における定義は、移植用臓器の必要性と国
民感情の板挟みにあったために折衷案として作られた、極めて不自然なものであるよ
うに思われる。
私は、人間の死は脳の活動の停止によって定義するべきだと考える。なぜなら、人
間がその人格とアイデンティティを持って活動するためには脳が活動している必要が
あるためだ。言い換えるならば、脳死の状態は、生物的には生きているが、人間的に
は死んでいるのである。そして、多くの欧米諸国ではこの考え方が主流となっている。
日本の法的定義には矛盾が生じるものの、この考え方がグローバルスタンダードにな
りつつあることや、今後臓器移植が広まるにつれて日本国内でも意識に変化が見られ
る可能性が大いにあることなどから、ここでは人間の死は脳の活動停止によって定義
されるとする。
この考え方を用いると、逆に人間の生は脳の活動によって定義されることになる。
そして、人間がそれぞれ独立した個体である以上は、それを定義する脳 もそれぞれ独
立したものでなければならないだろう。したがって、あらゆる臓器の再生が可能にな
ったとしても、脳だけは再生の対象としてはならないと考える。患者の脳を再生し、
移植するということは、患者は元々持つ脳を失うと言うことである。たとえ記憶や思
考がもとの脳と全く同じだったとしても、 独立し、固有であった脳が変わってしまっ
たならば、それは患者本人であると言えないだろう。つまり、脳の再生は、患者の生
物的寿命を延ばすことにはなるが、人間的寿命を延ばしているとは言えない。そして、
人間的寿命が延びていないからには、その治療は患者の QOL を向上させる治療だと
は言い難い。むしろ、脳の移植によって、まだ働いている脳を摘出するために、人間
的寿命を短縮し、QOL を低下させたと言える。
以上より、人間の終末に関する限界として、再生医療によって脳を再生することは
許されるべきではないと判断する。
第3章
終わりに
本研究では、先端医療の一つである再生医療について、その可能性を検証するとともに
倫理的限界を検討した。この目的については、自分なりの考察を深めることができたとい
う点において、達成できたと言って良いと考える。
しかし、論文を終えるにあたって一つ述べなくてはならないことは、倫理は社会が決め
ることであり、その基準は日々変化すると言うことである。例えば、
「死」という概念は倫
理観に大きく左右される事項であるが、現在日本では、脳死は臓器移植をする場合のみに
限って人の死であるとされている。しかし、少し前の日 本では脳死はいかなる場合も人の
死として認められていなかったし、一方で 、欧米諸国では臓器移植をする場合に限らず人
の死として認められている。今後日本でも脳死が普遍的に人の死として認められる可能性
もあるが、逆に、再生医療の発達によって臓器移植の必要性 がなくなってくれば、再び人
の死とは認められなくなる可能性もある。 加えて、再生医学技術も日々進歩していること
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も忘れてはならない。実際、今年1月 30 日付の英科学誌「Nature」上で、理化学研究所
やハーバード大学などの共同研究グループが、iPS 細胞のようにがん化の危険性が無い上
にリプログラミング効率の高い、多能性を持つ新しい細胞の作成に成功したことを発表し
たという。この細胞は STAP 細胞(刺激惹起性多能性獲得細胞)と名付けられたそうだが、
今後の応用に期待される。このような新しい技術が開発されれば、当然倫理的評価 も変化
していくことになるだろう。又、倫理観は社会が決めることである以上、本論文で私が述
べた内容が全ての人を納得させることはないだろう。それらを考慮した上で、本論文では
結論を出している。
最後に、論文自体とは関係ないが、今後医学・医療系の研究をする方がいれば、是非一
度群馬大学の医学図書館に足を運んでいただきたく思う。医学関係の専門書はなかなか手
に入りにくいのだが、こちらの図書館では大変有益な資料をお借りすることができた。 少
しでも参考になればと思う。
以上をもって、本論文のまとめとする。
<主な参考文献等>
・Tony Hope・著/児玉聡、赤林朗・訳
『医療倫理』
岩波書店
・石浦章一・監修
『この一冊で iPS 細胞が全部わかる』
・田 中 幹 人 ・編 著
『iPS 細 胞
2007 年
青春出版社
ヒ ト は どこ ま で 再 生 で きる か ? 』
2012 年
日 本 実 業 出版 社
2008 年
・『Newton 別冊
夢の再生医療を実現する iPS 細胞
第2版』
ニュートンプレス
2012 年
・シリーズ生命倫理学編集委員会・編
丸善出版
『シリーズ生命倫理学
第 12 巻
2012 年
・『ヘルシンキ宣言』
http://www.med.or.jp/wma/helsinki08_j.html
・『ジュネーブ宣言』
http://www.med.or.jp/wma/geneva.html
・『WMA
医の国際倫理綱領』
https://www.med.or.jp/wma/ethics.html
・科学技術会議生命倫理委員会クローン小委員会
『クローン技術による人個体の産生等に関する基本的考え方』
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/kagaku/rinri/cl912271.htm
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先端医療』
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