妻の入院(下)

特別寄稿/妻が突然入院した。そのとき夫は…。
妻の入院(下)
匿名希望60代男性
この作品は、本誌 Vol.12 に掲載された「妻の入院」(上)の続編となります。
9月*日(金曜日)
昨日、妻が入院した。
今日は、手術である。
朝、わたしはいつものように朝目覚めた。
いつものようにとは、いつも会社に出かけていたときのように、という意味だ。
そうして、マンションから地下鉄の駅まで同じ道を歩いて、同じ地下鉄に乗った。
同じ方向の電車だったが、この日はいつもとは違う駅で下車した。
しかし地上に出てところで、わたしは途方にくれた。
見慣れた風景がそこになかったからだ。
わたしが知っていると信じていたこの駅周辺の、というか交差点には見たこともない街並みがあった。
あるべきはずのコンビニがなく、変わりに交差点の角には都市銀行の建物があった。
わたしはしばらく空を見上げて呆然とした。いったいこの世界になにが起きたのだ…。
このうつろな感覚から現実に立ち戻るのに少なくとも3分は要しただろう。
「あ、ここは、あの場所とは違う」
わたしは完全に別の駅の地上の街並みを想像していたのだ。
わたしの記憶とすりあわせができなくて当然といえば当然だ。
このことに気がついてわたしの足は地についた。
目指す場所は地下鉄駅から3分と書かれていたが、約束した時間まで半時間近くある。
ビルの一階に珈琲店があった。わたしは躊躇することなくその店に入った。
約束時間になると、待ち合わせしていた人物が入り口から入ってきた。わたしの姿を認めると片手をあげ
たので、わたしは伝票を掴んで金を払った。
もうひとり、小柄なメガネをかけた人物が一緒だった。彼は「お久しぶりです」と声をかけた。
このひとが司法書士だろう。名刺交換した記憶はあるが、顔にはさっぱり記憶がない。先方がお久しぶり
ですと声をかけてくれたのだから、きっと彼とわたしは面識があるのだろう。
わたしは会社の住所と正式な社名とわたしの名前を2通に書いて、実印を押した。
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司法書士が1万円札を出した。公証人はそれを机の引き出しにしまい、そこから1000円札を3枚取
りだして、領収書と一緒に司法書士に戻した。
なるほど公証人とはこうした契約書が正しく締結されたと云うことを公に証明する人物と云うことで、
その証明する行為に対して報酬がもらえる。今回は2通の書類に署名捺印して7000円だった。
いったん家に戻って、次男と2人でランチをいただき、病院に向かう。
今日は妻の手術がある。
当初は午後2時の予定だったが、昨日の連絡では1時間半遅くなり、午後3時半からとなった。
手術に要する時間は一時間半だと云われた。
今日、妻からメールがあり「あわててこなくてもいい。あとが長いから」とあったが、そうはいかな
い。妻は気丈に振る舞ってはいても、心細くないはずがない。心細くないと云ったらウソになる。
わたしは少なくとも2時には病院に着こうと家を出る時間を考えていた。
そうして、予定の時刻に家を出て、妻にメールした。「今から家を出ます」
電車を乗り継いで病院に到着したので、「今到着した」とメールしようと折りたたみのケータイをあけ
ると、妻からのメールが入っていた。
「手術が1時間20分早くなりました」
ええっ!!
ということは、2時10分スタートだ。
時計を見ると2時5分前。メールを打っているより走ったほうがいいだろう。
病室に入ると、看護士さんから目薬を差してもらっている。
「あ。良かったですね。間に合いましたよ、ご主人」と看護士さんが妻に伝えた。
腕に点滴。
透明の液体が入った袋と茶色い液体の入った袋の2種類が点滴用の器具にぶら下がっている。
「いま、手術室から準備ができたとの連絡が入りましたので、次ぎに来てくださいと連絡が入ったら、
行きますからね」
だが、それからなかなか連絡が来ない。2時半になってもまだ。待つ身は辛い。
ようやく連絡が入り、チャッターが来たのが40分を過ぎた頃。
それに乗り換え、お尻に注射するのだが、
「ご主人、申し訳ありませんが外でお待ち下さい」と云われた。
夫婦でもお尻を見るのも見せるのもけ恥ずかしいことは確かだ…。
エレベータの中で妻は「時間がかかるからお茶のみに云ったりしていてもいいですよね」とわたしを気
づかったが、看護士は凛として言い放った。
「だめですね。何かあったらすぐにお呼びするので、手術室前の待合室でお待ち下さい」
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看護士2人に前後を守られて、手術室に行く。
その手前の待合室で「ではここでお待ち下さい」と云われた。
何組かの家族がわたしと同じように身内の手術の無事に終わるのを待っている。
わたしひとりではない。
しばらくして、付き添っていた看護師が出てきて「今手術が始まりました。約1時間半の予定です。終
わりましたら医師がお呼びしますので、ここでお待ち下さい」
わたしは新書版を鞄からとりだして読み始めた。
簡単に読み上げた。
続いてもう1冊新しい文庫本を読もうとすると、電話が鳴った。
朝、一緒に公証役場に行った人物だ。
「手術の最中だと思いますが、至急連絡したいことが出てきましたので、折り返し電話下さい」との留
守番電話が入っていた。そのあと、どういうことなのかも彼は説明していた。
わたしはそのトラブルの現況となっている友人に電話して、なんとか処理するよう話す。彼の了解を得
た後、留守番電話の返事をした。
何となくクリア。
しばらくすると、トラブルの現況の知人から電話が入った。
どうしてそうなったのかを説明してくれた。
妻が手術をしている忙しいときに…とは思わなかった。どうせわたしにはなにもできないのだから、せ
めて誰かのためになるようななにかをなしているほうがよっぽど気持ちから楽になる。
再び文庫本に目を通していると、男の人が名前を呼ぶ。わたしの名字だ。
時計を見る。まだ手術が始まって1時間もたっていない。
はい。…はいっ。
わたしは3度返事したはずだ。
するとブルーの手術着の医師が立っていた。白いキャップに白いマスク。それにメガネ。
メガネがサングラスなら月光仮面だが、メガネは黒縁の普通のメガネだった。色黒の医師だったが、顔
つきも表情もわからない。
「○○さんのご主人ですか」と医師は云った。「いま無事に手術が終わりました。手術の説明をさせてい
ただきます。白内障を併発する可能性はありますが、ブドウ膜に炎症が見られますので引き続き様子を
見なくては行けないのですが、手術は予定していただけの執刀しかしておりません。時間も短くてすみ
ましたし、無事に終わりました。もうすぐ出て見えると思いますのでももう暫くお待ち下さい」
わたしは、表情もわからない医師に向かって深々と頭を下げた。ありがとうございました。
わたしは息子たちに無事手術から終わったことをメールした。
長男からはすぐに返事があった。「とりあえずはよかったね」
次男からは梨の礫だったが、あとから聞いたら、学校からの帰り道でバスだか地下鉄に乗っていたとき
だった、と話してくれた。
わたしは来たときと同じように2人の看護士に誘導されたチャッターのあとについて妻を追いかけた。
3
妻は移動中わたしにはひとことも話しようとはしなかった。
病室に戻ってから妻が口にした第一声は、これだ。
「クスリのせいか、夢うつつのようだった」
戻ってきてしばらくすると、トイレに行きたくなったようだが、術後すぐの歩行は禁止されている。
看護士に車椅子で連れていってもらう。点滴のポールを引きずりながら。
戻ってきて「手術前3時間も水分とっていないのに、オシッコしたくなるなんて、へんね。あ、点滴し
ているせいか」とひとりで納得していた。
トイレに行ったせいか、しきりに喉の乾きを訴えていたが、術後30分は飲食禁止。まず半時間後に試
し飲みをする。
これで戻したりしなければ、水分をとることは許される。
そのうち、「胸がすうすうするから、ブラジャーをする」という。点滴の管をつけたままでブラジャー
を着けるのは物理的に無理だと思うが…。
さて、試し飲みがすんなりといき、水分補給が許されると、抗生物質の点滴も外される。
妻はペットボトルの水をゴクゴクと少しずつ時間をかけて飲んでいた。
夕食は、術後のための特別メニューでおにぎり。西瓜。ジャガイモサラダ。
9月*日(土曜日)
妻の入院、3日目。
次男と病院に妻のお見舞いに行く。
昼ご飯を入院棟最上階のレストランでとるつもりだったからお昼過ぎに到着した。
今日は土曜日。
ひとつ階下にあるランチ専用のレストランが休日なので、この最上階のレストランには医師たちも食事
を取りに来るようだ。
眼下には大きな公園が広がる。
テニスコートもある。
公園内には川が流れ、橋が架かっている。
次男は昔、その橋の下に秘密基地を作ったと告白した。
雨で流されたが、再び作り直して完成したと思ったら、その基地はホームレスに占拠されてしまった。
なるほど子供の世界は厳然としてある。親にはわからない不可侵領域なのである。
4
わたしたちはジャガイモの冷たいポタージュを飲んだあと、アントレのプレートが出されるまでの間、
眼下で展開されているテニスの試合を中継していた。というか、試合の状況を話していたのだ。
軟式庭球は硬式テニスと異なり前衛後衛の2人1組と決まっている。
観戦していると、どうも片方の後衛のサーブ力が弱く、なんと3本続けてダブルフォルト。しかし打ち
合えば点を取れるようで、ジュースの展開となった。
次男も軟式テニスのことは詳しいようで、前衛のラケットはワイの広がりが角度があるので価格的に後
衛のものより高い、などと解説した。
ところでこのレストランの支配人の顔に見覚えがあった。
わたしは直接彼に尋ねた。
「××ホテルで働いていませんでしたか。わたし、あなたに見覚えがあるのですが」
「わたしもどこかでお見受けした顔だと…」
話をして了解した。××ホテルの宴会担当をしていた人物だ。
「社長、お変わりありませんか」と彼は当時の関係に戻ったような口の聞き方をした。
ランチの後、1階のコンビニで、妻に頼まれていたハーフサイズのエビアンを2本購入する。
テレビにつけてあるイヤホンのカバーが外れていたので、持参した接着剤で修理する。
妻の母親に報告するかどうか妻と話し合う。
「とりあえず手術は無事に終わりましたと連絡しておこうか」と提案すると、妻は思案げに頚を傾けた。
妹には一応メールしたという。
「そうね。いいわ。お母さんにはわたしから電話するわ」
ところがわたしが家に帰ってしばらくすると妻からメールがあった。
「やっぱりお母さんに電話しておいてもらえるかな」とあったので、早速電話した。
「わたし、気にしとったんですが、そうですか、無事に手術終わりましたか。それで○○の様子はどう
ですか」
○○とは妻の名前である。
「御心配をおかけしましたが、手術時間も予定より早く済み、順調にきておりますから」とわたしは答
えた。
「××さんも、こんな大変なときに、ねえ、○○がご面倒おかけして」
夫は会社をつぶし、つまは入院するというのだが、たまたま時期が重なっただけのことで、妻に追及さ
れるような原因があるわけでなし。
このことを翌日妻に話すと「心にもないことをいうのよ、お母さんは」と笑っていた。
5
9月**日 (日曜日)
妻が入院して4日目。
ニューヨークテロ9・11から10年経った。
わたしの父に電話する。
出ない。
お昼頃、再び電話する。
「話しておかなくてはならないことがいくつかあるので、今日、時間とって欲しい」と云うも、どうも
面倒くさいようで、これからあちらこちら出かけなくてはならないので、時間取れないぞ、という。
そこをなんとかと無理強いして3時から30分だけとって貰う。
バスの時刻をネットで調べて、私鉄電車に乗る。
さて実家へと向かうバスのバス停では老人が列をなしていた。それでもわたしは最後列のシートに座る
ことができた。
約束時間より少し前に家に着く。
わたしはまず妻の入院手術の話をする。
それから会社のこと。
「春日井の相続」のことなどを話す。
舌痛症という奇病に長年悩まされている母が出てきた。
久しぶりに顔を見た。なんとか話もできるようだが、これは痛み止めが効いているからだろう。妻の入
院のことを話す。
帰り際、父が封筒を渡してくれた。
妻の見舞いだという。
帰路はバスが来たら乗る。来なかったら駅まで歩く、という覚悟だった。
結局わたしは駅まで歩き、JRのキップを購入してホームに入るもなんだか雰囲気がおかしい。
どうやらどこかの駅で人身事故があったようだ。
ホーム上の案内板に表示された列車時刻は1時間以上も前になっている。つまり1時間を超す不通状態
が続いているのだろう。
とりあえず妻に中央線の列車事故の遅れをメールする。
すると5分と待たずして列車が入ってきた。快速列車だが、病院までは1駅だ。
日曜の午後という時間帯のせいか、1時間も遅れていたわりにはそれほど混み合っていなかった。
病室に着くと、妻は窓からJRの線路を見ていて、まだ走ってはいないみたいね、と云った。
妻の病室は2部屋だったが、同部屋の患者は昨日退院したという。いまはだから1人でいる。
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窓際が隣人のベッドだったから、もしもまだ隣人が入院していたなら、妻も窓から中央線を見下ろすよ
うなことはできなかっただろう。
わたしは父との会話をかいつまんで話す。
見舞金の話もする。
中身を覗くと2枚入っていた。
テレビで『笑点』を見て、帰る。
だが、JRはまだダイヤが乱れていた。
ホームにあがるも列車は上下線ともに1本も来ない。
わたしはお腹をやられていた。
病院を出る前に水便だったから、ホーム上で長時間待つことには耐えられない。
わたしは駅員に理由を説明して、電車が来ないのなら地下鉄に乗り換えようかと考えた。
だが、改札を出なくてもトイレがあったので、ここで用を足した。
そのお蔭で家まで無事にたどり着いた。
9月**日 (月曜日)
妻が入院して、5日目。
月曜日なのだが、わたしには曜日の感覚が薄れている。
午前中、郊外にある大学まで出かける。
知り合いの教授にあるお願い事があったからだ。
いったん家に戻り、今日は自転車で病院まで行こうと決めていたのだ。
次男はだいたい30分はかかるだろうと云ったが、家から病院までぴったり30分要した。
…。
ここで、終わっている。
実はもうひとつ、この時期に『家事メニュー表』と云うものを書いていた。
日々の家事の記録である。
そちらを読み返すと、とても大変だった日常が分かるのだが、それはあまりに詳細に記述され、わが家
の生活がスケルトンになるので、公表は差し控えたい。
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