漢代 漢

紙の誕生
中国の文化Ⅸ 第6回
講義内容
1. 漢~秦の滅亡から
漢王朝の成立まで
2. 紙の誕生~紙はい
つ誕生したのか
3. 焦仲卿の妻~後漢
末の実話を描いた
長編叙事詩
漢代
紙の誕生
漢代、中国で紙が誕生した。
紙という安価な書写材料の誕生
により、それまで記録されることの
なかった長編の民間文学作品が、
後世に伝えられるようになる。
では、紙はいつごろ誕生し、ど
のようにして世界中に伝播して
いったのだろうか。
後漢の末に起こった実話を題
材にした長編叙事詩・焦仲卿の妻
とは、どのような作品なのだろう
か。
第一節
漢
秦の滅亡から漢王朝の成立まで
資料映像:NHKスペシャル「故宮」より
飲馬行
漢書巻六十四賈捐之伝
﹁秦は兵を興して、遠方を攻め、
︵三国・呉︶楊泉 物理論
外を貪り、内を虚しくして、領
土の拡大に努め、その弊害に気
秦が長城を築いたとき、死に
づこうとしませんでした。︵中
いく者たちが残した言葉が、い
略︶天下は瓦解し、やがて二世
まも民謡に歌われている。
皇帝の末年に︵国を滅ぼす︶災
禍が起こりました。長城の歌は
生男慎勿舉
いまも歌い継がれています。﹂
生女哺用脯
不︼
見漢長
︻解説
の城
元下
帝の初年、賈捐之が海
尸の
骸大相
南島へ
規支
模拄
な派兵に反対していっ
た言葉。海南島には、漢の武帝の南征
以来、儋耳、珠崖の二郡が置かれてい
たが、原住民の蜂起が絶えなかった。
資料映像:NHKスペシャル「故宮」より
1
漢王朝
第二節
春秋戦国時代
B.C.770~B.C.221
秦 B.C.221~.C.207
前漢
B.C.209 陳勝・呉広の乱
劉邦、項羽が挙兵
B.C.202 劉邦が垓下の戦いで項羽を破り、帝位
に即く
B.C.206~A.D.8
紙の誕生
A.D.8 王蒙が帝位を簒奪し、新を建てる
新 A.D.8~23
後漢
A.D.25~220
A.D.220 献帝、曹丕に位を譲り、漢王朝が滅亡
魏
蜀
呉
紙はいつ誕生したのか
晋 265~317
南北朝時代
317~589
紙はいつ誕生したのか
1933年、黄文弼ら西北中国考査団が、新疆ロプノールに近い漢
代の烽火台遺跡から紙を発見。同時に出土した木簡の中に前漢
宣帝の黄龍元年(B.C.49)の年号が見られるところから、この紙
は前漢時代のものと推定されたが、日中戦争の中で焼失した。
B.C.770~B.C.221
秦 B.C.221~.C.207
紙のなかった時代=竹帛の時代
前漢時代の紙の発見
前漢
B.C.206~A.D.8
後漢書巻七十八蔡倫伝
春秋戦国時代
後漢書巻七十八蔡倫伝
後蔡
漢書
七か
十し
八竇
蔡后
倫伝
倫巻
はむ
の密命を受
け、
安ら
帝文
の祖
宋と
貴人
をが
誣告
昔か
字母
はほ
んど
竹し
簡
後
漢后
書
七っ
十
八
蔡
倫が
伝
蔡
倫巻
は教
養な
と
才
、政
物
亡
く
り能
、
安あ
帝り
が親
た太
こ
が
あ
たを
。
に
記と
され
、
縑帛
使う場合、こ
事に
慎重
ばし
ば皇
帝を
諌
を
行う
とで
、、
帝し
は蔡
倫に
廷尉
のも
れを紙といった。縑帛は高く、
紙を発明したのは蔡倫か?
︻て
解説
め
は
、
を
誤桂
ら
ぬ︵
よ
助け
蔡
倫︼
字治
敬仲
、
陽
湖南
省
と
に
出
頭政
す
る
よう
命じ
たう
。
簡牘
はの
重第い
。
ど
ちら
も
不
便
でであ
後漢
三日
代で
皇帝
帝も
の平
皇后
た
休
に
は
い
門
を
郴。
州
市
︶
人
あ・
る
。
永
年閉
間
蔡
倫み
はの
辱
め
を
受
け章つ
る
こ
と
恥
あ
たは
。、そ
蔡肇倫︵は
や帝麻
るっ
竇后
義こ
子で
・劉
の樹
ち皮
の和
︶、
ざ
客
ち末
、整
郊え
外
そ
の
︵し
五て
八
∼し
七を
五断
︶
の
、
はに
じ
じ
、
沐来
浴
て
衣冠
を
るめ
とて
毒
にろ
帝位
がに
せ使
よう
、な
皇ど
太を
子・
ぼ
布を
、継漁
うと
網
使劉
っ慶
姿
見
せ
て
た
。
宮
中
に
、
建
初
年
︵
七殺
六∼
薬
飲仕
んえ
で
死
ん
だ。
のを
母・
人い
に法
冤罪
か間
けし
、自
追
て
紙
を宋
作貴る
方
をを考
案
た。に
元
のっ
ちた
に。小
尚
の
位
ら受
れけ、
八
︶
黄
門
と竇な
っ
た
。
い四
や
そ方
の令
時、
后を
の与
密え
命を
、
興
元
年︼
︵一〇五年︶、これを上
︻
解説
宋和
貴
人
告位
しす
たの
蔡中
倫剣
でと
あっ
永
元
九
年誣即
︵
九
七
︶が、
秘
諸
器。
帝を
が
る
と
常
侍
とた
な
奏す
る氏
と︶
帝漢
は代そのの
を安称
廷
と
は、
、
秦、
司才
法能
官。
帝
︵尉
梁
鄧皇
氏
械
の
製
作
を
監
督
し
た
が
、
ど
れ
も
り、
帷
幄
に
参
与
。
は、
祖
母
宋、
貴み
人を
殺れ
にを
追使
い込
だ
え
、竇
そ后
の・後
な自こ
用んす
─
精
か追
つ及頑
丈
で
、後蔡世
本と
責巧
任を
し
よ
う
と
倫の
に手
裁判
┬
劉り
肇、
︵和
帝
︶は
る
よ
う
に│な
人、
々
こ
れ
を所へ
な
たを
。命じたのである。
のっ
出頭
﹁蔡章
侯帝
紙﹂と呼んだ。
┬│劉慶︵清河孝王︶││安帝
宋貴人
蔡倫
「紙は西暦105年、後漢の
蔡倫が発明した」
後漢書蔡倫伝の記事に基づ
くこの通説は、近年における考
古学上の発見と、中国の製紙
技術史に関する研究の進歩に
よって、大きく修正を迫られて
いる。
では、紙はいったいいつごろ
誕生し、また、どのようにして
世界中に伝播していったので
あろうか。
悲劇の宦官 蔡倫
1957年、陝西省西安市
の東にある灞橋レンガ工
場で、土木工事中の作
業員が古紙を発見。同
時に出土した器物から前
漢武帝時代(B.C.141~
B.C.87)のものと推定され
ている。
新 A.D.8~23
後漢
A.D.105 蔡倫が紙を発明?
A.D.25~220
魏
蜀
晋 265~317
南北朝時代
呉
紙誕生以後の時代
1973年、甘粛省居延考
古隊が漢代居延遺跡の
肩水金関跡で古紙を発
見。同地点で出土した木
簡の年代や地層から、前
漢の宣帝~哀帝時代
(B.C.52~B.C.6)以前のも
のと推定されている。
1986年、甘粛省文物考古研究所が天水市放馬灘の漢墓から古紙
を発見。文帝・景帝時代(B.C.180~B.C.141)のものと推定され、現
在知られている最古の紙。表面には手書きの地図と見られる図が
描かれている。
317~589
前漢時代の紙の発見
2
竹帛から紙へ
前漢
天工開物巻十三殺青・紙料
紙の時代
太平御覧卷六百五所引
桓玄偽事
五代十国
竹帛と紙の併用時代
後漢
むかしは紙がなかったので簡
を使っただけで、敬意を示すた
めにそれを使ったわけではない。
いま簡を使っているものは、み
な黄紙に代えるように。
唐
簡とは竹で作った紙のことで
ある。竹を煮て簡を作るのであ
るが、後世の人は竹片を削って
記録したものと思い込み、韋編
も皮紐で編んだ竹片と勘違いし
ている。︵中略︶
西方では貝樹︵貝多羅樹、パ
ルミラヤシ︶で紙を作るが、中
国ではその葉に経典を書くもの
と思っている。木の葉が根を離
れれば枯れることを知らないか
らで、竹を削って文字を書くと
いうのと同様、笑うべきことで
ある。
漢
︻解説︼
東晋安帝の元興二年 四(〇三 、)帝位
を簒奪した桓玄︵三六九∼四〇四︶は。
旧慣を重んじる政府機関に対しても、
従来の簡に代えて紙を使用するよう命
じた。
晋
北堂書鈔卷一〇四所引
崔瑗與葛元甫書
中華民国
中華人民共和国
1900
明
1600
南北朝時代
400
北宋
南宋
元
金
1300
遼
1000
隋
600
竹帛と紙の併用時代
呉
蜀
魏
A.D.200
秦
B.C.200
紙のなかった時代=竹帛の時代
周
崔瑗︵七七∼一四二︶が葛龔
︵字は元甫︶に宛てた手紙にい
う。﹁いま﹃許子﹄十卷をお送
りします。貧しくて絹に手が届
かないので、紙を使うことにし
ました。﹂
︻解説︼
北堂書鈔は、完本として現存する中
国最古の類書。隋の虞世南が秘書郎在
任中、詔勅をはじめとする公文書作成
の参考書として群書中から語句をとり
出し類別したもの。
春秋戦国時代
紙の時代へ
軽便で安価な書写材料としての紙
忘れられた竹簡
殷
B.C.1600
B.C.1000
317~589
資料映像:NHKスペシャル「故宮」より
蜀
呉
晋 265~317
魏
A.D.105 蔡倫が紙を発明?
A.D.25~220
紙のなかった時代=竹帛の時代
前漢時代の紙の発見
B.C.206~A.D.8
紙のなかった時代=竹帛の時代
B.C.770~B.C.221
春秋戦国時代
秦 B.C.221~.C.207
新 A.D.8~23
南北朝時代
清
3
第三節
玉台新詠と焦仲卿の妻
後漢
新
25~220
五胡十六国
西晋 265~316
東晋
316~439
317~420
宋 420~479
北魏
斉 479~502
439~534
焦仲卿の妻
焦仲卿の妻
玉台新詠卷一
玉台新詠卷一
古詠
詩為
玉台新
卷焦
一仲卿妻作
古詩為焦仲卿妻作
玉台新
卷焦
一仲卿妻作
古詠
詩為
玉台新詠卷一
焦仲
卿を
妻織
作りはじめ
鷄の古
声詩
と為
とも
に機
詩為
卿妻
一対古
の孔
雀焦
が仲
東南
の作
空に
玉親
台
詠む
卷
一となく
毎新
夜
休
母
はい
っこ
た
飛んでいきます
古
詩
焦
卿い
妻
作
焦仲
卿ロ
は為
そロ
れ
を
聞
く織
とり
三日
で
五
匹仲
のて
機
を
ます
した
何
を
オ
オ
し
る
ので
仲
はひ
ざま
五卿
里飛
んで
はづいていいました
堂
上義
っ母
て
でも
、
お
様
はい
あに
んな
礼
儀母
知に
ら
ずい
のました
別れ
惜し
んい
でい
ます
お母
さを
ん、
お願
です
私後
はい
よ
やま
く
役
勤
め
が
漢う
末
の
建小
安所
年
︵り
一か
九な
六い
∼
遅
遅い
と
言間
ばか
わ
が
ま
娘
十し
三で
機織
を出
覚え
も
妻を
追い
すのなら
妻
を
娶
る
とか
が
き
ま
た江
二
二〇
︶
、
廬え
江
府で
︵て
安い
徽し
省し
廬
機
を
織
のこ
が
前か
らる
腹に
す
ね
ま
た
十四
裁縫
習い
私で
は二
度を
と結
婚しません
こ
ら
二
人
くん
県れ
︶
の
小
役
人
あ末
る
焦
卿 に、
遅い
ので
はで
り
ま
せ
身か
勝
手は
許で
し
ま
せ永
ん仲
十親
五で
きと
母
は箜
そ篌
れを弾
聞く
あ家
の
世
も
よ︶
きに
伴
侶い
と妻
劉わ
氏
︵
名で
はい
蘭娘
芝
とい
う
がい
たに
し
が
こ
の
家
東
の
よ
さ
ん
が
ます
十寝
六で
詩書
をて
学び
台を
叩い
怒りました
と
に
暮
ら
きま
し
たう
た。
ふ
さわ
くて
な
の
そも
の容
貌し
はし
秦
のい
羅
敷で
のす
よ
十ん
七で
あう
な親
たに
な
とい
不嫁
孝い
者でからは
な愛
の
妻
の
が
とに
こ
ろな
が
、
蘭芝
は
卿
のも
母に
私
よう
役
立
た上
ず仲
がい
ら
し
さど
はこ
の
な
くて
い
悲か
しい
こつ
とば
嫁つ
のも
肩ば
りも
とか
はり
気
に
く
家
追
出
さ
れ
しま っ た 。
お
魔
な
だ
け
母を
さ邪
んい
が入
そら
のな
娘て
をて
あな
た恩
は知
役ら
所務
のう
身ことなど
そ
んな
ずめ
のい
そに
ん
に
ら
く
お父
さな
ま
、つ
お母
さまに
嫁
迎え
て
あげ
しょう
お仕
第ち
一ません
聞
く事
耳が
はも
当し
た
ので
お願
ま
し
たしょ
だか
らい
早
くる
追い
出
なう
さい
でも留守を守るわたしは
未早
練く
な離
ど縁
持し
って
てく
はだ
いさ
けい
まと
せん
会うこともままなりません
229~280
220~265
呉
蜀 221~263
魏
梁 502~557
東魏
北斉
西魏
北周
玉台新詠卷一
古詩為焦仲卿妻作
前漢
︻解説︼
玉台新詠は、梁の簡文帝︵在位五四
九∼五五一︶が太子であったころ、徐
陵に編集させた詩歌集。十巻。簡文帝
の兄・昭明太子の文選が各ジャンルに
わたって詩・賦・文章の標準を示した
のに対し、玉台新詠は恋愛詩歌だけを
収録しているところに特徴がある。
陳 557~589
玉台新詠巻一焦仲卿の妻
紙という安価な書写材料の誕生
により、中国ではそれまでにない長
編の民間文学作品が記録されるよ
うになる。
玉台新詠巻一には、1700字あま
りに及ぶ長編叙事詩・焦仲卿の妻
(古詩為焦仲卿妻作、一名孔雀
東南飛)が収録されている。
後漢の末に起こった実話を題材
に、その後300年あまりにわたって
歌い継がれてきた焦仲卿の妻とは、
どのような叙事詩なのだろうか。
B.C.202~A.D.8
焦仲卿の妻
秦 B.C.221~B.C.206
焦仲卿の妻
10世紀、カイロに
製紙工場建設
1151年、ムーア人が
スペインに
製紙工場建設
610年、高麗僧・曇徴が
日本に製紙技術を伝える
793年、バグダッドに製紙工場建設
751年、タラスの戦い
後漢末の実話を描いた長編叙事詩
製紙技術の伝播
隋 589~618
玉台新詠卷一
古詩為焦仲卿妻作
玉台新詠卷一
古も
詩為
黄昏時
過焦
ぎ仲卿妻作
人々が寝静まったころ
蘭芝
は私
の家
命も
今日
終を
わり
とこ
ろが
の者
にで
再婚
迫ら
の芝
世と
おい
別に
れと
れこ
た蘭
はも
、つ
水に身を投
裳
裾を
上で
げし
、ま
靴う
を脱
げて
死ん
。ぎ
池
身を
投を
げま
した仲卿も、
そに
の知
らせ
聞い
それ
知に
らせ
た仲
卿命
は を絶
庭
の木
首を聞
吊い
って
自ら
つも
。う蘭芝には会えないのかと
庭の木の下をさまよい歩き
東南の枝に首をつりました
玉台新詠卷一
古詩為焦仲卿妻作
玉台新詠卷一
古詩為焦仲卿妻作
蘭芝は門を出て車に乗りました
落ちる涙はまるで雨のよう
蘭芝は仲卿にいいました
仲
の馬
が前
玉卿
台新
詠卷
一をいき
優しい言葉をありがとう
蘭芝
車焦
が仲
そ卿
の後
古の
詩為
妻に
作従います
あなたがそうまでいうのなら
ガタゴトと音を立て
私もあなたを待ちましょう
二人
車馬
は出
街さ
道口
嫁
ぎの
先を
追い
れへ
た蘭芝は、
あなたは石臼となり
仲
卿し
はて
馬を
車に
けっ
再下
婚り
はて
しま
せ入
んり
と仲 卿
わたしは蒲葦となりましょう
つを
むい
にう
誓い
立てこ
るう
。 つ ぶ や き ます
蒲葦は生糸のように強く
きみと別れたりしない
石臼は離れることは
しばらく里にもどるだけさ
ないのですから
僕はいま役所にいくけれど
すぐに迎えに戻ってくる
けっして君を裏切りはしない
4
まとめ
焦仲卿の妻
玉台新詠卷一
古詩為焦仲卿妻作
両家は二人を
華山の麓に合葬しました
周囲に植えた木々は
玉台
新に
詠枝
卷葉
一を絡ませあい
互い
古に
詩為
卿い
妻作
その間
は焦
一仲
つが
の鳥
名を鴛鴦といいます
当仰
時い
ので
人々
人を
哀れみ、
天を
鳴は
き二
あう
声は
この
詩を
っ及
たび
とい う 。
毎夜
深作
夜に
旅人は足を止め
夫をなくした妻たちは
起きてさまよい歩くばかり
後の世のみなさん
どうか二人の物語を
忘れないでください
参考文献
„ 陳舜臣『紙の道』(集英社文庫 1997年)
„ 潘吉星著・佐藤武敏訳『中国製紙技術史』(平凡社
1980年)
„ 潘吉星著『中国古代四大発明』(中国科技大学
2002年 未翻訳)
„ 内田泉之助『新釈漢文大系60 玉台新詠』(明治書
院 1974年)
1. 従来、定説となっていた紙は西暦105年に後漢の蔡倫が
発明したという説は、前漢時代の紙の発見により、否定
されている。
2. さらに近年では文字が記された前漢時代の紙も発見され、
当時、紙がすでに書写材料として使われていたことが明
らかになっている。
3. 安価な書写材料である紙の普及により、中国ではそれま
でにない長編の民間文学作品が記録されるようになった。
4. 玉台新詠巻一には、後漢以来300年あまりにわたって歌
い継がれてきた、1700字あまりに及ぶ長編叙事詩・焦仲
卿の妻(古詩為焦仲卿妻作、一名孔雀東南飛)が収
録されている。
潘吉星の中国製紙技術史
「紙とは植物繊維が物理・化学作用で純化され
分散されたセルロースを、水素結合で互いに
結び付けた薄膜状の物質である。」
潘吉星著・佐藤武敏訳『中国製紙技術史』(平凡社 1980年)より
5