姉の詩

2012/06/29 版
予定稿
大正期・岡山の音楽環境
~童謡・唱歌を中心にして~
おかやま市民学芸員の会 山下 敬彦
1. はじめに
大正期を振り返るとき、このテーマを立てた背景には縦糸として「教育の裾野の広がり」があ
る。明治中期までに初等教育・中等教育が充実して、1900(明治 33)年を挟む 15 年ほどの間に
旧制の高等学校が完成する。岡山の第六高等学校設立は 1900 年であった。大正期に入ると、女
子教育、男女の実業教育の振興、幼稚園の普及が見られる。
背景の横糸には明治後期に始まる文化・芸能の普及(大衆化)がある。大人の世界での雑誌・
読み物の普及のみならず少年少女たちの雑誌や子供新聞も発行される。他方、1872(明治 5)年
に始まった初等教育では『唱歌(当分これを欠く)
』として、傍らに置かれていた音楽教育に眼が
向けられ、1910(明治 43)年に「文部省唱歌」
(以下で「唱歌」と略称)が発足した。
唱歌についての議論は様々あるが、誤解を恐れずに言えば、当初は楽曲より詩(詞)に重点が
置かれた。歌詞は漢文世界の影響を残して、漢語・熟語が多く、また口語ではなく文語表現であ
った。曲は西欧の讃美歌や民謡を借りて、または、強く影響を受けて整えられた。著作者を表面
に出さないのが原則で、後に著作権の概念が敷衍することになって批判されることになる。
この流れに対し、
『赤い鳥』に象徴される、子供の言葉による子供の心に寄り添った詩を創る運
動が芽生える。詩(詞)に曲が付けられ「童謡」というジャンルが生まれる。その後童謡(童謡
詩)の世界の中でも様々な議論が出たが、ここでは議論しない。
今の視点から見れば「文部省唱歌」の功罪に関して論議があり、お上からのお仕着せだったと
いう側面は否めない。しかし他方で、長い間聴き親しんで来たせいもあって、今となっては、こ
の列島の住民のDNAにしみ込んだ存在であることも事実である。
このたびの企画では「おかやま」の設定が付いている。ただ、文化・芸能には「県境」がある
わけではない。風土としての「おかやま」が童謡・唱歌の形成に寄与した役割について考える。
2. 概説
【縁ある人々】 岡山における童謡・唱歌の状況を見るとき、作詞家として、東の播磨・龍野
に「赤とんぼ」の三木露風(作詞=大正 10 年、山田耕筰作曲=昭和 2 年)
、西の備後・神辺に「夕
日」の葛原しげる(室崎琴月作曲=大正 10 年)があるが、岡山ではそれほど大きい名前は知ら
れていない。遠く西に進めば童心の詩人・金子みすずがあり、曲を得た「童謡」も少なくないが、
今はそこまでは議論を広げない。
北(鳥取)には文部省唱歌の作曲などで大きい功績を残した作曲家:岡野貞一がある。この人
は岡山・薇陽学院に学んだとき音楽の道を決定づけられたという。各論で詳しく述べる。唱歌に
おける、岡野に並ぶ巨星に同じ鳥取出身の田村虎蔵があるが、岡山との直接のかかわりは薄いの
で、ここでは記さない。
三木操・露風(羅風)もまた岡山には小さいえにしがある。15 歳で故郷の龍野中学校から閑谷
黌(中学校)に転校してきたものの、望郷の心止み難く、学業を措いて創作に没頭して紛わせよ
うとしたが、1年足らずで故郷に戻り、上京することになる。
葛原しげるに話を戻せば、祖父の葛原勾当が琴の出張教授の実績で隣接の備中西部(小田/後
月/浅口郡)に強い縁がある。しげるの母は旧・芳井の出で、妹と 2 人の姉は岡山県側に嫁し、
また、妻は今の岡山市から迎えた。このように、彼は「吉備の国」の人で、
「小田縣」人という意
味で限りなく「おかやま」の人である。次節で詳しく述べる。
【岡山では】 上では「大きい名前は知られていない」と書いたが、2~3の例がないわけで
はない。まず、今の備中町には作詞家・久保田宵二がある。後に歌謡曲の世界に身を置いて、童
謡・唱歌から離れたので意識する人は少ない。また、作曲では岡山・門田町の出身2)の宮原禎次
はたくさんの童謡の曲を世に出している。宵二、禎次ともに 1899(明治 32)年生まれで、共作
の童謡もあろうが、
「たねまき」だけが確認できている。また、岡大教育学部附属小学校の協力で、
旧・岡山師範附属小学校校歌(1930)を共作していることも確認できた。
近年、薄田泣菫の詩に曲を付けた歌曲を再発掘する試みがある3)。中には、詩集『子守唄(大
正6年)
』に拠った明らかに童謡調のものがあるが、ここでは深追いしない。
少し幅を広げて、大人のクラシック・歌曲だが「中国地方の子守歌」を採録し一つの曲にまと
め上げたのは井原・高屋の声楽家:上野耐之で(1930 年初演か)
、それを受け止めて世に出した
のは山田耕筰(東京の人)であった。なお、若き日の耕筰(耕作)も 1899 年には岡山・養忠学
校(後の金川中学)に学び、姉・恒子の夫エドワード・ガントレットに西洋音楽の基礎を教えら
れ、本邦発ともいわれるピンポンの手ほどきを受けたという。
津山洋学の箕作阮甫の曾孫・箕作秋吉(1895-1971)は既に東京に籍があったが、理学博士(応
用化学)の肩書を持つ作曲家で童謡は 35 曲もあるという4)。
竹久夢二は多くの詩を作り、それに曲を付ける人が現れ、
「抒情歌」という新しいジャンルが
創り出された。また、夢二自身は楽譜単体や楽譜集のデザインを手掛けることで、このジャンル
を育てた。ここでは「抒情歌」にまで議論を広げることは止めておく。
後にさらに詳しく述べるが、
「アダムス-岡野貞一」
、
「ガントレット-山田耕筰」の2つの師
弟関係の出会いは、その後の童謡・唱歌だけでなく、クラシック音楽分野の発展に大きいきっか
けを作り、影響を与えた。耕筰が岡山に来た年に生まれた貞一だが、ふたりは東京で出遭う。
このように見て行くと、明治末から大正にかけて、
「擬洋風建築」という形で欧米風建築を取
り入れて、次第にレンガ造り・石造りの建築物を受容したように、西洋の伝統的歌謡に基礎をお
いて「擬洋風音楽」が模索されたことが分かる。万葉の昔からあった歌垣、古謡、労働歌、子守
唄などの骨格を捨て去ることなく、屋根や外壁を整えてきた。大きな部分がキリスト教各派の賛
美歌に由来するが、その意味で我が国の童謡・唱歌の分野の開拓期に岡山市門田屋敷界隈(旧門
田村)という空間の果たした役割は大きい。
3. 各論
【作詞家:葛原しげる】 しげる(1886・6・25~1961・12・7)の漢字表記は文学史の中では定
まっていないとされる。葛原文化保存会では「茲」を函に入れた字を用いるが、滋を充てる例も
ある。今回市民から提供された詩曲集(後述)の本人署名を基にかな書きを採っておく。
母・いつ は岡山県議会2代議長を勤めた三宅栗夫(栗斎)の姉妹であることは記録されてい
るが、しげる 生誕の年に栗夫は 44 歳に相当するので、いつ は栗夫の妹としておく。また、し
げる の姉は連島と金光に嫁し、今回、金光に嫁いだ姉の姻戚から詩集「葛原しげるの童謡集(昭
和 10 年)
」が提供された。この家には晩年までしげる の往来があったので、本人が署名して残
したものと理解できる。
妻・喜美子は妹尾崎(現・岡山市南区)の龍治氏から迎えたという。また、妹は井原市高屋に
縁を結んだ。中国紙によると5)、その妹に買い与えたオルガン(1908 年製・国産)が、近年、笠
岡市走出に残ることが分り、生誕 125 年に相当する 2011 年 6 月に修復披露され、筆者も葛原文
化保存財団のご厚意で接見・撮影を許された(図2)
。時代を映す燭台付きの逸品である。
図1 童謡集と著者署名(個人蔵)
図2 妹に与えたオルガン(葛原文化保存会蔵)
<しげる作曲の校歌> しげる作曲の中・高等学校、女学校の校歌は 400 曲に達するという。
ほとんどが広島県下からの依頼に依るが、岡山県下では11曲が知られている。例を挙げると、
旧制・高梁中学校、岡山第一高等女学校がある。後者は信時潔の作曲による。
<しげる・百閒・宮城道雄> しげる の祖父の葛原重美・勾当との縁で、父・重倫は宮城道
雄(福山市・鞆出身)と古い友人であった。しげる は道雄の門に入る形で側面援助し、世に出る
手助けをした。結果として、葛原-宮城のコンビの作品は98曲にも上るという。また、内田百
閒とは同じ下宿に棲んだ縁もあり、道雄の弟子に引き込んだ。
【作曲家:岡野貞一】 岡野貞一(1878・2・16~1941・12・29)
:鳥取市には顕彰のために「わ
らべ館」が作られている。岡山に縁がある人で、1893 年姉の小野田寿美[としみ]を頼って岡山・
薇陽学院に学んだとき、
門田でアダムスと呼ばれる女性の日曜学校でオルガンの手ほどきを受け、
音楽の道を決定づけられたという。この「アダムス」は岡山博愛会の基礎を築いたアリス・ペテ
ィー・アダムスだと理解される。薇陽学院の歴史は長くなかったので、詳しく解らないが、正宗
白鳥がここへ通ったので、その作品の中からおぼろげな形が想像できるという。
貞一の膨大な数の作品を列挙するのは省略する。東京音楽学校の教授時代の功績も今は述べな
い。作品で岡山に関係するものは、
「桃太郎」=♪ももたろぅさん♪ がよく知られており、他方
で今は埋もれている、昭和 5(1930)年に作られた「岡山市の歌」
(1930)6)がある。これは守
時高樹作詞(公募)で、陸軍大演習を契機に作られたので抵抗感を持つ人がある。なお、近年、
山陽学園高等学校の放送部が、この市歌の復元を試みた。
なお、貞一が門田でリードオルガンを習ったことは上に述べたが、東京に出て、明治 33(1900)
年から死の直前までの 40 年の長い間本郷中央教会のオルガニスト(聖歌隊指揮者)を務めたこ
とでも特記される。彼の先任者・初代のオルガニストはエドワード・ガントレット(上に書いた
山田耕筰の姉の夫)で、貞一を指名しておいて、第六高等学校の英語教師として岡山に来た。
また、貞一と耕筰は明治 41(1908)年ごろに東京音楽学校で職場を共にしたという記述があ
るが、詳しい期間やそのことを示す資料については調査中である。
【作曲家:宮原禎次】 禎次の生涯を記した書籍には出逢わなかった。禎次(1899・3・8~1976・
1・21)は現在の岡山市中区門田の生まれで、岡山師範学校を終えたのち東京音楽学校に進んで山
田耕筰の指導を受けた。童謡唱歌にとどまらず、交響曲/グランドオペラまで手掛けた点で、耕
筰の世代から次の世代へとつなぐ重要な仕事をしたと評価される7)。他方で、昭和初期の多くの
芸術家たちが背負った「翼賛行動」に対する批判からは彼もまた逃れ得ないといえる。
晩年に集大成した歌曲集3部作は、著者の献呈辞付きで、岡山市立中央図書館に収蔵されてお
り、
「大正時代のおかやま」では実物を展示した。
<主な童謡・唱歌作品8)> ( )内は作詞家 発表年省略
「かやの実」、「こんこん小山」、「わらひます」、「お月夜」、「鳩」(以上 北原白秋)
「村の水車」、「さようならの歌」、「つくし」、「夕立」、「朝ぎり」、「ざんぶりこ」
(以上 林柳波)
、
(以上 富原義徳)
「蛍」、「山家の祭」、「青すゝき」、「れんげ」、「深山鶯」
「霜の夜」、「橋渡り」(以上 賤機多味男)
、
「てんてんてつなぎ」(室田久良三)
、 「カッコどり」(野口雨情)
、「お寺の鐘」(小檜弘)
「梟」(鈴木哲太郎)
、 「螢」( 三木露風)
、「南京ねずみ」(本間一咲)
図3 宮原禎次歌曲 3 部作(手前:岡山市立中央図書館蔵) 図4 久保田宵二肖像(高梁市教委・備中郷土館蔵)
【作詞家:久保田 宵二】 宵二(1899・6・.2~1947・12・26)は今の高梁市(旧備中町)の寺
の生まれで、地元顕彰会の努力で 1987 年 5 月に母校で赴任校の布瀬小学校跡地に「久保田宵二
童謡碑」が建てられた。2012 年は 25 周年の節目に当たる。
地元で教員の資格を得る努力を積み重ねながら、地域や岡山県下の青年たちの詩作の指導を続
けたが、先達で師に当たる野口雨情などの誘いを受けて、大正 14 年に寺を継ぐ道を閉ざして上
京し、教員をしながら童謡・民謡の詩作に励んだ。昭和 6 年には教職を退き、レコード会社の専
属の作詞家になり「歌謡曲」と呼ばれるジャンルで数々の作品を作った。
多くのヒット作を得ながら、専属作詞家の地位をなげうって、当時低かった作詞家の地位向上
にも寄与した。2005 年には古賀政男音楽博物館に選ばれ「大衆音楽の殿堂」に入った。
<主な童謡民謡/歌謡曲作品9)> ( )内は作曲家 発表年省略
「お城」
(本居長世) 、 「小舟が行くよ」 、 「山のかへりに」 (草川信)
「ひょうたんぼっくりこ」 、「あがり目さがり目」 、 「昭和の子供」
(以上 佐々木すぐる)、
「山寺の和尚さん」 、 「もしもし亀よ」 (服部良一)、
「赤城しぐれ」 、 「赤い風車」 (竹岡信幸)、
「旅がらす」、
「富士山見たら」
「ほんとにさうなら」
(古賀政男)、
(橋本国彦)
「秋の銀座」
(江口夜詩)、 「山の歌」 (長谷川良夫)
4. 付言: 足踏みオルガンについて
足踏みオルガン=リードオルガンについては、明治中期から国産が試みられたが、広く普及す
るのは大正から昭和ひと桁と理解される。県下の公設資料館などでもレトロなオルガンが収蔵さ
れているが、多くの場合は音が出ない。鞴(ふいご)の革袋の劣化が致命的なようである。私達
が知るところでは、高梁市立歴史資料館が量的にも、年代別でも一番多く収蔵されており、年代
考証も良くできているようだが、外見から判断すると音は出ないようである。
八角園舎(旧旭東幼稚園舎)のオルガンは、製造が昭和ひと桁まで降る可能性はあるが、音が
出るもので実現可能性の高いものとして展示と演奏会用に選んだ。
国内で保存されている(復元された)オルガンのリスト(DB)には、リードオルガン研究家
で演奏家の佐藤泰平氏の労作10)がある。これは、全国の30人近い協力者の援けを得ながら、
1993年以来集積されたデータを立教女学院短大の紀要などに報告し、更に集約したもので、ハル
モニウムを含めて国産約550台、外国製約250台の記載がある。
なお、岡山県下の記載例は27台、県下の協力者には大島良子氏(下記)を含め4名が記録され
ている。また、今回の企画が縁になって佐藤氏に提供できそうな事例(詳細を調査中)は5件あ
る。例えば、2012年春に閉校した吹屋小学校のオルガンは、実地調査できていないが、明治30
年代初頭の山葉製(Yamabaのロゴ)と推定される。
謝辞
童謡唱歌について筆者が担当となり、知人にテーマに沿った人材の紹介を求めたとこ
ろ大島良子氏(元美作短期大学講師)が推薦され、その助言と積極的な行動によって企画が完結
した。単なるアドバイザーにとどまらずメンバー(市民学芸員)に準じる寄与があり、別のとこ
ろで報告されるように、
「オルガン演奏による 童謡唱歌演奏」も担当された。よって、この報文
は両名連著の予定であったが、再三固辞されたので単名になった。深く感謝します。
久保田宵二の資料に関しては、備中郷土館(高梁市教委社会教育課所管)の援けを得た。現在
の備中公民館館長・須广耕介氏からは、25 年前の宵二童謡碑建碑の裏方としてのご経験に基づき、
多くのご助言を頂いた。深甚なる敬意を表します。
文献と注
1)東京音楽学校編『本邦音楽教育史』
(1938)
復刻版あり
2)倉敷出身とするものもあるが、今の青陵高校に学んだという説を採っておく。
3)満谷昭夫ほか編『泣菫の詩による歌曲集』創元社(2009)
4)大島良子氏が津山の童謡普及活動の中で再評価の準備中。
5)中国新聞記事(2011 年 2 月 24 日備中備後版)など
6)岡山市役所編『岡山市史』
(1938)6巻、p4088~89
山陽学園の WEB 情報 http://www.sanyogakuen.net/sbc/sikatoha.html
7)WEB記事 http://www.nipponica.jp/archive/comp_miyahara.htm
8)例えば http://www.d-score.com/ar/A05011401.html などを参照して作成
9)例えば http://www.d-score.com/ar/A02091105.html などを参照して作成
10)佐藤泰平『日本の古いリードオルガンの調査リスト』
(2008 年:自費出版)
原論文:佐藤泰平『立教女学院短期大学紀要 第 26、28~31 号』
(1994~2000)