フードプロデューサーをしてます。ここにいたるまで’(飲食業)のストーリー。 --------------------------------------------忘れられない暗黒の日 --------------------------------------------- なんの苦労もなく平穏無事に暮らしていた 19 歳の春。 突然、前ぶりもなく地獄の底に叩き落とされた。 最愛の母が急死し、翌日のお通夜の準備中に父親が脳出血で倒れた。 とりあえず、自分も救急車に乗り一緒に病院に行ったが危篤状態。 この時ほど人生で放心状態というのを感じたことがない。 しかし、お通夜・お葬式の喪主を努めないといけないので、危篤の父を置いて 自宅にもどった。 こんな時に兄弟でもいてくれたら、少しは心強かったのだろうが自分 1 人で頑 張らないといけない。 涙なんて出ない。悲しいけど出ない。 それより、これからどうなるのだろうという不安とショックでいっぱいだった。 父親はなんとか一命を取り留めたのだが、重度の後遺症が残ってしまった。 言語障害、歩行困難、右半身不随。 ある、心もとのない人が自分を思ってくれての事だが「杉山君もまだ若いんだ から、いっそうのことなくなってくれた方が良いね」なんて。 病院を転院するたびに、現実を知らされて毎日、傷つけられ落胆し、どんどん 不安になっていく自分。 でも、母親をなくした今、ただ一人の肉親である父親を大切にしたいという気 持ちは変わらなかった。 ある病院で回復の見込みがないと言われていたのだが、リハビリをしましょう という事になり、父親も一所懸命にリハビリをする毎日。 自分も毎日ではないが、一緒に父のリハビリを手伝った。 それて、なんとか杖をついて歩けるほどになり一時退院出来る程になった。 自分はすごく嬉しかったのだが、現実は厳しかった。 --------------------------------------------料理との出会い・そして原点 --------------------------------------------父が退院してくるということは、周りの面倒を自分が 24 時間見なければいけな いということだ。 洗濯は入院時代から、家に持ち帰りしていたので問題ないし、お風呂も自宅を 改造して父仕様になっていたし病院でも指導を受けていたのだが。 問題は食事だった。 食事なんて作ったことなかった。 当初は親戚が手伝ってくれてはいたが、ずっとというわけにはいかない。 教わったり、料理の本をもらったり買ったりして勉強した。 そこが、自分の料理の原点になりました。 「相手を思って作る」 「相手に喜んでもらいたい」 今でもその気持ちは変わっていません。 そんな感じで 2 年位を父親の闘病生活(入院中も含めて)を過ごしましたが、 自分が 22 歳の時に再発して手術の甲斐もなく他界してしまう。 --------------------------------------------荒れた生活 --------------------------------------------両親を亡くして、糸が切れてしまったタコのように呆然とする自分。 あれだけ友人が多かった自分だが、父親の介護を優先して友人との付き合いを たって来た自分の周りに誰もいなかった。 それでも一部の友人の誘いで、ビリヤードなどにはまる。 ビリヤード屋でバイトをしながらプロを目指した時期もあったが、生活がすさ み切っていた。 夜、18 時から 0 時までバイト。バイトが終わるとお客さんとビリヤードを 2 時 間位して、それから飲みに行く。 朝の 7 時頃まで飲んで歩いて帰宅する。 そんな毎日が続いていた。 そんな自分に「いつまでも両親の事引きずっていないで、ちゃんとした生活し ろよ、彼女の事どう思ってるんだよ」と友人 2〜3 人に呼び出され、こっぴどく 怒られた。 それでも、その場では「お前ら、俺の立場になった事ないからわからないんだ よ」と突っぱねてしまった。 そして、またいつものように朝の 7 時まで飲んで自宅に帰宅する。 帰宅する途中ですれ違う、スーツ姿のサラリーマンや OL。 顔を真っ赤にして千鳥足の自分を、蔑んでいるよう見えた。 いつもは感じないことなのに、その日はそう感じた。 自宅に帰って、トイレに入りながら、とめどない涙が溢れてくる。 なんだかわからないけど、涙が止まらなかった。 そして、悔しかった。 かつて、自分もスーツを来て飛び込みセールスで新人トップを取った事もあっ た。 両親の出来事があって、やめる事になったが・・・ それが、今は朝の 7 時に酔っ払って、サラリーマンや OL に軽蔑されている。 どめどない悔しさと悲しさで、トイレから出て布団に入ってからも泣いた。 --------------------------------------------再スタート --------------------------------------------自分を怒ってくれた友人に、昨日の事をあやまり、就職情報誌をその足で買い にいった。 父の面倒を見ていた時にトヨタのディーラーでメカニックをしていた時期もあ ったが、自分には決められたことしか出来ない仕事は向かないと思って、やは り営業的な仕事を探した。 1989 年 10 月 企画営業という言葉に魅力を感じて、現在の会社に入社する。 社員規定というものがあり、通常 3 ヶ月位かかると聞いていたのだが、異例の 2 週間で規定をクリアする。 傍から見たら潤風満帆に見えただろうが、皆が見ていない所でかなり努力した 思いがある。 そこから、成績に関しては好成績をあげる事が出来たが、やはり営業の世界は 厳しい事を実感する。 1991 年 横浜営業所所長就任 その後、営業本部長、セールスマーケティング部、セールスマーケティングプ ロデューサーや新規事業に携わる。 その間に 30 歳の時に結婚をする。 --------------------------------------------飲食業との出会い --------------------------------------------営業畑から、新規事業の立ち上げなどに関わっていたが、ある時ニューヨーク に在中してしていた先代社長が、NY で出会ったスンドゥブという料理を日本で できないかという話がでた。 この時点では本格的に飲食業参入が決まっていたのではなく、なんとなく出来 たらいいなぁ程度の話しだった。 自分は当時から、趣味でとんこつや鶏がらを買ってきて自宅でラーメンを作っ たり、かなり料理好きになっていたので、とりあえず試しにインターネットで 調べて作ってみた。 まぁ、はじめから上手くいくわけがない。 そして、社長や部長と一緒に日本でスンドゥブを食べにいった。 衝撃を受けた。 それからというもの、色々な韓国料理屋さんでスンドゥブを食べては、自宅で 試作して、また食べるという研究の毎日。 もちろん、仕事を終えたあと自宅での研究なので本当に寝る間も惜しんでとい う感じだったのを覚えている。 そして、運命の試食会が社長宅で行われた。 緊張のなか、社長が「これ旨いよ〜」、皆も「美味しい、美味しい」と。 ホッとした瞬間と同時に、本格的に飲食業に足を踏み入れた瞬間だった。 ただ、飲食業の経験がない会社、そして初期メンバー皆がど素人。 ただ、ど素人だからこそ、お客様目線だったり、つまらない枠にこだわらず、 恐れず進んで来れたのだと思っている。 2006 年 4 月 東京純豆腐 青山店オープン。 初めてのお店は青山で。周りの他事業部の者は本当にど素人集団で大丈夫なの かとか、心配の目で見ていたが、ど素人だからこそ韓国料理にとらわれない自 由な発想のメニューや、店舗レイアウトでブレイクする。 フードプロデューサーとして、スンドゥブはもちろん、韓国料理、タイ料理、 ピザ業態などのメニュー開発などに携わる。 --------------------------------------------永遠の挑戦者 --------------------------------------------ど素人から始まり、色々な業態開発やメニュー開発に携わってきたが、自分に とって両親との出来事があって初めて関わった料理というものが原点になって いる。 その点ではつらい思い出ではあったが、すごく自分の身になっていることを実 感する。 料理ってジャンルがあるが、それを乗り越えて「相手を思う」 「相手に喜んでも らう」これが共通することだ。 ただ、当然、職業となった今は素人的な発想は大切にしているが、料理の研究 や勉強は以前にもまして努力している。 どんなジャンルの料理でも、枠にこだわられない、常に挑戦者、そしてフロン ティアスピリッツをもって頑張りたい。 料理だけにとどまらず、FB やブログの導入もそんな枠にとらわれない部分で新 たな活用方法を模索していきたいと思います。 ぜひ、そんな自分の開発した料理ですが、ご興味あれば是非食べに来てくださ い。 そして、ご共感いただけたなら、FB 友達になってください。 http://www.facebook.com/hiroyuki.sugiyama ブラスアンドカンパニー株式会社 飲食事業部 商品部部長 フードプロデューサー 杉山浩之
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