2006年4月21日 単一市場と経済ナショナリズムの対立 (JCIFブラッセル事務所から) 昨春、仏及び蘭で欧州憲法条約が国民投票により否決され、当時議長国であったル クセンブルクのユンカー首相は、「欧州は深刻な危機にある」と表現しましたが、そ の後各加盟国で欧州統合へのモメンタムが喪失され、より内向的・大衆迎合的になり、 経済ナショナリズムが頭を擡げ、国民に不人気な規制緩和等の構造改革政策が後退す るという動きが続いています。 最近は、国境を越えた企業買収を巡る問題、域内サービス市場の自由化を目指すサ ービス指令への対応等で、こうした傾向は顕著になっています。 1. 拡大する経済ナショナリズム (1) 国境を越えた企業買収問題 本年に入ってから、次のような鉄鋼、エネルギー、金融等、基幹産業に 係るクロスボーダーの企業買収問題が、議論を呼んでいる。 ○ ミタル(オランダに本拠を置く世界最大の鉄鋼会社。株式の8割以 上は、創業家であるインド出身のミタル家が保有する。)は、本年1月、 アルセロール(ルクセンブルクに本拠を置く世界第 2 位の鉄鋼会社)に 対するTOB計画を明らかにしたが、ルクセンブルク及び仏(生産拠点 あり)政府は、この計画に強く反対している。 ○ エネル(伊の電力最大手)は、スエズ(仏のエネルギー・環境企業) へのTOBの可能性を本年2月に明らかにしたが、仏政府は、これに対 抗する形で、スエズと仏ガス公社の合併を明らかにした。 -1- ○ スペイン政府は、本年2月、ガス・ナトゥラル(スペインのガス最 大手)のエンデサ(スペインの電力最大手)に対するTOB計画を許可 したが、エーオン(独のエネルギー大手)がこれを上回る価格での買収 をオファーした。スペイン政府は、従来から国内企業間の買収を支持し ており、政府の合併審査権を強化するなど、エーオンによる買収を阻止 する姿勢を示している。 ○ ウニクレディト(伊の大手銀行)は、昨年、HVB(独の大手銀行) を合併したが、これに伴い、両行のポーランド子銀行を合併させること とした。しかし、ポーランド政府は、国内銀行資本の8割近くが既に他 加盟国資本に握られていることもあり、これに反対の姿勢を示した。 (2) 敵対的買収を阻止するための制度的対応 また、制度的にも国境を越えた企業買収を困難にしようとする動きが、 一部の加盟国に見られる。 ○ 2004年に採択された公開買付指令の加盟国での実施期限が本年 5月に到来する。この指令は、公開買付の対象となった企業の防衛策を 制限し、以って株主利益の保護を図ることを目的とするものであるが、 外資による自国企業への敵対的買収を懸念する加盟国政府や企業の圧力 により、当初の目論見からは後退した内容のものとなった。例えば、公 開買付の対象となった企業が、これを阻止するための行為に一定の制約 を加えている条項のいくつかについて、これらを国内法制に採用するの を留保することを加盟国に認めている。この留保条項を採用する動きが、 加盟国で広がっている。 ○ 仏政府は、昨年末、加盟国の企業が、仏企業を買収する場合、その 対象が、情報セキュリティ、バイオテクノロジー等の7分野、加盟国以 外の企業については、更に軍事関連等の4分野に関連する企業である場 -2- 合は、政府の事前許可を要するという内容の外資規制に関する命令を公 布した。更に、仏企業の国内資本の構成を高める観点から、政府系金融 機関である預金供託金庫の出資機能を拡大することが検討されている。 2. 後退するサービス指令案 (1) 本年2月、欧州議会は1年半に及ぶ議論を経て、サービス産業の自由化 のための指令案に関し欧州委員会の原案を大幅に修正する決議を採択し た。 2004年1月の欧州委員会の原案では、域内のサービス産業の大幅な 自由化を目指し、 「母国主義原則」 (他の加盟国でサービスを提供するサー ビス事業者は、自国の法律にのみ従えばよいとの原則)が採用されたが、 これに対し、ドイツ、フランス等を中心とした加盟国は、この原則が適用 されれば、規制の程度が緩い中東欧諸国等に先進地域からサービス事業者 が移転するおそれが生じ、結果として「社会ダンピング」(→公正な規制 の後退)を生じさせると強く批判し、労働組合や欧州議会中道左派もこれ に同調していた。 (2) 欧州議会の決議では、他加盟国サービス事業者による自国サービス市場 での自由なサービス提供を保証する等の自由化措置は維持されたものの、 母国主義原則は事実上放棄され、安全、健康、公共政策等に係るサービス 産業への規制については、サービス提供地国の規制が適用されることが明 確にされた。また、人材派遣業、社会的サービス、輸送、ヘルス・ケア事 業、法律事務、放送事業等について、幅広く自由化の例外業種とされた。 (3) 中道左派は、「加盟国の社会と市民の保護を図ることができた」と評価 し、労働組合も歓迎の意向を示したが、企業経営者や新規加盟国などは、 サービス市場の自由化路線の後退に強く反発している。 本来、自由化を推進する立場であるはずの欧州委員会も、今回は早々に 欧州議会の決議を尊重することを明らかにし、決議内容を踏まえた修正案 -3- を4月初めに提示した。 3. 欧州の経済政策の行方 (1) 漂う閉塞感 こうした「経済ナショナリズム」が蔓延する欧州の現状では、将来の欧 州の経済・社会の在り方、経済政策の基本姿勢等について本格的な議論を しうる状況になく、3月末の欧州サミットでの議論は、欧州の経済成長と 雇用を拡大するという「リスボン戦略」に焦点が移された。 2000年のリスボン・サミットで「世界で最も競争力があり、ダイナ ミックな知識基盤型経済」を2010年までに欧州に実現することが「リ スボン戦略」として宣言されたが、その後の欧州経済は惨憺たるものであ り、昨年春には、経済成長と雇用に焦点を絞り、より現実的なものにする ための中間見直しが行われていた。 今回のサミット議論では、各加盟国に対し、国別の改革プログラムによ り具体的な目標と工程表を取り組むこと、競争促進及び市場アクセスの障 害除去に関しより詳細な内容とすることなどが決められた。 保護主義的な動きについてサミットで議論すべきとの意見も一部の加 盟国から出ていたが、完全に封殺されてしまった。欧州の政治的な停滞を 目立たせることなく、また加盟国の対立を回避し、更にサミットの体面を 保つためには、結局、当たり障りのない「リスボン戦略」を議論するほか なかった。表面だけを取り繕おうとする閉塞感が漂っていたと言えよう。 (2) 懸念される保護主義のドミノ現象とフランスの孤立 フランスの単一市場の形成に対する一連の消極的、後退的な姿勢が目立 っている。このフランスのスタンスが広く欧州連合全体にドミノ的に拡大 していくのではないかとの懸念が、欧州委員会を中心に広がりつつある。 こうした中、従来、強固な同盟関係にあったドイツは、保護主義的なフ -4- ランスの動向に批判的な立場を取ろうとしている。欧州連合の中でのフラ ンスの孤立化が進む一方で、皮肉にも、その経済ナショナリズムの傾向だ けは欧州全体に蔓延していくという歪曲した事態は、欧州連合にとって憂 慮すべき問題であることに疑いはない。 (3) ドイツ「大連立政権」の影響 昨年11月に誕生したドイツのメルケル政権の存在は、経済政策を巡る 中道右派と中道左派の対立軸を、ドイツ国内のみならず欧州レベルにおい ても、曖昧なものにしつつある。サービス指令案に係る欧州議会における 妥協形成には、ドイツ連立政権の影響力が強く働いたと言われている。欧 州連合全体に左右の政治勢力の妥協的な雰囲気が蔓延しつつあり、それが 結果として、加盟国政府の保護主義的な動きへの抵抗を弱くしている。 (4) 主導権を発揮できない議長国と欧州委員会 フランス及びオランダでの国民投票の後、欧州で明確な方向性をもった 政治的決断は困難になっており、サービス指令問題にしても、欧州委員会 は不本意ながら欧州議会の決議を支持せざるを得なくなった。市場経済へ の指向が強いはずである議長国オーストリアも、サービス指令案について は、妥協の必要性を自ら説かざるを得ない立場に追い込まれている。 政治的停滞の中で、欧州委員会は、統合深化へ向けての主導権を取れず、 欧州サミットの事務局的な役割しか発揮できなくなっている。議長国も加 盟国間の調整的な機能しか果たせず、自ずと欧州サミットが出す結論は妥 協的なものとなってしまう。 (5) 経済、政治、欧州市民の三層間ギャップ 現在起こっている単一市場の推進を巡る揺り戻しとも言うべき事態は、 経済、政治、市民意識のそれぞれのフェイズで進む欧州の統合深化の間で、 -5- 大きなギャップが存在することに由来している。 グローバル化にも影響され、経済の分野、特に国際的大企業が関係する 局面で、統合深化は最も進んでいる。政治の分野では、政治・官僚エリー トが主導権を発揮できる政治環境の下では、統合に向けた制度設計が一気 に進展する傾向がある。反面、現在のように、主要加盟国の大統領選挙、 議会選挙等の重要な政治サイクルの巡り合わせにより、あるいは欧州憲法 条約のような欧州規模の政治イベントの挫折等に直面するときには、統合 深化へのモメンタムは著しくし縮小する。政治の分野は、振れが大きい。 こうした中、欧州市民のレベルでは、統合深化の更なる進展に対し、精神 的準備が未だできていない。 こうした三層間のギャップに由来する軋轢が表面に噴出しようとして いるのを、何とか取り繕って押さえ込もうとしているのが現在の欧州の状 況と言えよう。 -6-
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