学校と家庭・地域社会との架け橋 もう一歩 もう一歩 学 校 だ よ り 平成28年8月1日(月) 宮崎市立宮崎西中学校 ~ いかなる時も自分は思う。今が一番大事な時だ! ~ 「陽光桜にかける思い」 ~ 広島・長崎原爆記念日、終戦記念日を前に ~ ◆ 71年前のあの日と同じように、今年もまた蝉の声が真っ青な空に向かって響き渡ります。71年目の 慰霊の月。 8月1日の登校日に、戦争体験者15名の方々を招いて、 「太平洋戦争」についての体験談を各学級で お話しいただきました。戦争を体験された方々は、すでに90歳前後のご高齢です。無理が利かない体に なられる中で、精一杯中学生に語られるその思いは聞いていて胸を打たれました。世界平和への強い思い を生徒全員が共感できたと思います。 ところで、体育館と南校舎理科室との間に、 「陽光桜」が卒業記念樹(第21回卒業生)として植えてあ ります。正門近くのソメイヨシノより一足早く満開の時期を迎え、またその花も一際目立つような華やか な咲きぶりです。この陽光桜を調べている途中、太平洋戦争と大変ゆかりのある桜だと知り、驚きました。 陽光桜は、高岡正明さんが開発された桜です。 高岡さんは、1940年(昭和15年)から青年学校で先生をされていました。戦争開戦で、村の若者は 次々と戦場に駆り出されていきました。 「日本は強い国だ、絶対に負けない国だ」と言い聞かせ、数百名 の教え子の出征を見送り、 「絶対に負けない」と高岡さんは信じていたそうです。 1945年終戦。戦争中もそして戦後も教え子たちの戦死の知らせが次々と届きました。 「私はなんということを生徒たちに話してきたのだろう!」 。彼は、落胆と自責の念で胸が張り裂けん ばかりでした。あのきれいに咲いた桜の下で記念写真を撮った生徒の一人一人の面影を思い出して、でき るなら教え子一人一人の亡くなった土地を訪ねて供養をして歩きたい、そんな思いにかられたこともあっ たそうです。 終戦後、青年学校は無くなり高岡さんは、狭い畑を耕しながら細々と暮らしを続けました。そんなある日、 彼が青年学校の跡地を訪ねた折、ふと見上げると、思い出の校庭に桜が満開に咲いているのを見て、当時 の教え子たちとの思い出が次から次へと脳裏をよぎりました。彼は、その時決心し、 「二度と戦争のない 平和な世界は自分たちの手でつくらなければならない。そのためには、生徒一人一人の命の証であり平和 の象徴である桜をつくり、世界に広めてゆくことが自分の残された人生の最大の仕事だと考え、世界を視 野に、どこでも適応できる桜を開発する必要があると考えました。 」 彼の執念には凄まじいものがありました。 私財を投げだし、新しい桜をつくるため日本中を訪ね歩く日々が始まりました。訪ねた土地から色々な 品種が届けられました。失敗を繰り返しながら、品種改良に没頭し、20数年が経過しました。ようやく 病気にも強く、厳しい気候にも耐えうる桜を発見しました。このとき、今までに見たこともない大輪で紅 色の強い丈夫なさくらが誕生しました。これは、新しい桜として注目を集めました。 この陽光桜は、教え子を送った戦場各地に広められたと聞いています。高岡さんが開発した「陽光桜」は、 世界中で平和のシンボルとして植樹が行われ、人々の心を照らし続けています。 (NHK「こころを照らす桜」より引用) 3月に咲く宮崎西中の「陽光桜」をこれからも見守ってください。 第68回体育大会結団式を行いました 「スローガン:時は来た 赤 仲間と駆け抜け 今こそ集え 団 白 (3年1、5組、2年1、4組、1年3組) 団 長: 冨永 大稀 副団長: 隈 翔太郎 釘田 桃華 団顧問: 石原 隆 君 君 さん 先生 西風の乱」 (作:3年黒葛原 団 (3年2、4組、2年3組、1年1、5組) 団 長: 副団長: 団顧問: 西部 こまち さん 中八児 巧海 君 五反田 さくら さん 中武 宏朗 先生 諒君・中西めいさん) 青 団 (3年3組、2年2、5組、1年2、4組) 団 長: 副団長: 団顧問: 今泉 古屋 川名 上田 日希 辰樹 遙香 尚司 さん 君 さん 先生 学校と家庭・地域社会との架け橋 もう一歩 もう一歩 ~ いかなる時も自分は思う。今が一番大事な時だ! ~ 学 校 だ よ り 平成28年8月1日(月) 宮崎市立宮崎西中学校 「平和について考える」 ~ 広島原爆記念日、長崎原爆記念日、終戦記念日を前に ~ 71年前のあの日と同じように、今年もまた蝉の声が真っ青な空に向かって響き渡る。71年目の慰霊の月。 70年目が節目であろうが、71年目が節目でなかろうが、8月は必ずやってきます。8月6日「広島への 原爆投下」、8月9日「長崎への原爆投下」 、そして8月15日は「太平洋戦争の終戦記念日」である。8月は、 日本人にとって特別な月である。今生きている私たちは、戦争体験者の諸先輩方から聞いて、戦争の悲惨さと 平和の尊さ後世に伝える義務を背負っていると考えます。 戦争を体験された方々は、すでに90歳前後のご高齢です。無理が利かない体になりつつある中で、生きて いる内に、戦争で体験したことを是非若い人にお話をしておきたいということで、本日ボランティアで来校し ていただきました。各教室に1名ずつ、合計15名によるそれぞれの体験談を話していただきました。 戦いの世は終わった。平和な世の中が、やがてやってくる。なげくなよ、お前たち。 命こそ宝なんだよ。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 忘れてはならない。戦争体験者の記憶を戦争の惨めさを。 伝えなければならない。戦争体験者の哀しさを、平和の尊さを。 今が平和で、これからも平和であり続けるために。 戦争体験者の記憶を心に留め、平和な世の中の素晴らしさを、 未来へと繋ぐ。 (沖縄県 知念まさる 君の詩をもとにしました) 体育館と南校舎理科室との間の中には、「陽光桜」が記念樹として植えてあります。正門近くのソメイヨシ ノより一足早く満開の時期を迎え、またその花も一際目立つような華やかな咲きぶりです。 この陽光桜は、太平洋戦争と関わりのある花だと昨年知りました。 陽光桜は、高岡正明さんが開発された桜です。 高岡さんは、1940年(昭和15年)から青年学校で先生をされていました。戦争開戦で、村の若者は月々 と戦場に駆り出されていきました。「日本は強い国だ、絶対に負けない国だ」と言い聞かせ、数百名の教え子 の出征を見送り、 「絶対に負けない」と高岡さんは信じていたそうです。 1945年終戦。戦争中もそして戦後も教え子たちの戦死の知らせが次々と届きました。 「私はなんということを生徒たちに話してきたのだろう!」。彼は、落胆と自責の念で胸が張り裂けんばか りでした。あのきれいに咲いたさくらの下で記念写真を撮った生徒の一人一人の面影を思い出して、できるな ら教え子一人一人の亡くなった土地を訪ねて供養をして歩きたい、そんな思いにかられたこともあったそうで す。 終戦後、青年学校は無くなり高岡さんは、狭い畑を耕しながら細々と暮らしを続けました。そんなある日、 彼が青年学校の跡地を訪ねた折、ふと見上げると、思いでの校庭にさくらが満開に咲いているのを見て、答辞 の教え子たちとの思い出が次から次へと脳裏をよぎりました。彼は、その時決心し、 「二度と戦争のない平和 な世界は自分たちの手でつくらなければならない。そのためには、生徒一人一人の命の証であり平和の象徴で あるさくらをつくり、世界に広めてゆくことが時分の残された人生の最大の仕事だと考え、世界を視野に、ど こでも適応できる桜を開発する必要があると考えました。 」 彼の執念には凄まじいものがありました。 私財を投げだし、新しいさくらをつくるため日本中を訪ね歩く日々が始まりました。訪ねた土地から色々な 品種が届けられました。失敗を繰り返しながら、品種改良に没頭し、20数年が経過しました。ようやく病気 にも強く、厳しい気候にも耐えうることを発見しました。このとき、今までに見たこともない大輪で紅色の強 い丈夫なさくらが誕生しました。これは、新しいさくらとして注目を集めました。 この陽光桜は、教え子を送った戦場各地に広めて行かれたと聞いています。 高岡さんが開発した「陽光桜」は、世界中で平和のシンボルとして植樹が行われ、人々の心を照らし続けて います。(NHK「こころを照らす桜」より引用) 3月に咲く宮崎西中の「陽光桜」をこれからも見守ってください。
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