第2講話 ローザンヌの怪

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第2講話 ローザンヌの怪
「Kはまた歩きだした.どこまでもつづいている.というのは村の大通りだというのに城
山まで通じていないのだ.近くまで行くと,わざとのように折れまがり,城から遠去かる
のでもなければ近づくでもない.Kは何度となく,いまこそは通りは城に向うと思ったし,
期待をあらたに進んでいった.
」
‘ カフカ小説全集3 城 ,池内紀訳,白水社 (2001),p.20 ’
君たちは道に迷ったことがありますか.子供ではあるまいしと思うかもしれませんが,わ
たしはこの歳になってもけっこう道に迷うのです.一番多いのは学会などで,あまり行っ
たことのない町におもむき,学会を終えて予約したホテルに向うときだと思います.目指
すホテルがなかなかみつからないということがあるのです.予約したときに大まかな地図
を見て位置を確認するのですが,何度か行ったことのある町だと,つい油断するのか,だ
いたいこの辺りだと見当をつけた所にホテルがみつからないことがあって文字通り往生す
ることがあります.いざとなったら人に聞けばよいのですが,人に聞いても意外に分から
ないことが多いのです.その土地の人なら知っているはずだとこちらは思いこんでいるの
ですが,そうでもない場合もあるわけです.たとえば,君たちが学校の近くを歩いていて,
よそから来た観光客に羽衣ホテルはどこですかと聞かれて答えることができますか.まあ,
そのようなわけで,不正確な地図をたよりにその近辺を右往左往するということが,今で
もわたしにはあります.これが外国だとかなり悲惨な目にあいますし,ホテルの場所が分
からず,外国の街で途方にくれたということも何度かあるのですが,逆に道に迷うという
体験を楽しむこともあるのです.
もう何年も前になりますが,
‘ ステレオグラム ’あるいは‘ 3D ’と呼ばれる立体視の遊
びが流行ったことをおぼえていますか.紙に描かれた意味のなさそうな点の集まりの模様
を,視線の焦点をずらしてわざとぼやけた形にして見つめていると,ガラス箱の中をのぞ
くような鮮明さで突然3次元の図形がくっきりと浮かんで見えてくるという遊びです.参
考に東海大新聞に載っていた3Dをあげておきましょう(図1).これはすぐ見える人と,
時間をかけてもなかなか見えない人に分かれてしまい,見えない人はときには数日をかけ
て,その模様とにらめっこをするというようなことがありました.この立体図形が見えて
くるさまは,劇的で本来動きのない図柄が,その本性を垣間見せるように動いて見えます.
このように本来動きのないはずの図柄や風景がにわかに動き出して,全く違った姿に変貌
するというのは,経験するとけっこう感動的なもので,これは実はステレオグラムでなく
ても体験できます.どんなときかといいますと,実は道に迷ったときがその1つの場合な
のです.
わたしが小学生のとき,家から少し離れた友達の家に1人で遊びに行き,帰りに道に迷っ
てしまったことがあります.同じようなところを行きつ戻りつしたのですが,自分がどの
道を通って来たのか分からなくなってしまいました.そんなとき,道の電柱に羊がつなが
れていて(わたしは札幌育ちですが,わたしが子供の頃,羊を街の住宅街でもたまに見る
ことができたのです),ロープが絡まりその羊がめいめい鳴いているところに出くわしま
した.かわいそうだなと,その羊を眺めていると,男の人がやってきてそのロープをほど
いてやっていました.やれやれと思ったとき,そこは二股になっている分かれ道だったの
ですが,羊から焦点がずれて,その分岐に焦点が移るとまわりの景色が変貌し始めました.
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あっと思ったとき,そこが自分が先ほど来るときに通った道であることに気がつき,方角
がはっきり分かりました.気がついて見れば,見慣れた景色のところに立っており,なぜ
自分がそれまでそのことに気がつかなかったのかそれが不思議なくらいでした.そのとき
のまわりの光景が劇的に変化していくさまは,まるで魔法のようで印象に残っているので
す.
おとなになってからは,道に迷うことはあっても,このように光景が劇的に変化すると
いう経験はありませんが,それに近いことが最近ありました.昨年の暮れから正月にかけ
てわたしはヨーロッパに行っていました1 .旅行はわたしの生活の中での good part なの
です.わたしは今回スイスのジュネーヴで年を越したのですが,そこからレマン湖沿いに
電車で40分くらい行きますとオリンピックの本部のあるローザンヌという町に着きます.
その町を見学に1日出かけてみました.まずウシー城というお城のあるレマン湖の湖岸に
出て湖とアルプスを眺めようと考えて,ガイドブックを調べ,ローザンヌ駅の前の地下鉄
乗り場から,地下鉄メトロと言っても坂道を上下するケーブルカーのような乗り物で,湖
岸のウシー駅に向かいました.ところが次の駅で電車は停止し,そこから先は線路が続い
ていないようなので駅を降りると,確かウシー駅という表示が見えたような気がしていま
した.ところがその駅は向おうとした方角とは反対の駅だったのですが,わたしはそれに
気がつかず湖の方向と思われる方向に向けてただひたすら歩きつづけました.湖が意外に
遠くなかなかたどり着けないことに少しいら立ちましたが,ウシーという標識に従ってと
もかく歩きつづけ,古い聖堂に沿っていつの間にか自分が180度向きを変えていること
にも気がつかないまま,レマン湖の湖岸にたどり着いたのです.そこで季節はずれの閑散
とした湖岸を眺めて,今度は山の方に行こうとして,すぐそばに地下鉄の駅があったので
(それが本来降りようとしていたウシー駅),そこからローザンヌの駅を1つ越えた山側の
フロン駅で降りました.実はこの駅が1時間前に降りた駅と同じだったのですが,それに
気がつかずウィリアム・テルの像などのんきに眺めて,やはりガイドブックに載っていた
大聖堂の方に向ったのですが,その聖堂を遠くから眺めてみて,見覚えのある聖堂である
ことに気がつき,そして自分がそのとき歩いている道が,実は今さっき歩いたばかりの道
であることにそこで初めて気がついたのです.つまり,わたしが地下鉄で登ってきたとこ
ろは,さきほど何も知らぬまま歩いて下って行った道の逆のコースだったのです
だいぶ前に見たたしか溝口健二の映画だったと思いますが,何かの理由で家裁道具をいっ
さい荷車に積んで夜逃げをした家族が,夜の森の中で道に迷い,ともかく一夜を過ごそう
として入りこんだ空家が気がつくと何と自分達があとにした元の家であったという話をそ
のとき思い出しました.その家族と同じことをやっているではないか.遠く離れた所に来
たつもりがもとに戻ってきているのです.
あとで地図を見ますと,わたしはどうやらフロン駅を降りて,サン・フランソワ教会の
方に向かい,リュミーヌ宮から大聖堂のまわりをぐるっと回って,山の方から湖の方に向
きを変えて下り続け,郵便局の辺りでウシー通りの標識を見つけ,それに従ってどんどん
下り,ウシー城に行き着いたらしいのです(図2).帰りはちょうどウシー通りに平行して
ある地下鉄により,ほとんど地上に出ていますが,中央駅を過ぎてフロン駅まで再び行っ
ています.自分が正反対の方角に向って進んでいることが最初から分かっていたらこのこ
とはおもしくも何ともないですね.どうしてこんなことに気がつかなかったのかいまだに
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わたしのホーム・ページの Photo Gallery にそのときの写真があります.
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不思議ですが.歩いている間あまり迷っているという実感はありませんでした.その理由
は次章で述べます.このとき子供の頃の迷子の不思議な体験がよみがえりました.この体
験は「ローザンヌの怪」として今回の旅行の楽しい思い出なのです.
この事実は奇妙な体験をしたということだけではなく,現実というものを考えるときに
たいせつなことを示唆しているような気がするのです.現実というものに秩序があるとす
ると,この体験はわたし達にとってそれは1つではなく複数あるということを示している
のではないでしょうか.わたし達は普通1つの秩序にしか集中することができなくて,そ
れだけだと思いこんでいます.あとで述べますが,数学や自然科学上の発見というのは,既
知の秩序の中から,それまで気がつかれなかった新たな秩序を見出すことであるとも言え
なくもなくて,迷子のときの奇妙な感覚は,その発見の際の体験と非常に似たところがあ
ると思うのです.
数学における発見の際のエピソードを書いたものをわたしはいくつか読みました.後に
紹介しますが,アンリー・ポアンカレのもの,日本の岡潔のもの,最近ではフェルマーの
定理を最終的に証明したアンドリュー・ワイルズの言葉などがあります.これらは大きな
発見の体験ですが,そこまでいかなくてもわたし達も数学上の小さな発見をし,なんだか
幸せな気持ちにひたるなんてことがあります.それを体験することは数学を勉強する際の
醍醐味の1つだとわたしは思います.皆さんの中にもそのような経験をした人もいるはず
です.ただしこれは当てにはできないものです.それはどのようなものか,具体的に説明
することはむずかしいのですが,いい例があります.それは少し前に出版された小川洋子
の小説‘ 博士の愛した数式 ’です.その中に女性の語り手が数式の和の公式をみずから見
出すところの描写があります.
「その時,生まれて初めて経験する,ある不思議な瞬間が訪れた.無残に踏み荒らされた
砂漠に,一陣の風が吹き抜け,目の前に一本の真っさらな道が現われた.道の先には光が
ともり,私を導いていた.その中へ踏み込み,身体を浸してみないではいられない気持に
させる光だった.今自分は,閃きという名の祝福を受けているのだと分かった」
(‘ 小川洋子,博士の愛した数式,新潮社,(2003), p.75 ’)
少し大げさに過ぎるなという感じがしないでもありませんし,この前の部分を読まない
とわたしがなるほどと感心した部分が理解されないと思うのですが,それについては,数
列の和の公式について後の章で証明方法も含めた紹介を行います.わたしは数学の教師で
すから,
「数学はひらめきですか」とたまに聞かれることがあります.わたしは実は「ひら
めき」という言葉をあまり好みません.数学も他の勉強と同じように単調で面倒な作業の
積み重ねが続くことが多いものです.つまり大部分は bad part の積み重ねなのです.で
も,ときおり good part ときには nice part が現われることがあります.それは,どうや
ら意図していてはできないもののようなのです.迷子の体験もそれを意図していたのでは
おもしろくも何ともなく,不思議な感覚を味わうことができないことも察しがつくと思い
ます.何かに専念していて単調な仕事を続けていると意図しない nice part にぶつかると
いうのはたぶん数学に限った話ではないと思いますが,これは個人の能力ではなくむしろ
全く偶然にその部分にぶつかるのだとわたしは考えています.わたしにとって‘ 発見 ’と
は交通事故に出会うのと同じ感じなのです.ノーベル賞受賞者たちとはまれな事故に遭遇
した人たちだというわけです.
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わたし達を囲む現実には複数の秩序があると言いましたが,そんなことはないと思う方
もあるかと思います.確かに1つしかないという見方もできてそう考えることは悪くはな
いと思うのですが,ステレオグラムもそうですが,次の‘ Figure-Ground Distinction 図と
地の違い ’を見てください(図3).この図は D. Hofstadter; Gödel, Escher, Bach という
本にのっていたのですが,他の本でも見たことがあります.そこで Hofstadter は次のよう
に書いています:
There are beautiful alphabets which play with this figure-ground distinction. A message
written in such an alphabet is shown below. At first it looks like a collection of somewhat
random blobs, but if you step back a way and stare at it for a while, all of sudden, you
will see seven letters appear in this ...
(D. Hofstadter; Gödel, Escher, Bach, (1989), Vintage Books Edition, p.67 )
「図と地の違いを表す美しいアルファベットがあります.アルファベットで書かれた言葉は
下に示されています.最初それはでたらめな黒い塊の集まりにしか見えません.しかし,す
こしさがって,それをしばらく見つめていると,突然,その中に7文字のアルファベット
が浮き上がってきます」
この図をわたしの知り合いの英語の先生に見せたことがあるのですが,その先生は5分
間くらいじっと見つめていましたが,読めないとさじを投げてしまいました.わたしがそ
の見方を教えると,
「こんな単純な英語が読めないようじゃ英語の教師がつとまらないな」
と二人で大笑いしたものです.わたしはこのような図をアルファベットではなく,ひらが
なかカタナカで作ってほしいと前のセメスターで宿題に出したのですが,図4がその一つ
の作品です.
このようなことは文字だけではなく,もちろん絵でもできるわけです.1つの絵が老婆
と若い女性の両方に見える絵を何かで見たこともあります.君たちにも思い当たるものが
いくつかあると思います.図と地の関係はたいていはひっくり返すことができるわけで,ど
ちらを見るかはいろいろな要素により決定されるようですが,普通は固定観念として見方
が決まっていて,それ以外のものに見えるなんてことは意識もしないものです.
この現実の変容を印象深く描いたものをもう1つわたしは思い出しました.それはジョ
ン・バカンの‘ 三十九階段 ’
(創元推理文庫)というスパイ小説の終幕近くにあり,この中
で,一見平凡な,なんの悩みもなくテニスを楽しんでいるように見える中流階級の家族が,
突然その正体を暴露されて凶悪なスパイに変身していく様子を,1つの現実が,その隠さ
れたもう1つの現実へと変容していく様としてバカンは描いていて,これを読んだときわ
たしは子供の頃の迷子の体験をやはり思いだしたのです.ちなみにこのバカンの小説のこ
とをある作家が「この小説をまだ読んでいない人たちを私はうらやましく思う.その人た
ちはこの小説を初めて読むという楽しみがまだその人生に残されているのだから」とどこ
かに書いていました.確かに主人公のリチャード・ハネーがロンドンの生活に飽き飽きし
たあと,ある事件に巻き込まれ,つぎつぎと予想もつかない事態にぶつかっていく様はそ
のテンポとのよさもあって引き込まれてしまいますが,バカンのものの見方に対する共感
がわたしにはあるのだと思います.
You konw what the differnce is between you and me? We both look at a half
-cup of water, and to you it’s half empty. To me it’s half full.
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「君と僕との違いがわかるかい?僕たち2人とも水が半分入っているカップを見て,君に
とってそれは半分空なんだ.僕には,半分入っているんだよ」
‘ 岩村圭南,NHKラジオ英会話レッツスピーク,2005年3月号,p.32 ’
このようにわたしは物事には複数の見方があると考えます.だったら一番よいのは,そ
のときどきで見方を臨機応変に変えるのが最善なような気がします.それも一つの考え方
でしょう.道を誤まったと思ったらその場ですぐ道を変えることにすれば大きい失敗は少
ないのではないでしょうか.ここで私はある提案をします.それを次章で述べます.
図1
東海大学新聞1993年5月20日号
図2
個人旅行スイス 昭文社 (2003)
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図3 D. Hofstadter; Gödel, Escher, Bach, (1989), Vintage Books Edition
図4 中西駿