警察県セーヌ=サン=ドニ県

『国防政府査問録』に見る籠城下のパリ市民の精神状態 <そのⅤ>
横浜市立大学名誉教授 松井道昭
アルノー・ド・ラリエ-ジュ(
アルノー・ド・ラリエ-ジュ(1872 年 3 月 5 日の証言)
Frédéric Arnaud de L'Ariège 1819-
-1878 年。カトリック中道主義の政治家。1848
年の憲法制
年。カトリック中道主義の政治家。
定議会の議員。次いで立法院議員としてルイ=ナポレオンの政策に反対。帝政下でナポレオン三世
定議会の議員。次いで立法院議員としてルイ ナポレオンの政策に反対。帝政下でナポレオン三世
のイタリア干渉政策に反対。1870
年にパリ第7区区長となり、711年の
のイタリア干渉政策に反対。
年にパリ第7区区長となり、 1年の 2 月選挙でセーヌ県選出
の代議士となる。1876
年上院議員。
の代議士となる。
パリ市民はパリ開城までは国防政府を信頼していた
[質問:パリ市民は国防政府を信頼していたか?]
そうだ。パリ市民の精神状態は籠城中ずっとそうであった。パリの風紀紊乱は降伏後になって初
めて現われた。おお、そのときの人々は気の狂ったような状態だった。
[質問:そうした状況は戦時中にもあったのではないか?]
いや、窮乏にもかかわらず住民の態度は素晴らしいものだった。ひどい興奮状態が生じたのは降
伏後のことである。籠城中、忍従をもってあらゆる種の試練に堪えたのが大きかったぶん、その結
末は大きな苦しみと絶望を生みだしたのである。
(第2巻,
)
末は大きな苦しみと絶望を生みだしたのである。
(第2巻 p. 325)
ヴィノワ将軍(
ヴィノワ将軍(1871 年 12 月 12 日の証言)
Joseph Vinoy、
、1800-
-1880 年。将軍。1823
年国王親衛隊に入隊。アルジェリア攻略に参加。ク
年。将軍。
リミア戦争に参戦し、戦功を挙げ少将に昇進。のちにイタリアに転戦し、マラコフの戦い(1855
リミア戦争に参戦し、戦功を挙げ少将に昇進。のちにイタリアに転戦し、マラコフの戦い(
年)
、マジェンタ(1859
年)の戦いに参加。1865
年に職業軍人から引退し上院議員になる。普仏
、マジェンタ(
年)の戦いに参加。
戦争の開戦とともに復役し、ライン方面軍を指揮する。仏軍がアルザス=ロレ-ヌ戦線で敗退した
戦争の開戦とともに復役し、ライン方面軍を指揮する。仏軍がアルザス ロレ-ヌ戦線で敗退した
後、パリに帰還し、パリ第3軍の指揮官となる。1
後、パリに帰還し、パリ第3軍の指揮官となる。 月 22 日のトロシュ将軍の辞任後をうけてパリ
軍総司令官になる。3
軍総司令官になる。 月 11 日、パリの革命派の新聞 6 紙を発禁処分にする。3
紙を発禁処分にする。 月 18 日事件ではテ
ィエールの命によりヴェルサイユに撤退し、4 月 14 日マク=マオンに交代するまでヴェルサイユ軍
日マク マオンに交代するまでヴェルサイユ軍
最高司令官に地位にあった。
籠城末期から市民は政府を信用しなくなり、まったく不穏な状態に陥った
[質問:籠城末期における市民の精神状態はどうであったか?]
住民はモントルトゥーMontretout
事件[訳注:パリ出撃戦での敗退逃亡]
住民はモントルトゥー
事件[訳注:パリ出撃戦での敗退逃亡]ゆえに裏切りだと
[訳注:パリ出撃戦での敗退逃亡]ゆえに裏切りだと叫
ゆえに裏切りだと叫
んでいた。裏切りを叫
んでいた。裏切りを叫ぶのは簡単
ぶのは簡単なことだ。
簡単なことだ。動
なことだ。動員され私の指揮下におかれた国民衛兵
の指揮下におかれた国民衛兵の幾つかの大
幾つかの大
隊が立ち去
隊が立ち去ったとき、私
ったとき、私だって、裏切りだと叫
だって、裏切りだと叫んでかまわなかったかもしれない。将校
んでかまわなかったかもしれない。将校たちは負傷
たちは負傷
したと言
したと言っていた。私
っていた。私は彼らの傷
らの傷の具合を
具合を確かめたかったが、彼
かめたかったが、彼らは乗合馬車
らは乗合馬車や
乗合馬車や馬車を
馬車を奪って戻ろ
って戻ろ
うとした。彼
うとした。彼らは、平原
らは、平原で
平原で何が起きているか査察
きているか査察に
査察に来たトロシュ将軍の1将校
たトロシュ将軍の1将校に傷を負わせること
さえした。
…[中略]
[中略]…
[中略]
[質問:ゴブ
[質問:ゴブラン事件のとき、民
ゴブラン事件のとき、民衆
ラン事件のとき、民衆は叛徒に
叛徒に味方しなかったか?]
そのとおりだ。3
そのとおりだ。 月 3 日、住民は叛徒
日、住民は叛徒に
叛徒に味方し、政府に対してはまったく敵
方し、政府に対してはまったく敵対
く敵対的となっていた。
もはや政府はなかった。人々は政府に対して、そして、すべ
もはや政府はなかった。人々は政府に対して、そして、すべての者
ての者に対して裏切りだ!
に対して裏切りだ!と叫んでい
た。
[質問:軍の状態は?]
軍は疲
軍は疲れていた。理由
れていた。理由の第
理由の第一
の第一は、彼
は、彼らは食糧
らは食糧が
食糧が非常に
非常に不十分であったからであり、第
不十分であったからであり、第二
分であったからであり、第二は、長期
にわたり、しかも目的
にわたり、しかも目的もなしに
目的もなしに塹壕
もなしに塹壕に
塹壕に留まっていたからである。私
まっていたからである。私は、講和万歳!
は、講和万歳!と
講和万歳!と遊動隊の大隊
遊動隊の大隊
が叫ぶのを耳
(第3巻,
-119)
)
ぶのを耳にしたことがある。
(第3巻 pp. 118-
10.
10.31 は不慮の事件だった
[質問:10
[質問: 月 31 日事件のとき、武力弾圧
日事件のとき、武力弾圧は
武力弾圧は可能だったか?]
可能だったか?]
10 月 31 日につ
日について私
いて私は敢えて自
えて自分の考
分の考え方を言
え方を言うのを控
うのを控えたい。というのは、私
えたい。というのは、私はこの運動
はこの運動の
運動の
存在を信じないからだ。
存在を信じないからだ。私
を信じないからだ。私はこれにひどく
はこれにひどく立腹した。翌
した。翌日、私
日、私は軍令を発し、そのなかで私
は軍令を発し、そのなかで私はもし
同じようなことがいま一
じようなことがいま一度起これば
これば、自分だけで判断
分だけで判断し
行動するであろ
う、と言った。こういうわ
判断し行動するであ
するであろう、と言
けだから、私
けだから、私は食事を摂
事を摂りに悠
りに悠々と宿舎
々と宿舎に帰ったのである。パリに
宿舎に帰ったのである。パリに暴動
に帰ったのである。パリに暴動が
暴動が起こるなんて思
こるなんて思ってもみ
なかった。これらのことは警察
なかった。これらのことは警察によってあるいは政府によって、
警察によってあるいは政府によって、つね
によってあるいは政府によって、つねに
つねに前もって察知さ
もって察知されていたか
察知されていたか
らである。ところ
らである。ところで、家に戻
で、家に戻った私はその場
はその場で、ル・
で、ル・フロ夫
フロ夫人が捕虜
人が捕虜となった
捕虜となった夫
となった夫を捜索しているこ
捜索しているこ
とを聞かさ
とを聞かされた。何
れた。何が起きたのか、私
きたのか、私は確かめに行
かめに行った。ほ
った。ほどなく
どなくして私
して私は、市役所
は、市役所で政府閣僚全
で政府閣僚全
員が捕
「冗談だ
員が捕らわれているのを知
らわれているのを知った。私
った。私はこれにつ
はこれについて、
「冗談だろう、ありえないことだ!」
う、ありえないことだ!」と
!」と答え
た。私
た。私は副官を知
官を知事の許
事の許に派遣
に派遣したが、私
したが、私が聞いた話
が聞いた話が本当であることを
本当であることを確認
であることを確認した。と
確認した。と同
した。と同時に、幾
時に、幾
つかの国民衛兵
(第
かの国民衛兵大隊が行
大隊が行進しているのを目
進しているのを目撃した。私
撃した。私はふたたび
たたび将校を知事官舎
事官舎に派遣
に派遣した。
3巻,
)
3巻 p. 119)
ファルシー(
ファルシー(1871 年 8 月 21 日の証言)
Eugène Farcy、
、1830-
-1910 年。海
年。海軍士官、政治家。若
軍士官、政治家。若き軍人として西
き軍人として西インド
インド、マダガ
、マダガスカル、
ダガスカル、
レヴァ
年のファ
レヴァントなど派遣さ
ントなど派遣される。
遣される。1869
れる。
年のファルシー型砲艦
ルシー型砲艦(
型砲艦(装甲艦の最初)の発
装甲艦の最初)の発明
の最初)の発明家として有名
家として有名。
有名。
ナポレオン三世の命令でサン=ドニ
ナポレオン三世の命令でサン ドニに
ドニに造船所を
造船所を設置。
設置。銃砲の
銃砲の改良にも
改良にも寄与
にも寄与。パリ攻
寄与。パリ攻囲
。パリ攻囲下でシェルブ
下でシェルブ
ール港
ール港から密
から密かに曵航
かに曵航した
曵航した砲艦
した砲艦をもってパリ防衛にあた
砲艦をもってパリ防衛にあたろ
をもってパリ防衛にあたろうとするが、行
うとするが、行政の混
政の混乱から砲艦
乱から砲艦は
砲艦は有効
利用できずじまいに
利用できずじまいに終
できずじまいに終わる。その共和
わる。その共和主義
共和主義的傾向
主義的傾向のゆえに
的傾向のゆえに彼
のゆえに彼はパリ市民においてきわめて人気があ
り、1871
年 2 月選挙で国民議会議員となる。休
り、
月選挙で国民議会議員となる。休戦協定のなかのパリに関
定のなかのパリに関する条項
する条項に反
条項に反対する。ル
に反対する。ル
イ=ブ
ブランおよび
ランおよびエドガー
ドガー・キネーらとともに議会最
・キネーらとともに議会最左翼
ーらとともに議会最左翼を
左翼を構成。戦後は仏軍の
構成。戦後は仏軍の再建
。戦後は仏軍の再建に
再建に貢献。
貢献。
国防政府は友情を優先させた
[質問:中央
[質問:中央政府は命令したか?]
人が何
人が何か事を起
か事を起こそうとするたびご
こそうとするたびごとに、
びごとに、何
とに、何らかの反対に遭
らかの反対に遭った。激
った。激しやすい性
しやすい性質を刺激
質を刺激しない
刺激しない
という理由
という理由だけで命令が
えられなかった。私はこの政府[訳注、国防政府]
はこの政府[訳注、国防政府]を
友情第一の政府と
理由だけで命令が与
だけで命令が与えられなかった。私
[訳注、国防政府]を友情第
呼んでいた。じっさ
んでいた。じっさい、それと感
い、それと感じられるような総司令官というものがいなかったのである。
[質問:それは最後まで続
[質問:それは最後まで続いたか?]
そのとおりである。諸君
そのとおりである。諸君、籠城末期に
諸君、籠城末期に起
、籠城末期に起きた一
きた一事件を引用
事件を引用しよう。
私は砲艦とともに
砲艦とともに氷
とともに氷に閉じこめられた。他
じこめられた。他の砲艦も
砲艦も同様だった。
同様だった。敵
だった。敵に砲艦も大
砲艦も大砲
も大砲も捕獲されない
捕獲されない
ことが非常
ことが非常に
非常に重要であったにもかかわらず、それを
重要であったにもかかわらず、それを妨
であったにもかかわらず、それを妨げるためのいかなる努力
げるためのいかなる努力もな
努力もなさ
もなされなかった。
土木技師がやって
土木技師がやって来
がやって来たが、彼
たが、彼は救出に 1 ヵ月ないし 1 ヵ月半はかかるだろ
はかかるだろうと言
うと言った。もし敵
った。もし敵がや
って来
って来て私の砲艦を
砲艦を捕獲し、
捕獲し、私
し、私を乗員といっしょ
員といっしょにパリに退却させ
にパリに退却させるようなことが
却させるようなことが起
るようなことが起これば
これば、これ
を爆破せよ、
爆破せよ、との命令を私
との命令を私は受けていた。私は、起りうる事柄
りうる事柄を予知す
予知すべく最
べく最善を尽くしたのちは、
尽くしたのちは、
このような
このようなバ
うなバカげたやり方でセーヌ川
カげたやり方でセーヌ川に沈めてしまうようなことは断
めてしまうようなことは断じてしたく
じてしたくないと宣言
ないと宣言した。
宣言した。
(第3巻,
-131)
)
(第3巻,pp. 130-
コルボン(証言期日は不明、
コルボン(証言期日は不明、1873
(証言期日は不明、1873 年 3 月 12 日よりは後)
Claude-Anthime Corbon 1808-
-1891 年。政治家。1840
年、
『アトリエ』
年。政治家。
アトリエ』紙の創刊者
紙の創刊者。
創刊者。二月革命
時にパリから憲法制定議会議員に選出さ
年 12 月 2 日のクーデ
時にパリから憲法制定議会議員に選出され、副
れ、副議長をつ
議長をつとめる。1851
とめる。
日のクーデタ後は
『アトリエ』
アトリエ』紙の再刊
紙の再刊に
再刊に尽力するが、
尽力するが、翌
するが、翌 50 年、帝政による発禁処分で停刊
年、帝政による発禁処分で停刊。帝政下では
停刊。帝政下では著述活動
。帝政下では著述活動
に捧げる。1871
年に国民議会議員に選出さ
げる。
年に国民議会議員に選出され、75
れ、 年に上院の終身
年に上院の終身議員になる。
終身議員になる。
市民は窮乏生活によく耐えた
委員長、私
員長、私はこの長い陳述
はこの長い陳述を
陳述を終えるにあたり、籠城期のパリの住民がどんな状態にあったかにつ
えるにあたり、籠城期のパリの住民がどんな状態にあったかにつ
いて諸君
いて諸君になお
諸君になお二つ
になお二つ三
二つ三つほど
つほど話したいことがある。これにつ
したいことがある。これについて証言
いて証言するのに、区長
証言するのに、区長ほ
するのに、区長ほどに恵
どに恵まれ
た立場
た立場にある者
にある者はいない。すでに述べ
はいない。すでに述べたことだが、
えてくり返したい。たしかに、住民は多く
したい。たしかに、住民は多くの
述べたことだが、敢
たことだが、敢えてく
多くの
面から批判
面から批判を
批判を受ける余
ける余地がある。さらに、この住民はその懐
この住民はその懐にきわめて悪
にきわめて悪しき本性
しき本性を
本性を包蔵している。
包蔵している。
そのことが籠城期間
そのことが籠城期間中あらゆる種の困難
中あらゆる種の困難を
困難をつくりだしてきた。しかし、この
つくりだしてきた。しかし、この欠陥
りだしてきた。しかし、この欠陥面と対
欠陥面と対照的
面と対照的に、こ
照的に、こ
の住民に大きな名誉
の住民に大きな名誉に
名誉につながる他
ながる他の面もあったのである。
私は諸君に
諸君に同棲の
同棲の合法化について語
いて語った。パリ防衛のために武装
った。パリ防衛のために武装した
武装した夫
した夫は命を失
は命を失うかもしれない
恐れから、彼
れから、彼の名と権利を
権利を妻子に与えようと欲
えようと欲した。私
した。私は自分の意
分の意思で、非常
で、非常に
非常に数の多い婚姻と
婚姻と私
生児を承認した。それは、他
した。それは、他の生活
の生活手段をもたない国民衛
手段をもたない国民衛兵
をもたない国民衛兵の妻に 1 日あたり援助金
日あたり援助金 75 サンチ
サンチー
ムが付与される
与される措
れる措置の取られる以
られる以前のことだ。
住民に割
住民に割当配給することが問
配給することが問題
することが問題となったとき、区長らは多
となったとき、区長らは多かれ少なかれ乱暴
かれ少なかれ乱暴な要求にさらされた。
ところ
ところで、そうした要
で、そうした要求は一般に想像さ
想像されるよりはるかに数
れるよりはるかに数が少なく暴力的
が少なく暴力的ではなかった。
く暴力的ではなかった。配給
ではなかった。配給さ
配給さ
れる唯
れる唯一の肉が馬肉となり、その配給量
となり、その配給量が
配給量が 1 人あたり 25 グラムに減らされたときでも、そして、
真っ黒で粗末極まりないパンが 1 人あたり 300 グラムに減らされたときでさ
れたときでさえ、そうであった。も
し防衛が理
し防衛が理想どおりに進んでいたら、そして、もし究極
どおりに進んでいたら、そして、もし究極的
究極的勝利の希望につ
望につながる有利
ながる有利な地
有利な地歩
な地歩が確立
されていたならば
れていたならば、パリ市民の勇
、パリ市民の勇気ある忍従がどこで制止
気ある忍従がどこで制止されえたか、私
れえたか、私にはわからない。1870
はわからない。
~71 年の厳冬
年の厳冬の
厳冬の間、主婦
、主婦たちが肉屋
たちが肉屋とパン
肉屋とパン屋
とパン屋の店先に
店先に並ばなければ
なければならなかった行
ならなかった行列は語り草に
なっている。婦
なっている。婦人たちはあまり愚痴
人たちはあまり愚痴を
愚痴を零さなかったし、寒
なかったし、寒さにうち震
にうち震えながらも、なお冗談さ
えながらも、なお冗談さえ
冗談さえ言
う按配だった。
按配だった。砲
だった。砲撃の最中、第 15 区は多く
区は多くの
多くの砲弾と
砲弾と多くの
多くの災難を受けた。私
けた。私は、婦
は、婦人たちの勇
人たちの勇気
がどのような域
がどのような域にまで達
にまで達したかを見
したかを見ることができた。真
ることができた。真っ先に罹災者
罹災者を見舞ったのは
見舞ったのは彼
ったのは彼女らである。
彼らに肉屋
らに肉屋ないしはパン
肉屋ないしはパン屋
ないしはパン屋で順番待ちを
順番待ちを止
ちを止めさせることができなかった。最後に、
させることができなかった。最後に、被
ることができなかった。最後に、被弾したある家
では、爆
では、爆発のために2人の首
発のために2人の首がふっ飛び、1人の内臓
、1人の内臓が
し、他の 4 人が重傷
人が重傷を
った。爆発が
内臓が破裂し、他
重傷を負った。爆
あまりに大きな恐
あまりに大きな恐怖を巻き起
を巻き起こしたために、婦
こしたために、婦人を除
人を除いて度を失
いて度を失ったその家の他
ったその家の他の住人たちは、再
の住人たちは、再
度の砲弾
度の砲弾の
砲弾の落下を恐
下を恐れ逃亡してしまった。男
れ逃亡してしまった。男たちと違
たちと違い、婦
い、婦人たちは逃げるどころ
人たちは逃げるどころか大急ぎ
か大急ぎで
急ぎで罹災
した家に駆
した家に駆けつけた。私
けた。私も少し遅
も少し遅れて到着
れて到着したが、
到着したが、危険
したが、危険のなかでの
危険のなかでの彼
のなかでの彼女らの冷静
らの冷静な
冷静な行動を
行動を熱烈に
熱烈に誉
め称えた。
しかし、私
しかし、私がとく
がとくに報告しなけれ
報告しなければ
しなければならないと思
ならないと思う食糧に
食糧に関する一
する一事実がある。第 15 区の住民
は、隣接
は、隣接する
隣接する諸
する諸区と同様
区と同様に
同様に全体的に貧乏であった。住民は包囲前
乏であった。住民は包囲前に
包囲前に食糧を
食糧を貯蔵せず、
蔵せず、ほ
ず、ほとんどの家
庭が割当配給の
配給のほかに砂糖
かに砂糖・
砂糖・チョコレート
チョコレート・
コレート・茶・ぶどう酒
ぶどう酒などの食
などの食品を付加することができなかっ
た。こういうわけで、わが住民の大部
た。こういうわけで、わが住民の大部分は有
分は有償の配給物以外に
配給物以外に何物ももたなかった。国民衛兵
ももたなかった。国民衛兵は酒
を飲み、しかも痛飲
み、しかも痛飲したために、
痛飲したために、十
したために、十分に食べ
分に食べなかった。
食べなかった。一
なかった。一方で、家族
方で、家族はぶどう酒
はぶどう酒なしで済
なしで済ました。
だから、堪え忍ばねば
だから、堪え忍ばねばならない大きな、しかも苦
ばねばならない大きな、しかも苦痛
ならない大きな、しかも苦痛に満ちた窮乏があったのであり、その結果
ちた窮乏があったのであり、その結果は悪
意を育んだはずだ。
ところ
ところで、われわれは備蓄
で、われわれは備蓄をもっていた。市
備蓄をもっていた。市当
をもっていた。市当局と商業省は区役所
は区役所に対しそのすべ
に対しそのすべてを、すなわ
ち乾燥野菜・
乾燥野菜・塩漬魚・
塩漬魚・砂糖・
砂糖・オリーヴ油
オリーヴ油・チーズ、そして最後の段階
、そして最後の段階では
段階では小麦粉
では小麦粉を
小麦粉を配給させ
配給させた。
させた。毎
た。毎
日、無料
日、無料食
無料食物配給所
物配給所および
および病人ならび
人ならびに慈善施設に供給す
供給すべき馬肉が持ち込まれた。城壁
まれた。城壁警備の国
民衛兵
民衛兵にチーズ・燻製ニ
燻製ニシンまたはチョ
シンまたはチョコレートを少しず
チョコレートを少しずつ
コレートを少しずつ売っている売
っている売場があった。商品
があった。商品の出入
商品の出入
りと、売品
りと、売品を
売品を買いに来
いに来る衛兵
る衛兵の出入りとに起
の出入りとに起因する大きな動
する大きな動きがあった。グ
きがあった。グルネル(デ・
ル(デ・ザントル
デ・ザントル
プルヌール)通
ルヌール)通りの倉庫
りの倉庫が
倉庫がほぼ空っ
ぼ空っぽであった事実
であった事実を指摘
を指摘しておこう。われわれはそこにわずか4
しておこう。われわれはそこにわずか4
人の職員を配
人の職員を配置し、警
し、警備兵をおかなかった。すべ
をおかなかった。すべての区民が、そこに備蓄
ての区民が、そこに備蓄食糧
備蓄食糧があること、そして
食糧があること、そして
武装した
武装した守
した守衛がいないことを知
衛がいないことを知っていた。さ
っていた。さて、苦痛
て、苦痛がさらに昂
らに昂進したとき、肉
進したとき、肉の配給が事
配給が事欠く
が事欠くよ
欠くよ
うになったとき(それは一
、小麦粉
うになったとき(それは一度ならずあった)
、小麦粉が
小麦粉が夕方われわれの許
方われわれの許に届かず、翌
かず、翌朝に勃発す
るかもしれない事件がひどく
るかもしれない事件がひどく気遣われているとき、また、多く
われているとき、また、多くの
多くの胃袋が苦
胃袋が苦痛
が苦痛を味わっているとき、
わが予
わが予備物資が
備物資が奪われるかも知
われるかも知れない恐
れない恐怖がわれわれの脳
がわれわれの脳裏をよぎ
裏をよぎった。だが、われわれは防御
った。だが、われわれは防御を
義務とも思
とも思わなかった。その物資
わなかった。その物資は絶対
物資は絶対的
は絶対的に尊重されていた。
重されていた。…私
れていた。 私が特に伝えたいのはこの事実
えたいのはこの事実で
ある。
(第4
-392)
)
(第4巻,pp. 391-
アンリ・マルタン(
アンリ・マルタン(1872 年 3 月 12 日)
Bon-Louis-Henri Martin 1810-
-1883 年。歴史家、
歴史家、政治家。二月革命政府の高等教育
月革命政府の高等教育委
等教育委員会委
員会委員。
1870 年の九
年の九月四日革命後にパリ 16 区長に指名さ
区長に指名され、
名され、11
れ、 月選挙で再
月選挙で再選。71
選。 年 2 月選挙でセーヌ県
とエーヌ県から国民議会議員に選出さ
とエーヌ県から国民議会議員に選出される。パリ・
れる。パリ・コミューン期に一
コミューン期に一時、区長職から離
時、区長職から離れるが、鎮
れるが、鎮
圧後にふ
後にふたたび
たたびパリ第 16 区長に復帰。国民議会では共和
区長に復帰。国民議会では共和主義
共和主義左
主義左派として活動
派として活動する。
活動する。
9月4日に共和主義がいっぺんに息を吹き返した
共和主義派の
共和主義派の見解
主義派の見解は最初は
見解は最初は諸君
は最初は諸君も
諸君もご存じのように、戦争に絶対反対であった。代議士や政
ご存じのように、戦争に絶対反対であった。代議士や政論記
じのように、戦争に絶対反対であった。代議士や政論記者
論記者
たちは戦争を防止
たちは戦争を防止しようとして絶望的
しようとして絶望的な努力を
努力をつづけていた。われわれはヨ
けていた。われわれはヨ-ロッパの状態を知
-ロッパの状態を知っ
ている。…少々
ている。 少々横
少々横道にそれたのはないだろ
道にそれたのはないだろうか?
[議長:いや、話
[議長:いや、話を続けたまえ]
われわれはヨ
われわれはヨ-ロッパの状態を知
-ロッパの状態を知っている、と言
と言った。個人的に私はその前
はその前年に北欧
年に北欧を
北欧を旅行した。
ドイツの小邦が
小邦が平和派の政
平和派の政党
派の政党に支配さ
支配されていること、プ
れていること、プロイセン自
ロイセン自体においてさ
においてさえ、その当
え、その当時かな
り有力な
有力な平和党
平和党が存在していたことをわれわれはよ
存在していたことをわれわれはよく知
していたことをわれわれはよく知っていた。
く知っていた。変
っていた。変わったのは、ビ
わったのは、ビスマルク
スマルク氏
ルク氏に
同調するようになってからのことにすぎ
するようになってからのことにすぎない。ド
ない。ドイツ小邦におけるこの
ツ小邦におけるこの平和
におけるこの平和党
平和党は 1869 年秋に出現
した。諸君
した。諸君も
諸君もご存じのように、
ご存じのように、特
じのように、特にザクセンで軍備縮小
にザクセンで軍備縮小に
備縮小に向けて票決
けて票決がおこなわれた。
票決がおこなわれた。ベ
がおこなわれた。ベルリンの
下院でフィルホウ氏
下院でフィルホウ氏は軍
ホウ氏は軍縮
は軍縮の動議を提
議を提出した。彼
出した。彼は約3分の1の賛
3分の1の賛成票を獲得した。それゆえ、少
なくとも開戦を延
とも開戦を延期させる
させるチャンスはあったことになり、フランスの
チャンスはあったことになり、フランスの本
ンスはあったことになり、フランスの本質的利害
的利害は攻勢
は攻勢に出ないこ
と、この責
と、この責任を相手
任を相手国に任
相手国に任せ
国に任せることだ、とわれわれは信じていた。われわれは戦争を阻止
ることだ、とわれわれは信じていた。われわれは戦争を阻止するため
阻止するため
に議会で、そして新聞で論陣
に議会で、そして新聞で論陣を
論陣を張った。不
った。不幸にしてわれわれは無
にしてわれわれは無力だった。フランスの大多
った。フランスの大多数も同
じ感情を
感情を共有した。ひとた
共有した。ひとたび
した。ひとたび戦争が避
戦争が避けえぬ
けえぬものとなり、そして、実際
ものとなり、そして、実際にそれが
実際にそれが始
にそれが始まったとき、士
気を維持
気を維持したり、か
維持したり、かつ
したり、かつてはわれわれが鎮
てはわれわれが鎮めようとした戦意
めようとした戦意を高めたりすることが自
を高めたりすることが自分らの義務
分らの義務と考
えるにいたった。そして、そのために力
えるにいたった。そして、そのために力の及ぶかぎ
ぶかぎりのことをした。
わが軍の緒
わが軍の緒戦の敗退は、国の荒廃
戦の敗退は、国の荒廃に対する
荒廃に対する決
に対する決定的打撃にならなかったとしても戦争に勝
撃にならなかったとしても戦争に勝利しない
であろ
であろうこと、いかなる計画
うこと、いかなる計画も
計画も準備さ
準備されなかったこと、勝
れなかったこと、勝利に導くべくいかなる
くべくいかなる措
いかなる措置も取られなか
ったことを示
ったことを示した。われわれは、フランスが皇
した。われわれは、フランスが皇帝の掌
帝の掌中にあるかぎ
中にあるかぎり、フランスは敗
り、フランスは敗北
スは敗北するものと
みていた。
当時、決
時、決定的行動に
的行動に向けての一
けての一致協力の
協力の姿勢ではな
姿勢ではなく
ではなく、革命へ
、革命への共感があった。
共感があった。つご
があった。つごうよいと
つごうよいと思
うよいと思
われたことは、皇
われたことは、皇帝の廃
帝の廃位が宣
位が宣告され、共和
れ、共和政が
共和政が宣せ
政が宣せられたことである。な
宣せられたことである。なぜ
られたことである。なぜなら、シャ
なら、シャロン駐
ロン駐在
軍の編
軍の編成用の
成用の兵力をパリに
兵力をパリに連
をパリに連れ戻すことがなお可能
すことがなお可能であったからであり、この軍隊がパリに
可能であったからであり、この軍隊がパリに投
であったからであり、この軍隊がパリに投入さ
れれば包囲
れれば包囲を
ば包囲を不可能なものとし、そのことによってフランスは
不可能なものとし、そのことによってフランスは救
なものとし、そのことによってフランスは救われたかもしれなかったからであ
る。われわれを鼓舞
る。われわれを鼓舞したのは
鼓舞したのは公安
したのは公安の
公安の感情であって
感情であって党
であって党派の感情
派の感情ではなかった。
感情ではなかった。9
ではなかった。 月 4 日ではなく
日ではなく、議
会の開会時、
つまり 9 月 4 日より3週
日より3週前にわれわれがいだいていた感情
にわれわれがいだいていた感情とはこのようなものである。
感情とはこのようなものである。
人民大衆
人民大衆は動揺したが、決定的な運動とはならなかった。
運動とはならなかった。このときと、それに続く
それに続く2
続く2~3週の間、
われわれもまた悲痛
われわれもまた悲痛なシ
悲痛なショ
なショックを味
ックを味わっていた。それというのも、パリの大衆
わっていた。それというのも、パリの大衆が政体
が政体問題を除き、
われわれの感情
われわれの感情-すなわち、軍
感情-すなわち、軍備
-すなわち、軍備および動
および動員なら
び動員ならび
員ならびに決死的
決死的覚悟で国防の
覚悟で国防の準備
で国防の準備を
準備を行うことの必
うことの必要性
を承認すること-に積
すること-に積極的に協力しなかったからだ。
協力しなかったからだ。労働
たちはわれわれの勧告に対し、自
に対し、自分た
しなかったからだ。労働者
労働者たちはわれわれの勧
ちは帝政のためではなく共和
ちは帝政のためではなく共和政のために戦うのだ、と
く共和政のために戦うのだ、と言
政のために戦うのだ、と言葉を返してきた。
われわれは彼
われわれは彼らに、危
らに、危機に瀕しているのは帝政ではなく
しているのは帝政ではなくフランスなのだ、と言
フランスなのだ、と言い返した。この檄
した。この檄
はさして大きな反響
して大きな反響を呼ばなかった。われわれが
呼ばなかった。われわれが前
なかった。われわれが前々から心
々から心配していたことは、労働
していたことは、労働者
労働者たちが物
たちが物質
的利害
的利害にあくせく
にあくせくするあまり、
くせくするあまり、明
するあまり、明らかに政治つ
らかに政治つまり愛
まり愛国心に無関心になりつつ
になりつつある
つつある傾向
ある傾向である。
傾向である。物
である。物
質的利害
的利害が政治を決
が政治を決定的に窒息させ
窒息させたのではないか、とわれわれは
させたのではないか、とわれわれは思
たのではないか、とわれわれは思うようになった。しかし、パ
リの籠城の事実
リの籠城の事実は、それが杞憂
は、それが杞憂であり、
杞憂であり、古
であり、古い国民的
い国民的な基盤はけっして
基盤はけっして揺
はけっして揺らいではいないことを示
らいではいないことを示す
結果となった。身
となった。身の毛のよだつ
のよだつようなスダ
ようなスダンの悲報
ンの悲報がわれわれの
悲報がわれわれの許
がわれわれの許に達したとき、われわれはこの
感情に
感情にとらわれたままでいた。9
とらわれたままでいた。 月 4 日のこの日、共和
日のこの日、共和主義
共和主義思
主義思想をもつ
をもつ人々が、3
人々が、 週前に彼らがい
だいていたのと同
だいていたのと同じ感情により
感情により鼓舞
により鼓舞さ
鼓舞されたと考
れたと考えるのは大きなまちがいであろ
えるのは大きなまちがいであろう。われわれは軍事
的には完
には完全に敗北
に敗北したと確
したと確信していたし、独
信していたし、独り自分にこう言
分にこう言い聞かせ
い聞かせたものだ。すなわち、もし共
たものだ。すなわち、もし共
和政が今
政が今すぐにこの恐
にこの恐るべき遺産を
遺産を受け継ぐなら
継ぐならば
ならば、共和政はフランスの
共和政はフランスの廃
政はフランスの廃墟の下に陥
の下に陥没するであ
ろう、と。すべ
う、と。すべての者
ての者がそのうち帝政は滅
がそのうち帝政は滅びると感
ると感じていた。しかし、われわれが待
じていた。しかし、われわれが待望したことは、
「共和政
「フランス万歳!」
「共和政万歳!」ではな
万歳!」ではなく
ではなく、
フランス万歳!」という
万歳!」という叫び
という叫び声
叫び声の挙がることであり、匿
の挙がることであり、匿名の臨時政
府が樹
府が樹立され、それが全力
れ、それが全力をあげて国家の
全力をあげて国家の名
をあげて国家の名残を救おうとすることであった。われわれは 9 月 3 日
と 4 日の時点
日の時点で以上のような感情
上のような感情をいだいていた。この
感情をいだいていた。この感情
をいだいていた。この感情は、
感情は、共和
は、共和主義
共和主義的
主義的意見をも
意見をもつほ
をもつほとんどの
つほとんどの
政治家に共
政治家に共通するものであっただけでなく
するものであっただけでなく、最初にパリ全
、最初にパリ全体を支配したと
支配したと思
したと思われるものでもあった。
9 月 4 日の朝
日の朝、群衆が集まったとき、雰
まったとき、雰囲気は一
気は一変した。
ひとつ
ひとつの大きな奔流
の大きな奔流が生じ、
奔流が生じ、万
が生じ、万事がこれに引きずられた。それまでは訴
事がこれに引きずられた。それまでは訴えても無
えても無駄に終わった感
わった感
情が激発したのだ。
私は諸君に議会
諸君に議会内
に議会内のようすを語
のようすを語れない。私
れない。私は何としてもそこに入ることができなかったのだ。し
としてもそこに入ることができなかったのだ。し
かし、私
かし、私は群衆に紛れコンコルド
れコンコルド広場と河岸の方
河岸の方角
の方角に向かった。それは語
かった。それは語の真の意味における「
における「民
衆」であり、
衆」であり、階
であり、階級の区別
の区別のない、つ
のない、つまり労働
まり労働者
労働者とブルジョ
ルジョアが入り混
アが入り混じった民衆
じった民衆であった。おそら
くはブルジョ
ルジョアジーのほ
アジーのほうが多
うが多かったであろ
かったであろう。若
う。若いブルジョ
ルジョアも多
アも多数群衆のなかにいた。この群
のなかにいた。この群
衆が四方八方からだれが命じるともなく「共和
方からだれが命じるともなく「共和政
く「共和政万歳」の
万歳」の叫び声
叫び声を挙げた。だれもこの運動
を挙げた。だれもこの運動を
運動を阻止
できなかったであろ
できなかったであろうし、また、だれもそれを制止
うし、また、だれもそれを制止しようと思
しようと思わなかった。そんな兆
わなかった。そんな兆しさえなかっ
た。私
た。私はイザコザのことを言
はイザコザのことを言っているのではない、何
っているのではない、何らかの
らかの妨害のことを言
のことを言っているのだ。その日
の夕方、パリのようすはまったく
方、パリのようすはまったく奇妙というより
奇妙というよりほ
というよりほかなかった。未曾
かなかった。未曾有
未曾有の災禍の真直中で、大通
中で、大通り
という大通
という大通り、街路
り、街路という
街路という街路
という街路は
街路は群衆で一杯であった。陽
であった。陽気であったとは言
気であったとは言うまい。しかし、ここ
から 40 リュー[訳注、1リューは
リュー[訳注、1リューは約4
[訳注、1リューは約4キ
約4キロメートル]離
ートル]離れた場所
れた場所で
場所で外敵の侵入が始
入が始まったことを
考えれば
えれば、それとあまりに不
、それとあまりに不釣合な活気と賑
気と賑わいが充
わいが充満していたのである。通
していたのである。通行人の拍
人の拍手喝采の
喝采の真
直中を車
中を車が大通
が大通りに洪水
りに洪水のように
洪水のように溢
のように溢れて循環
れて循環していた。
循環していた。私
していた。私と同じく、スダ
、スダンを思
ンを思いやって意
いやって意気消沈
していた人々は夢
していた人々は夢見心地に浸
地に浸った。そこには
った。そこには軽薄
には軽薄さ
軽薄さ以外の
以外の何ものもなかった。明
ものもなかった。明らかに各
らかに各人がこの
日より徹底抗
(第4
-401)
)
日より徹底抗戦の
徹底抗戦の決
戦の決心を固めたのだ。
(第4巻,pp. 400-
市民と婦人は最後の最後まで勇敢だった
割当配給に
配給についていえば
いていえば、われわれは一
、われわれは一風変わった施
わった施策を、すなわち、共
策を、すなわち、共産主義とは言
主義とは言わないが
一種の社
種の社会主義をおこなわざ
会主義をおこなわざるをえなかった。
われわれは肉屋
われわれは肉屋を区役
肉屋を区役所
を区役所の管理下におき、そして最終的
下におき、そして最終的にはパン
終的にはパン屋
にはパン屋もそうした。しかし、われわ
れは最初、諸
れは最初、諸事実と原理を切り
原理を切り離
を切り離した。そして、こう宣言
した。そして、こう宣言した。すなわち、われわれがこれから
宣言した。すなわち、われわれがこれから実
した。すなわち、われわれがこれから実
施しようとする事柄
しようとする事柄は原理としては
原理としては何
としては何の意味もない。籠城という状況が異
もない。籠城という状況が異常な事態であるゆえに経
な事態であるゆえに経
済原理に
原理に背かざるをえないし、為
るをえないし、為さざるをえない事柄
るをえない事柄を為してきたのであって、欲
してきたのであって、欲するところ
するところを為
したのではない、と。したがって、必
したのではない、と。したがって、必要不可欠のことをおこなったのだ。わが住民は最後まで最大
要不可欠のことをおこなったのだ。わが住民は最後まで最大
の賛辞に値
辞に値する行動
する行動をとり
行動をとりつ
をとりつづけたと言
けたと言わねばならない。われわれは住民におけ
ねばならない。われわれは住民における
ならない。われわれは住民における賞賛すべき犠牲
の数々を知
々を知っていたし、抑
っていたし、抑圧すべき騒動は一度だって経験
度だって経験しなかった。
経験しなかった。
犯された唯
れた唯一の無秩序――猖獗を
秩序――猖獗を極めた厳寒
めた厳寒に
厳寒に起因する苦しみを考
する苦しみを考えれば
えれば無理もないことだが
――は、
――は、寒
は、寒さで死にそうになった不
にそうになった不幸な者たちによって板塀
たちによって板塀と
板塀と樹木が壊されたことである。
この住民に活
この住民に活気を与
気を与えた感情
えた感情を代
感情を代表
を代表する一
する一例として、籠城末期のころ
として、籠城末期のころ、私に会いにきた哀
に会いにきた哀れな婦
れな婦
人が述べ
人が述べた
述べた言葉を引用させ
を引用させていただきたい。
用させていただきたい。彼
ていただきたい。彼女は窮状を訴
は窮状を訴えた。そこで私
えた。そこで私は、なしうることすべ
は、なしうることすべ
てやったと返答
てやったと返答した。
返答した。彼
した。彼女は次のように言
は次のように言い返した。
「自分のことを申
分のことを申しているのではありま
しているのではありませ
りません。子供
ん。子供らのことです。
子供らのことです。子供
らのことです。子供らは
子供らは空
らは空腹のあまり、夜
のあまり、夜中に
目がまわると零
、と。
がまわると零すのです。これはそんなに長く続く
すのです。これはそんなに長く続くものではありま
く続くものではありませ
ものではありません」
最後の言
最後の言葉によって、彼
によって、彼女は降伏せねば
は降伏せねばならないと
せねばならないと要
ならないと要求している、と私
している、と私は最初思
は最初思った。しかし、立
ち去るとき彼
るとき彼女はこう言
はこう言った。
「区長殿
区長殿、降伏の噂
、降伏の噂が流れております。降伏、それはすなわちプ
れております。降伏、それはすなわちプロイセン軍の軍門
ロイセン軍の軍門にくだることを
意味します。いいえ、それぐ
」
します。いいえ、それぐらいなら私
らいなら私たちは子供
たちは子供らといっし
子供らといっしょ
らといっしょに死を選び
を選びます。
この哀
この哀れな婦
れな婦人と同
人と同じような考
じような考え方の者
え方の者は幾千人といたのだ。
国民衛兵
国民衛兵に関する私
する私の見解――他
見解 他の多くの
多くの者も同じだが――は最初から次のとおり。パリの
じだが は最初から次のとおり。パリの 30 万
の武装兵士のうち、大隊
武装兵士のうち、大隊編
士のうち、大隊編成可能なのは
成可能なのは 10 万人ほどの精鋭
どの精鋭である。私
である。私は幾度となく
度となくこの問題
この問題につ
いてトロシュ将軍に書
いてトロシュ将軍に書簡を送ったが、幾
ったが、幾人かの同僚
人かの同僚も
同僚も同じことをした。これはつ
じことをした。これはついに決
いに決定された。
しかし、活用
しかし、活用できたかもしれない
活用できたかもしれない部
できたかもしれない部分が活用さ
分が活用されなかった。われわれの
活用されなかった。われわれの意
れなかった。われわれの意図はいわゆる大出撃戦を
要求するところ
するところになかった。この大出撃戦というのは、本当
になかった。この大出撃戦というのは、本当は出撃を望まないで
本当は出撃を望まないで他
は出撃を望まないで他の目的のための
目的のための
機会を狙
会を狙っていた連
っていた連中によって要
中によって要求されたのである。われわれの意
れたのである。われわれの意図は次のとおり。パリ市民の性
は次のとおり。パリ市民の性
格を考慮すれば
すれば、パリ総督
、パリ総督が考えているような純粋
えているような純粋に防衛
純粋に防衛的
に防衛的な戦争をするのではなく
な戦争をするのではなく、規模の
規模の小さ
い攻撃戦をおこなうべ
い攻撃戦をおこなうべきだったのだ。すなわち、昼夜兼
きだったのだ。すなわち、昼夜兼行
昼夜兼行の持続的な
続的な小規模な出撃戦は
規模な出撃戦は敵
な出撃戦は敵を消耗さ
消耗さ
せ、われわれにかく
、われわれにかくも多くの
多くの不幸をもたらす大工
をもたらす大工事を妨
事を妨害できたであろ
できたであろうし、わが地方軍と籠城軍
の一部を切断
を切断しようとする敵
しようとする敵の企図を
企図を妨げたであろ
げたであろう。われわれはこのために、非常
う。われわれはこのために、非常によい
非常によい部
によい部隊を
もっていた。
私の区の大隊によって判断
の区の大隊によって判断するか
判断するかぎ
するかぎり、歩
り、歩兵大隊は非常
大隊は非常に
非常に優秀であった。わが軍はまだ年
優秀であった。わが軍はまだ年老
であった。わが軍はまだ年老いて
いない元
いない元将校により指揮さ
により指揮されていた。彼
れていた。彼らは兵
らは兵士を非常
士を非常によ
非常によく
によく訓練し、少なく
練し、少なくとも日に 4 時間も鍛
えあげた。一
私のところ
えあげた。一方、不
方、不幸にも豊
にも豊かな才
かな才能をもって到着
をもって到着した
到着した遊動
した遊動隊
遊動隊――私
のところに、勇
に、勇気があり忠
気があり忠実
なブルトン人とラング
ルトン人とラングドック人の大隊がいた――は
ック人の大隊がいた はほとんど訓
とんど訓練されておらず、パリのわれわれの
見ている前
ている前で民主化さ
で民主化されてしまった。
化されてしまった。
まずもって諸君
まずもって諸君に
諸君に報告しなけれ
報告しなければ
しなければならないことは、私
ならないことは、私の区が怪
の区が怪しげな婦
しげな婦人の一
人の一隊によって襲
隊によって襲撃さ
れたことである。彼
れたことである。彼女らがわが遊動
らがわが遊動隊を
ってきたので、私は警備隊に命じてこれを蹴散
隊に命じてこれを蹴散らした。
遊動隊を襲
隊を襲ってきたので、私
蹴散らした。
思うに、これらの哀
うに、これらの哀れな若者
れな若者の民主
若者の民主化
の民主化を防ぎ
を防ぎ、彼らに行動
らに行動の
行動の準備を
準備をさせ、もっと
させ、もっと早
、もっと早くパリから出
撃させるのに、もっと多く
るのに、もっと多くの
多くの努力を
努力を払う必要があったのだ。最初こそ彼
があったのだ。最初こそ彼らは元
らは元気一杯に到着したの
到着したの
だが、やがて無
だが、やがて無為のあまり彼
のあまり彼らは無
らは無秩序状態に
秩序状態に陥
状態に陥り、和平
り、和平と帰
和平と帰郷
と帰郷を夢見るようになった。たしかに
彼らに勇
らに勇気が欠
気が欠けていたわけではなかったが、もっと他
けていたわけではなかったが、もっと他のやり方があったというのに、彼
のやり方があったというのに、彼らの管
らの管理
も監視も
監視も訓練も不十
練も不十分であった。
不十分であった。警
分であった。警戒がなさ
がなされなかったために、彼
れなかったために、彼らのあいだで天然痘
らのあいだで天然痘が
天然痘が蔓延する
にまかさ
にまかされた。明
れた。明らかに応
らかに応急措置
急措置が必要でありワ
でありワクチンを要
ンを要求したが、それを獲
したが、それを獲得できなかった外
できなかった外
科医を
(第
科医を私は知っている。為すべきであったのに為
きであったのに為されなかったことは他
れなかったことは他にも多
にも多い。
(第4巻,pp. 402
-403)
)
10 月 31 日時点での住民感情は単なる不満にすぎなかったが、2
日時点での住民感情は単なる不満にすぎなかったが、2 月 8 日には激怒と化した
この日の事件[訳注:10
[訳注: 月 31 日の暴動
日の暴動]
暴動]に関して、私は別の陳述をなすことができる。
陳述をなすことができる。それは、
昼間デモ
間デモ行進をした群
進をした群衆と市役所
と市役所に侵入した集団
入した集団とでは大きな
集団とでは大きな違
とでは大きな違いがあるということだ。もっぱ
いがあるということだ。もっぱら
北の場末街から来
から来た群衆は不満をいだいており、沈
をいだいており、沈痛な気持
な気持ちで揺
ちで揺れていた。彼
れていた。彼らはブ
らはブールジェ事
件に対して、つ
件に対して、つまり今
まり今日その責
日その責任が論
任が論議され尽くされた軍事
尽くされた軍事的
れた軍事的誤謬に対して
誤謬に対して不
に対して不満であった。また彼
であった。また彼
らはメ
らはメッスの致
ッスの致命的事件を聞き知
事件を聞き知って動
って動揺し興奮していた。
群衆は不満のあまり、デ
のあまり、デモ行進するほ
進するほどではあったが、さ
どではあったが、さりとて政府を転覆
りとて政府を転覆するほ
するほどに不
どに不満であ
ったのではない。約
ったのではない。約 5 万人がデ
人がデモに参加したが、パリ市役所
モに参加したが、パリ市役所への侵入に加わったのはせ
入に加わったのはせいぜい2~
い2~
3千人である。大部
人である。大部分の群
分の群衆は家路
は家路についた。その日の夕
いた。その日の夕方、市役所
方、市役所を支配した
支配した一
した一派は脅威
派は脅威を
脅威を感じ
てベルヴィル、ラ・
ラ・ヴィエット、ラ・
ラ・シャペルに援
ルに援軍派遣
軍派遣を要請したが、大衆
大衆は戻って来
って来なかった。
不幸にして時間
にして時間の経過とともにこうした精神状態は
経過とともにこうした精神状態は変
とともにこうした精神状態は変わり、とく
わり、とくに籠城の末期にそうであった。諸
に籠城の末期にそうであった。諸
君はパリの選挙においてどのような混
はパリの選挙においてどのような混乱があったかをご存
乱があったかをご存じのはずだ。選挙結
ご存じのはずだ。選挙結果
じのはずだ。選挙結果は非常にも
非常にもつ
にもつれた。
もっとも不
もっとも不吉なものとなり、良
なものとなり、良識者の眼から見
から見てすでにもっとも危険
てすでにもっとも危険とみられていた
危険とみられていた名前
とみられていた名前をも
名前をもつ
をもつ数
名が、パリでもっとも平
が、パリでもっとも平静な区のひとつ
な区のひとつであるわが区においてすら、多
であるわが区においてすら、多数の得票でもって
得票でもって当
でもって当選した
のである。これらの人物
のである。これらの人物はこれまでになく
はこれまでになく大量の得票を
得票を獲得した。なぜ
した。なぜなら、10
なら、 月 31 日事件時に
不満にすぎ
にすぎなかったものが、2
なかったものが、 月 8 日には激
日には激怒と化していたのだ。
私は諸君のためにジュール
諸君のためにジュール・
のためにジュール・フアーヴルの言
フアーヴルの言葉を引こう。彼
を引こう。彼は選挙の数
は選挙の数日前、私にこう言
にこう言った。
すなわち、
「あなたは何
あなたは何が起きているかご存
きているかご存じのはずです。パリはわれわれを転
ご存じのはずです。パリはわれわれを転覆
じのはずです。パリはわれわれを転覆するでしょ
するでしょう。われわれに
対する強
対する強烈な反発がありますから、われわれは再
な反発がありますから、われわれは再選されないでしょ
れないでしょう。そうした反発はおそらく
う。そうした反発はおそらく完
全に正当だとは言
だとは言えないのかもしれま
えないのかもしれませ
しれません。しかし、ひと言
ん。しかし、ひと言でいえば
でいえば、そこに何
、そこに何か大きなもの、根
か大きなもの、根
本的な
本的な美といえるものがあります。包囲さ
といえるものがあります。包囲された
包囲された町
れた町ではいつ
ではいつも、人民が苦難
も、人民が苦難を味わったとき、なぜ
わったとき、なぜ蜂
起するのでしょ
するのでしょうか?彼
うか?彼らの支配
らの支配者
支配者を降伏させ
を降伏させるためにです。そうです
させるためにです。そうです!
るためにです。そうです! これらの連
これらの連中はわれわ
れに我慢
れに我慢ができないのです。な
我慢ができないのです。なぜ
ができないのです。なぜかといいますと、われわれが彼
かといいますと、われわれが彼らに十
らに十分な窮乏と血
分な窮乏と血を要求しなか
ったからです。また、彼らの餓
らの餓死を妨害するために、われわれが条
われわれが条約を結んだからというのです!」
を結んだからというのです!」
これは真実
これは真実である。きわめて
真実である。きわめて穏健
である。きわめて穏健な
穏健な私の区でも、こうした風潮
の区でも、こうした風潮は他の区と同
の区と同じく強烈だった。わ
れわれの
れわれの歩兵大隊は非常
大隊は非常に
非常に勇敢であった。それらの一つ
であった。それらの一つ、第
一つ、第 72 大隊は勇
大隊は勇猛にして有能
にして有能な
有能なブランシ
オン大佐
オン大佐の連隊に属
隊に属していたが、同
していたが、同隊はビ
隊はビュザンヴァ
ュザンヴァルの戦いでその義務
ルの戦いでその義務を十分に果
分に果した。この大
隊は一
隊は一日中会戦し敗退しなかった。それはビ
日中会戦し敗退しなかった。それはビュザンヴァ
ュザンヴァル公園で午後 3 時までもち堪えた。この大
隊は他
隊は他の大隊とともに支援
の大隊とともに支援のなかったことを
~5 時間遅れて到着
れて到着した。その
支援のなかったことを非難
のなかったことを非難した。
非難した。右
した。右翼は 4~
到着した。その理
した。その理
由は私にはとても評価
にはとても評価できない。
評価できない。非常
できない。非常に大きな
非常に大きな不
に大きな不満が国民衛兵
が国民衛兵のなかに残
のなかに残った。彼
った。彼ら援軍を送
軍を送らな
かった参謀
かった参謀本部で、次のような言
で、次のような言葉が交わさ
が交わされたのを聞いたと主張
れたのを聞いたと主張した。
「そうだ!
そうだ! 国民衛兵
国民衛兵の諸君、
諸君、君たちは戦争を味
たちは戦争を味わってみたかったのだ、そして、今
わってみたかったのだ、そして、今君らはそれを
味わったのである!」
、と。
わったのである!」
私の部下が戻
人の大隊のなかで、2
下が戻ってきたときの言
ってきたときの言葉を繰り返したい。400
したい。
人の大隊のなかで、 人の中隊長と 30 人
の兵卒が戦死
が戦死し、50
し、 人が戦闘
人が戦闘不能となった。これらの
不能となった。これらの者
となった。これらの者は一貫して秩序
して秩序派であったが、
秩序派であったが、彼
派であったが、彼らは軍
事指導
事指導に激しい怒
しい怒りを覚
りを覚えていた。3
えていた。 月 18 日の事件時に、それまでは無
日の事件時に、それまでは無秩序的傾向
秩序的傾向をけっして
的傾向をけっして示
をけっして示
さなかった大隊においてさ
なかった大隊においてさえ、なぜ
え、なぜ動揺がひろ
がひろがったかは以
がったかは以上のことから理
上のことから理解されえよう。したが
って、その数
って、その数日前の大砲
の大砲事件は、人の言
事件は、人の言うところ
うところのものとはまったく
のものとはまったく異なるのだ。その事件は必
なるのだ。その事件は必ず
しも名
しも名うての中央委
うての中央委員会の
央委員会の陰謀
員会の陰謀の結
陰謀の結果
の結果ではなかったのだ。その事件は非常
ではなかったのだ。その事件は非常に
非常に異なった状況の所
なった状況の所産で
あった。
(第4
-404)
)
(第4巻,pp. 403-
市民は選挙より抗戦のほうを考えていた
[質問:市民に市議会選挙実施
[質問:市民に市議会選挙実施の
実施の願望があったか?]
パリ・
パリ・コミューンを実
コミューンを実現しようと望んだ者
現しようと望んだ者がこのために選挙を勧
がこのために選挙を勧めたことは
めたことは疑
とは疑いない。
[質問:市民感情
[質問:市民感情はどうであったか?]
感情はどうであったか?]
市民は戦争のみを欲
市民は戦争のみを欲し、選挙は考
し、選挙は考えないような時期があった。事態が膠
えないような時期があった。事態が膠着状態にあると判断
状態にあると判断でき
判断でき
る他の瞬間においても、市民はなおこの考
においても、市民はなおこの考え方に固執
え方に固執していたが、新しい区長
固執していたが、新しい区長・
していたが、新しい区長・助役選挙が新たな
要素をもたらし、国防をより強固
素をもたらし、国防をより強固にするかもしれないと信じた。
強固にするかもしれないと信じた。
[質問:10
[質問: 月 31 日においてこの感情
日においてこの感情はあったか?]
感情はあったか?]
ある程
ある程度はそうだろ
度はそうだろう。その前
う。その前日からブ
日からブールジェ事件に起
ールジェ事件に起因する本
する本物の不満があった。ある者
があった。ある者に
とって口
とって口実である事柄
である事柄が他の者にとってはまじめな動
にとってはまじめな動機であった。多く
であった。多くの人がこうした風
多くの人がこうした風潮
の人がこうした風潮を回顧
している。
(第4
-405)
)
(第4巻, pp. 404-
区長会の性格は曖昧だった
[質問:区長会の性
[質問:区長会の性格はどんなものか?]
定まった法律
定まった法律的な性格をもたなかった。それを性
をもたなかった。それを性格づけるには状況があまりに特
けるには状況があまりに特異だったからだ。
政府は区長とのあいだに、いわば
政府は区長とのあいだに、いわば諮問的な関係を結んでいた。区長のなかには、こうした関
を結んでいた。区長のなかには、こうした関係を政
府に対抗
府に対抗する一
する一種の区長会の全
種の区長会の全体的権威
的権威に転換
に転換しようと望む
しようと望む者もいれば
もいれば、自己に属する権
する権威を政府
に残そうと欲
そうと欲する者
する者もいた。後者
もいた。後者は政府に対して、現に起
は政府に対して、現に起きている事柄
きている事柄や、政府より細
や、政府より細部をよく知
をよく知
っている事柄
っている事柄に関して意見
して意見を
意見を表明し、また有用
し、また有用と
有用と思われる事柄
われる事柄について助
いて助言をするというものだっ
た。たとえば
た。たとえば、区長会がそうであったように、極
、区長会がそうであったように、極端に異なった要
なった要素から成
素から成る集会において、こうし
た異なった傾向
.18 事件の
なった傾向が生じるのは
傾向が生じるのは至
が生じるのは至極当然のことだった。10.
のことだった。 .31 事件のときの区長会は
事件のときの区長会は 3.
ときのそれとは異
ときのそれとは異なっていた。ド
なっていた。ドレクリューズ
レクリューズは 3 月 18 日には区長をやめていた。他
日には区長をやめていた。他の者たちも
職能をもっていなかった。
[質問:武力行
[質問:武力行使
武力行使以外の方法で国民衛
以外の方法で国民衛兵
の方法で国民衛兵の武装解除
武装解除は
解除は可能であったか?]
可能であったか?]
ありえなかったと思
ありえなかったと思う。この武装
う。この武装した大
武装した大衆
した大衆はこれまで最善
はこれまで最善を尽くしてきたのであり、これに対し
尽くしてきたのであり、これに対し
て人々は全
て人々は全体として不
として不満をいだく
をいだくことはなかった。彼
ことはなかった。彼らとしても、それがおかれていた興奮状態の
なかで武装
なかで武装解除
じたとはとうてい思えない。
(第4
(第4巻, p. 405)
)
武装解除に
解除に応じたとはとうてい思
(次 http://linzamaori.sakura.ne.jp/watari/reference/mentalstate6
http://linzamaori.sakura.ne.jp/watari/reference/mentalstate6.pdf)
.pdf)
(c)Michiaki Matsui 2014