世界が尊敬した日本人(25)マッカーサーと対決した白洲次郎

世界が
世界が尊敬した
尊敬した日本人
した日本人(
日本人(25)
07,
07,01
「クール・
クール・ジャパン」
ジャパン」の元祖仕掛け
元祖仕掛け人・林忠正
前坂 俊之(
俊之(静岡県立大学国際関係学部教授)
静岡県立大学国際関係学部教授)
1880年代
1880年代の
年代のヨーロッパで
ヨーロッパで浮世絵や
浮世絵や日本美術を
日本美術を広めてジャポニズム
めてジャポニズム(
ジャポニズム(日本美術愛好ブーム
日本美術愛好ブーム)
ブーム)
こしたのが国際的美術商
国際的美術商・
林忠正である
である。
を巻き起こしたのが
国際的美術商
・林忠正
である
。
そのころ、
そのころ、パリで
パリで最ももてた日本人
ももてた日本人であり
日本人であり、
であり、今の『クール・
クール・ジャパン』
ジャパン』
日本カッコ
カッコいい
いい)
いわば元祖仕掛
元祖仕掛け
ともいえる存在
存在であ
( 日本
カッコ
いい
) の 、 いわば
元祖仕掛
け 人 ともいえる
存在
であ
る。
林 は 嘉永6
嘉永 6年 ( 1853)
1853 ) 11月
11月 、富山県高岡市の
富山県高岡市 の 外科医の
外科医 の 二男
まれた。
明治3
1870)、
)、富山藩大参事林太仲
富山藩大参事林太仲の
養子と
に生まれた
。明治
3年(1870
)、
富山藩大参事林太仲
の養子
と
なり、
大学南校(
現在の
東大)
入学、
なり
、1871 年、18 歳で大学南校
(現在
の東大
)に入学
、フラン
11年
1878)
パリ万国博覧会
万国博覧会(
ス語を学び、同11
年(1878
)、25 歳でパリ
万国博覧会
(187
8年)の通訳として
った。
通訳としてパリ
としてパリへ
パリへ渡った
。
そのころ ヨーロッパでは
ヨーロッパでは浮世絵
では浮世絵、
浮世絵、日本画、
日本画、工芸などの
工芸などの日本
などの日本の
日本の美術品が
美術品が脚光を
脚光を浴びる、
びる、いわ
ゆる「
ジャポニズム」
きていた。
ゆる
「ジャポニズム
」が起きていた
。
日本の
日本の浮世絵を
浮世絵を初めて見
めて見たヨーロッパの
ヨーロッパの画家たちは
画家たちは西洋絵画
たちは西洋絵画とは
西洋絵画とは全
とは全く異質の
異質の、その大胆
その大胆な
大胆な
構図や
構図 や 、 カラフルな
カラフル な 色調、
色調 、 優美な
優美 な 曲線に
曲線 に 驚異の
驚異 の目 を見張り
見張 り 、日
本美術、
本美術、文化全体に
文化全体に対して「
して「エキゾチシズム(
エキゾチシズム(異国情緒)
異国情緒)」から大
から大
きな関心
きな関心を
関心を示していた。
していた。
林自身が
林自身が浮世絵や
浮世絵や版画などは
版画などは芸術
などは芸術と
芸術と思っていなかっただけに、
っていなかっただけに、こ
熱狂に
ショックをうけて
をうけて、
日本美術の
本格的な
研究に
の熱狂
に逆ショック
をうけて
、日本美術
の本格的
な研究
に 取 り組
んだ。
明治17
17年
1884)、
)、31
パリに
美術店を
んだ
。明治
17
年(1884
)、
31 歳でパリ
に美術店
を開店、浮世絵
などの
日本美術の
売買に
いだ。
など
の日本美術
の売買
に力を注いだ
。
パリの
パリのジャポニズムがどんなものだったのか
ジャポニズムがどんなものだったのか、
がどんなものだったのか、一八六七(
一八六七(慶応3
慶応3)年
のフランスの
帝国」
によると「
最初の
版画の
到来は
フランスの新聞記事「
新聞記事「日が昇る帝国
」によると
「最初
の版画
の到来
は、文字通り
文字通り衝撃をも
衝撃をも
たらした。
たらした
。
1
ほんの小
ほんの小さな画帖
さな画帖でさえ
画帖でさえ、
でさえ、高値で
高値で買い争われた。
われた。何千枚という
何千枚という単位
という単位がたちまち
単位がたちまち売
がたちまち売り切れた。
れた。
まさしく熱狂
熱狂というべき
というべき様相
様相を
まさしく
熱狂
というべき
様相
を 帯 びるこの人気
びるこの 人気に
人気 に 商人たちはまず
商人 たちはまず驚
たちはまず 驚 いた」(
いた 」(小山
」( 小山ブリジッド
小山 ブリジッド著
ブリジッド 著
夢見た
日本―
エドモン・
ゴンクールと
林忠正」
平凡社、
2006年刊
年刊))と伝えている
えている。
「夢見
た日本
―エドモン
・ド・ゴンクール
と林忠正
」平凡社
、2006
年刊
。
一八七八年の
一八七八年のパリ万博当時
パリ万博当時の
万博当時のフランス新聞記事
フランス新聞記事「
新聞記事「パリにおける
パリにおける日本
における日本」
日本」では、
では、ジャポニザン(
ジャポニザン(日
本文化愛好者)
として「
ルーヴル美術館絵画部門学芸員
美術館絵画部門学芸員・
ヴィヨ、
画家の
マネ、
ティッソ、
本文化愛好者
)として
「ルーヴル
美術館絵画部門学芸員
・M・ヴィヨ
、画家
のマネ
、ティッソ
、
ドガ、
デュラン、
モネ、
版画家の
ブラックモン、
作家の
エドモン、
ゴンクール兄弟
兄弟、
ゾラ、
ドガ
、デュラン
、モネ
、版画家
のブラックモン
、作家
のエドモン
、ゴンクール
兄弟
、ゾラ
、旅行家
エミール・
ギメ・・・
・・・」
らを上
こうした連中
連中が
サロンで
ジャポンを
、「ジャポニズム
ジャポニズム」
のエミール
・ギメ
・・・
」らを
上げ、こうした
連中
がサロン
でジャポン
を熱く語り、「
ジャポニズム
」は
芸術家から
から市民層
市民層へ
さらにヨーロッパ
ヨーロッパ全体
全体へと
へと広
がっていったのである。
芸術家
から
市民層
へ、さらに
ヨーロッパ
全体
へと
広がっていったのである
。
林はジャボニザンの
ジャボニザンの中心的存在であった
中心的存在であった小説家
であった小説家の
小説家のエドモン・
エドモン・ゴンクール(1822
ゴンクール(1822(1822-1896)と
1896)と知り合
日本美術を
売買すると
すると同時
同時に
その知識
知識を
執筆にも
にも協力
協力した
した。
い、日本美術
を売買
すると
同時
に、その
知識
を伝え執筆
にも
協力
した
。
彼の『歌麿』(
歌麿』(1891
』(1891)
1891)や『北斎』(
北斎』(1896
』(1896)
1896)の浮世絵研究の
浮世絵研究の決定版は
決定版は林が調査し
調査し、質問に
質問に答え、
下書きするなど
きするなど全面的
全面的に
協力した
した産物
産物であり
であり、
との共著
共著と
下書
きするなど
全面的
に協力
した
産物
であり
、林との
共著
と言えなくもない。
えなくもない。ルイ・
ルイ・ゴンスの
ゴンスの
日本美術』(
』(1881
にも助言
助言を
『日本美術
』(
1881 年)にも
助言
を 与え た 。
そうした林
そうした林との交流
との交流ぶりが
交流ぶりが『
ぶりが『ゴンクール日記
ゴンクール日記』(
日記』(1851
』(1851~
1851~96)
96)には事細
には事細かに
事細かに語
かに語られており、
られており、林の果
たした役割
役割の
きさが伝
わってくる。
たした
役割
の大きさが
伝わってくる
。
国際的美術商として
国際的美術商として林
として林はパリで
パリで一大成功をおさめた
一大成功をおさめた。
をおさめた。
その活躍
その活躍ぶりは
活躍ぶりは浮世絵
ぶりは浮世絵の
浮世絵の大量販売部数にもあらわれ
大量販売部数にもあらわれ「
にもあらわれ「1890年八月
1890年八月から
年八月から1901
から1901年
1901年までに2
までに2
18回荷
回荷を
その内訳
内訳は
一五万六四八七枚の
浮世絵、
絵画、
デッサン九七点
九七点、
18
回荷
を送 る。その
内訳
は 、一五万六四八七枚
の 浮世絵
、絵画
、デッサン
九七点
、図
版入り
書九七〇
八点、
屏風など
など八四六枚
八四六枚であった
であった」(
」(小山
小山ブリジッド
ブリジッド同著
同著)
というから驚
版入
り書九七
〇八点
、屏風
など
八四六枚
であった
」(
小山
ブリジッド
同著
)というから
驚 く。
しかし、
しかし、浮世絵の
浮世絵の値段も
値段も高騰して
高騰して、
して、入手しがたくなり
入手しがたくなり、
しがたくなり、売上げも落
げも落ちてくる。
ちてくる。1900年
1900年、林は
パリ万博
万博の
日本事務官長に
パリ
万博
の 日本事務官長
に 任命されたのと
任命 されたのと同時
されたのと 同時に
同時 に 閉
決意する
する。
店を決意
する
。
パリ万博
パリ 万博では
万博では法隆寺金堂
では 法隆寺金堂を
法隆寺金堂 を模 した日本
した 日本パビリオン
日本 パビリオンを
パビリオンを作
そこで仏像
仏像、
陶器など
など古今
古今の
名品800
800点
展示、
り、そこで
仏像
、陶器
など
古今
の名品
800
点を展示
、
日本式の
庭園とともに
とともに圧倒的
圧倒的な
人気を
した。
日本式
の庭園
とともに
圧倒的
な人気
を博した
。
この功績
この 功績で
功績 で フランス政府
フランス 政府から
政府 から「
から 「 レジョン・
レジョン ・ ド ・ ヌール」
ヌール 」 3 等
2
勲章を
勲章を受章、
受章、翌年日本政府からも
翌年日本政府からも叙勲
からも叙勲された
叙勲された。
された。
林 は通算27
通算 27年間
27年間、
年間 、パリで
パリで 暮らしたが、
らしたが、日本の
日本の 才能も
才能 も数多く
数多 く育てた。
てた 。日本最初の
日本最初の 洋画家・
洋画家・
黒田清輝は
当初、
法律を
してフランス
フランスに
留学してきたが
してきたが、
影響で
洋画家に
じた。
黒田清輝
は当初
、法律
を志して
フランス
に留学
してきたが
、林の影響
で洋画家
に転じた
。
林は西洋絵画を
西洋絵画を収集した
収集した初
した初の日本人でもあり
日本人でもあり、
でもあり、そのコレクション
そのコレクションは
コレクションは交友した
交友した印象派
した印象派の
印象派の作品
名画など
など合計
合計600
600点
にも上
っていた。
や名画
など
合計
600
点にも
上っていた
。
日本で
日本で西欧式の
西欧式のホテルと
ホテルと美術館を
美術館を造るプランを
プランを抱いて明治
いて明治 34 年(1901)
1901)、林は帰国する
帰国する。
する。
膨大な
美術品、
名品の
ホテル用
家具、
調度品、
芸術品も
膨大
な美術品
、名品
の数 々とホテル
用の家具
、調度品
、芸術品
も持ち帰 っていたが、
っていたが、実
することなく、
急死した
した。
現することなく
、明治 39 年,52 歳で急死
した
。
日本美術の
日本美術の海外普及の
海外普及の先駆者として
先駆者として、
として、これほどの大
これほどの大きな業績
きな業績をあげた
業績をあげた男
をあげた男はいない。
はいない。没後1
没後1
00年
にして、
再評価が
まっている。
00
年にして
、今、林の再評価
が始まっている
。
<禁転載>
禁転載>
3