④気づいたモノが 日本一

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2011年9月27日
『もっと元気にな~あれ』(その4)
「気づいたモノが 日本一」
◆「いつもの夕日が 極上モノ」 (愛媛県伊予市双海町)
NHKの番組収録で、ディレクターが海辺の町にやってきた。役場の職員だった男性は、駅まで迎
えに行った。「こんなに素晴らしい夕日、見たことがありません」。その時は、ただ相槌を打つだけだ
った。しかし、その言葉はいつも心のどこかに残っていた。
(写真はふたみ潮風ふれあい公園・伊予市双海町)
夕日には、人生の一コマを思い起こさせる不思議なチカラ
がある。いつもの夕日が、あの時の夕日と重なった。水産高
校の実習船で大シケに遭い、一度は死を覚悟した。その時遠
くに富士山が見えた。「人生あきらめちゃいかん」。あの夕日がまちおこしにつながった。役場の上
司に相談したが、門前払い。地域の援助を受け、ひとりで企画したイベントに人々が集まった。
◆「あの厄介モノが 人を呼ぶ」 (青森県五所川原市)
北国の冬は厳しい。地吹雪が津軽半島で住む人たちの暮らしを凍らせる。しかし、滅多に大雪が
降らないところで住む人たちにとって、一度は体験したいと思うのが、あの地吹雪だ。一面銀世界の
風景を見たこともない。腰まで積もった雪をかき分けて歩いたこともない。雪と関わったこともないそ
んな人たちの好奇心と冬の厄介モノを結びつけた人がいる。
人が集まるイベントはないものか。仲間と話すうち、思いついたのが地吹雪体験。そして、人の心
を和ませる津軽弁、その地に伝わる冬の行事、冬しか走らないストーブ列車などを加えた。都会の
人と地元の人が交わることで町が元気になる。津軽半島の厄介モノと嫌われてきた地吹雪を、地元
に福をもたらす宝モノに変えた。
夕日や地吹雪でまちおこしを思いついた二人だが、当初は相手にもされなかった。「沈むようなも
んにカネは出せん」。「厄介モノを誰が見にくるか」。地元の人たちにすれば、いつもの夕日であり、
嫌な冬でしかない。
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しかし、その地を訪れた人たちは、日本一美しい夕日で人生を振り返り、地吹雪に感動しながら
も、厳しい冬の中で暮らす人たちの苦労を肌で実感する。そこで、あまりにも身近過ぎて気づかなか
ったモノの中から、まちおこしの宝モノを見つけた人を紹介したい。
●『日本一は、ここにあった』
「ニッポン人・脈・記 ふるさと元気通信③」
(2009年7月22日付け朝日新聞より引用)
ふ た み
漁業とミカンのまち、愛媛の旧双海町。特産はない、名所もない。でも、年間55万人もの観光客
わかまつ し ん い ち
をよぶ。役場の熱血職員だった若松信一(64)が、宝物を見つけたからだ。それは、極上の「夕日」。
伊予灘にゆっくり沈む真っ赤な太陽は、日本一である。水平線と接する瞬間、ジュンッという音が聞
こえてきそうだ。
30年前のある夕暮れだった。若松は、NHKの番組収録で東京から来たディレクターを、駅まで
迎えに行った。ホームのベンチに座っていたディレクターが、若松に言った。「こんなにすばらしい夕
日、見たことがありません」。すばらしい、すばらしい、と繰り返す。あいづちを打ちながら、若松は思
った。だからどうした? 「私たちからいえば、いつもの夕日です。でも、言葉は心に引っかかってい
ました」。
あるとき、かつて見た夕日を思い出した。高校時代、海洋実習船でマグロを追い、南太平洋で見
た夕日。32歳のとき、政府派遣の青年の船でめぐったハワイ・ワイキキの夕日。誰にだって忘れら
れない夕日がある。人生を振り返ったり、かけがいのない人を思ったり。そうさせる力が夕日にある。
いっしゅう
カネになるかも。役場のエライさんに相談した。「夕日でまちおこしをしましょう」。一蹴された。「沈む
ようなもんにカネは出せん」。
25歳で体を壊し、町職員に。なんにもない町を元気にする方法はないか、いつも考えていた。夕
日でまちおこし、は却下された。若松はあきらめなかった。寄付を募って夕焼けコンサートを開くと、
1千人が集まった。認められ、部下ゼロの課長に。夕焼けフォトコンテスト。夕日にこだわったミュー
ジアムを計画・・・。いろいろ取り組んだ若松は、「夕焼け課長」と呼ばれた。
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か く た しゅう
津軽半島は青森県五所川原市のピアノ講師、角田周 (56)も、無から有を生んだ。♪ハァ テレビ
もねえ ラジオもねえ くるまもそれほど走ってねえ・♪ 五所川原が生んだ田舎のプレスリー、吉幾
三(56)の「俺ら東京さ行ぐだ」である。角田も、なーんもねえ田舎
がいやで37年前、東京に出た。
(写真は五所川原市内を走る津軽鉄道の列車)
音楽事務所に勤めたのち、イベント会社を起こした。だが体調を
崩し、実家の母親も病に倒れたので、故郷に戻った。ピアノ教室を
開いたが、なんの楽しみもない。カラオケ大会などを企画するけれ
ど、人が集まらない。何かおもしろいイベントができないか、と話すうちに、地吹雪体験ツアーを思い
ついた。
役場や商工会に相談にいった。やっかいものをだれが見にくるか、と総スカン。「これはインパクト
がある、と思いましたね」。マスコミが取り上げた。88年1月の初ツアーには、首都圏からおよそ50
人が参加。モンペ、かんじき、そして角巻き姿で地吹雪に歓声をあげた。
いまやツアー参加者は1万人を突破、ハワイや台湾からもくる。角田はストーブ列車を走らせ、町
民と交流できる「津軽の火祭り」も仕掛けた。あったかい津軽弁を楽しみに2度、3度と来る人も多い。
ピアノ教室で角田は、「おらこんな村いやだ」と東京にでた昔の自分そっくりの子どもたちに出会う。
まちを好きになって。そう願い、イベントに知恵をしぼる日々だ。(神田誠司)