2010年度 南浦和教会 2月会報 (NO

(2015 年 9 月 6 日
主日礼拝説教)
主の恵みを数え上げる
イザヤ書 35:4-7
マルコによる福音書 7:24-37
藤井
和弘 牧師
この朝、私たちに与えられました聖書には、二つの出来事が収められていま
した。一つは、シリア・フェニキア生まれのギリシア人で、汚れた霊に取りつ
かれた幼い娘をもつ母親が主イエスのもとを訪れ、娘を癒していただいたとい
う出来事です。そして、二つ目は、人々によって連れて来られた耳が聞こえず
舌の回らない人が、主イエスによって耳を開かれ、舌のもつれを解かれてはっ
きりと話すことができるようになった出来事です。
ですから、今日のところは、それぞれ二つに分けて取り上げてもよいところ
です。今週は 24 節から 30 節までのところから、次週は 31 節から 37 節までと
ころからというふうに聞くこともできるわけです。しかし、教会が御言葉を聞
いてきた歩みを振り返ってみますと、これら二つの出来事はひとつのまとまり
として読まれることが案外多かったことに気づかされます。別々のこととして
思われる今日のところを、教会は一続きのものとして耳を傾けてきたのです。
そこにはどんな理由があったのでしょうか。一つは、今日の出来事の舞台が
いずれも異邦人の住む世界であるということです。「ティルスの地方、シドン、
デカポリス地方」、今日のところに出てきますこれらの地名は、すべて異邦人
の土地を示すものです。そこに、主イエスは足を踏み入れておられる。その道
を地図で正確にたどることはできないのですけれども、それでもかなりの長い
距離を主イエスは歩いておられることに気づかされます。主イエスがなぜその
ような異邦人の地を旅されたのか、それはよく分かりません。そのコースとい
うのは、主イエスの活動場所から考えますと異例なものと言えるところです。
けれども、そのところにおきましても主イエスはその御業を示されたのです。
ユダヤ人と異邦人、神の民と異邦人を隔てておりました当時の境界線を、主イ
エスの宣教は越えるものでありました。そのような視点に立つときに、今日の
二つの出来事は一つのまとまりとして読むことができると言ってよいのだと
思います。
しかしこの朝は、もう一つの視点から聖書の御言葉を考えてみたいのです。
つまり、なぜ二つの出来事を一つのまとまりとして私たちはそこから聞こうと
しているのか。その理由の二つ目になるのですけれども、それは今日のところ
の終わりで聞こえておりました言葉がその理由です。「この方のなさったこと
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はすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けなか
った人を話せるようにしてくださる」。
それは、主イエスの救いをたたえる言葉です。主イエスの御業を証しする言
葉です。ごく普通に読みますならば、この言葉は、すぐ直前の、耳が聞こえず
舌の回らない人を主イエスが癒されたことに向けて語り出されたものです。け
れども、よく読めば分かることですけれども、「この方のなさったことはすべ
て、すばらしい」という言い方は、主イエスがなさったことの一つを取り上げ
ているというよりも、むしろ、主イエスが行われた御業その全体を含めている
と理解できるものです。また、それに続いて、主イエスが聞こえなかった耳を
開き、利けなかった口を話せるようになさったことが言われているのですけれ
ども、そこでの表現の仕方も、ひとりの人の上に起こったことと言うよりも、
何人もの耳の聞こえない人、口の利けない人を、主イエスはお救いくださった
と読めるものになっていると言ってよいのではないでしょうか。つまり、マル
コによる福音書は、一つの意図をもって、主をほめたたえる言葉をここに置い
ているわけです。すぐ直前のことだけでなく、ここに至るまでの主イエスのな
さったことすべてが、すばらしい。それは、福音書を書きました著者自身の証
言でもあります。いいえ、新約聖書がその全体にわたって証言していることな
のです。
主イエスのなさったことはすべて、すばらしい。そこで、「すばらしい」と
訳されているのは、「良い」とか「健全な」とか、さらには「美しい」という
意味の言葉が用いられていました。主イエスの御業のすばらしさ、それは、優
れた質をもち、時と場にかなって美しく、慰めに満ち、自らを誇るやましさな
ど一切ないということを、この「すばらしい」という言葉で表現しようとして
いるのでしょうか。
キリスト者は、そのような主イエスの御業のすばらしさを知る者とされ、そ
こに与かり生きるように召された人のことです。言い換えるなら、この朝の説
教題に掲げましたように、主の恵みを数え上げる人生、それがキリスト者とし
て生きる人生の舞台と言えるのだと思います。主の恵みを数え上げる、それは、
主が与えてくださる恵みの数々をもって自分の生涯を満たしていく、主の恵み
の一つひとつを大切なものとして自らの内に宿していく、ということになるで
しょうか。そのような生涯を生きていく、それを自分の人生にすることができ
るというところに、キリスト者とされた私たちの喜びがあるのではないかと思
うのです。
しかし、またキリスト者もこの地上を生きている限りにおきまして、日々さ
まざまな労苦や戦いを抱えているということも、また確かなことです。毎日の
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ように、新しい問題が家庭や職場、社会において起こってまいります。その度
に、やるべき課題がいっそう山積みになり、答えを出さなければならないプレ
ッシャーを前にして、体と神経をすり減らして、疲れる毎日を過ごしています。
そういった中で、ふと立ち止まり主の恵みを数え上げる心を保つことは、もし
かするとずいぶんと困難になっているのかもしれません。むしろ、私たちは主
の恵みを数え上げることよりも、今しなければならない課題を数え上げること
に、心を奪われてしまっているのかもしれません。
今年の関東の夏は、大変な暑さだったように思います。詳しいデータを見て
ないのですが、8 月初めの頃は連日の猛暑日でした。けれども、その月の後半、
終わり頃には雨模様の日が続き、肌寒く感じるほどの涼しさが訪れるようにな
りました。その急な変化に、体調を崩す方もさぞかし多かったことと思います。
昔から日本は、四季の美しい国だと言われてきました。そのため、移り行く
季節の細やかな変化を敏感にとらえ、これを味わうということを日本人は楽し
みとしてまいりました。夏の「名残り」とか、夏の「余韻」という言い方があ
ります。反対に、秋の「気配」という言い方を私たちはごく自然にします。夏
が終わった後も、それを思い出させるかすかに残ったものに心を留めてみたり、
まだ夏が終わっていないにもかかわらず、次の季節の訪れを肌で感じたりする。
そういった季節の移り変わりを楽しむという生活を、日本人はしてきたわけで
す。けれども、コンクリートに大部分を覆われた都市での生活は、そのような
季節の微妙な移り変わりをとらえるということを難しくしてまいりました。そ
して、今では季節そのものが急激に変化するようになったため、名残りや余韻
を楽しむということを人々から奪いつつあるように思います。ですから、よほ
ど注意していないと、季節の細やかな移り変わりをとらえることはできなくな
っているとも言えると思います。
それは、天候のことだけではありません。新たな問題が次々と起こり、めま
ぐるしく変わっていく毎日の生活の中で、私たちはその日一日をどれほどの神
の恵みに対する感謝をもってゆっくりと振り返ることができているでしょう
か。そして、神の導きと備えとに対するどれほどの信頼をもって、私たちは新
たな一日を始めることができているでしょうか。もしかすると、そのような神
の恵みや導き、備えに心を留めて、そこに喜びと信頼をもって生きようという
姿勢は、目まぐるしい中にも季節な細やかな移り変わりをとらえようとするあ
り方と重なり合うものなのかもしれません。
主の恵みを数え上げる。そのことは決して容易なことではありません。絶え
ず新しい心で、信仰の目を覚ましていなければできないことです。今日の聖書
の中で、主イエスは、耳が聞こえず舌の回らない人をお癒しになられました。
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それはまた、ここにいる私たち自身の姿でもあります。忙しさに疲れをおぼえ、
日々の喧騒の中を生きている私たちの耳は、主の御言葉が聞き取りにくくなっ
ています。そして、自分でも気づかないほどにつぶやきや苛立ちを口にする私
たちの舌はもつれ、主の恵みを数え上げられずにいます。主イエスによって耳
と口を開かれた人のように、私たちも主イエス御自身に触れていただく必要が
あります。御言葉に深く心を留め、主の恵みのすばらしさを私たちが歌い上げ
るために、主イエスに耳を開かれ、舌のもつれを解きほぐしていただく必要が
あります。そのとき、私たちは自由にされた心で、主の恵みを数え上げること
ができる、「この方のなさったことはすべて、すばらしい」と言うことができ
ることを、今日の聖書は告げています。そして、そのために私たちが主を求め
続けなければならないことを、今日の聖書はまた教えてくれているように思い
ます。
汚れた霊に取りつかれた幼い娘の母親は、主イエスのもとを訪れたとき、最
初、取り合ってはもらえませんでした。それどころか、主イエスから外国人を
意味する「犬」呼ばわりされて、娘を癒してもらうことを拒絶されてしまうの
です。けれども、母親であるこの女性は、主イエスのもとから怒って立ち去る
ことをしませんでした。めげることなく娘の救いを願い、主イエスに食い下が
ったのです。
その姿というものは、決して慎み深いものではありませんでした。願いが退
けられたとき、「仕方がない、それが神の御心なのだ」とは少しも考えなかっ
たのです。そうしたのは、この母親が娘を助けたかったからではないでしょう
か。一心にそのことを願っていたからではないでしょうか。そして、自分には
そうする力がないことを、この母親は分かっていたのではないでしょうか。
「それほど言うなら、よろしい」。主イエスは、その母親の願いを聞き届け
られます。
真に助けを求める叫びに、民族や宗教の違いなど関係がないことを教えられま
す。そして、そのような叫びの声に、主は応えてくださるのです。その主イエ
スとの出会いは、決して高みからのものではなく、また自動的にでもなく、む
しろ、偶然で、しかも、実に生き生きとしたものであったことを、今日の聖書
は伝えています。
また、耳が聞こえず舌の回らない人が癒されたとき、主イエスはただ言葉で
「治れ」と言われたのではありませんでした。ご自身の指をじかに彼の耳に差
し入れ、唾をつけたその御手でもつれた彼の舌に触れておられます。そして天
を仰ぎながら深く息をつき、そうして彼に向かって「エッファタ(開け)」と
おっしゃったとあります。主イエスの御言葉は、そこでからだを伴っています。
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ご自身のからだごと主イエスは目の前に立つこの人に向けて「開け」と呼びか
けておられるのです。じかに、そして深く、彼と出会い、彼に触れようとして
くださったのです。
主の恵みを数え上げるということ、そのことには、主イエスのそのような御
業があることを思わせられます。主の恵みとは、私たちが御言葉を聞き御言葉
にふれることができる者になるということです。そうして、主を心からほめた
たえ、その喜びと感謝に生きることができる者になるということです。たとえ
労苦することの多い日々においても、またさまざまな人生の危機を迎えるとこ
ろにあっても、主をたたえることができる。この方のなさったことはすべて、
すばらしいと歌うことができる。それは、何よりも主の恵みのもとにおかれた
私たち自身の人生そのものをすばらしいと歌うことができるということです。
教会の近隣を歩いてみますと、庭や花壇に季節ごとの花を咲かせている家が
たくさんあることに気づきます。それは、どんなに目まぐるしく、また乱暴に
思えるほどに気候が急激に変わろうとも、季節の訪れる気配を感じ取り、季節
の過ぎ行く余韻を楽しむ細やかな人の心が確かにあるということを示すもの
ではないでしょうか。私たちも、耳と口を開いてくださる主に信頼して、日々
与えられる主の恵みを数え上げながら生きる者でありたいと思います。
<主の祈り>
主なる神さま、わたしたちの苦悩の日々のただ中に、あなたはいてくださいま
す。
そして、わたしたちのからだと魂が安息を得る避けどころに、あなたはなって
いてくださいます。
どうか、その恵みを深く覚えることができますように、私たちの耳と口を開い
てください。私たちがあなたの平安のうちに呼吸し、あなたのよき御業をほめ
たたえる器となることができますように。
主よ、この地上にあなたの御心を行ってください。
私たちがそのことに深く信頼することができますように。
すべての国々と、為政者たちを、あなたが導いてくださいますように。
特に、この国に住む人々の良心を導いてください。
平和と希望のある社会を願う人々の思いを顧みてくださいますように。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。
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