教会報 2015年 1月 第64号 「平和の君がもたらす喜び」 主任司祭 岩間 勉 「平和の君」の到来は深い喜びをもたらましました。 教会の祈りで夕に唱えられる、 「マリアの賛歌」では、主が身分の低いはしためを顧みられたことを喜び讃 えています。今日は、世界の教会が平和を祈願する「世界平和の日」ともなっています。「祝福された方。 主はあなたと共に在られる」と告げられたマリアは、御言葉を受け入れたことから来る苦難を担っていかれ ました。かつて真理に従うよう訴えた Gandhi は「自ら招かなかった苦しみを甘受することは、罪をあが なう力を持っている」と言いました。サタンの国が排他的で利己的なグループの連帯に基づいているのに対 して、神の国は人類全てを包み込む連帯にもとづいています。イエスは隣人の範囲を敵が含まれるところま で拡大しました(ノーラン p98) 。御言葉を受け入れたマリアは、これから担うことになる苦難や、主がど のようにイエスを通して平和をもたらそうとしているか思い巡らしていたことでしょう。 2007 年から1年間、フィリピンの EAPI(東アジア司牧研修所)で共に学んだ Fr. James からクリス マスカードが届きました。レイテ島の新しい任地タクロバンからの便りでした。そのカードにアノンの詩が 添えられていました。 「イエスは世に知られていない村に生まれた。30歳になるまで大工の作業場で働い た。その後の年月を、放浪の説教者として過ごした。決して本を書かず、事務所も持ったことがなかった。 彼は、自分の家族や家を持たなかった。一度も高等教育を受けたことがなかった。人間が抱く「偉大な」計 画に伴うことを一つも成し遂げたことがなかった。自分自身以外、信用を証すものを持っていなかった。ま だ若い内から、世論の流れは彼に敵対していた。友たちは逃げ去った。ある者はイエスを否み、彼を裏切っ た。裁判で嘲笑され、二人の強盗の間の十字架に釘付けにされた。イエスが死につつあるとき、彼が地上で 持っていた唯一の財産、一枚の服のために処刑者たちはギャンブルをしていた。亡くなると、体は引き降ろ されて借り物の墓に置かれた。時は流れ、今日、イエスは人類の中心的な人物となった。今まで行進した全 ての軍隊、創立された全ての海軍、議席を占めた全ての国会議員たち、支配力を行使した王たち、これら全 てはこの一人の隠れた生命が持つほど力強く、地上の人間の生命に影響を及ぼしたことは決してなかった。」 (Anon)このような内容の詩でした。 平和はどのようにしてもたらされるのでしょうか。 「救いの創始者、平和の君」といわれるイエスは、弱く傷つきやすい幼子としてこられました。神の子は私 たちと一つになって救おうとしています。武器による戦いには勝利はありません。慈しみ深い神と共になさ れる闘いだけが、真の勝利をもたらします。それによって十字架に行き着くことになっても、勝利はなおそ こにあるのです。真の平和は、相互信頼という傷つきやすさの中で、徐々に育まれた実りです。平和の君の 到来は、真の喜びをもたらしました。それは、ほめられたり、賞を得たり、他の人びととは異なっていると いうことから来る喜びとは別のものです。人より速く走れる、人より頭が良い、人より綺麗だ、こうした違 -1- いがもたらすつかの間の喜びではありません。本当の喜びは、私たちが他の人びとと同じであるという所に 秘められています。 私たちは脆く、いずれは死ぬ者であり、それは人類の一員であるという喜びです。飼い葉桶と十字架は、全 ての人との連帯を表しています。友人として、仲間として、旅の道づれとして、他の人々と共にいるという 喜びであり、これがイエスの喜びです。 H.ナーウェンは多くの人が切に求めている成功と実り多いということの大きな相違を指摘しています。 成功は強さ、管理、世間体によってもたらされます。成功している人は、何かを作り出し、その発展を管理 し、大規模に利用することができるようにする力を持っています。成功は多くの報酬と、しばしば名声をも たらします。しかし、実りは弱さと傷つきやすさによって生まれます。それはまったくユニークなものです。 子供は傷つきやすさの中で身ごもられた実りであり、人と人との交わりは傷を分かち合ってできる果実であ り、親しさは互いの傷に触れることを通してできる実りです。本当の実りをもたらすものは、成功ではなく、 実りの豊かさであることをマリアと共に思い起こしましょう。「確かにイエスは、天使たちを助けず、アブ ラハムの子孫を助けられるのです。死の恐怖と罪をあがなうため全ての点で兄弟たちと同じようにならなけ ればならなかったのです」 (He2:14) 。平和の君の心が私たちの心に満ちるように恵みを願いましょう。 -2-
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