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1 イザヤ書9 章1~6 節 「闇の中に光」 先週、私たちは、西村長老の召天

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イザヤ書 9 章 1~6 節 「闇の中に光」
先週、私たちは、西村長老の召天と、その後の前夜式、葬儀を経験しました。昨日、西村長老が、この場
所におられて、長老の地上の体を囲んで、長老とのこの地上での最後の礼拝を、葬儀というかたちで私たち
は持ちました。全てが片づけられてしまった今は、それが嘘のように感じられますが、しかし確かに、永遠
に神様の御心の中に覚えていただくことのできる礼拝がここで行われ、全国から、たくさんの方がここに集
まって来られて、西村長老との、この地上での最後の礼拝を守りました。その様な一週間を過ごした中にあ
っても、神様は、私たちに、この新しい日曜日を、新しい復活の主の日を、また今日も与えてくださる。こ
れは、神様の大きな恵みであり、慰めです。葬儀を経験すると、天国は、神様のおられる御国は、とても近
いと感じられます。西村長老が、その身を持って示してくださった、天国への近さ、この礼拝の場所と、神
様の御国が、通じているという事実に、今日も私たちは感謝して、昨日の葬儀と別のことを本質的にここで
するのではなく、同じことを、同じ、神様への礼拝を、今日もここで続けていきたいと思いますし、それが
できるこの場所が、西村長老が、今あちら側におられる、天の御国と通じている場所であり、ここに神様が
この朝もおられる、ということに、改めて感謝と希望を覚えて、今日もこの礼拝を通して、私たちは、神様
の前に立たせていただきたいと思います。
今朝は、待降節、アドベントの最中、クリスマス礼拝の一週間前の礼拝ということで、クリスマスの、主
イエス・キリストの誕生を、はるかに眼差している、旧約聖書のイザヤ書の御言葉から、救い主誕生の預言
の御言葉を受取りたいと思うのですけれども、今日の説教のタイトルを、
「闇の中に光」としました。これは、
闇の中に光、であって、闇が丸ごと光に変わるということでありません。暗い部屋に入る時に、まずスイッ
チを押して、電気をつける、そうすると、天上のライトから光が出て、一度に部屋全体が明るくなる。これ
が、闇が光に変わるということで、闇の中に光ということは、そういうことではなくて、例えば、私はとて
も冷え性で、冬になると、手先や足の指先がものすごく冷たくなってしまいますので、冬が得意ではないの
ですけれども、手足がとても冷たくなった時に、一番いいのは、おじさん臭いですけれども、やっぱり温泉
ですね。温泉に入ると、内側の体の芯からポカポカしてきますので、あの感じが、冷え性にとっては、すご
く救いです。けれども、いつも温泉があるわけではないので、ココアとか、ホッとレモンとか、温かい飲み
物を飲みます。そうすると、そこでも、体の芯からじわーっと暖かくなって、助かります。闇の中に光とい
うことは、そういうことです。まず内側の、芯の部分が照らされ明るくなって、その光が、内側から外側に
向かって広がっていく、そのイメージです。In the darkness. 闇の「中に」光と、イザヤ書は語ります。
イザヤ書 9 章 1 節。
「闇の中を歩む民は、大いなる光を見、死の影の地に住む者の上に、光が輝いた。
」
闇の中の歩む民は、the people walking in the darkness. そして、
「死の影の地に住む者」という言葉も、
何か日本語では、死の影の地という風に文学的に訳されていますけれども、これも、the people living in the
land of deep darkness という、
「Deep darkness, 深い闇、そのような場所に、住む人々」という、どちら
も、ダークネス、闇という意味の言葉です。しかし、その、闇の中、そして深い闇の地の中に、フッと、光
が輝いた。
では、その闇とは、いったい何なのでしょうか?ここで使われている、闇という言葉は、一点の光もなく、
薄暗さとか、そのような余地のない真っ暗闇という言葉で、これは、陰府、地獄とも言い換えることのでき
る言葉です。ある解説書はこれを、
「それは金輪際光の射し込まない状態を指す」と語っていました。
しかし、具体的に、このイザヤ書が、闇という言葉を語った時、このイザヤ書の著者が、闇という言葉に
よって言い表していた、当時の状況がありましたので、私たちには、それを見ていく必要があります。
イザヤ書の著者は、ダビデ王によって統一されたイスラエル王国が、南北に分裂したあとの、南ユダ王国
1
にいて、北イスラエル王国が、アッシリアという強国によって占領された時代に生きていました。今朝の9
勝1節の直前に、ゼブルンの地、ナフタリの地という地名が出てきますが、ここは、アッシリアが、北イス
ラエル王国を征服するにあたって、最初に占領した地域です。この地域は、ヘルモン山という山のふもとの
渓谷になっていて、農業用地としても優れていましたが、何よりも、はるか西のエジプトと、遥か東のメソ
ポタミアという二大文明地を結ぶ、交通の要所とされていましたので、アッシリアは、まずそのゼブルンと
ナフタリの地に攻撃を仕掛けて、その地を征服したのです。そして、その勢力は、次に、イザヤの居た、南
ユダ王国の聖都エルサレムにも確実に及んでくるということを、イザヤは既に察知していて、それだからこ
そ、彼は、ユダ王国の民に、神様に立ち返ることを叫び続けたのです。けれども、その活動もむなしく、イ
ザヤが警告していた通り、その後ユダも、バビロンという国に征服されて、破壊させ尽くしてしまう。それ
が、バビロン捕囚という、イスラエルの民が被った、最悪の征服となったのでした。
さらに 9 章 4 節には、こういう言葉もあります。
「地を踏み鳴らした兵士の靴、血にまみれた軍服」
。闇の
中という言葉が示す、具体的な状況とは、戦争であり、戦場です。兵士の靴や血まみれの軍服が散乱してい
る状況、その靴を履き、その軍服を着ていたはずの兵士たちは、どこに行ったのでしょうか?既に屍となっ
て、葬られたのでしょうか?闇とは、それは本質的に、山奥の廃墟に行けばそこにあるような、単なる暗い
という、視覚的な闇では、もうないようです。闇とは、人間が作り出すもの。それは、静かな、無音状態で
は到底なくて、それは、具体的には、戦争という争いの中にある。人と人が殺し合うこと、戦争が、そして
戦場が、闇の中の闇、金輪際光の指さないような場所なのです。戦争とは、もっと言えば、人を殺すことで
す。相手の命を取ることです。それは、私たちにとって最も根本的な、生きるということ、生きていて良い
という状態、命そのものを奪い去る行為です。そのような戦争ほど、そのような戦争状態の中にある、人間
の心ほど、深い闇は、他のどこにも存在しないと、聖書は語るのです。
突然刃物を振り回したり、人をさらって簡単に殺してしまったり、自分自身を殺したり、あるいは国単位
で、戦争行為に向かってまい進していく可能性さえも考え得ることですけれども、そのような、結果的に人
の命を否定するような、戦争状態にあるような心。そういう深い闇、これは、イザヤの時代にとどまらず、
今の私たちの間にある現実としても、起こっていることです。
しかし、
「闇の中を歩む民は大いなる光を見、深い闇の地に住む者の上に、光が輝いた。
」のです。さらに
2 節まで、全て過去完了形のかたちで、過去に起こった出来事を振り買って書くような言葉使いで、光がも
たらす解決が語られていきます。もちろん、この 2 節から 4 節のこと、さらに、5 節の一人のみどり子の預
言も、イザヤにとっては、これから先の将来に起こるはずのことなのですけれども、しかしイザヤはそれら
の神様の御計画を、過去形の言葉で、神様から受け取った。これは「確信の完了形」と言われる預言者の特
有の言葉の使い方で、これから先に起こる未来のことも、それはすでに神様の御計画の中では完全に、計画
済み、履行済み、そして決定済みのことであるので、もうこのことは、もう、それが起こる前から、過去完
了形で言い切ってしまえるほどに、確実に起こる。あとはその神様が決定済の計画が、歴史の表面上に浮か
び上がってくるだけなのだと、そのことは必ず成就するという断定の意味で、イザヤはそれを、もう既に起
こった過去の事として、書き記しているのです。
2 節から 3 節を改めてお読みします。
「あなたは深い喜びと、大きな楽しみをお与えになり、人々は御前に
喜び祝った。刈り入れの時を祝うように、戦利品を分け合って楽しむように。彼らの負うくびき、肩を打つ
杖、虐げる者の鞭を、あなたはミディアンの日のように折ってくださった。
」
自由を奪うくびきと、肩を打つ杖と、鞭、この物質的な力による支配を、神様はミディアンの日のように
折ってくださった。ミディアンの日とは、かつての士師記 7 章で、士師の一人だったギデオンが、たったの
300 人で、大勢のミディアン人たちとの戦いに勝ったという、エピソードの引用です。その時ギデオンが相
対したのは、ミディアン人と、アマレク人と、その他の東方の諸民族で、その数は、イナゴのように多く平
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野に横たわっており、彼らの乗るラクダも、海辺の砂の粒のように数多く、数えきれなかったと、士師記に
は書かれています。しかし、ギデオンと共に戦った 300 人が、それを打ち破った。それほど、数として少な
く、見た目に小さな力が、暗闇の勢力、戦争と、そして戦争状態にあるような、死に向かう闇のような状態
にある心を刺し通して、そこから、大きな楽しみ、大きな喜び、刈り入れを祝う祝いの明るさと光で、新し
くするし、もう新しくしてしまっている。
さらに 4 節、
「地を踏み鳴らした兵士の靴、血にまみれた軍服はことごとく、日に投げ込まれ、焼き尽く
された。
」もう戦争は要らない。兵士の力や兵器の破壊力が必要とされることは無くなる。それは無力にさ
れ、きれいに「焼き尽くされた」と、完了形で完結されます。
そしてその次に、ではそれはいかにして、という、光の輝きが、どのようにして、闇の中に起こるのかと
いう、一番肝心な部分を、イザヤは語ります。5 節です。なぜなら、
「ひとりのみどりごがわたしたちのため
に生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、
『驚くべき指導
者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる。
」からです。
「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」
、こんな言葉で表現される方は、神様以外に居ません。
その神様の力が、しかし、みどりごの肩にかかっている。神様の力をその肩に帯びる赤ん坊が、闇の中の光
として、生まれたと、イザヤは語りました。
6 節「ダビデの王座とその王国に権威は増し、平和は絶えることがない。王国は、正義と恵みの業によっ
て、今もそしてとこしえに、立てられ支えられる。
」うん。それは分かるのだけれども、どうして、その王
国の権威と平和が、赤ん坊から来るのだろう?「万軍の主の熱意が、これを成し遂げる。
」そうか。神様の
熱意であり、意欲であり、やる気が、それをさせるのか、でもここに現れている、神様の熱い思いとは、何
なのだろうか?という問いが生まれます。
そしてその答えは、今朝の御言葉には直接出てきませんが、今朝の御言葉の直前の 8 章 8 節と 10 節に、イ
ンマヌエルという言葉が出て来ます。そして 8 章 10 節の最後の行には、
「神がわれらと共におられる(イン
マヌエル)
」と書かれています。
「神がわれらと共におられる(インマヌエル)
」これをしたい、というのが神
様の熱意です。整理しますと、何で、神様の力が、赤ん坊の肩にかけられているのかというと、それは、私
たちと、インマヌエルしたい、共にいたい、という神様の熱い思いの表れだ。神様が、すごく私たちとイン
マヌエルしたいので、神様は、ひとりの男の子を、私たちに送ってくださったのです。
神様の権威や力と、まだ自分でしゃべることも、まだ目を開けることも、まだものを食べることも、まが
った足を延ばし、握った手を開くこともまだできない、その何もできない赤ん坊との間の落差は、すでに天
文学的な落差を超えた、別世界の、異次元の、落差ですけれども、私たちとインマヌエルしたい、共にいた
い神様は、何とそれをやってしまった。無限で、驚くべき指導者で、永遠の父で、平和の君の神様は、私た
ちとのインマヌエルをしたさ過ぎて、ボーダーラインを超えてしまった。力ない者に、何の驚きもない赤ん
坊に、世話もなく放っておかれたたその辺で野垂れ死んでしまうような人間に、なってしまわれた。たしか
に、それで生まれた主イエス・キリストは、その生涯の終わりに、王冠を受けはしましたけれども、それは、
十字架の上で載せられた、有刺鉄線のようなトゲトゲの茨でできた、被ったら頭の皮がめくれて、地がした
たり落ちるような王冠でした。その上に建てられた立札には、
「ユダヤ人の王」という、相手を馬鹿にした言
葉が記されていました。なんでこんなことになってしまうのですか?
それは、私たちの闇は、この光によってしか、解消されないからです。つまり、全く外側から光が差し込
まないような、それが戦争を生み出し、戦争状態を心に生み出し、それが自分であろうと他人であろうと、
命あるものを否定し、殺し、無き者にしていく罪が、闇です。闇の中を歩む民とは、罪の中を歩む民のこと
であり、死の影の地に住む者とは、深い罪の地に住む者のことなのです。そこに光を輝かせるには、外側か
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ら、強いサーチライトでいくら明るく照らしても、何の効果もありません。罪の中に、手を突っ込むだけで
は、闇が深すぎて足りない、届かない。ですので、もう、罪の中に、入り込んでいくしかない。そしてその、
一番奥にある、一番深いところ、一番ひどいところ、醜いところに、届かなければいけないし、私たちは、
そこに助けを必要としている。そこの一番深いところに一緒にいて、罪を取り出してくださる方、罪を担っ
てくださる方が、必要です。だから、主イエス・キリスト、だから、この神の権威を帯びた赤ん坊が、私た
ちにはどうしても必要で、そこにしか、暗闇からの救いはないのです。今朝お読みした、ヨハネ福音書の1
章 4 節から 5 節は、それをこう言い表しています。
「ことばのうちに命があった。命は人間を照らす光であ
った。光は暗闇の中で輝いている。
」この命の光が、闇の中に差し込んでくるやり方は、神の権威を帯びた
みどりご主イエスが、この世に、生まれてくださるというやり方意外にない。
イザヤ書の御言葉の 5 節には、最初に、印象深い言葉として、
「驚くべき指導者」という、みどりごの呼
び名が登場します。これは、英語の聖書ですと、
「Wonderful Counselor」という言葉で、これは、ハレルヤ
コーラスで有名な、ヘンデルのメサイアという合唱曲の、前半部分の山場で、
「Wonderful Counselor」とい
う仕方で、繰り返し歌われます。カウンセラーとは、ある人が危機に瀕して、助けを必要としているとき、
そこにやってきて、共に寄り添って、支える人のことです。そして、まさに、このみどりごであるワンダフ
ル・カウンセラーこそが、ワンダフルな、素晴らしい寄り添い手として、インマヌエルを実現してくださる
方です。そして、このワンダフル・カウンセラーが生まれた日が、クリスマスであり、その小さく細い線だ
けれども、しかしとても強く闇の中に差し込んできて、その闇の奥底にまで届く、命を宿すこの光は、何よ
りもこの、今行なわれている礼拝を、その光源としている。その光の源、その光が一番強く差し込む場所は、
キリストの体である教会、そしてそこでもたれる、神様へのこの礼拝の時です。
イザヤの時代から、変わらず、この世界は光を待っています。死の影に住む者の上に、光が輝いた。闇の
中を歩み、光を必要としている、この国に、この町に、この教会に、家族に、私のために、命の光が輝いた。
神の熱意が、それを成し遂げる。
色々なニュース、情報が、私たちの前を駆け巡りますが、このクリスマスの時期に、一番私たちがキャッ
チしなければならないニュース、この時、一番神様が伝えたいと願っておられるニュースは、闇の中の光、
それが、あの、ひとりのみどりごだというニュースです。
今日の午後も、教会学校のクリスマスがありますし、夕べにもクリスマス礼拝が持たれます。そして来週
がクリスマスの日です。闇の中に輝いた、この私たちへの一筋の光がある。この神様の熱意を、子どもたち
に、友人に、家族に、何とかして伝えたい。ここから、その光を持ち出したい。なぜなら、私たちにとって、
もうこれ以上のニュースはないからです。そして何よりも、私たち一人一人が、光の源になって、キリスト
の光で、輝きたい。それを喜びたい。ワンダフル・カウンセラーと共にいるというインマヌエルの暖かさが、
この私たちの心の芯から、この体と、この心と、この顔から闇を取り去って、この教会と、この地域と、私
たちの家族を温めていくように。インマヌエルの神様が、この時、この私たちに、豊かに訪れてくださるよ
うに、祈り願います。
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