教育方法学 担当:播本秀史 【生きた授業を成立させるための観点を通して現代の教育問題を考える】 文学部教育学科 2 年 E 組 10AE040R 西山紗彩 「先生のふとした言動が、生徒を殺してしまうこともあるのだ。」これは先生が授業でお っしゃっていた言葉だが、本当にその通りだと思う。それほど生徒の問題は教師から影響 を受けているものがかなり大きい。そして上田薫先生の生きた授業を成立させるための観 点は、私が大学に入っていろいろな講義を受けたうえで考えた教育問題の解決につながる 観点がかなり多い。そこで今回のレポートでは、私が考える現代の教育問題を取り上げ、 どの観点がその問題の解決につながり、何が重要なのかを論じていくこととする。 まず私は現代の教育の問題として、ほとんどがつめこみ型の授業となっているところに あると考える。教師は自分が教えることを一人で垂れ流しにして、生徒はそれをただノー トにとり、テスト前だけ一生懸命勉強する。これでは教育しているとは言えないし、今の 子供に主体性・積極性や創造力がないと言われてしまうのは仕方がないことだと思う。そ こで三原則の中の『(授業)計画は必ず破られ修正されなくてはならない。』というのはま さにこの問題を解決する一歩となりえるのではないだろうか。自分の思い通りに、計画通 りに授業をやろうと考えている教師の思いがなんとなく生徒に伝わって、質問もせず、た だひたすらノートに黒板の字を書き写しているだけになってしまっているのだ。これはま さに六つの問いかけの『子どもが教師の意図に合わせようとしているのがみえるか。』に対 応して言えることである。教師も人間であるからパーフェクトな授業をすることは不可能 である。だからこそ生徒と一緒に授業を作り上げていくのだ、というくらいの気持ちでな ければいけないのである。 『①迷わせ、わからなくしてやること②教えない、すくなくしか教えないこと③教科の わくにとらわれないこと、授業時間にこだわらないこと』という三方策も上記の問題解決 に役立つものであろうと考える。教師の言っていることはすべて正しいのであるという傲 慢さは捨て、むしろ、「間違っているかもしれないから注意深く聞いて、間違いを正してく ださいね」というくらいの自信が必要なのではないか。学習指導要領や自分の計画に沿っ て授業を進めるのはとても簡単である。しかしここでは生徒が自分の計画を乱さないこと が必須となってくる。『迷わせ、わからなくしてやること』や『教えない、すくなくしか教 えないこと』というのはとても重要だが、教師としてかなりのスキルがないと難しいと私 は思う。自分で教えなければならないことを理解したうえで生徒の反応を見て授業を発展 させていくというのが重要になってくるからである。しかし教育においては、なにより自 1 分で考えさせることが重要なのである。 上田先生が伝えたかった意図とは違うかもしれないが、 『教科のわくにとらわれないこと』 というのも主体性・積極性や創造力をはぐくませるのに重要だと考える。教育課程論とい う授業で、コア・カリキュラム(1930 年代以降、アメリカ合衆国で提唱された教育課程(カ リキュラム)の形態。教科の生活化・統合を意図したものであって、一般に、子供の生活 上の問題を解決するための単元学習からなる「中心課程(コア)」と、それを支えるものと しての専門分化した体系的な知識、芸術、技術の習得を目的とする「周辺課程」とから構 成されている。)を実践した小学校では、生徒が積極的に授業に取り組むようになり、それ まであったいじめもなくなったという事例を学んだ。これは小学校の例だが、中学・高校 でも違ったやり方で活用できるのではないだろうか。まず中学・高校は教科ごとに担当が 異なる。授業でやった通り、先生は自分の担当の生徒の成績しかわからない。問題である。 そして部活動などの課外活動には全く参加しない教師もいるがよくないことである。また ほかの授業で聞いたことになるが、教職概論(A)という授業で、受講している私たちに教 授が「今自分に主体性や創造力があると思うか。」という質問を投げかけた。そのうち「あ る。」と答えた人に「それはどこで身につけたものか」と問いかけたところ、「中学や高校 の課外活動で身に着けた」と回答していた人が最も多かった。こういうところからも、教 師は自分の担当教科を越えて生徒と接していく必要があるだろう。 そして人間は正解を求めたがる。日本人が自分から積極的に発言できないのも、自分の 考えていることが正解なのか、もしかしたら多数派ではないのかもしれないと思ってしま うからであろう。もっとも日本の数学では答えは一つである。しかし海外では算数の問題 で日本とは異なり、7+8=?と出題するのではなく、15=?+?と出題するのである。これ によって発想力などが養えるし、一つの絶対の正解に固執することもない。立教大学だけ なのかもしれないが、大学の講義中や、「何かこれについて意見はありますか?」と教授に 尋ねられた時に発言できる人はほとんどいない。自分の意見が間違っていたらどうしよう と考えてしまうのだ。しかしみんな全く同じように考えていたら気持ちが悪いし、それを きちんと教えていく必要があるのだ。よって三原則の『正解は常に複数である』というの は自分の意見をアウトプットすることが出来ない生徒をこれ以上作らないためにも必要な 観点であり、これを生徒に伝えていくことが重要である。 そして積極性という観点でもう一つ問題だと思うのが、 “日本人はまあまあ勉強ができる けど、自分からやりたがらない。自習している時間が短い。やれと言われたらやるが、勉 強が嫌い”ということである。これは教育心理学という授業で習ったことであるが、今の 子どもの勉強嫌いや自分から望んで勉強しない人が多いのは問題であろう。私の友達の中 でも、この不況で不安定な世の中の中でも大学に通わせてもらっているということをすっ かり忘れているのか、授業に全く出ずに遊びほうけている人がいる。遊びが一番楽しいな ら私は文句を言うつもりも改善させるつもりもないが、もしその人にとって勉強がたのし いものになったとしたら、授業をしている時間以外にも遊ぶ時間はいっぱいあるのだから 2 わざわざ授業中に遊びに行くこともなくなり、積極的に授業に参加するようになるのでは ないか。ここで大切なのが六つの具体策の中の『あとをひく結末にせよ』だと思う。 もしこれが実践されれば、分からないことを自分であとから復習して自習の時間になり、 またあとをひくということは印象にも残りやすいからふとした瞬間に考えることも多くな り、結果として勉強を極端に嫌う人はいなくなるのではないだろうか。勉強が嫌いなのは その子が不真面目なわけではなく、教師の教え方が悪いから嫌いになってしまうのである。 実際に私も中学高校時代はとても世界史が大好きだった。それというのも先生の教え方が とても上手く、興味を持って聞けたからである。私はその先生に憧れて世界史の教師にな りたいと思ったほどである。しかし大学に入って、楽しみにして世界史関係の講義を受講 したら、中学・高校の学びと大学の学びが違うことを抜きにしても、とてもつまらない講 義なのである。驚くとともに今は世界史に対する関心がめっきりと失せてしまっている。 たぶんこのような体験をしたことがある人は少なくないであろう。 最後に、私は先述した通り、どの時代の子どもにかかわる問題も全て教師や親に責任が あると思っている。教師の教え方ひとつで、生徒に対する影響は甚大なものなのだと、き ちんとそのような危険な、危うい面をすべての教師志望者が理解する必要がある。私自身 が最も大切だと思い、自分が教師になった時に一番大切にしたいと思うのは六つの具体策 の中の『ひとりひとりにむかえ』である。先生はこの授業で「本当は一人一人の顔と名前 覚えなきゃいけないけどこの人数だから覚えられない」みたいなことをおっしゃっていて、 とてもいい先生だなと感じた。これも中学・高校とは違うから仕方のないことだが、大学 で先生が全員の生徒の顔と名前が一致させるのは不可能である。しかしこちらは先生の顔 と名前が一致している。一方通行で悲しい関係であると思う。だから私は私立の中高一貫 校の教師を志望しているが、絶対早く生徒の顔と名前を一致させ、勉強を教えるだけでな く、個人を大切にし、それぞれの生徒が抱えている色々な問題を、ひとりひとりときちん と向き合って乗り越えていけるような教師になりたい。そしてこの講義で教わった生きた 授業を行えるような教師になり、教育問題の解決にも取り組んで行きたい。 参考サイト Yahoo!百科事典 コア・カリキュラム(2011 年 7 月 15 日閲覧) http://100.yahoo.co.jp/detail/%E3%82%B3%E3%82%A2%E3%83%BB%E3%82%AB% E3%83%AA%E3%82%AD%E3%83%A5%E3%83%A9%E3%83%A0/ 3
© Copyright 2024 Paperzz