1 第二十八話 河童 の妙薬 鎌倉町 むかし、昔、熊谷宿にて、何屋である

か っ ぱ
みょうやく
第二十八話 河童の 妙 薬 鎌倉町
むかし、昔、熊谷宿にて、何屋であるか明らかではないのですが、「河童の妙薬」という不思
議なものを売る店がございました。この店が妙薬調剤の伝授を受けたのは、その店のご主人が世
を去ってから幾月も経たないある日のことでありました。
かわや
大黒柱を失い、悲嘆にくれていた女房が、夜、ふと目をさまして 厠 に行きました。そして用を
たしていると、そっとお尻をなでるものがあります。もとより気丈な性格の女房は驚く様子もな
すそ
く、「今のは何か気のせいだろうか。」と思い、暫く下をのぞいて見ましたが何もありません。裾
を整え、変だとは思いましたがその夜はそのまま部屋に戻り、寝床に入りました。
あくる日の夜、女房はまたも小用を催し目が覚めました。昨夜のことを思い出し、厠に行くの
が少々気味悪く思いましたが、勇気を出して廊下を渡り、厠に入りました。すると、昨夜と同じ
ようにまたしても、尻をすっとなでるものがございます。「何物のいたずらだろうか?今夜こそ
は正体を見届けよう。」と、思い切って下を覗くと、黒い何者かがスーッと消え去りました。「あ
っ、これは怪物だな。」と思い、再び部屋に戻り、その後は何事もなく眠ることとなりました。
ふところ
翌々日の晩も小用を催しましたので、
「今夜はあの怪物をしとめなければ…」と、女房は 懐 に短
刀をしのばせて厠に行きました。用を足しながら下を見下ろしていますと、何やら汲み取り口か
らひそかに忍び込んで来るものがあるではありませんか。「来たな!」と思い、女房は短刀を出
し、じっと待ち構えました。そうとは知らぬ怪物は、前と同じように女房の尻を撫で始めました。
見るとそれは、毛むくじゃらな手でありました。女房は素早くその手を捕えると、瞬時に短刀で
い ず こ
見事にその手を切り取りました。
「ぎゃっ!」と叫んだ怪物は、血潮にまみれながら慌てて何処へ
あ た り
か逃げ去りました。女房は厠の中の四方の始末をし、そして何事もなかったかのように自分の部
屋に戻りました。切り取った手は布に包み隠すようにしまいました。家の者達は昨夜の叫び声を
耳にし、何だろうと不思議に思ったものもありましたが、当の女房はそのことについては一切語
りませんでした。昼になり、この家の女中のひとりが、けたたましく裏口の方から家の中に駆け
込んで来ました。そして真っ青な顔をして、「たいへんです!血痕があちこちに!早く早く…」
と叫びました。下男共がそれを聞き、驚いた様子で通りに出てみると、血痕がずっと先の荒川ま
で続いているではありませんか。そんな騒ぎがあっても、女房は昨夜の出来事を他の者に一切話
すことはありませんでした。そして夕方になりました。その店に、一人のみすぼらしい身なりの
老人が尋ねてきました。玄関での挨拶の様子から声色まで、なんとなく悲しげな雰囲気でありま
す。「女房に面会したい。」ということで、その老人を部屋にあげることにしました。女房は冷静
あいだ
な面持ちで、老人を一室に案内しました。椅子を勧める 間 もゾッとする何やら寒気がいたします。
女房は「これはただ事ではない。」と心の中で感じながら、改めてその老人をつくづく観察いた
しました。よく見ると、なんと老人の右腕がありません。「これは怪しい老人だな。」と思いなが
ら様子を窺っていると、老人は言いました。「突然ですが、こちらでは昨夜何かの腕をお求めに
なられたということですが、それをぜひ私にお譲り下さいませんか。」と、消えてしまいそうな
よわよわしい声で話しはじめました。気丈な女房は、「はて、それではこの者は昨夜の怪物だな
かわうそ
…。荒川まで血の痕があるところから見ると、狸か狐か、いや川であるから 獺 ででもあろう。
けもの
あだ
老人に化ける位の年を取った 獣 だろうから、きっと仇も知れば恩も知るであろう。よし、ここは
恩の施し所であるな。」と、心の中で考えました。そして、「これは、まあ、どこからそんなこと
をお聞きになりましたか?なるほど、昨晩は不思議な手を得ることとなりましたが、あれは持ち
主様にお返ししようと思っておりますので、他の方には渡すことができません。」というと、老
よ
じ
人は眼を光らせて、「それはどういうわけですか。」と質問しました。「余事でもありませんが、
わ る さ
あの手はチョットした事から私の手に渡ったもので、馬鹿馬鹿しい悪戯から生まれたものです。
手をなくしたあのものは、定めし難儀でございましょうから、返してやりたいと思っております
が、返しに行く場所がわかりません。もしやそのものが尋ねてきましたら、渡してあげようと思
っている所でございます。それ故、本当の持ち主より他の方へはお譲りできないというわけなの
です。」と、丁寧に答えました。老人は座り直し、「それでは本人ならお渡しくださるのですか。」
と、動揺しながら言いました。女房は、「左様でございます。しかし、あの手は、一度切られて
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しまいましたので、元に戻ることもございますまい。」というと、老人は、「いいえ、手をなくし
たあのいたずら者は、大いに後悔しております。その方は平謝りに謝って、どうかその手をお戻
し願いたいと心から思っているのでございます。そのものは、不思議な傷薬を持っておりまして、
つ
日数を経た手でも足でもその薬を付ければ、元のように接ぎ癒すことができるのです。申し遅れ
ましたが、手の主は実は・・・私なのでございます。誠に申し訳ない事を致しまして、恐れ入っ
いたずら ごころ
た次第ですが、一寸の悪戯 心 が起こってあのようなことをしてしまいました。どうぞお情けによ
って、是非とも私の手をお戻し願いますまいか、幾重にもお願いします。」と深々と頭を下げ願
い出ました。その様子を見て女房は、「それでは私の前で切られた手を元のようについでごらん
なさい。きちんとつげて元のようになって帰ることが出来れば、お戻ししましょう。」女房はそ
つつみ
ういうと、寝室から隠してあった 包 を持ってきました。老人は丁寧に布に包まれた手を受け取る
あたり
と、それを右の肩の 辺 へ持っていきました。そしてどこからか薬を出してつぎ目につけると、不
思議不思議、その手は何事もなかったかのように繋がり、指の先まで元気に動きはじめました。
それを見た女房は「なんとこれは不思議なこと。その薬の製法をぜひ私に教えて下さい。万人の
すくい ぐすり
救 薬 となるでしょうから。」と老人に頼みました。老人は「これこれのものをこれこれにして作
ればよい。」と作り方をいいました。
女房はこのようにして一切妙薬の伝授をうけたわけでございます。腕のもどった老人は、「で
はおいとま致します。実は私は荒川に住む河童でございます。年を重ねて人を化かしたり、人に
化ける法まで知っております。しかし今後は決して今回のような悪戯は致しません。」といい、
深々と頭を下げ、家を立ち去りました。そして部屋には不思議な妙薬が残されておりました。女
房は早速これを試してみると、即効まことに驚くばかりで、たちまち近所の評判となりました。
この薬は、「一子相伝河童の妙薬」と名前が付けられ、今日でも「河童の妙薬」として伝えられ
ていると言われております。
完
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