郷 勝哉回顧録

「われら黄金時代」第 8(傘寿お祝い)号(2010 年 11 月 25 日発行)
会誌
湘南高校第 23-24 回生
寄稿
巡り合わせの妙―それは電子王国日本の最盛期だった?
郷 勝哉のエレキ人生回顧録
断(りのない限り年号は昭和
)
湘南に は一年の 二学期 に転校 で入っ た。逗子 小卒業 時、優 の数が一 つ足りな
くて湘南 を受けさ せて貰 えず、 今なら 教育ママ と言わ れそう な母親の 指示で芝
の正則中 を受け、 取りあ えず? 入学し た。その 後どう 計らっ たか解ら ないが夏
休みに香 川先生の 面接を 受け、 結果と して湘南 には二 学期か ら通うよ うになっ
た。逗子 から横須 賀線に 乗り、 大船で 東海道線 の列車 に乗換 えての通 学だった
が、そこ は戦時中 のこと 、いつ も超満 員で客車 の窓か ら入っ たり入口 のステッ
プにぶら 下がるの は普通 で、両 手で雨 樋をつか み、客 車の連 結部分に またがっ
て乗る事もよくやった。空いていた電気機関車のデッキに乗った事もあったが、
レール直 結のひど い振動 がある 上、向 かい風が 凄くて 一度で 懲りた。 中学一年
生にとっ てはスリ ルのあ る冒険 だった が、今思 うと親 の知ら ないとこ ろで随分
あぶない 事をした ものだ 。学校 生活で は転校生 でおと なしく している べきとこ
ろ、そこ は顔なじ みの逗 子小同 期が大 勢いたの で最初 からい た様な顔 をしたた
め、
「あいつ転校生のくせにでかい顔して生意気だ」といじめを企んだ者もいた
らしいが、葉山に住み一緒に通っていたT君が陰でかばっていてくれたらしい。
小さい 時から父 が竹鉄 砲や木 工玩具 など作っ てくれ た影響 か、小学 生の頃か
ら物を分 解したり 作った りする ことが 大好きで 、置時 計を何 個か分解 した覚え
がある。 庭先に竈 を築い て炭を 焼いた こともあ るが、 これだ けは一度 も成功し
なかった 。逗子小 の時隣 家の同 級生と その兄貴 に教わ りなが ら鉱石ラ ジオやモ
ーターを 作ったり 、自宅 の並四 ラジオ を改造し てイン ターフ ォンでつ ながる様
にしたこ ともある が、家 人の話 し声も 筒抜けに なって しまう ので怒ら れ直ぐや
めた。こ の同級生 の父上 は戦艦 武蔵の 機関長を してお られた が、戦後 になって
武蔵のレイテ湾突入で戦死されたと知った。
部活で はS君と A君と 私の三 人が物 理部(前 身は気 象班と 理科班) の幹部格
で、理科 室のツア イス製 望遠鏡 を体育 館屋上に 持出し 徹夜で 星を見た り、日食
の時は写 真を撮り 部費稼 ぎのつ もりで 売ったが 、現像 液が古 かったら しくプリ
ント不良 が多くて 赤字に なった 。逗子 から藤澤 に転居 してか らだが、 自宅と百
メートル ばかり離 れた歯 医者の 息子( 卓球部の 後輩) の家を 、トラン スの巻線
をほどい たエナメ ル線で 結びモ ールス 通信(ト ンツー )の実 験をした ことがあ
る。電線 が細くて 電池で は電圧 が足り ないので 、電灯 線の百 ボルトを 利用した
が、装置の金属部に触ると感電する物騒なしろものだった。
大学進学 後も物 理部との 関わり は続き 、電池 や手回 し発電 機で働く VHFト
ランシー バーを作 り、体 育館屋 上と江 ノ島間で 通信実 験をし たり、校 内放送設
備の話が 出た時は 、メー カー品 を買う 替わりに 自作し ようと いうこと で、A君
の知人の プロの指 導を受 けてア ンプを 製作し、 無人状 態にな る放課後 を待ち廊
下に電線 を引いた り教室 にスピ ーカー を取付け る工事 も部員 の手で行 った。ス
ピーカー の箱は不 要にな ってい た下駄 箱を分解 利用し て作っ たが、前 面パネル
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だけは木 工業者に 注文し たもの だった ので、手 作りと は誰も 気がつか なかった
ろう。この放送設備は残念ながら昭和三三年の火事で消失した。会報四号の「あ
まり強く なかった 卓球部 」では 、どう いう理由 だった か主将 で出た事 もあった
が、試合には弱くてチームの足を引張った。
大学進 学はスト レート にはい かず、 浪人する 替りに 学制改 革で各学 年を一度
に募集し た早大高 等学院 の三年 に入り 学部の電 気通信 科に進 学した。 結果とし
て湘南中、湘南高、早稲田高等学院 新(制高校 の)中高全部で三枚の卒業免状を貰
った筈だ が手元に 残って はいな い。学 院の時か ら大学 の放送 研究会に 属し、部
費稼ぎにアンプを作って大隈講堂の催事にオペレーター付で貸出した。当時「こ
んにちは 赤ちゃん 」の中 村八大 や、ナ ベプロを 興した 渡辺晋 などが間 近で演奏
していたのだが、後日あの様な大物になるとは予想もしな
かった。
早 慶 戦で は応 援 団用 にビ ク ター 製軍 用中 古 の拡 声装 置
を神宮球場に持込んだが、試合中に度々故障したので交換
用の真空管やスピーカーの振動板まで用意し、試合の真最
中に半田鏝を握って修理したのも懐かしい思い出だ。後に
プロ入りした選手として広岡、荒川、蔭山、森などがいた
が、慶応の方は藤田くらいしか憶えていない。
また研究室では先輩の後を継ぎ無線機を作り、戦後の大
学では初めての超短波実験局の免許を受け、ペアの一台は
先輩の SF
作家、海野十三も使っていたと言われる実験室
に置き、他方を自動車部のトラックに積んで通信実験をし
た。
卒論もこ れを利用 し一台 は世田 谷のN HK技術 研究所 のタワ ーにアン テナを置
かせて貰 い、他方 は千葉 の富津 海岸に 置いて電 波伝搬 の研究 をした。 この時、
受信レベ ルをレコ ーダー で自動 記録す る必要か ら無線 局の許 可範囲外 の連続信
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自作 14 型 TV 第 1 号の受信画像
号を一週 間も発射 し続け たため 、案の 上?監視 局に発 見され 、電波監 理局に卒
論メンバ ー一同首 を揃え て恐る 々出頭 したが、 行って みると 係官は電 気通信科
やアマチ ュア無線 の先輩 達で形 式的な お説教と 始末書 で済ん だ。多分 その前に
卒論指導の研究室教授との間で話が出来ていたのだろう。また研究所の高さ
一〇〇メ ートルの タワー に我々 のアン テナを設 置する ため裸 足で登り 始めたが
鉄ばしご ですぐ足 が痛く なった ので革 靴を履い て登っ たり、 風で半田 鏝が冷め
てしまっ て使えな いと解 ったも のの風 よけを用 意する のに登 り直すの は大変と
あり、い ぶって煙 が出る のをか まわず 持ち合せ の手ぬ ぐいで くるみ( 当時は誰
でも持っ ていた) まにあ わせた など楽 しい思い 出だ。 この鉄 塔はかな り後まで
残ってい て技研公 開の見 学の度 に思い 出したも のだが 、平成 一四年の 新棟建設
時に取壊されて無くなった。
在学中は雑誌「無線と実験」
「ラジオ技術」な
どを教科書に秋葉原 の部品でラジオ や電蓄を作
り、それが学資や小 遣いになった。 テレビの本
放送開始(二八年) の一年前にNH K技研から
試験電波が出るよう になった時は、 秋葉原の部
品で組立てた受像機 を物理部の後輩 や近所の人
達が珍しがって見に 来た。本放送後 はメーカー
製品も出て来たが一 インチ一万円と 言われる程
高価だったので、郷 製作所?のテレ ビを親類や
親父の知人が喜んで買ってくれた。
二八年にアマチュア 無線が解禁にな った時は、
朝鮮戦争の払下品の米軍用無線機を改造し
JA1JK局を開局した。
自作電蓄第 1 号
開局当時のアマチュア局(JA1JK)
NHK 技研の試験放送時代に
早大理工学部が試作した受像機
(秋葉原で入手したオッシロ用
丸型ブラウン管も利用された)
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ア ル バイ トと して 、朝 日新 聞社 の自 動車 用無 線機 を 作
ってい た先 輩の 会社 で写 真の よう なU HF ポー タブ ル無
線機の開発を任されたこともあったが、当時の真空管(サ
ブミニ エチ ャ管 )で はパ ワー 不足 で到 達距 離が 短く 、採
用には なら なか った 。ア マチ ュア 無線 では 超短 波帯 の遠
距離通信記録を六年間保持したこともあったが。
就職 は当 時民 放の 花形 だっ たラ ジオ 東京 をま ず受 けた
が滑っ た。 次い で時 期遅 れで 募集 があ った ビク ター に応
募、面 接が アマ チュ ア無 線で 既に 顔な じみ だっ たH ラジ
オ技術課 長で話が 合った せいか 合格し た。その 年入社 した技 術系は早 大大学院
卒のS さん、日大か ら一人 の計三 名だけ だった が、こ れが後々 大きな 意味を持
つことに なった。 当時の ビクタ ーはB 29の爆 撃で工 場が壊 滅的損害 を受け、
資本も東 芝系から 松下傘 下に移 り再建 が始まっ たばか りで、 大卒を大 勢採用す
る余裕など無かったのだが、そんな事など露知らず、
「元はカラーテレビや四五
回転レコ ードを開 発し電 子技術 の神様 の様なR CAが 戦前設 立した会 社だから
技術は最 高だろう 」など と勝手 に思い こんで受 けた。 時代は SPレコ ードから
ドーナツ 盤に移り つつあ る時で 、工場 実習では 、電蓄 のテス トにダイ ナ・ショ
アの「青 いカナ リア* 」が大音響 で鳴り 響いて いた。 最初配属 された のはラジ
オ技術課で、五〇人足らずの技術者が音響関系全製品、すなわちラジオ、電蓄、
それに使うピックアップ、スピーカー他、映写機の音響装置まで設計していた。
当時テレ ビはまだ 研究段 階で、 高名だ った高柳 健次郎 博士が 率いる研 究部が別
にあった 。ラジオ 技術課 ではラ ジオの 設計から スター トし、 LP専用 のアンプ
やスピー カーの設 計をし たが、 生産技 術的な問 題を除 けば機 器の設計 は学生時
代に自作 していた 事の延 長だっ たから 、特に苦 労した 記憶は 無い。そ のうち映
画の疑似 ステレオ 音響( パース ペクタ サウンド )の技 術導入 がありそ の開発チ
ームに引 抜かれ、 次いで 入社二 年後の 三一年に テレビ (白黒 )の事業 拡大に伴
い事業部になったテレビの設計部門に配転になった。
* 雪村いずみも同曲で有名(共にビクターS盤)
そこで一 四型テ レビなど 設計し ている うちに テレビ が米国 に輸出さ れる様に
なり、現 地での技 術サポ ートが 必要と いうこと でまず 前述の 先輩Sさ んがニュ
ーヨーク の輸入販 売会社 の技術 駐在員 として派 遣され た。次 いでロス アンジェ
ルスに支 所が出来 、そこ にも必 要とい うことで 私が候 補にな った。当 時のビク
ターでは 幹部の海 外出張 はあっ ても海 外駐在員 はゼロ で、よ ほど懸念 があった
のか、社 長(元海 軍大将 で開戦 時の駐 米大使: 野村吉 三郎) に面接さ せられ、
どうやら 「こいつ なら会 社の体 面を汚 す事も無 さそう だ」と お目がね にかなっ
たのかO Kになり 、三六 年二月 羽田か ら立った 。飛行 機は丁 度プロペ ラからジ
ェット機に変った時で就航したばかりの
だったが、ロス直行は無く給油
DC-8
のためハワイを経由した。
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見送りで驚いたのは、たかが平社員の赴任に前述
の高柳常務まで見えた事で、親父があわててVIP
ルームを手配したのを憶えている。
当時羽田で家族や職 場の同僚や上 役など大勢が
見送るのは普通だったが、ゲートに入る時の万歳に
は何とも照れくさくて閉口した。今では信じ難いが
海外渡航も、それに必要な外貨も政府が制限してい
た時代だったから大事件?だった訳だ。一方、それ
に特別プレッシャーなど感じなかったのは、若くて
怖いもの知らずだったからだろう。
ロスでの仕事は日本 から送られて 来た製品の検
査やサー ビスの仕 方をア メリカ 人に指 導する他 には、 ライバ ルメーカ ーの技術
や市場情 報を報告 するの が主だ ったが 、何しろ FAX は勿論 テレック スも無か
った時代 だったか ら、便 箋に手 書きし てエアメ ールす るとい うのんび りしたも
のだった。
商事会社など
例外はあった
が、メーカー
の場合日本人
駐在員は各社
一人が普通で、
何事も仲間や
上長と相談す
る事なく一人
で判断し行動
しなければな
らなか った事 で自 然に鍛 えら れた様 だ。 当時
一ドル三 六〇円 の為替レ ートが 象徴し ていた
様に、日 本とア メリカの 格差は 大きく 、片側
八車線の ハイウ ェイをび っしり 埋めて 走る大
型車(米 国では スタンダ ードサ イズ) から林
立する高 層ビル まで、ど れもこ れも「 凄い、
日本は何 年経っ てもこう はなら ないだ ろう」
と思った ものだ 。一ドル 三六〇 円では 中古車
を持つこ とも出 来ず、勤 務先に は下宿 から路
面電車を 乗継い で通った が、日 本では 噂だけ
だったデ ィズニ ーランド やハリ ウッド などの
市 内 見 物に は 歩く 他 バス も よく 利 用し た 。
世界最初のディズニーランド(撮影は 1961)
LA 支所
最初の任地 D社
倉庫の一部に設けられたライン
羽田 VIP ルームで
テレビは、現地調達の CRT を組込み、
調整や出荷検査などがここで行われた
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ある日高 級住宅街 でバス を降り ぶらぶ ら歩いて いたと ころ、 変なやつ が場違い
なところ を歩いて いると 怪しま れたの かパトカ ーに呼 止めら れた。驚 いたがカ
メラを見 せて写真 を撮り に歩い ている と説明し たら笑 って直 ぐ解放さ れた。そ
の内メキ シコ系の ワーカ ーと親 しくな り、彼の ポンコ ツ車に 同乗して 白人や観
光客など 来ない大 衆向き ナイト クラブ にメキシ コ民族 音楽( マリアッ チ)をよ
く聞きに 行った。 彼は車 はあっ ても家 族持ちで 小遣に 乏しい 一方、こ ちらは車
は無いが 二人分の 飲代( 多くて 十ドル くらいだ ったと 思う) くらいは 払えると
いう関係で、あちこち一緒に遊びに行った。
僅か六ヶ 月のロ ス駐在後 、今度 は任期 満了に なった Sさん の後任と してニュ
ーヨーク に移動、 日本か らキッ トで送 られてく るステ レオ電 蓄や白黒 ポータブ
ルテレビ の現地組 立てを 指導、 その内 カラーテ レビも 加わり 当時それ しか無か
った丸い 画面のR CA製 二一イ ンチカ ラーブラ ウン管 を組込 んだが、 アメリカ
でもカラ ーテレビ は金持 しか買 えない 高級家具 だった 。そう こうして いる中に
VISA 滞在期限 の一年 が来て 三七年 三月ドイ ツ経由 で帰国 した。当 時D社が
ドイツか ら輸入し ていた ステレ オのキ ャビネッ トは、 日本で はまだ実 現してな
かったぴ かぴかの ポリエ ステル 塗装で その高級 感がア メリカ 人に受け た。そこ
でビクタ ーも追随 しよう とした が、塗 料は輸入 できて も塗装 方法が解 らず困っ
ていたので、帰途そのキャビネットを作っているミュンヘン郊外の工場に行き、
ポリエス テル塗装 のノウ ハウを 持帰れ というこ とだっ た。体 の良い産 業スパイ
の様な役 目だった が、D 社に高 級電蓄 を納めて いるメ ーカー 、すなわ ちそのキ
ャビネッ ト工場に とって は親会 社の紹 介という ことと 、自分 達が得意 の塗装技
術を日本 人が教え を乞い に来た という 面もあっ た様で 歓迎さ れ、塗装 設備の写
真撮影も 自由に、 ノウハ ウでも ある研 磨材など も喜ん で分け てくれた 。また英
語で意志 疎通が出 来るか 懸念が あった が、そこ は若く て美人 の社長夫 人が通訳
をしてく れ助かっ た。そ の帰途 、当時 松坂貿易 の駐在 員とし てデュッ セルドル
フにいた N君(故 人)と チュー リッヒ で落合い 、週末 にマッ ターホル ンでスキ
ーを楽しんだのも、もう語り合えない思い出になってしまった。
帰国した 三七年 は国内の 白黒テ レビが 爛熟期 に入る ところ で、古巣 の職場は
お呼びで なく戻れ なかっ た。一 方、ス テレオが 売れ出 し大和 に専用工 場の建設
が始って いた。こ の事業 展開か ら今度 はオーデ ィオに 転身し てステレ オ技術課
長という ことにな った。 この頃 、山水 、トリオ 、パイ オニア の通称オ ーディオ
御三家は まだ台頭 前で、 ビクタ ー、コ ロンビア が先頭 を切っ ていて、 新装の大
和工場で は業界の カリス マ的存 在だっ たS事業 部長に 率いら れ家具調 のステレ
オを作っ ていた。 時代は 真空管 がトラ ンジスタ ーに置 き換わ りつつあ り、ビク
ターではラジオはトランジスターだったが、
「石は音が悪くて駄目」というカリ
スマ事業 部長の考 えでス テレオ はまだ 真空管だ った。 しかし 根が新し もの好き
の私は「 その中ス テレオ もトラ ンジス ターにな るに違 いない から、一 モデルで
良いから 作らせて くれ」 と説得 し、業 界初のオ ールト ランジ スタース テレオを
開発した。しかし事業部長が言っていた通り真空管特有の柔らかい音にならず、
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価格も高 かった故 か売行 きは限 定的だ った。新 しもの 好きが 成功した こともあ
り、プリ ント基板 を採用 し、手 作業の 半田付け に替る 自動半 田付シス テム(フ
ローソルダー方式)を会社として初めて導入した事もある。
好事魔多 しとい うが失敗 もあっ た。五 球スー パーと いう呼 び方があ った様に
当時は真 空管の数 が機器 の性能 を代表 していた が、あ る時真 空管メー カーから
「一球少 なくても 今まで 通りの 性能が 出る」と いう触 れ込み の真空管 シリーズ
の売込み があった 。これ はコス トダウ ンになる と言う わけで 、値下げ を迫られ
ていた輸 出向けス テレオ に採用 した。 しかし、 試作時 は所定 の性能が 出たもの
の、いざ 量産して みると FMの 感度不 足が露呈 した。 この対 策にじた ばたして
いる中に 、仕向先 である 米国D 社の納 期に間に 合わな くなり 、やむを 得ず生産
途中でシ ャシーを そっく り旧型 に戻す 羽目にな った。 当然の 事ながら 、コスト
ダウンど ころか中 止した シャシ ー分の 損失が出 た。事 業部長 からは直 接お咎め
は無かったが、間もなくヨーロッパ技術駐在員としてイタリーに派遣された。
問題の真 空管に は後日談 があり 、二回 目の米 国駐在 の時D 社の相棒 から「あ
の真空管 では多く のアメ リカメ ーカー が失敗し た、お 前だけ ではなか った」と
慰められた。
ヨーロッ パでは ミラノを 拠点に 、数カ 国にあ った代 理店の 技術サポ ートをす
る傍ら、 新製品の 現地テ ストや スイス のベンチ ャーが 開発し たジュー クボック
スの技術 導入など に携っ た。四 ヶ月の 短い駐在 だった が、こ の時の経 験は、後
日のヨー ロッパ出 張や、 定年後 のスイ ス、オー ストリ アを車 旅行する のにも役
立った。
帰国して からし ばらくは 待機の ような 形で貿 易部の 仕事を したが、 四二年に
デミング 賞の流行 ?で品 質管理 が盛ん になり品 質管理 課長に なった。 しかしこ
れも長続 きせず、 四三年 「あい つなら 海外経験 の他、 テレビ 、オーデ ィオ、品
質管理の 事まで知 ってい るから 適任」 と思われ たのか 、ニュ ーヨーク に設立す
る現地法 人の技術 担当役 員とし て引抜 かれた。 役員と 言って も日本で は工場の
一部長格 だったが 、米国 業界で 競争力 のある製 品開発 を事業 部にリク エストし
て仕入れるという立場から事業部長や技術部長と折衝することも多く、
「自社の
経営を外から知る」意味で勉強になった。 (八ページに続く)
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N.Y.の 目抜き広場 Times Square
の JVC ネオン (この撮影は S59 年)
当時 Times Square の広告一等地を
占めていた CocaCola のネオン
普通なら この役 も数年で 交替し 帰国す る筈だ ったが 、四チ ャンネル レコード
方式( CD-4
)が開発され、その原盤制作を目的に設立された小さな会社の社長
兼ライセ ンス担当 として 五〇年 にロス アンジェ ルスに 転任し た。湘南 の時は英
語は嫌い な方だっ たが、 延一〇 年の米 国勤務中 、会話 だけで なくビジ ネスレタ
ーのやり とりで自 然にビ ジネス 英語が 身につい た。私 が一寸 おかしな 英語を書
いても察 しが良い 秘書が 理解し タイプ するとき 旨く直 してく れ安心だ った。ま
たその時 K先生に たたき 込まれ た呪文 ?の様な 文法が 立派に 通用し、 あれは先
生独特の ノウハウ だった とか、 中学時 代の基礎 の大事 さを改 めて悟っ た。加え
てロスで は原盤カ ッティ ングと ライセ ンスマネ ージメ ントの 傍ら、研 究所の研
究論文をプロオーディオ(放送やレコード)の学会に代行発表する役目があり、
アメリカ人エンジニアの助けも借りて技術英語を身につける結果になった。
「こぼれ話」 ハリウッドの娼館
このロス 勤務中 おかしな 経験を した事 がある 。海外 の出先 機関には 本来の業
務の他に 日本の本 社から 様々な 依頼が 来るもの だが、 中で一 番多いの は会社の
お客の観 光案内で ある。 ニュー ヨーク のある貿 易商社 では、 どの程度 の接待を
すべきか その都度 悩まな いよう 、接待 のレベル をクラ ス分け してあり 、本社か
ら「今度 行く客は Bで接 待せよ 」など と暗号指 示が来 るとい う話もあ った。関
連だが、 当時はエ ンパイ アステ ートと 自由の女 神には 必ず案 内する習 慣で、商
社の駐在 員はエン パイア に百回 行く頃 、米国勤 務が終 り日本 に帰国す るという
ことから 「エンパ イアス テート 百回ク ラブ」と いう会 もあっ たそうだ 。メーカ
ーではそ れほど頻 繁では なかっ たと思 うが、何 れにし てもこ ういう仕 事?は営
業マンが するのが 普通だ った。 しかし 私の会社 は研究 所の出 先のよう な性格か
ら技術者 が主で営 業はい なかっ た。そ こへ国内 営業か ら「静 岡の量販 店S社の
成績がト ップだっ たので 、その 褒賞と して社長 と専務 にアメ リカ観光 旅行を提
供することになった、ついてはロスアンジェルスの案内を頼む」と言ってきた。
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S43 年の赴任当時はまだ無かった
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そこ迄な らディ ズニーラ ンドと かユニ バーサ ルスタ ジオ( 日本にも 出来たテ
ーマパー ク)を案 内すれ ば良い 簡単な 話だった が、驚 いたの は続いて 「その社
長の特別 の頼みで 白人の 女も --」とのリ クエス ト。こ れには 困り、仕 事で関係
が深いR CAのス タジオ マネー ジャー に相談し たとこ ろ、さ すが蛇の 道は蛇で
「お易い ご用、レ コード アーチ ストの 接待に時 々使っ ている 所がある から、そ
こへ電話しておいてやろう」と住所を書いてくれた。
さて当日 、まだ 明るい中 だった が、相 談役の ベテラ ン二世 と一緒に 問題のお
客さんを ホテルで 拾い、 ハリウ ッド裏 手の高級 住宅街 の住所 を探し当 てたとこ
ろ、売春 買春とも 禁止の 国だか ら当然 だが表札 は勿論 それら しい雰囲 気は全く
ない大邸 宅だった 。ドア を叩い たら女 主人らし いのが 笑顔で 現れ「話 はよく解
っている 」とばか り広い ロビー に案内 された。 その内 濃い化 粧の若い 女が五人
ばかりぞ ろぞろ現 れ、二 人のお 客さん はその中 の二人 を選ん で二階の ベッドル
ームに消 えた。こ れが知 られざ るハリ ウッドの 娼館だ ったの だが、こ ちらは役
目柄ビー ルも遠慮 して、 同行し た二世 と女主人 と三人 でコー ヒーを飲 みながら
雑談して事?が済むのを待った。やがて社長の方は満足げな顔で戻ってきたが、
若い専務 の方はき まり悪 げに「 旨くい かなかっ た」と 一言。 初めての 白人ガー
ルとあっ て、張切 り過ぎ たのか 気後れ したのか 、熱海 で芸者 を抱くよ うにはい
かなかったらしい。帰途ビバリーヒルズのグッチの店に寄り、
「奥様のお土産に」
と札入れ を買って 差上げ た。そ う高価 なもので はなか ったの だが、当 時日本で
は入手困 難だった グッチ という わけで 奥様がと ても喜 んでく れたそう で、後日
わざわざ 営業を通 してお 礼が来 た。こ ちらはグ ッチよ り例の 娼館を思 い出して
しまったが 。
はそれなりの音響効果はあったが、新音楽媒体としては受入れられず、
CD-4
会社は次 の大事業 のVH Sビデ オに注 力するよ うにな り、私 も二年後 の五二年
には用済みで日本に引揚げた。しかし CD-4
の海外展開は「JVCは新しい技術
に挑戦する日本の会社」
(あるヨーロッパメーカー役員のコメント)として認知
される事になり、後のVHSビデオの世界展開の地ならしになったと思う。
四十三年 からの 二回目の 駐米は 九年間 だった が、こ の間現 地校に通 った子ど
も達にも 後日プラ スに作 用した 。帰国 直後はお かしな 日本語 をしゃべ る問題で
親を心配 させたが 、学校 の成績 を英語 で稼ぎ、 就職後 も「英 語に強い 」と上役
に頼りに されたり 武器に なった 様だ。 元はと言 えば中 学校ま でのこど もの英語
だったのだが。
帰国後は しばら く研究所 のサポ ートを 務めた が、六 〇年に 外国特許 担当部長
になった 。多分オ ーディ オ・ビ デオ技 術など一 通り知 ってい て技術英 語にも強
いからという理由だったろう。平成二年にこの外国特許部門で定年を迎えたが、
時代の流 れで政府 の定年 延長推 奨と、 退職者の ノウハ ウが韓 国メーカ ーなど他
社に流れ ない様に という 業界の 懸念も 背景にあ ったの か、社 内対象の ①技術コ
ンサルテ ィング、 ②研究 ・開発 受託、 ③外国特 許出願 及び技 術翻訳を 目的とし
た子会社が設立され、③を私が受持ち五年間務めた。
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「われら黄金時代」第 8(傘寿お祝い)号(2010 年 11 月 25 日発行)
会誌
湘南高校第 23-24 回生
寄稿
了
これまでを振返ると、民
生用エレクトロニクスの
ハイライトはラジオ・電蓄
から、テープレコーダーや
ステレオ、白黒テレビ、カ
ラーテレビ、VHSビデオ
と変遷し、市場は日本国内
から米国・ヨーロッパ・中
東 へ と進 展、 その 基 幹部 品は 真空 管か ら ト
ラ ン ジス タへ 、ト ラ ンジ スタ から IC と 変
っていった。
こ の 様な エ レク トロ ニク ス 産業 興隆 の 時
代 に 居合 せた だけ で なく 、会 社の 拡張 に 合
わ せ て次 から 次と 声 がか かっ たの は、 何 と
言 っ ても 入社 時( 学 卒で は) たっ た三 人 の
技術系社員で、他にいなかったからだろう。
こ れ が東 大出 が( 多 分) ひし めい てい る 東
芝 、 日立 、三 菱の よ うな 大メ ーカ ーだ っ た
ら 、 こう はい かな か った に違 いな い。 ま た
日 本 メー カー の米 国 進出 でR CA 、G E 、
マ グ ナボ ック スな ど の名 門が 業界 から 蹴 落
さ れ 、そ の後 、車 や 半導 体摩 擦で 日本 メ ー
カ ー への 風当 りが 強 くな り、 白い 目で 見 ら
れ そ うに なっ た頃 に はも うア メリ カを さ よ
ならしていた。
ボーナス も初め の頃はフ ランク 永井や 岩崎宏 美など 売れっ 子歌手達 が稼ぎ出
してくれ たし、後 年はV HSが そのラ イセンス 料とし て稼い でくれた 。その後
デジタル 技術時代 になり 変化を 追うの が大変に なった 頃には 定年にな りVHS
の最盛期 も過ぎ、 稼ぎが 減るど ころか 会社自体 が衰退 し、開 発途上国 にも追上
げられ遂 に他社に 買収さ れる羽 目にな った今で は、例 え「こ うなった のも先輩
達のせい だ」と後 輩から 恨み言 を言わ れても「 何しろ 二〇年 以上も前 の事で時
効にしてください」と言うしかない。
何れにし ても「 ラッキー だった 我がエ レクト ロニク ス人生 --回り合 せの妙」
と言う他 ない。同 じ回り 合せで は、三 七年湘南 の後輩 達のグ ループに 誘われた
スキーで 女優の誰 かに似 たチャ ーミン グな女性 に遭遇 、一男 一女をも うけ、最
近三人目の孫も出来た。
その女房曰く「あなたはラッキーだっただけでなく、根が楽天的だから・・・」。
今でもオーディオ
マニアが珍重する
Western Electric 300B
Bel Lab のトランジスター発明後、その親会社の
Western Electric から最初に発売された
A1729(シンボルの右下)
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