序章~第1章(p1~19)

序
章
計画立案の目的と枠組
序-1 計画立案の背景と目的
史跡日野江城跡は、世界遺産登録を目指す「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の顕著な普
遍的価値(Outstanding Universal Value)を証明する上で不可欠な構成遺産であり、日本にお
けるキリスト教の伝播と繁栄を示す遺跡である。
長崎県をはじめとする関係行政団体は、世界遺産登録に向けて準備を進めており、南島原市は、
平成24年3月に「国指定史跡日野江城跡整備基本構想」(以下「基本構想」という)を策定した。
平成27年度の世界遺産登録を目指すなかで、平成25年度に国の推薦を受けた場合、平成26年度に
はイコモスの現地調査が入る可能性もあり、そのことに対しても準備しておく必要が生じた。
そこで、長崎県及び南島原市担当者が平成24年9月に文化庁の担当者と協議した結果、以下の
ような指導があった。
・資産の価値が見てわかること。現地に立って、OUVの観点のコンセプトがはっきりわかること。
そして保存状態が十分であると現地を見てわかること。その時点では十分ではなくても、今後
の計画があって、その実行性が担保されていることを明確に示すことができるか。原城跡と日
野江城跡は、行政団体が同じで、バッファも一体であり、OUVでも確実につながっていると、
来た人にもストーリーとして見えることが現地の確認事項になる。
・整備案では、イコモス調査時にはどういうコンセプトでどういう風に理解できるようになって
いるのか。キリシタン大名の城であるとわかるようにストーリーに沿ったコンセプトの基に、
系統的に順路や案内板を配置していく必要がある。
・イコモスはストーリーに沿った情報提供と保存状態を確認しにくる。今どんな状況で今後どの
ように進めていくのか明確に説明しないといけない。地形の崩落への対応は大前提。
・日野江城跡と周辺の場のストーリーと城とキリシタン関係施設で描けるストーリーがあり、ガ
イドやルートがあって全体のストーリーがわかる状況にあり、今後はそれを明示していくとい
うことが必要である。
・手付かずの状態が一番悪い。確実なところから進めていくことが望ましい。整備に手がついて
いる状況にあって、今後の保存並びに整備計画があって、その計画に実現性があることが少な
くとも必要で、計画に実効性がきちんと担保されていることを現地で明確に示すことが必要で
ある。
・世界遺産の観点では、原城跡と日野江城跡は分かち難いもので、一体のストーリーがあるとい
うことをモノの形で示していくことが必要である。OUVで両方が必要だということを現地で分
かるようにして、原城跡だけで良かったとならないようにして欲しい。推薦書での書き分けと
現地での見分けが出来るようにすることも必要である。イコモス調査では、保存状態と情報提
供が問われる。保存状態は、地形の崩壊が進んでいることへの対応の明示が必要であり、情報
提供では、コンセプトがはっきりして、それが分かるように示されているかどうかということ
である。
これを受け、南島原市は平成25年度から一部工事に着手するため早急に整備基本計画を策定す
ることとなった。
- 1 -
序-2 計画の枠組
(1)計画の性格
本整備基本計画は、貴重な文化財としての価値を有し南島原市の歴史や文化を語るうえで欠く
ことのできない重要な歴史的文化遺産であり、また「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の重
要な構成資産である史跡日野江城跡の将来あるべき姿を念頭におき、その価値を明らかにし、整
備事業の枠組みや内容の基本的指針を定めるもので、当面の課題等や将来起こりうる課題等に適
切に対処できるよう、その判断の拠り所となるものである。
なお、具体的な整備内容等については今後順次進められる発掘調査等各種調査や研究の成果に
基づき適宜見直しを行うものとする。
(2)計画立案の対象範囲
史跡日野江城跡は、南島原市北有馬町大字の谷川名に位置し、その周辺には国指定史跡である
原城跡や吉利支丹墓碑などの関連文化財が数多く分布している。そのため本整備基本計画では、
史跡日野江城跡及び隣接する追加指定予定地を世界遺産でいう資産(プロパティ)として捉え直接
的計画範囲とするが、利用計画や緩衝地帯(バッファゾーン)の形成に対しては、その周辺地域も
計画に取り込むものとする。
(3)関連計画等との関係
本整備基本計画に示す内容等は、文化財の保存並びに活用整備に軸足をおいたものであるが、
南島原市の都市計画、産業・観光等振興計画、道路計画、景観形成計画等とも深い関わりを有す
る。そのため本整備基本計画の独自性を尊重するもののこれら各種関連計画等と十分な調整を図
るものとする。
(4)目標事業期間
本整備基本計画に基づく事業の実施については、史跡の追加指定、用地の公有化、発掘調査等
各種調査の実施等克服すべき作業等が数多くあり、これらの作業等については長期間を要し、ま
た、多大な費用を要することが想定される。そのため、事業は段階的に実施するものとする。な
お、史跡日野江城跡の本丸、二ノ丸等については、既に用地が公有化されていることや、発掘調
査が実施されており遺構の状況が確認されているなど比較的整備条件が整っていることから、本
整備計画における整備の先導的地区として位置づけ、当面整備事業として平成25年度に整備工事
に着手することを目標とする。
- 2 -
直接的な計画立案の対象範囲図
緩衝地帯範囲図
- 3 -
第1章
史跡日野江城跡をとりまく環境
1-1 地理的環境
史跡日野江城跡のある南島原市は、長崎県の南部、島原半島の南東部に位置し、北側は島原
市、西側は雲仙市と接する。また、島原湾をはさんで熊本県天草地域に面する。史跡日野江城
跡は、この南島原市のほぼ中央北側の雲仙の高岩山から南へ延びる丘陵の先端部に位置する。
南島原市への交通アクセスは、公共交通機関を利用する場合は、空路や鉄道・路線バスの他、
海路の熊本・島原外港間等のフェリーを利用できるが、自動車によるアクセスが便利である。
位置図
○ 自動車利用 の場合
福岡市内 から約3時 間30分 < 九州自動 車道→長崎自 動車道諫早 インター下 車→国道251号>
諫早I.Cから約75分
長崎市内 から約95分
島原市内 から約45分
○ バス利用の 場合
博多駅か ら約3時間 <JR「博多 駅」 → 島 原鉄道「島 原駅」下車 「島原駅」 乗り換え>
<JR「博多 駅」 → JR諫早駅前- 小浜・口之 津行き-島 原方面行き に乗換>
○ 飛行機利用 の場合
東京から長 崎空港まで 約1時間50分
大阪から長 崎空港まで 約1時間10分
→ 長崎空港か ら自動車で 約95分
バス及 び列車及び 自動車で約 3時間
○ 列車利用の 場合
博 多駅 から 約 3時 間< JR「 博多 駅」 → JR「 諫早 駅 」 → 島原 鉄道 「島 原駅 」 下車
乗り換え>
○ フェリー利 用の場合
熊本港から 島原外港ま で約30分か ら1時間→島 原外港から バスで約45分
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島 原鉄 道バ ス
1-2 自然環境
(1)地形
島原半島南東部を占める南島原市の地形は、有馬川を境として普賢岳を主峰とする山地及び
その山麓地形を呈する北部・中部と、溶岩台地が分立する台地状の地形の南部に大別できる。
史跡日野江城跡は、雲仙山系から南へ延びる丘陵の先端部にあり、丘陵の東には大手川が、西
には有馬川の支流である浦口川が流れている。
史跡日野江城跡の標高は、最も高い本丸が約80m、史跡指定地東側の道路に接する箇所が約5
mでその比高差は約75mである。
地形図
地形分類図(
「地形分類図」旧国土庁1974を加筆)
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(2)地質
地質においても地形と同様の傾向が見られ、有馬川を境として南北で様相が異なる。有馬川の
北側では雲仙火山の安山岩を主として山麓の南端部で砂岩等の固結堆積物層が広がっている。一
方、有馬川の南側では鳳上岳等の玄武岩とその周りに凝灰角礫岩が広がっている。
史跡日野江城跡の表層地層は、斜面部は砂岩・泥岩で中央北側の台地部は安山岩質凝灰角礫岩
・凝灰岩、また東側の平坦地は礫・砂・泥となっている。なお斜面部においては近年の雨水豪雨
により所々において崩壊がみられる。
表層地質図(
「表層地質図」旧国土庁、1974に加筆)
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(3)気候
史跡日野江城跡のある南島原市の気候は、温暖で適度な降雨量もあり、日照時間も梅雨時期
の6月でも日平均約3時間と恵まれており、過ごしやすい気候である。年間平均気温は、約17.
0℃、年間降水量は、約1,797㎜と温暖多雨である。降水量の日最大降水量の平均値は、約129㎜
となっている。(いずれも口之津観測所1979~2012年までの観測値)。降雨の傾向として春から
夏にかけては多雨であるが、秋から冬にかけては降雨が少ないという特徴がある。年間日照時
間の平均値は、約2,052時間となっている。
気温のうち、最高気温の平均値は、35.6℃、最低気温の平均値は、-2.3℃で、これまでの最
高気温は、37℃(1996年)、最低気温は、-4.7℃(1981年)を記録している。
(いずれも口之津観測
所1979~2012年までの観測値)
また、冬季は北風を雲仙岳連山がさえぎるため降雪はほとんどみられず、冬季の寒さはそれ
ほど厳しくはない。
気象の状況(平成24年)(気象庁、口之津観測所データより作成)
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(4)植生
島原半島の脊梁山系である雲仙岳連山の標高200m~300m以上では、スギ・ヒノキの植林が多
くそれとアカマツ・ヤマツツジ群集が混在している。
標高200m以下では、シイ・カシ萌芽林や常緑果樹園が多く、尾根筋に沿ってスギ・ヒノキの植
林が帯状に入り込んでいる。この一帯はかつて里山として利用されていた。さらに高度が下がり、
低地では水田、畑地雑草群落が広がり、部分的に常緑果樹園がみられる。
このような横断的な植生相観の中で、史跡日野江城跡の周辺は低地に位置するため、水田雑草
群落や常緑果樹園が広がり、その間を埋めるように畑地雑草群落とスギ・ヒノキ植林が点在する植
生となっており、これといった特異な植生はない。
史跡指定地内の植生は、斜面地等の実生木と思われるクヌギ、ハゼノキ、アラカシ等雑木のほ
か、メダケ、モウソウチク等の竹林もみられる。クスやエノキ等には巨木もみられる。
本丸、二ノ丸等の平坦地は概ね草地となっている。なお、本丸において昭和47年(1972)の公園
整備に際して植栽されたソメイヨシノがある。(P38参照)
現況植生図(
「現存植生図」旧環境庁、1986を加筆)
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1-3 社会環境
(1)人口・世帯数
史跡日野江城跡のある南島原市の人口は、48,894人、世帯数は17,386世帯(平成24年10月1日
現在)である。人口の推移は、単調減少の傾向がみられ、25年前に比べ、約15,000人、率にして
約17%の減少となっている。また、少子高齢化も進みつつあり、高齢化率は33.3%と、長崎県の
平均値26.8%を越えている。
一方、全国的な傾向と同様に世帯数は、微増傾向にあり、20年前に比べ約350世帯、率にして
約2%の増加である。世帯当たりの世帯人員は、2.84人(平成24年)で減少傾向にある。
年齢別人口の推移(国勢調査、平成24年度のみ長崎県統計課「長崎県異動人口調査」に基づく)
世帯数の推移(国勢調査、平成24年度のみ長崎県統計課「長崎県異動人口調査」に基づく)
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(2)法規制
史跡日野江城跡は、文化財保護法の史跡に指定されている。また史跡日野江城跡とその北側の
一部は、自然公園法および長崎県立自然公園条例により県立公園に指定されている。また史跡指
定地を含め農地法及び農業振興地域の整備に関する法律により、
農業振興地域に指定されている。
名
称
根
拠
法
指
農業振興地域 農地法
定
地
域
南島原市の市街地を除く地域
農業振興地域の整備に関する法律
県立公園
自然公園法
史跡日野江城跡及び北側の地域
長崎県立自然公園条例
国指定史跡
文化財保護法
南島原市北有馬町大字谷川名
法規制図
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(3)道路・交通
史跡日野江城跡のある南島原市の主要道路は、南島原市の北側をほぼ東西に走る国道57号、
島原半島の海岸沿いを走る国道251号、島原半島中央部をほぼ縦貫する国道389号である。これ
らの国道に県道や市道が互いに連なる形で道路網が形成されている。
公共交通機関としては、市内各方面を結ぶ路線バスがあるが、バス路線は、国道251号の海岸
沿いに集中し、山間部においては交通空白地域になっている。史跡日野江城跡の最寄の停留所
は、島原鉄道バス「南道」で、このバス停から史跡日野江城跡本丸まで徒歩で約15分である。
一方、史跡日野江城周辺の道路をみてみると、史跡指定地の南側約250mのところを県道30号
・小浜北有馬線が東西に走り、この県道30号を東方向に行けば国道251号に合流し、西方向へ行
けば途中で県道217号・矢次南有馬線に分岐する。
史跡日野江城跡へのアクセス道路は、史跡指定地の東側を南北に走る市道矢櫃線及び西側を同
じく南北に走る市道浦口線・日野江城線を利用することになる。この市道浦口・日野江城線は史
跡指定地のほぼ中央まで延びている。
広域道路図
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史跡日野江城周辺道路網図(1)
史跡日野江城周辺道路網図(2)
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(4)観光レクリエーション
史跡日野江城跡のある南島原市の観光レクリエーション資源は、雲仙天草国立公園、島原半島
県立公園といった豊かな自然環境やキリスト教関連遺産を初めとする歴史・文化資源など多様で
ある。これらの資源を活用したマリンスポーツやイルカウォッチング、ジオパークなどの自然体
験型施設、温泉などの観光施設が整備されているなか、史跡日野江城跡は、史跡原城跡と並び南
島原市を代表する歴史系の観光資源となっている。
南島原市の平成23年の観光客数は、135万人であり、これは雲仙国立公園等島原半島の観光客
数625万人の約20%に当たる。日帰り客数は約125万人、宿泊客数は約10万人で宿泊率は島原半島
全体では約24%であるが、南島原市では約7%を占めるに留まっている。
自然系資源
歴史・文化系資源
雲仙天草国立公園
西望公園・記念館
島原半島県立公園
山獄の鮎帰りの滝
景
観
秋の棚田風景
施
設
等
行
事
原城文化センター
原城一揆まつり
岩 戸 山 と 加 津 佐の 棚田百選の地
原城温泉
海の記念日花火大
町並み
なんばん通り
会
矢代の滝
温泉神社の石橋
シーサイドパーク
ソーメン流し
坂山の鮎帰りの滝
伝承芸能、棒踊り
海の資料館
フェスティビタス
路木の鮎帰りの滝
史跡原城跡
旧 税 関 の歴 史 民 俗 ナタリス
梅谷の鮎帰りの滝
有馬セミナリヨ跡
資料館
リソサムニューム
吉利支丹墓碑群
口之津港
観光・レクリエーションの資源一覧
観光・レクリエーション施設分布図
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1-4 歴史的環境
(1)南島原市の歴史
島原半島は、律令体制が施行された7世紀後半、「肥前国高来郡(たかくのこおり)」と称され
た。平安時代になり庄園が成立するようになると、「千々岩庄・髪白庄・山田庄・高来有間庄・
串山庄」の名が文献に見え、公田として高来東郷・高来西郷の名があり、14世紀初頭には、肥
前高来東郷として仁和寺領となっている。なお、高来東郷とは、現在の深江町から加津佐町に
至る一帯を包括していたものと思われる。
ところで「高来有間庄」を本貫とする一族に在地豪族の有間氏(後に有馬と改名)がいた。肥
前有馬氏の起こりについては、諸説あり、鎌倉期に藤原経澄が常陸国より地頭職として補任さ
せたとする説、在地開発領主の発展説などがある。有馬氏については、「藤原有馬世譜」「国乗
遺聞」などの「自家譜」があるが、歴史上、具体的な活動主体としての初見は、「吾妻鏡」寛元
2年(1244)6月27日項「有間左衛門尉朝澄申肥前国高木東郷地頭職事」に於いてである。
この有馬氏については、明応3年(1494)から永禄6年(1563)の69年間が、発展期・全盛期で
あり、その後天正12年(1584)までの21年間を衰退期・壊滅期とし、天正15年(1587)までの3年
間を復興期とされている。ここで、戦国大名の時期がおわり、これ以降は「統一政権」に参加
して行くことになる。九州地内で鎌倉期から戦国期を生き抜いた大名としては、島津家と有馬
家の2家だけであることを考えれば、歴史の重みを持つ一族であったといえる。
島原半島での有馬氏統治の終焉は、慶長19年(1614)7月である。
「有馬直純、一万三千石を加
増ありて、領地を改め日向国臼杵・宮崎・諸県・児湯4郡の内に於いて全て五万三千石を領し
延岡城に住す」(『寛政重修諸家譜』以下「諸家譜」)とある。父晴信以来のこの地のキリシタ
ン宗徒の改宗に手を焼き、家康公の曽孫国姫室の助言による転封との巷説が伝えられる。有馬
氏移封後は、鍋島・松浦・大村三氏の分治、公領2カ年を経て、元和2年(1616)、大和五条城
主
松倉豊後守重政が入封した。「領地を高来郡に移され、日野江の城に住し、加増ありて四万
石を領し、のち同郡島原城に移り住す」(『諸家譜』)。
その松倉重政の没後、寛永8年(1631)から子勝家がその遺領を継いだが、家臣の信望なく、
加えて領民の怨嗟激しく、遂に原城を舞台に「島原・天草一揆」が生じた。
一揆の責めをおって、松倉氏改易の後は、浜松城主高力忠房が、寛永15年(1638)4月13日、
5千石加増の4万石で就封し、復興のため尽力したが、次代隆長になって、その貧欲放恣の科
により、寛文8年(1668)2月改易となった。
丹波福知山城主松平主殿頭忠房は、
「(寛文)九年六月二日、福知山を転じて肥前国島原に移さ
れ、二万石の加増ありて、同郡高来郡・豊前国宇佐郡・豊後国国東郡の内にして六万五千九百
石余を領す」(
『諸家譜』)との下命を受けた。以下、『深溝松平家譜』によれば、忠雄→忠俔→
忠誠→忠精→忠淳→忠愛→忠和と続き、明治2年6月19日、「版籍奉還」の許可を受け、松平忠
和の島原藩知事が誕生した。
明治5(1872)年大小区制により、高来郡は第18大区から第33大区の16に分けられた。明治6
年12月、隈田村、町村、有田村が統合して有家村(旧行政区の西有家・有家町【堂崎除く】区
域)となった。明治11年、「郡区村編制法」により、高来郡は南北に分かれ、明治22年の「町村
施行」により、南高来郡内は、2町28村となり、現在の南島原市にあたる
深江、布津、堂崎、
東有家、西有家、北有馬、南有馬、口之津、加津佐村が成立した。昭和になり各村とも町制へ
と移行した。この時、東有家村は有家町となり、その後堂崎村と合併して、8町となった。平
成18年3月31日、深江から加津佐の8町が合併し南島原市が誕生し現在に至っている。
- 14 -
年
代
旧石器~縄文時代
6~8世紀
建保年間
寛元2
宝治元
建治2
建武元
貞和元
貞和2
貞和5
応安7
文明10
延徳3
明応3
永正4
天文8
天文21
永禄6
永禄9
永禄10
元亀元
元亀2
天正4
天正8
天正10
天正12
天正15
天正18
関 連 事 項
風呂川・山ノ寺・権現脇遺跡・永瀬貝塚などから人々の住居地と
して相応しかったことが知られる。
「肥前風土記」「日本書記」などに「高来郡」「温泉岳」(うんぜ
ん)の記述がある。
1213~1218 正行公(有馬世祖経澄)、将軍頼朝の時、常陸国から肥前に遷せら
れる。
1244
有間左衛門尉朝澄が、肥前国高来東郷の地頭職に関し、懸物状を
以て注進した。(『吾妻鏡』)
1247
(有間)左衛門尉平朝澄、先祖相伝の所領である「高来東郷内深江
浦」の地頭職を深江入道蓮忍へ譲る(『深江文書』)
1276
少弐経資から有間左衛門尉へ「異国警固」のため「石築地役督促
状」がでる(『深江文書』)
1334
有馬蓮恵(有馬彦五郎入道蓮恵)の訴を却けて、安冨泰重に深江村
を領せしむ
1345
足利直義は知行を証する文書を紛失した開田遠員のため実否の尋
問ののち、有家・有馬両村地頭兼預所職以下の所領・所職を安堵
せしめる。
1346
幕府開田佐渡二郎(遠員)に、肥前高来東郷加津佐村半分の地を預
く。
1349
足利直冬九州下向により、宮方(南朝)・武家方・佐殿方(足利直
冬)、三者鼎立の戦況が続く。有馬氏は佐殿方であった。
1372
北党今川満範、肥前高来郡に発向し有家村などに南党と戦う。
1478
正任記に高来郡有馬肥前守貴純の記述がみられる。
1491
有馬貴純・大村純伊らとともに平戸松浦を攻める。
1494
12月3日有馬貴純卒す、子純鑑嗣ぐ。
1507
有馬尚鑒、千葉興常と戦い敗れる。
1539
肥前守護職 有馬賢純を修理大夫に任ず、将軍の御字「晴」を望
み、晴純となる。
1552
有馬晴純は子義直(のち義貞)(1521~1576)に家督を譲り、以後仙
岩と号し、南明軒と称した。
1563
島原半島でのキリスト教の宣教が始まる。仙岩・義直らは、大村
純忠領にいたトルレス神父に修道士の派遣を乞い、アルメイダが
島原に派遣される。有馬義直、龍造寺との合戦に赴くため島原に
いた有馬義直を、アルメイダが訪問。小城郡丹坂の戦で龍造寺隆
信に大敗する。仙岩は、キリスト教の受洗を図ったことを含め、
敗戦の責と有馬義直を追放し、仙岩が一時治世を復活した。口之
津村が最初に教徒が出現した。
1566
有馬仙岩(晴純)死去。その後、義直は義貞と改名する。
1567
南蛮船3艘が口之津港に入港。
1570
有馬義貞、子義純に家督を譲る。
1571
有馬義純死去。有馬鎮純(のち晴信)が5歳で家督を嗣ぐ。
1576
有馬義貞が受洗(教名:アンデレ)。のちに没す。
1580
有馬鎮純、受洗する。(教名:ドン・プロタジオ)有馬セミナリヨ
創設
1582
天正遣欧使節ローマへ出発する。
1584
有馬鎮純、浦上村をイエズス会に寄進する。沖田畷の戦いで龍造
寺隆信に勝利する。
1587
有馬鎮純、晴信と改名する。
1590
天正遣欧使節が、帰国する。
南島原市の歴史略年表 1
- 15 -
年
文禄元
代
1592
関 連 事 項
有馬晴信、兵二千と共に小西行長麾下として、朝鮮へ出兵(6年
間)する。
慶長4
1599
有馬晴信、堅信の秘跡を受け教名をドン・ジョアンと改名する。
慶長5
1600
有馬領のすべての者がキリシタンであると宣教師が記述。
慶長6
1601
有馬晴信、子直純に家督を譲る。
慶長9
1604
慶長4年頃の築城開始から、この頃に原城が完成したものと推定
される。
慶長11
1606
有馬晴信千々石村に21カ条を発布する。その一条に「千々石村竹
木、日枝・原島両城修理之外ニ、一切きらせ申ましき事」とある。
慶長14
1609
有馬晴信、幕府の命を受け、家臣谷川角兵衛らを高山国(台湾)に
派遣し、貿易の可能性を探る。晴信、ポルトガル船を長崎にて襲
撃。(マードレ・デ・デウス号爆沈事件)
慶長17
1612
有馬晴信、岡本大八事件で面目を失い、長谷川左兵衛殺害の陰謀
により斬罪となる。
慶長18
1613
有馬晴信の子直純、キリスト教を棄教して教徒である重臣らを焚
殺の刑とした。
慶長19
1614
有馬直純、一万五千石加増で宮崎・日向縣城へ転封となる。有馬
・口之津の大殉教。
元和2
1616
松倉豊後守重政、有馬への入封。日野江・原の両城を廃城とする。
(一国一城の令)
寛永14~15 1637~1638 「島原・天草一揆」勃発。上使板倉重昌戦没。1638年2月27日終
焉。
寛永15
1638
島原・天草一揆の責を問われ、松倉家改易。高力忠房入封。
寛文9
1669
高力隆長改易、松平主殿頭忠房入封。
寛延2
1749
松平氏転封となり、宇都宮から戸田忠辰入封。
安永3
1774
戸田氏、転封となり、再び松平氏島原へ入封。以後幕末まで松平
氏の治世が続く。
寛政4
1792
島原眉山崩壊による津波で、領内大災害が発生。(島原大変肥後
迷惑)
明治22
1889
「町村制施行」により、高来郡は2町28村となる。現在の南島原
市に当たる深江、布津、東有家、堂崎、西有家、北有馬、南有馬、
口之津、加津佐村が成立する。
昭和13
1938
原城跡が、国史跡に指定される。
昭和57
1982
日野江城跡が、国史跡に指定される。
平成18
2006
3月31日、南高来郡内8町が合併し、南島原市誕生となる。
南島原市の歴史略年表 2
南島原市誕生の経緯
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(2)日野江城跡周辺の遺跡
南島原市内には、現在180の周知遺跡が分布する。中でも西有家町須川名の風呂川遺跡、北有
馬町西正寺名の論所原遺跡、同町今福名の今福遺跡などの出土状況や遺物から、日野江城跡周
辺を含めた土地利用が旧石器時代に始まっていたことが窺える。
縄文時代になると、市北部の深江町から布津・有家町にかけて遺跡の集中が見られる。特に
縄文時代晩期の「山ノ寺式土器」の標識遺跡である深江町山ノ寺名の山ノ寺梶木遺跡は、その
代表的なものである。このほか、権現脇遺跡・上畔津遺跡・深江木場遺跡・三本松遺跡・堂崎
遺跡などから、縄文時代晩期から突帯文期にかけての土器が出土している。
南島原市南部の地域では扇状地などの低地が狭いためか、北部に比して遺跡数が少ない。し
かし縄文中期から後期の加津佐町永瀬貝塚出土の、南部九州系「市来式土器」から有明海対岸
との交流があったことが伺える。このほかに縄文時代晩期遺跡として、北有馬町坂上下名の100
基を超す「原山支石墓群」が、3群に分かれて存在している。
以上のように、縄文時代から弥生時代移行期については、この時代における歴史像が明らか
にされつつあるが、弥生時代前期について、前段階で盛行した遺跡群がどのように廃絶し変換
していったのか、明らかにされていない。
弥生時代中期の遺跡には、南有馬町北岡金比羅祭祀遺跡がある。この遺跡では明治42年(1909)
に石囲いの甕棺が発見され、中から銅剣一振りが出土したとの伝聞がある。その後圃場整備工
事中に遺構が発見され調査を実施したところ、弥生時代中期の合口甕棺と古代から中世にかけ
ての柱穴群や鍛冶炉などが出土している。また北有馬町の今福遺跡からは、「ドングリ貯蔵穴」
が検出され、また弥生時代後期での竪穴住居・甕棺墓群・環濠なども検出されている。
古墳時代については、布津町の鬼の岩屋古墳(天ケ瀬古墳)があり、この古墳は横穴式石室を
持つ末期頃の円墳であるとされる。また北有馬町今福名では、箱式石棺墓の塚田古墳があり、
副葬品として八花双龍鏡・勾玉・管玉・鉄刀などが出土している。
古代については、調査例が少なくその様相は、まだ明らかではない。
中世から近世前半にかけては、城郭跡やキリシタン関連の遺跡が多く見られる。城郭跡に関
しては、北有馬町の有馬氏居城である日野江城跡や南有馬町の原城跡、その他に加津佐城跡、
有家城跡、大垣城跡、堂崎城、深江城跡などがある。有馬晴信が、キリスト教を庇護した時代
を象徴し、キリスト教の定着を示す文化財として、吉利支丹墓碑に代表されるキリシタン関連
の遺跡がある。紀年銘がある墓碑は慶長期(1596~1614)から元和期(1615~1623)のものである。
市内には無紋無銘のものを含めると109基の墓碑が存在する。それ以前の紀年銘が残る石塔など
は、応永(1393~1427)・天文(1531~1554)・永禄(1557~1569)・天正(1573~1591)年間で、五
輪塔・宝篋印塔・板碑などがわずかに確認されるのみである。また、仏教遺跡として、有馬氏
の招聘を受けて加津佐で入滅した曹洞宗六代の法灯を嗣いだ大智禅師・円通寺跡がある。
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(3)文化財
史跡日野江城跡のある南島原市ではこれまで180余りの遺跡が知られている。また、指定文化
財は国指定のものが6件、県指定のものが17件、市指定が6件ある。国指定の文化財としては、
「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」として世界遺産の暫定リストに掲載された日野江城跡や
原城跡、吉利支丹墓碑など史跡が4件あり、このほか特別名勝である温泉岳と天然記念物岩戸山
樹叢がある。県指定文化財としては、史跡が15件と多く、キリシタン墓碑が12件、国際貿易港と
して南蛮船来航の地など15、16世紀の南蛮渡来文化に関連するものが多くを占めることが特徴的
である。(P19南島原市の文化財一覧表参照)特にキリシタン墓碑は、キリスト教伝来や島原の乱
との関連が深く、この地域の歴史上大きな展開をなした時代を表す重要な文化財といえる。
文化財分布図
史跡原城跡(南から)
発見当時頃の史跡吉利支丹墓碑
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