邦訳聖書はドイツ語訳から?それは神話 (その一) 2006. 06.23 この考えは再三耳にすることであるが、聖書翻訳について少なからぬ関心をもってきた私の記憶 には全くないことで、改めて関連する書籍を調べてみてもそのような痕跡は見当たらない。 思うにどこかに端を発する「神話」(myth)の一つであると思われる。 そして、関連して聞く例が「洗礼」というバプテスマに充てられた訳語である。これは正しくは 「浸礼」と訳すべきものである、という。全身水に浸かるのが本来のバプテスマだから、洗礼と いう訳語は誤訳の例として挙げられる。 洗礼という訳語に異議を唱える理由は、わからないではないが、強いて私見を述べれば「洗う」 には全部水中に入れることも大いにあり得るわけで定着した訳語を尊重することもできるので はないか、また「洗」には「きれいにする、清める」という意味もあり、その義をかぶせた漢訳 が「洗礼」となったととることもできるのではないか。 注 *日本語の聖書の用語は多くが漢訳聖書からきている **「神話」myth は根拠がなく間違った内容であるのに根強く流布して広く真実として受 け入れられている話 このことについてご存知の方はコメントをいただければ幸いです。日本語のサイトに書き込んで も意味はあまりなく、米 国人に伝えていかなければこの神話は消えることはない、と指摘され そうです。伝えていきたいと思っています。 邦訳聖書にドイツ語聖書の影響は?ある言説に対する検証 (その二) 2009.01.28 私の立場は懐疑的ないし否定的である。 日本語聖書といえば、現在手にしているものから遡っていけば、末日聖徒にとっては昭和の「口 語訳」(1954, 1955)であり、その前は大正訳(1917)、更に 1879, 1887 年の「明治訳」にたどり つき、その前は先行するヘボン、ブラウン、ベッテルハイムらによる部分訳となる。そして最初 のまとまった日本語訳聖書であるギュツラフの「約翰福音之伝」にたどり着く。 これを逆に古い方からドイツ語の影響があるかどうか検証してみたい。まずギュツラフ(Karl A Gutlaff)はドイツプロイセン生まれで母語はドイツ語であり、ドイツの神学校に学んでいる。そ の後オランダ伝道会をへてロンドン宣教会に入りマカオを拠点として働くうち、日本からの漂流 民の協力を得て 1837 年最初の邦訳聖書『約翰福音之伝』をシンガポールで出版している。従っ てドイツ語訳聖書が影響している可能性が十分考えられる。 しかし、当時英国商務庁の通訳官を務めていた彼は語学に堪能であったと伝えられ、モリソン (Robert Morrison)に強く影響を受けて聖書の外国語翻訳に興味を抱くにいたっている。そして ギュツラフが日本語訳に際して参考にしたのは、モリソンの訳した中国語聖書であった、とみら れている(鈴木範久 2006)。 この後 1855 年英国人ベッテルハイムが那覇で新約の一部を琉球語に訳し、米国人ヘボン、ブラ ウンが 1872 年マルコ、ヨハネ、1873 年マタイによる福音書を翻訳している。これは日本語教 師の協力を得てギリシャ語聖書から翻訳したものであった(同上)。 この後、明治訳以降今日の日本語聖書につながっていくのであるが、ギュツラフの邦訳以来中国 語訳聖書の影響が大変大きかったことに注目しなければならない。これは漢訳聖書の目次を人目 見ただけで一目瞭然である。創世記、民数記、申命記など書名から新約のマタイ、ルカなど人名 にいたるまで多くが中国語訳を踏襲している。また、神、愛、聖書など主なキリスト教用語の6 割以上が中国語から来ている(同上) 。 明治訳はヘボン、ブラウンなどが日本人の協力を得て、本文をテキストゥス・レセプトゥスに欽 定訳、漢訳聖書を参考に文語訳を刊行したものである。そして大正訳は新約はネストレ版を元に 「改正英訳聖書」(Revised Version)を参考に改訂を行ったものである。そして口語訳はネストレ 版(新約)、キッテルの本文(旧約)を底本に RSV を参考にして出されている。以上、元から今日に いたるまで概観したのであるが、ドイツ語訳聖書が影響した記録、言及はなくその痕跡は見られ ない、と言うことができるであろう。 なお明治訳の訳語をめぐって翻訳委員の間で意見が分かれ議論がたたかわされたことが記録に 残っている。 「耶蘇」対「イエス」、「いつくしみ」対「愛」、「洗礼」対「バプテスマ」などであ るが、最後の「洗礼」には水を少しつけるだけの意味にもなるというので反対の声があがり、バ プテスマに落ち着いた経緯がある。(モリソンもギュツラフも中国語訳では「洗礼」を当ててい た。 )この時の議論は N.ブラウン、ヘボンら英米の宣教師たちの間でなされたものでこの訳語に ドイツ語聖書の影響は考えにくい。 (鈴木 ‘06) ジョセフ・スミスが固有名詞の点でドイツ語聖書の方が正確なところがある、と新約のヤコブの 例をあげている。英語で Jacob/James となっているがドイツ語ではギリシャ語と同じく[ヤーコ ブ]となっているからである。しかし、これはその影響で漢訳や邦訳がヤコブとなったのではな く、ドイツ語とともにそれぞれがギリシャ語の音価から来ていると考えなければならない。この ことをもってドイツ語訳の影響が邦訳に及んでいるとするのであれば見当違いというほかない。 参考文献 鈴木範久「聖書の日本語」岩波書店 2006 年 田川建三「斐文会講座」資料(1)1979 年秋 1979/10/15 藤原藤男「聖書の和訳と文体論」キリスト新聞社 1974 年 矢崎健一「中国語聖書翻訳小史」(聖書翻訳研究 No.4, March 1972) 日本語聖書はドイツ語聖書の影響を受けたという風説に対する反証、 (その三) 2014.06.23 このテーマについて8年前と5年前に取り上げたので、その三(最終回)として、二つの 点から論じてみたい。その一つはルター訳がティンダルの英訳聖書に影響を与えたことが 日本語訳聖書にどう関係するかという点であり、もう一つは漢訳聖書(「ブリッジマン・カ ルバートソン訳」1864 年)の日本語聖書への明らかな影響が確認されたことである。 今年 1 月、米国人と結婚した女性会員と話をしていて、やはり日本語聖書がドイツ語聖書 の影響云々という話になったので、この考えがアメリカの教会員から出ていて、なかなか 消えない都市伝説のようなものであることを改めて感じた。ここに「その三」を記し、英 文でも発信していく必要性を痛感している。 まず、ルター訳がティンダル訳英語聖書に影響を与えたという点について。これはその 通りであるが、日本語訳聖書に影響があったかというとそれは普通の意味の影響関係で言 えば、 「否」である。ウィリアム・ティンダルは 1524 年に渡独し、ルターから直接教えを 受けている。聖書を 1531 年に原語から初めて英訳したティンダルは、当然ルター訳(新約 1522 年)の影響を受けている。そして、1612 年の欽定訳聖書に最も大きな影響を与えたの はこのティンダル訳であった。しかし、このことをもってドイツ語訳聖書が日本語訳聖書、 例えば本格的な邦訳聖書の始まりである「元訳」 (明治訳 1889 年)に影響があったという のは無理がある。それを支持するのが次の論点である。 日本語訳聖書に影響を与えたのは漢訳聖書「ブリッジマン・カルバートソン訳(以下 BC 訳) 」であることが確認されている。海老澤有道が 1981 年「日本の聖書:聖書和訳の歴史」 で、和訳は原典から翻訳が行われたとは言え、漢訳が参考にされ、聖書の書名やキリスト 教用語において漢訳を継承したものが多いことを認めている(p. 81) 。そして、日本人補佐 が多く依存したのはブリッジマン・カルバートソンの漢訳であったと考えられると言う(p. 219)。これを受けて実際に比較検討したのが、土岐建治、川島第二郎で日本語の元訳と呼 ばれる明治訳(1889、1907 年)が三つの漢訳の影響を受けていることを、極めて詳細に跡付 けている。三つの漢訳は「官話訳」 「代表訳」 「BC 訳」で、BC 訳が最も多いことを認めて いる。 漢訳聖書の利用ということについて、土岐らは開国後間もない日本のキリスト教会にと ってやむを得ない措置であった、これはマイナスに捉えるべきものではなく、優れた先人 の業績の恩恵を積極的に享受したと受けとめるべきである、と見る(p. 129)。 以上、和訳聖書にドイツ語聖書の影響は考えられないことを正面から見てきたのである が、実際は 2009 年にも言及したようにジョセフ・スミスの観察から類推して、新約(邦訳) のヤコブ書(英語で Epistle of James*)の書名がドイツ語の訳と同じようになっているので、 ドイツ語の影響を受けたと単純な見方に至ったものと思われる。日本語聖書が JS が最も正 確であると言ったドイツ語と並べられるのは有難いが、ここに風説の源があるとすれば何 とも無責任な風聞で、しかもしばしば浮上することに嘆息するばかりである。 [参考] “Peter, Jacob and John” November 22, 2007 by Kevin Barney http://bycommonconsent.com/2007/11/22/peter-jacob-and-john/ The original name of the Hebrew patriarch whose name was changed to Israel was Ya’akob, which is directly transliterated into English in OT texts as Jacob. In the NT, which was written in Greek, this name was transliterated as IakObos. (Greek lacks a letter Y and uses a iota at the beginning of words to approximate that sound, and the -os at the end is a GR masculine ending.) This was rendered in Latin texts as Iacobus. There eventually was a Late Latin variant, Iacomus, which splintered among the romance languages, giving us Italian Giacomo and Spanish Jaime. Old French gave rise to two variant forms of this name, James and Jacques. English speakers, heavily influenced by Norman French, preferred James, and this name thus came into Middle English. The nail in the coffin was when I checked the Geneva Bible, which predated the KJV (so its translators were obviously not trying to honor the future King James), and that translation uses the name Iames to represent NT persons named Jacob. [抄訳] 旧約の人名「ヤコブ」が長い年月をへて、英語で James と転じた過程を言語学的 に記すと次のようになる。ギリシャ語で IakObos となり(ギリシャ語に Y の文字がなく、 イオタ I が語頭に代用されている) 、それがラテン語で Iacobus となり後に後期ラテンで 異形 Iacomus が生じた。それがイタリア語 Giacomo, スペイン語 Jaime となり、古フラ ンス語 James, Jacques に継がれ、ノルマンフランスに影響された英語話者が James を 取ったという次第である。 Interestingly, JS commented on the unfortunate linguistic distance between the names Jacob and James in the KFD (HC 6:302-17 ): “I have an old edition of the New Testament in the Latin, Hebrew, German and Greek languages. I have been reading the German, and find it to be the most [nearly] correct translation, and to correspond nearest to the revelations which God has given to me for the last fourteen years. It tells about Jacobus, the son of Zebedee. It means Jacob. In the English New Testament it is translated James. Now, if Jacob had the keys, you might talk about James through all eternity and never get the keys. In the 21st. of the fourth chapter of Matthew, my old German edition gives the word Jacob instead of James. The doctors (I mean doctors of law, not physic) say, “If you preach anything not according to the Bible, we will cry treason.” How can we escape the damnation of hell, except God be with us and reveal to us? Men bind us with chains. The Latin says Jacobus, which means Jacob; the Hebrew says Jacob, the Greek says Jacob and the German says Jacob, here we have the testimony of four against one. I thank God that I have got this old book; but I thank him more for the gift of the Holy Ghost. (…) I have now preached a little Latin, a little Hebrew, Greek, and German; and I have fulfilled all.” Joseph Fielding Smith, “Teachings of the Prophet Joseph Smith.” 1976, pp. 349, 360, 364.
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