寡蔦忌鐸群 - WordPress.com

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松 井 健
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漢詩・和歌・俳譜の−大集成.夕
順徳天皇・日野資朝を詠める
表紙廣橋研堂
定価
△ロせ
A5判
三六○円
一、五○○円
箱入
約一五○頁
口絵真野御陵松の古図
送料
順徳天皇をしのぶ多くの民草の真心に触れて、これを後世に
にしたものである。
今回順徳天皇七百五十年祭を記念して、限定出版をすること
少ない。
部数僅少のため、現在稀観本として、各図耆館にも見ることが
初版は、大正十三年真野村教育会より出版したものであるが、
である。
より大正十三年まで、資料の探索と蒐集に奔走し編集したもの
本害︵懐旧集︶は、靜古山本充︵通称半蔵︶が、明治十七年
かい託﹄ゆゞ7,しゆ壱7
各作者の来島年月、略伝は貴重な史料である。
6
永く伝えられることを願うものである。
07
02
73
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佐渡郷又
土圭化の会蒸撫=
新潟県佐渡郡
真野町新町354
靜古山本充編製馴域州伽蝿艀
順徳天皇七百五十年祭記念出版
佐 渡
郷 土 文 化
第七十七号
佐渡郷土文化の会
蒜
ル
次
松井健一⋮7
佐藤正安⋮皿
表紙⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮松井健一
カット⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮長嶋陽二
佐渡 郷土文化第七十七号目
岩木砿翁東京移住送別会
口絵会津藩家老秋月悌次郎詩幅
一
一十歳の故郷⋮⋮:⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮:⋮⋮⋮
はたちふるさと
佐渡ケ島における﹁えごえご﹂のゆくえ⋮:⋮⋮
後半112
佐渡民謡﹁シシヨ 御所櫻﹂の原型・⋮⋮⋮山本成之助⋮旧
復元餓島日記.⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮.正
中道
Ⅱ⋮
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∼米軍訳英文日記を読む∼
鷲崎の親子歌碑:⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮久保田フミェ⋮羽
録山本修巳⋮3
茂人気質柴
と羽
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三彦
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の
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文学中3
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塚宗一⋮9
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シルクロ・Iド 行⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮
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︵創作︶能﹃金島聿邑︵詞章︶⋮⋮・⋮:坂
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口・昭
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I私の家をたずねられた人びとI
山口誓子先生の思い出⋮:⋮⋮⋮⋮
佐⋮
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続・抽栄堂軒過︵来訪者名く録︶制・⋮⋮⋮:3
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倉田藤五郎
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に書き得なかったこと
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書簡﹁追悼・山本修之助﹂
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山本修巳
酒井友二
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高野喜久雄
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柿の里俳句会⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮・⋮⋮⋮・⋮⋮⋮⋮..⋮
磧草吟社例会句抄⋮::⋮・⋮..⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮:⋮⋮.
沢根すがも俳句会一句抄⋮⋮:⋮⋮・⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮・⋮⋮
きんぽうげ句会︵八月・九月・十月・十一月︶・⋮:.
真野町俳句会︵十月・十一月︶⋮⋮⋮⋮・⋮⋮⋮⋮
いもせ俳話会︵八月・九月・十月・十一月︶⋮⋮.
木菖︵九月・十月・十一月︶⋮⋮⋮⋮⋮⋮:⋮⋮:
待鶴荘俳句クラブ︵十月︶⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮:⋮⋮・⋮.
ときわ荘俳句クラブ︵八月・十月︶⋮⋮・⋮・⋮⋮⋮⋮⋮:
田中
嶋陽
本修
笠原和
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I﹁大正の文学青年たちl
イタリアの﹁現代詩の集い﹂
と合唱曲﹁朱鷺﹂
短歌会
各地の俳句
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﹁佐渡学﹂について。⋮⋮⋮
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真野の亜俳句会︵七月・八月・九月・十月︶⋮.:⋮.
歌と評論真野支部歌会︵八月・九月・十月・十一月︶ゞ
金井短歌教室︵八月・九月・十月︶⋮⋮⋮::.⋮:
相川歌会詠草︵八月・九月・十月︶⋮⋮⋮⋮⋮..:
朱鷺と人間とl︲保護活動四十年の軌跡︲l
カットのことば。⋮⋮・⋮⋮⋮・⋮・・⋮
秀句自解:.::::.::⋮・⋮⋮
編集後組:⋮⋮:.⋮⋮⋮⋮⋮
山小長須
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佐渡歌壇史抄︵十八︶⋮
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口絵説明
岩木擴翁東京移住送別会
会津藩家老秋月悌次郎詩幅
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山本修巳
この詩幅は、祖父山本静古が明治二十六年、秋月悌次郎に直接
書いてもらった詩幅である。しかし、第二次大戦後、故あって他
家に譲ったが、父修之助が死去する半年前、再び所蔵することに
この詩は、幕末の維新戦争の終結となった会津若松城開城を指
揮した家老秋月悌次郎の詩である。かって尊穰派からは﹁姦雄﹂
と言われ、開城となっては、身近な会津人士から﹁裏切り者﹂の
扱いを受け、すでに百二十数年を経た今でも疎んじられている。
しかし、開城は誰かが引き受けなければならない役割であった。
開城後、猪苗代に謹慎していた秋月悌次郎に、後年、維新後の
佐渡県の民政判事になった奥平謙輔が米沢を降し、会津への途次
にあったが、一通の書簡を送った。それは、会津藩が徳川氏に臣
として報いたのは立派なことで、臣としては主のために尽すのが
務めである。今度は国家を思い、朝廷に尽くさないか、という文
面であった。戦いに敗れた秋月は、奥平が徳川への節義を今度は
朝廷に献ぜよと言われたことに感激し、返書を持ち変装して、奥
平謙輔に直接会った。秋月の願いは①藩公の助命、⑨会津人士の
将来、③青少年の教育についてであり、ほぼ目的を達した。ここに
掲げた詩は、その帰途の作である。﹁有故潜行北越帰途所得︵故
ありて北越に潜行す帰途得渦所︶﹂と題する詩である。
行無輿今帰無家行く鮠撰無く、帰るに家無し/国破孤城乱
雀鴉国破れて、孤城雀鴉乱る/治不奏功戦無略治、功を
奏さげ、戦、略無し/微臣有罪復何嵯微臣罪あり、復た何
をか嵯かん/聞説天皇元聖明聞くならく、天皇もとより
聖明/我公員日発至誠我公貫日、至誠に発す/恩賜赦書応
非遠恩賜の赦書、応に遠きに非ざる/幾度額手望京城幾
度か額那汗糺て京城を望む/思之思之夕漣嶋之を思い之を
思うて夕晨に達す/憂満胸臆涙沽巾憂胸臆に満ち、涙
うるお
巾を沽す/風漸瀝今雲惨搭風漸瀝として、雲惨禮たり/何
地置君又置親何れの地に君を置き又親を置かん
ほかにこの時の約束によって秋月悌次郎は、年少で白虎隊に加
われなかった三人の少年を奥平謙輔のもとに向かわせた。山川健
次郎、小川亮、某︵途中で逃げ帰ったため名が伏せられている︶で
ある。山川健次郎はのち男爵、東京帝国大学総長に、小川亮は陸
軍大佐になった。明治元年、少年たちは佐渡県民政判事に赴任す
る奥平謙輔に従って佐渡に渡り、玄関番生活をつづけた。しかし、
明治二年八月奥平謙輔が解任され離島したので、佐渡を離れた。
祖父静古の維新に寄せる思いが深いことは、維新の志士の筆蹟
の収集が多いことでも、その一端が知られる。敗軍の将秋月悌次
郎から直接揮毫してもらった祖父の心を偲んでいる。奥平謙輔な
くしてはなかったかもしれない秋月悌次郎の後半生であった。維
新史の屈辱を耐えた秋月は長く熊本県の第五高等学校教師を勤め
るのである。萩の乱に処刑された奥平謙輔はじめ、多くの死者の
目を意識しながら、自らの生き方を生徒に伝える日々であったの
であろう。逸話として、白虎隊切腹の絵図が展くられた時、﹁十六
七歳の若輩を一々指示且つ各個の性行を詳述され、其の勇武を称
讃して余す所なく、言辞迫り、涕涙湧佗たり。﹂とある。
旧臘岩木擴氏収集にかかわる史料が、金井町から﹁佐渡近世・近
代史料集l岩木文庫l上巻﹂として発刊されたのを機会に、岩木
翁の東京移住送別会の写真を掲げた。すでに、修之助の﹁佐渡の
百年﹂﹁佐渡叢書十一巻佐渡史苑﹂に掲載されているが、あらた
めて岩木翁はじめ郷土史に尽した先人を顕彰したいと思う。この
先人たちによって昭和二年から昭和六年まで雑誌﹁佐渡史苑﹂が
七冊発行された。それぞれの人物の紹介については﹁佐渡叢書十
一巻佐渡史苑﹂の﹁解題﹂に記されているので省略したい。
修之助は、昭和四十年代のはじめころ、佐渡史学会長であった
ので、ここに登場する先人の慰霊祭を遺族や関係者を招いて挙行
したいと述べていたが、実現できず、後年になっても残念な気持
ちでいた。ここに岩木擴氏収集の史料の公刊を機に、﹁佐渡史苑﹂
を見直し、そのころ活躍した人々の霊を慰めたいと思う。
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悪 望 叶 ご 鈩 斗酎但震.、テ田白さ写・モ三闘雲・号E罫汁雲・誌軍州莊・悪王踊寺
国扇瞬I. 針亜函巽・芹竺寺。︵孟三昌さ坤戸倒界誌群︶
たち
修之助先生の御著書については、その中の一冊﹁海濱秘唱﹂が、
度寺々を廻って見たい、と思うような楽しい御著書であった。
ふるさと
二十歳の故郷
若い頃はむしろ故郷に背を向けていた。
松井健一
総領でいながら、家を後にした痩我慢からだったのか。お
かげで末子相続した弟は、両親の死水を取って苦労した。今
れていた詩集を読んだ思い出が、私の心に忘れられないでい
若い頃に、水色の紙に涙が落ちるように、はらはらと印刷さ
何年ぶりかの新町祭の酒席の中で話題にのぼったからだった。
ばつし
にして申し訳ない気持が心を故郷へ向けるのか、悲しくなる
東京も北のはずれの私の所は、朝まだき、小鳥のさえずる
たからだった。
程故郷が恋しくなる時がある。
東京に生を預けてみても、東京はやはり東京で、いつまで
前は実に静寂で、そんなひととき、帰京してすぐ﹁海濱秘唱﹂
も出稼ぎのようなつもりで、しっくりとなじみ切れない思い
がする。何の為に出て来たのか、何一つしっかりとした仕事
きそゑに月
を静かにひもといてみた。
きるかは白
らなくなる時がある。そんな気持になると、又故郷が幻のよ
つのにらき
も出来ず過ごして来たと思うと、東京での生の意味合いが分
しまひ〈
ろひそさ
最初の一章から私の心をひきつけた。
からがね
げのくて
うに眼底を走る。
二度目の時、帰りに山本修巳氏から、御尊父山本修之助先
今年は二度も帰ってしまった。
生の御著書三冊と、佐渡郷土文化誌と修巳氏御自身の共著﹁佐
渡古寺巡礼﹂を頂戴してしまった。末子相続した弟と、修巳
氏とが同級生という因縁からの御厚志だった。﹁佐渡古寺巡
礼﹂は写真も楽しく、修巳氏と酒井氏の解説を読みながら一
7
は
はもう見るすべもない古き懐かしい砂丘の姿だった。この白
真の中の砂丘の姿に、はつと思いが走ったが、その砂丘は今
るのそらのしろきつきかげ﹂を、いつか私も心にえがいたよ
に私を帰す、なつかしい丘なのだ。あの丘に違いない。﹁まひ
若い感傷をあの草原のぬくみにひたらせた思いが、遠い昔
いにふけったあの丘だ。
き月の﹁くさはらにねて﹂のくさはらも、或いは今はないあ
うなそんな懐かしさが、そくそくと胸にせまった。
巻頭の著者の写真の裏の﹁砂丘にた蚤ずむ著者﹂という写
の丘のくさはらの事なのだろうか、詩の中のフィクションで
のかと思うと、私の思いはふくらんでくる。だが思うと、あ
ふかきあをさに
きみがひとみか
はてなきそらは
あるにしても、或いはあの丘の事を想定しての作詩ではない
の丘もすでにその姿はもうない。懐かしい丘であったけれど、
﹁ふかきあをさ﹂がしんしんとやはり今心によみがえる。
なみだたたへり
lそんな事を思いながら読み進んだ。
読み終えた最後の後記に、
スロープには春は若草が萌え、秋は芒の波が白くつづいて
あの空が/、そしてあのスロープが/,
1町の後方は吉岡・浜中部落の丘陵地で、そのなだらかな
いる。
。.
﹁白き月﹂其の他丘の詩はここで得たものが多いので
あのスロープの丘は、我々がいつの頃からか城塚山と呼ん
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でいた、さして広くもないがそこだけは一杯の草原だった、あ
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とあったが、之を読んだ時私の望郷の情は満ちあふれて、
の丘の事だろうと思っている。真野町新町の、しかも下町、田
ている丘のはずだ。修之助先生も私も、下町の住人だったか
町に属する人々には、あの城塚山は何かしらの思い出を残し
しも
がら、遠い昔の故郷に、青春に、心地よい胸の痛みを覚えた。
白々明けにうす紅をはいた空に、小鳥のさえずりを耳にしな
lそのなだらかなスロープには⋮⋮⋮
ら。それは幼い頃の、若き日の、一杯の感傷がつまっている
そのスロープは、ああやはりあの丘であった。﹁浜中部落の
なだらかな丘陵地﹂とあり、はっきりと指定してはいないが
っこ︶、思春期のもの思う頃は、体にまつわる枯れ草の中で、
丘なのだ。幼い頃は遊びの場であり︵戦争ごっこやころがり
もしそうだとすると、くさはらには我々もねて色々な物思
あそこに違いないのだ。
8
時も、よく登った丘だった。忘れられない丘なのだ。
感傷を胸深く波打たせていた丘だった。嬉しい時も、悲しい
だけであったとしたら故郷へは帰らないだろう。なじみきれ
けであったらそれはむしろ淋しさだけが残る。もし昔恋しい
わがふるさとは
きたのしま
路になっていても、浜辺へ出れば少しの水がちょろちょろと
故郷は影絵のようにどこかにあった。あったはずの小川が道
だが丘はなくなり、砂丘は見えなくなっても、しかし昔の
しまうから。
ない東京にも、昔のない故郷にも、私には足場がなくなって
みやこにひとり
なみのおと
病み臥せば
なみのおと
こ強ろのおくに
てくる。そしてその小川の向うにあの丘が見える。テトラポ
土管の口から流れている。私にはその水から昔の小川が戻っ
ットのある岸辺には、砂浜が少しずつ出来ている。その汀の
ひぎくなり
ひねもすひびくなみのおとも、あの巻頭写真のような砂丘
がえってくる。
砂をすくい上げれば、昔の砂の乾きが、ひるがおが、又よみ
けふもひねもす
の姿からでないと、私には心にひびいてこない思いがする。藻
よみがえらせて何になるのか。
が打ち寄せられ、低い雑草の間に小さなひるがおや、はまな
すの花が見えかくれし、あの足にまつはる白い砂の乾いた感
もう乾き始め、固まりかけている私の情感を、そこから少
きめきを覚える。二十歳の心の水々しさを呼び戻すには、そ
らだろうか。気がつくと、自然に胸が痛くなるような心のと
しずつでも呼び戻し、しなやかな情感にひたれたらと思うか
あのなだらかなスロープ、この砂丘の白い砂、しかしそれ
ない気がする。
触からでないと、﹁ひねもすひごくなみのおと﹂は聞こえてこ
はもう我々の思い出の中に消え去ってしまって、今はすでに
んな故郷の幻のような抱擁力に待つよりほか手がない気もす
濱秘唱﹂は、別人のような面立ちで私の前にある。私の二十
昔読んだ﹁海濱秘唱﹂と、今長く故郷を離れた心で読む﹁海
る。生れて二十歳までは私は完全な故郷の人だったから。
はたち
そこにはない。
丘はホテルに奪われ、砂丘は舗装道路に覆われて、昔日の
だが今は昔ではない。今は今の故郷がそこにある。私の郷
歳の心が、今よみがえったような気持で、この本の頁をめく
おもかげはもうない。
愁は何なのだろう。昔恋しいだけなのだろうか、いやそれだ
9
っている。詩というものの力なのだろうか。少しでも瑞々し
さが欲しい今の私の歳と仕事には、思いがけない恵みの詩心
であった。
こんな読み方をされて、さぞかし泉下の修之助先生は苦笑
していられる事かと思うのだが。
やがてこの後、わが生命絶えんとする時、その二十歳の青
春を、故郷を、一瞬にでも思い画く事が出来れば⋮:::、そ
幸い、今にして変らぬものは、あのひるがおの浜辺を歩き
んな願いが故郷を思う心の底にある。
ながら⋮⋮⋮、あの丘のスロープに腰を下ろして眺めやった
⋮:::心にくい入る真赤な夕陽が、大佐渡山脈のはずれの二
見岬の二双岩の彼方に静かに落ちて行く姿だ。
か社
李商隠作
晩に向いて意適はず
くれ
向晩意不敵
車を馳って古原に登る
登楽遊原
馳車登古原
夕陽無限に好し
ここうこん
こげん
夕陽無限好
只是れ黄昏に近し
せきよう
只是近黄昏
この詩のような風景がそこに広がる、之一つだけでも、わ
が故郷は尊く、心ときめく思いがするのだ。
﹁海濱秘唱﹂は、私を二十歳の故郷に誘った。
︵友禅染画家・東京都在住・真野町出身︶
平成六年十一月初め
佐渡ケ島におけるうえごえご ﹂のゆ/、え
る。佐渡へは新潟港からフェリーで二時間ぐらいであり、快晴の日
﹁海は荒海むこうは佐渡よ⋮⋮﹂ご存じ北原白秋の〃砂山〃であ
にあたり、事前に佐渡に関しての知識が増えれば増えるほど、私の
語のアンケート調査をおこなったわけであったが、調査をおこなう
私にとって佐渡は﹁むこうは佐渡﹂であった。今回佐渡において言
からしてその昔からつたわるある程度の歴史は知っているのだが、
佐藤
には本土が見えるくらいである。そのくらい近い場所であるのに、
中で佐渡は遠退くいつぼうであった。
実は同じ新潟県に住んでいながら、詩の文句に言う﹁むこうは佐渡
よ﹂くらいにしか思ったことがなかった。それは同じ新潟県である
10
以上がアンケート調査の結果である。各地域の合計川名中使用し
たものが川名である。︹図一︺であるが、これは﹁えごえご﹂という
○
語が各地域において一体どれくらい使用されていたかを表にしたも
のである。︵※︶であるが、いづれも初めに﹁がに股で歩く﹂様子を
っているのか
私は今回の調査において数ある言語の中から﹁えごえご﹂という
①、①において回答が出なく﹁えごえご﹂という言葉を調査者が与
実際行い、迷わず﹁えごえご﹂という言葉を回答してくれた場合⋮
いったい﹁えごえご﹂という擬態語は、佐渡ケ島に於いて現在も残
擬態語を扱ったのである。現地アンケート調査についてであるが、
えることにより回答が出た場合⋮の、これら二語をまったく知ら
市井外喜子教授のもとで実際に佐渡ケ島へ赴き、ゼミ員十五名、四
地域︵外海府、相川、両津と真野、小木と赤泊︶に分かれ、佐渡ケ
22
2
32 0
3
3 29
相 川 23 0
1
1
被調査者
外・内
30 0
海府
0
0 30
合 計 108 0
6
6 103
全体
小木
赤泊
※すべて理解語レベル
両真
津野
2
代代代代代代代
0
10
20
30
40
50
60
7
名名名名名名名
5
773
1
17
15
24
2
24 0
で使用されていたことを知る︵がに股で歩く。遠慮なく者を食う様︶。
二冊を参照し﹁えごえご﹂という語は佐渡ヶ島において二つの意味
東條操編・東京出版︶と﹁日本方言大辞典﹄︵平成元年・小学館︶の
︵注一︶実際の調査を行う以前に、﹁全国方言辞典﹂︵昭和二十六年.
いないということが調査によってわかった。
在佐渡ケ島においては、ほとんど﹁えごえご﹂という語は残っては
う様﹂は、回答にはみることはできなかった。いずれにしても、現
﹁がに股で歩く様﹂という回答はみうけられたが、﹁遠慮なく物を食
私たちが事前に調べていった意味と回答してくれた人々の意味は
Oがに股で歩く。○小さい子供がやっとあるく様子。○歩く。
※﹁えごえご﹂はどのような意味で使用していたか?
ベルであった。
別の方であるが、仙代から加代に回答がみられた。すべて理解語レ
川地域に一名。すべて③の理解語レベルの回答であった。次に年代
結果であるが、両津・真野地域に二名、小木・赤泊地域に三名、相
ない場合⋮③とわけて表わした表である。
22
島に実際生活している人々に面接調査を行った︵注二。以下がその
(
2
)
︹図二︵えごえご︶
結果である 。
(
1
)
年代別︵えごえご︶
仙代⋮⋮2名︵小木・両津︶
別代⋮⋮1名︵両津︶
帥代⋮⋮2名︵小木︶
加代⋮⋮1名︵相川︶
11
(
3
)
+
2
)
(
1
)(
○
現在出版されている辞書類の中においても﹁えごえご﹂という語を
目にすることができるか?
つえご︾えご﹂
○体の肥え太っているさま
○太っているため動作が鈍いさま
○のそのそ○でぶぶぶ○よちよち
﹁広辞苑﹂第三版・岩波書店︵一九八三︶、﹁大辞林﹂三省堂︵一九
八八︶、﹁大言海﹂富山房︵一九八二︶、﹁国語大辞典﹂小学館︵一九
八八︶、﹁狐戸語大辞典﹂講談社︵一九七四︶、﹁角川国語中辞典﹂角
川沓店︵一九五五︶︵近世語と定義されている。︶
○えじかりまた︵ゑごゑごまた︶ゑじかり股。股をひろげ足を曲
うえ一号え一﹂﹂
う﹂﹁浮世風呂・第三編・下﹂︵一八○九︶式亭三馬︿滑稽本﹀
③﹁大きな腹だよのう。我ながらなぜこんなに矧洲引封Jするだろ
⑪﹁遣り手おすや、幻封剴副司と硯蓋持ち出づる﹂﹁売花新駅・桜上
興﹂︵一七七七︶朱楽館主人︿酒落本﹀
作品か?︶作者不明
⑥﹁幻剴剴刈引と、嬉しき親の出立ばへ﹂﹁雑俳請書帳﹂︵宝暦頃の
⑥﹁刻訓引剥Jしたなりでおどしまい﹂﹁福神粋語録﹂︵成立わから
ず︶二世竺老人
七六三︶作者不明
⑨﹁新造をにらみ利副刻ゴしてあるき﹂﹁川柳請万句合・鶴三﹂︵一
差万遍玉茎﹂安永五年月岡雪鼎画く艶本﹀
①﹁ないち猫の叩きなきやされしようにえごえご⋮⋮﹂﹁枕童児抜
②﹁向かふのお亀女が幻ゴ刻副と手桶さげて﹂﹁今歳咄・二編・水﹂
︵成立不明︶大保堂主人
く﹂﹁和英語林集成﹂︵初版・一八六七︶ゼーシー・へボンロ・○
⑰ヨ剣.訓シテァルク︵鵺烏のようによちよちした歩き方で歩
げて歩く様。﹁近世上方語辞典・講談社︵一九六四︶
このレベルの辞書は、古代から現代にわたっての重要語が網羅さ
一は、町入ことばを伝えるものとして江戸時代の文献では欠かす
H③﹁浮世風呂﹂⑥﹁売花新駅﹂口⑥﹁雑俳請書帳﹂
側﹁福神粋語録﹂⑨﹁川柳請万句合﹂臼①﹁枕童児抜差万遍玉
茎﹂側②﹁今歳咄﹂⑰⑪﹁和英語林集成﹂㈹①﹁青春﹂
以上が文献例である。これらの文献を大別し説明を加えていく。
小栗風葉
㈹﹁欽也は肩を幻ゴ刻司させながら﹂﹁青春・春・九﹂︵一九○五︶
国のもごpHご︶
れているわけであるが、﹁えごえご﹂という語が記載されているとは
思わなかった。そして﹁角川国語中辞典﹂、﹁江戸語大辞典﹂などに
も﹁えごえご﹂という語が記載されていることにより、どうやら近
世あたりから発生した語であるということが言えるのではないかと
○
思うのである。
前述により﹁えごえご﹂という語は近世の時代に発生したことが
文献における﹁えごえご﹂
色濃くなったが、実際の文献にあたってみることにする。
12
ことのできない〃泗落本″〃滑稽本〃の類である。⑥についてで
う意味である。
股で歩く﹂という意味ではなく、﹁肩を前後してゆすって歩く﹂とい
︿原文﹀
伍は、幕末当時に書かれた和英辞典である。
あるが、第三編之下﹁女中湯之遺漏﹂の一部に記述されている。文
化頃の銭湯を描いたものとして江戸文学史上とても貴重なものであ
ちなみに﹁えごえご﹂は初版から三版まで辞書に収められている。
八七二︶、三版明治十九年︵一八八六︶
初版慶応三年︵一八六七︶上海にて印刷、再版明治元年︵一
る。初版を入れて全部で三回改訂・増補している。
る。幕末から明治初期にかけて用いられた語彙を多く収録してい
いられた和英辞書である。我が国における英学史上貴重な文献であ
この﹁和英語林集成﹂は慶応の末年から明治年間にかけて広く用
・ぬ○○路︵がちょう︶
ち歩く︶
・雪且巳の︵あひる、足の短かい太った人などがよたよた、よちよ
餌的○○路︾の冨扇胃匡玩匡.ざ印言四・巳の.
・エゴエゴ︵且己︵8三三四房言、冒四三豊巳言い目昌吊蹴閉
るc作者は.九﹂と並んで滑稽本の代表的作者である。肋は、安
の郡康節作の﹁梅花心易﹂の泗落。作者は﹁朱楽館主人﹂であり、内
永六年に刊行されたものである。この﹁売花新駅﹂という書名は未
るが、新宿遊里を背景とした作品である。
山賀邸に漢籍を学び、詩歌、狂歌に秀れていた。作品についてであ
町入ことばは、江戸語の母体をなすものであり、明治以降、現代
共通語の母体となる東京語へと引き継がれていく可能性が高いので
ある。
二は、すべて雑俳に属するものである。雑俳とは、俳譜が普及の度
を高めて広く大衆の間にも享受されるようになった段階で俳譜を母
胎として発足した第二の俳譜文芸の汎称である。江戸時代の平民文
一般の国語語彙として定着をみた多くの語彙を収録している。著作
学の中で庶民的性格を最も豊富にそなえているのは、先ず﹁川柳雑
俳﹂の類である。特定の専門作家によって作られたものではなく、
はゼーシー・へボン︵茜冒閉︾の員房︾国のg昌己である。彼は幕末
の開国とともに来日したアメリカ長老教会の宣教師であり、安政六
市井生活の間から生まれたものである。作者の大部分は、無名の町
三は、﹁艶本﹂の類である。著作は﹁月岡雪鼎画﹂であり日本艶本
して宣教師・医師として又教育者として文明開化期の我が国の文化
年︵一八五九︶から明治二十五年︵一八九二︶まで日本に在留し、そ
人である。
目録︵未定稿︶にある。﹁艶本﹂は閨房の秘戯や性的秘事などを時に
E泗伍は江戸期のものである。︵五は再版、三版は明治期であるが、
jjj
事業に貢献。へボン式ローマ字綴りはあまりにも有名である。
11
以上が文献の大まかな説明である。先に分類したもののうち一二
Il
j
さし絵入りで記した書刀である。実際見ることはできなかった。
X
四については資料が鼻一.7らなかった。
六は、小栗風葉の﹁青春﹂の﹁春﹂に表われているものである。明
治三十八年に﹁読売新聞﹂に連載されたものである。これは、﹁がに
13
①﹁江戸語大辞典﹂の参照からもわかるように、宝暦から天保期
にかけては江戸語の完成期であり、それに﹁えごえご﹂の文献があ
くくくI
から﹁えごえご﹂︵がに股で歩く︶という語は、江戸後期から広く世
林集成﹂に、﹁えごえご﹂は記述されている。現時においては①、②
14
初版から﹁えごえご﹂は記載されている。︶そして特に一二三四に
注目してもらいたい。ともに一般大衆と共に発達した小説・俳譜の
てはまる。また共通語としての成立期でもある。
ごろから多く出版されるようになった〃泗落本〃の類からであ
間で使われ、そして共通語としての可能性をもって明治期以降に受
②共通語として明治期に受け継がれていく可能性の高い﹁和英語
類のものである。前述した﹁江戸語大辞典﹂によると、
り、江戸語として独自の特色がはっきり示されるような資料が
江戸語を示すまとまった資料として豊富に出てくるのは、宝暦
出てくるのは、半世紀ほど後の文化・文政のことである。滑稽本
①﹁実用和英用語集﹂牧田勇太郎編大倉書店明治三十四年
②﹁寸珍和英字彙﹂中村国太郎編大倉書店明治二十三年
ているのであろうか。
後に出版された﹁和英辞典﹂には、﹁えごえご﹂という語は記載され
数多く収められていると言ってもよいであろう。﹁和英語林集成﹂以
ば、明治期へうけ継がれそして普通語としての可能性の高い言語が
末当時の貴重な言語を数多く収めているわけであるが、言いかえれ
後、﹁和英辞典﹂が次々に出版された。前述したようにこの辞典は幕
いても使用する時においても重宝するものであった。この辞典発行
本人にとっても又外国人にとってもお互いの言語を研究する上にお
あろうか。﹁和英語林集成﹂は﹁和英辞典﹂の最初のものであり、日
英辞典﹂に果たして﹁えごえご﹂という言葉は記述されているので
語が記述されているのであるが、この﹁和英語林集成﹂以後の﹁和
﹁和英語林集成﹂︵ゼーシー・へボン著︶には、﹁えごえご﹂という
﹁和英辞典﹂において
○
け継がれたといってもよいのではないかと思ったのである。
「川柳請万句合」「売花新駅」「浮世風呂」
の類に見
見ら
られ
れる
る江
江戸
戸語
語が
がこ
これ
れで
でああ
りり
、、天保以後の〃人情本“の
類にみられる江戸語とともに江戸
語は完成にいたるのである。
に結びつくのである。とすると﹁えご
とある。江戸語は、明治以降の東京語
えご﹂という語は一般の国語語彙とし
図に照らし合わせてみる。宝暦十三
て定着していたのではなかったのか?
年︵一七六三︶に﹁川柳請万句合﹂が、
安永五年︵一七七六︶に﹁枕童児抜差万
遍玉茎﹂が、安永六年︵一七七七︶に
﹁売花新駅﹂が、文化六年︵一八○九︶
に﹁浮世風呂﹂が、天保期には、残念な
ことに文献はみつけることができなか
ったが、慶応三年︵一八六七︶の﹁和英
以上のことから、
語林集成﹂に﹁えごえご﹂がみられる。
16031763177718091869
③﹁英和和英字彙大全﹂市川義夫編横浜始雲閣明治十八年
○
ったのか?
﹁えごえご﹂という語は明治期以降に受け継がれなかったのではなか
の言葉である。諸国方言の上に立った混成的言語である。江戸
江戸言葉は、家康の江戸開府以来の言葉でいわば殖民的城下町
によると、
﹁日本古典文学大系・月報・五﹂の﹁江戸言葉のなごり・吉田澄夫﹂
④﹁英和和英袖珍字典﹂市川義夫編大倉書店明治二十年
⑥﹁新訳和英辞書﹂︵袖珍挿画︶尾寅之助編大阪嵩山堂
⑤﹁新式和英会話辞林﹂山本直松編積善館明治三十八年
明治二十年
⑦﹁新訳和英辞典﹂井上十吉編三省堂明治四十二年
⑧﹁和英袖珍字彙﹂高橋五郎編開新堂明治三十三年
から後のことである。l省略l江戸言葉の完成した姿は式亭
言葉として一応の完成を遂げるに至ったのもせいぜい享保ごろ
り、それは江戸言葉を基礎とLたものではあったが、もはや江
いってよいだろう。明治以後になると東京語の発達がはじま
三馬の滑稽本や為永春水の人情本において永久に記録されたと
戸言葉そのものではない。前代の江戸言葉の伝統を受け継いだ
明治“年
確認の為﹁和英語林集成﹂︵第三版︶を含め、全九冊の﹁和英辞典﹂
をみてみた。結局﹁えご
えご﹂という語が記載さ
と﹁和英語林集成﹂︶であ明治羽年
のは主として下町の住民・商家の人々でその他寄席芸人や役者
れていたものは二冊︵④
った。④においては英訳
などであったのであろう。l省略l﹁浮世風呂﹂や﹁浮世床﹂は
江戸文学の代表的作品として、だれしも知っており翻訳した作
をみるとどうやら﹁和英明治調年
ブ︵︾O
品集も種々あるが、この初版本というものは極めて稀である。
語林集成﹂と同文であ明治羽年
慶応三年から明治四十明治羽年
て江戸平民に愛読されたもので、下町の商家などに多く伝えら
とある。察するに﹁えごえご﹂という語は江戸という一地域でそれ
れたものであろう。
これは察するに全国的に広く散布されたものではなく、主とし
四年までの辞典をみてみ明治加年
たのであるが、明治四十明治凶年
四年以降の辞典には、も明治蝸年
も商人・町人・学者たちの間で読まれた﹁浮世風呂﹂などの書物か
﹁えごえご﹂という語が表われてきたが、たしかに一般大衆において
ら一時的に使用されたものであると思うのである。数々の文献に
う記載されていないと思
慶応3年
い、これ以後の辞典には明治6年
目を通さなかった。
15
治期の普通語になっていったであろうが、﹁えごえご﹂という語は可
﹁えごえご﹂の意味は、﹁遠慮なく物を食う様﹂しか記載されていな
ということになると思うのである。実際この辞典を参照してみたが
○
盧なく物を食う様﹂のほうが古いようである。
かった。①のから佐渡においてはどうやら﹁えごえご﹂の意味は﹁遠
広くしたしまれ又恵まれてきたものであり、かなりの数の言葉が明
能性はあったが明治期には受け継がれることはなかったのではない
○
﹁佐渡方言集﹂には﹁えごえご﹂が以下のように記載されている
か。
佐渡ケ島における辞書の分析
章・総説によると、この﹁えごえご﹂という語は、山田美妙の大辞
果もあり長く中央及び地方の研究の指針となったものである。第一
り、現在死語となってわからないものがあるが、それだけ記録の効
ケ島での代表的な方言を集め、語源を解明しようとしたもの﹂であ
であり、明治四十二年の出版で百五十ページのものであるが﹁佐渡
まず﹁佐渡方言集﹂とは、前述した通り矢田求氏が編纂したもの
とある。大辞書とはどんな辞書なのか。
一州州帥窄洲川ヲ付スルモノハ大辞書二将通語トシテ載セ︶
に、
この記述の中において︵・︶は何を意味するのか。副詞の部の始め
江ごノく∼・遠慮ナク食う貌
、副詞の部
○がに股で歩く様
﹁えごえご﹂○遠慮なく物を食う様
私は佐渡ケ島において﹁えごえご﹂という語の意味が二つあるこ
とを辞書によって知った。
③﹁日本方言大辞典﹂︵一九八九・小学館︶
⑪﹁全国方言辞典﹂︵一九五一・東京堂出版︶
この二つの辞典が発端である。
れている。
③の辞典⋮﹁えごえご﹂という意味は前述の二つの意味が記載さ
⑪の辞典...﹁えごえご﹂という意味は﹁遠慮なく物を食う様﹂と
いう意味は記載されていない。
いったいこれらの辞典は、この﹁えごえご﹂の意味をどこから引用
してきたのであろうか。
いたとある。
書︵日本大辞書︶を参照して、その辞書に普通語として記載されて
この辞書の正式名は、﹁日本大辞書﹂︵山田美妙編明治二十六年
⑥﹁佐渡方言集﹂︵矢田求・一九一○︶
以上の二つの辞典である。要するに③⑥の辞典は⑥⑥の辞典を参
みたが、﹁えごえご﹂︵遠慮なく食う様︶という語を見ることはでき
十二月発行文昌堂︶である。実際この﹁日本大辞書﹂を参照して
側﹁佐渡方言辞典﹂︵広田貞吉・一九七四︶
この時点において﹁えごえご﹂の意味は、﹁佐渡方言集﹂からの引用
照し、さらに側は⑥の辞典を研究し完成されたものである。つまり
16
に記載されている﹁えごえご﹂を﹁佐渡方言集﹂に載せたわけであ
なかった。これは予想外であった。矢田求氏は、この﹁日本大辞書﹂
のだが、江戸時代又幕末の文献に
一番古い資料から、以前は﹁もの
より﹁えごえご﹂が共通化してい
で
聿冒
ま
の
辞
代
現
︵鵬献加堺椣湖ま︶
医冤司
一
や
調査にての解答
[ |
(がに股で歩く)
一
胤霊?
「冤冒更三1一曇匝
一州塵岬言“柿吟っと歩く様
佐渡ケ島内
を食う様﹂として使用されていた
矢田求氏が﹁佐渡方言集﹂で他に引用している辞書などを見てい
かざるをえなかった。
く様︶に佐渡ケ島の﹁えごえご﹂
たと思い、その意味︵がに股で歩
|
勝
”
(以前からの方言)
るはずなのだが、記載されていなかった。
○﹁越佐方言集﹂明治二十五年田中勇吉編
(がに股で歩く)
羅鍾俗に三蔵幕の数々︶
︵図一︶﹁えごえご﹂
えにくく、以下のように考えた。
しかし、どうも今のようには考
のである。
が変わったのではないかと思った
○﹁言海﹂︵日本語辞書︶明治二十二∼二十四年
○﹁佐渡志﹂明治十八年田中従太郎編
○﹁ことばの泉﹂明治六年・明治三十一年落合直文編
○﹁和名類聚紗﹂明治二年源順編
◎すべて記載されていなかった。
○﹁僅言集覧﹂︵下巻︶太田全斎ら編成立年時未詳
ゑごゑご
假字未し考肥胸の形を俗にいふご濁
j
注假字未考︵漢字がなくそのまま読む︶
く
ご濁︵﹁こ﹂に点を打つ。﹁えこえこ﹂ではない︶
意味と同じである。
◎ここでの﹁肥胸の形を俗にいふ﹂は、現代の辞典に表わされている
いったい矢田求氏はどこから﹁えごえご﹂という語をもってきたの
○
かわからなかった。
現在佐渡ケ島において現存していた︵とはいってもかなり少数で
佐渡ケ島における﹁えごえご﹂のゆくえ
あったわけであるが︶﹁えごえご﹂という語は、佐渡ケ島においての
17
共通語(江戸内)
4腱元ケ
筐にて匪踊JZ画
r
と歩く様
I
であるが、この二つの意味を結びつけることはおかしいと思うので
食べて歩行に困難になる﹂というふうに結びつけることができるの
ある。﹁佐渡方言集﹂で﹁えごえご﹂が佐渡で独自に発生した言葉で
になるのだが、矢田求氏によると、﹁日本大辞書に普通語として載せ
あるとするならば、この﹁遠慮なく食う様﹂の位置がもう少し明確
ている﹂とあるので独自に佐渡ケ島で発生したと考えるのはおかし
い。︵図一、二︶の二において﹁えごえご﹂︵がに股で歩く︶の全盛、
それらの書物の数々が江戸期において徳川直轄領への人の出入りが
多くなるとともに流入し、現在に至るのではないかと思うのである。
j
︵図一、二︶の三を仮に図からとってみたらどうであろう。今までの
の﹁えごえご﹂︵遠慮なく食う様︶がどこからの引用なのか︵﹁日本
考え方とうまくかみあうのではないか。今まで調べてきた矢田求氏
大辞書﹂からと記載されてはいるのだが︶不明なのである。
。﹁えごえご﹂︵がに股で歩く︶は、江戸期においての書物から中
されるようになり、そして佐渡ケ島に残った。それが現在かな
央との交流が多かった佐渡ケ島にもってこられ、しだいに使用
り少数であるが、私たちの調査でみることができた。
。﹁佐渡方言集﹂矢田求氏の﹁えごえご﹂︵遠慮なく食う様︶は、
るが、私論であるが、これは削除してもよいのではないのか。
佐渡ケ島の方言︵普通語として大辞書に記載されている︶とあ
この語の意味は﹁がに股で歩く様﹂これだけではないのかとい
う結論に達した。
以上のように結論づけてはみたが今後継続した研究をこころみて
︵大東文化大学新潟県北蒲原郡安田町久保八五四︶
いくことにする。
朱鷺と人間と須田中夫著
l保護活動四十年の軌跡l
佐渡新穂村に住み純粋に朱鷺を愛する著者が、保護活
動について、あらためて過去をふりかえった著書である。
朱鷺の営巣放棄はなぜ起こったか。保護のあり方を考え
させる。︵プレジデント社一五○○円︶
18
︵図二︶ ﹁ え ご え ご ﹂
にノー』
現代の辞典懇﹂+遠盧なノ
リに役で歩く+遠憲なく倉
投籔
要するに﹁がに股で歩く様﹂と﹁遠慮なく食う様﹂は、﹁遠慮なく
︷謹己
での
<宮
羅蕊俗にいふ一
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、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、、
▽
釧賎
の原型
ヒヌ云々﹂とあり、これには﹁葉は﹂何国か記してない。昭和五年
項に﹁越後ノ国ノ古キ童謡ニモ佐渡ノ三崎ノ御所桜枝ハ越後一一卜謡
山本修之助編﹁佐渡の民謡﹂五三頁には﹁出雲崎では﹁枝は越後に
﹁小木の三崎のシショ御所桜、枝は越後に葉は佐渡に﹂
この民謡は小木の海潮寺にある、順徳帝遺愛の御所桜を唄ったも
御所桜が遥か京都の方を慕って、その枝や葉が越後や能登に向うと
葉は能登に﹂と唄ふ﹂と記してある。これ等によれば順徳帝遺愛の
いう意味か、或いはそれを表面として、実は寛永以後、西回り︵日
のとして、現在佐渡では、小木の木崎神社の﹁花笠踊り﹂の唄をは
りである。ところがこの歌詞の﹁シショ﹂という言葉の意味も、﹁枝
対する思慕の情を言外にふくむのか、ともかく文化年間以前に越後
本海沿岸︶航路の要津として繁栄した小木港の遊女の、その遊客に
じめとして、﹁おけさ節﹂等で相当ひろく唄われているのは周知の通
は越後に葉は佐渡に﹂とは何を意味するのかもハッキリしないので、
▽
という唄があったことはうなづけるのである。
﹁佐渡の三崎の御所桜、枝は越後に葉は能登に﹂
方面において、
ズイ分判りにくい唄の感が深い。この﹁シショ﹂は三崎・シショ・御
れまでであるが、どうも無理な言葉である点よりして、この唄は何
所という順序で三・四・五の数字の語呂であるといってしまえばそ
であろうとは容易に想像される所である。
かの本唄より転化したものに相違なく、しかもその原型は越後方面
次にこの唄を﹁佐渡の唄﹂として記載してある文献のうち、この
﹁シショ﹂の部分を閲するに、
殊に現在佐渡に行われている﹁おけさ節﹂がその源を﹁越後おけ
さ﹂に発し、しかもその佐渡へ移入された年代もさほど古くないと
︵イ︶明治三十四年・岩木拡著﹁佐渡名勝﹂佐渡僅謡二六頁﹁佐渡の
所﹄などが散見する。
︵ハ︶最近市販のミャゲ物としての﹁おけさ節﹂本には﹃四所﹄﹁支
︵ロ︶前述﹁佐渡の民謡﹂五三頁﹁ししよ﹄
0◎
いうのが定説のようであるから、この唄の疑点をただすことも、越
三崎のよい御所ざくら枝は越後に葉は佐渡に﹂
▽
佐の﹁おけさ﹂交流解明の見地から、あながち無意義ではないと思
うヘノ○
先ず文政年間・田中美渭著﹁佐渡志﹂巻十二・古蹟﹁御所桜﹂の
19
山
る例は少くない。
全国昔話記録﹁佐渡島昔話集﹂’二二頁﹁金のなる木・中川雀子
これ等より推せば、元来越後に行われたこの唄が﹁佐渡おけさ﹂と
して唄うには、歌詞に二字︵ちぢまれば三字︶不足な所があるので、
氏採集・話者中川キン女﹂によれば、昔小木の三崎に住んでいた爺
と婆とが浜へ漂着した姫様を介抱した。その時その姫様は大阪の城
これを埋めようとして﹁よい﹂としたり、或は﹁ししよ︵御所に対
して四所五所の語呂︶﹂としたりして唄われたことが判る。因みに現
の殿様の子を宿していたが、そこで男の子を産み、その子が成長し
の城に咲く﹂
﹁佐渡の三崎の四所御所桜、枝は越後に葉は佐渡なれど、花は大阪
として﹁佐渡の三崎﹂のという唄も昔は
。。
て母に別れて大阪へ行き、その殿様に逢ってそこの跡継ぎとなった
在では筆者の知れる範囲では﹁よい﹂とは唄われていない。
▽
又この唄に近い型、即ち﹁枝は云々葉は云々﹂の型の唄として挙
げられるものに、越後国の鯨波に伝わる伝説と唄がある。これは鯨
と歌ったもので、葉は母のことであり、花は大阪の城の世継ぎにな
波の玉屋なる人が金銀を多く貯え、それを人知れず蔵っておくため
庭の椿の水の根元に埋めておいたところ一夜その椿が金銀の精を吸
った男の子のことであるとさ、と結んである。
。O
この︹A︺型の、﹁佐渡の三崎の御所桜﹂が佐渡へ移入されて﹁小木
なもの。
その意味は地名に生えている草木の枝葉が見事であるとの叙景的
︹B︺型﹁︵地名︶の︵草木︶、枝は白銀葉は黄金﹂
慕うとして、草木に托して人情を唄う叙情的なもの。
その意味は第一地名に生えている草木が、第二・第三地名を恋い
地名こ
︹A︺型﹁︵第一地名︶の︵草木︶、枝は︵第二地名︶葉は︵第三
’一五○年以前において、二つの相似た原型の唄が存在した。
以上によって次のことが推定される。即ち越後方面には約一○○
▽
ていないことは注意されなくてはならない。
そしてこの話では、﹁枝は越後に﹂は何を指すのか、説明がなされ
いとって金銀の色を呈し、これに驚いて主人が狂死したと伝えられ、
﹁越後鯨波玉屋の椿、枝は白銀葉は黄金﹂
それが、
と唄われているというのである。
これと類似のもので佐渡に唄われるものは﹁佐渡の民謡﹂五四頁
﹁行って見てこい小比叡のツッジ、枝は白銀葉は黄金﹂
にある
である。この両唄は枝や葉の見事な草木を賞讃するのであって、そ
の前者の伝説はその唄の作詞が肌来上ってしまってから、その後で
▽
作られたものではないか疑わしい。鯨波の伝説にくわしい方の御教
示を乞う。
前記の疑いのように、唄とか諺とかが先に出来て、後になってそ
れの説明になるような伝説。、碑が新造され、或は他より転化され
20
の三崎のシショ御所桜﹂となり、その﹃シショ﹂には特別の意味は
なく、ただ字数の不足を補うため、即ち唄い易くするために出来た。
は越後に葉は佐渡に﹂という岨は、少くとも今より一○○’一五○
兎に角、現在佐渡で唄われている﹁小木の三崎のシショ御所桜、枝
▽
唄より後に作られたとするのが妥当である。
更に﹁枝は越後に葉は能登に﹄が佐渡へ移入されて﹁葉は佐渡に﹄と
年以前、越後方面で唄われていた﹁佐渡の三崎の御所桜、枝は越後
。O
それは不明であって、これに強いて﹁佐渡﹂という字を唄い込めば、
なったと考えたい。これは前者の意味は通ずるのであるが、後者の
に葉は能登に﹂が移入され、その言葉や意味において多少無理な変
O
﹃枝は越後に根は佐渡に﹂とでもしなくては意味が通じないからであ
正期の﹁小木芸者﹂による佐渡各町村への伝播や、或は前述の説明
言うまでもなくこの唄の佐渡における持続・伝播には、明治・大
化をしながらも唄い続けられて来たものであると断じたい。
なお︹B︺型の越後の伝説﹁正屋の栫﹂の出来たのは、その唄の
くない所である。
的伝説﹁金のなる木﹂などが与って力があったことは想像するに難
叡のツッジ﹂である。
る。この︹B︺型の佐渡へ移入されたものは﹁行って見てこい小比
﹁金のなる木﹂は﹃花は大阪の城に咲く﹄の蛇足で判るように、その
前か後かツマビラカにすることが出来ないが、︹A︺型の佐渡の伝説
仮元餓島日記・後編
∼米軍訳英文日記子
曾て読んだ本の一節を思い出す。﹁女性の鹸高目標は自己の幸福で
る﹂。考えてみれば、大義を立てねばならぬ男に比べ、女には困難と
︿或 る 日 本 兵 の 餓 島 日 記 ﹀ ︵ 後 編 ︶
云えるものは少ない。抽象論かも知れぬが、女は受動的依存的、男
あり、さらにその貞節により連れ添う男性をも幸福にすることであ
一日はや十月、光陰矢の如し。我が精神に何らの向上も見えず。
昭和十七年十月
21
確立の為により多くの困難を伴う。男が建設的で、且つ発展的、活
は自ら進むべき正道を見つけなければならぬ。結果的に男は、自己
巡洋艦、駆逐艦、輸送船が所狭しと浮かび、実に壮観。ソロモン群
突如の轟音に目を上げれば、頭上を友軍機が旋回。港には我が国の
る。聖なる火の如し。麓では沢山の木々が、南洋の陽に照り映える。
島大進撃の序章、ここに始まれり。
動的である為には、女の励ましと貞節が必要だ。この大切な励まし
心を欲しているようだ。
を持た
たず
ず、
、と
とて
ても
も寂寂
しし
恥い。気の持ち様かも知れぬが、自分は女性の
たと聞く。原住民は未開、肌黒く半裸、然し片言の英語を話す。こ
七日この島の占領は一月十五日。三月にはまだ火山は活発だっ
れも英国植民地政策成功の一例也。原住民はスンブルと呼ばれ、曾
二日今日は涼しい。軍馬を思い煩う必要も無く嬉しい。然し、
楽天的になれぬ自分に腹が立つ。軍神広瀬曰く、﹁正義は誠実に在
ては此の地の覇者也。深く心に銘すべし。
下の御恩に報いねば。
り﹂。だが自分は人間、言うは易く行うは難し。然し、何としても陛
うんざり だ 。
空に敵機の轟音、第一波の機影は見えず。サーチライトが第二波を
残は尽きず別れ難し。荷揚終了間際、空襲警報が響く。十八五五、
かったそうだ。我等が三頭も亡くしたこと、無念で堪らぬ。軍馬十
了時にはもう日没。馬は大喜び。他の僚船では一頭の軍馬も失わな
八日今朝軍馬を揚陸するものと思っていたが、午後に変更、終
四日ダバオからショートランドに目的地変更。軍馬に変化無
捕え、輸送船は全て高射砲の集中砲火を浴びせる。まるで川開きの
三日この先一週間は長くなりそう。海上の暮し、軍馬の世話、
し。このまま行けば大過なく到着の模様。連日飛魚や海豚を見る。
湾都市を思い描いていたが、驚嘆、詩情溢れる街だ。港は二つの火
六日十六○○、ラバウル着。南洋の強い日差しを浴びる一大港
五日目的地再び変更、ラバウルヘ。
より怒りがたぎる。
火災は愈々激しく、我が輸送船の位置まで判る程。空襲の後、心底
は勝手な横暴、断じて許せぬ。誓ってこれに報復すべし。海岸部の
も座視出来ぬ。既に我国の領土でありながら、我が物顔に飛来して
く姿を消す。第三波の爆弾投下量は先の二回を超え、味方は高射砲
様だ。第二波では敵機の爆撃により海岸部二カ所が炎上、敵機は漸
三頭揚陸、貝瀬・広田等八名は物資警備及び連絡要員として残留。名
広漠たる南洋の真只中で自己啓発を期す。
山に抱かれ、お伽の国の湖の様。立派な身形の男女が街を閣歩し、
で対抗するも虚し。船上の我等は、苦々しい思いで拳を握る。とて
山肌を剥き出した活火山が聟える。火山からゆっくりと煙が立ち上
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ば⋮。丁度三時、もうすぐ夜明けだ。払暁を期し友軍機が追撃する
船を爆撃、あの卑劣な奴等を切り刻んでやりたい。自分に翼があれ
九日激しい砲声で目覚める。再び敵機来襲。一昨日敵機は病院
神的重圧で参ってしまう者など、非難されて当然。水清ければ魚住
わなければ、この精神的重圧に耐え切れぬ。自己批判にのみ励み精
しい◎自分は此所で大東亜戦争遂行に尽くしている。そうとでも思
はうんざり。
まず、か。自分は魚と同じかも知れぬ。我が事ばかり考える自分に
昨夜の曇り空とは打って変わり、今日は快晴、南洋の空だ。空高
はず。夜よ、早く明けよ。
友人知己がおり、自分の様な者にまで面会に訪れてくれ、感激も一
十三日今晩、あいであ丸に移乗。第一中隊と輸送部隊には多くの
く空中戦が始まるが、余りの高さで敵味方の区別がつかぬ。突如飛
がる黒煙を目撃。機はどうなったのか。
人。人間を教育するという事を僅かながらも理解した。
行場上空からふらふらと一機降下、然し敵味方の別は不明。吹き上
今日長谷川が警備補充員として上陸、後に陸の被害状況を聞く。
世で美しい夢を持たぬ者は憐れむべし。我を夢想家と呼ぶなかれ。
十四日この惨めな状態は夢でなく、苦い涙が頬を伝う。醜いこの
例の降下機は友軍機と判明、残念だ。夜再度空襲、被害甚大の模様。
は彼を部下と思い、彼は私を同年兵と見た。初年兵教育では同等で
自作ならば良いのだが、ここで好きな詩の一節を引く。詩人の心は
夜渡辺と歓談、自らの狭量を痛感した。私をどう思ったろう。自分
あったのに、いつの間か自分は彼に誤った態度で臨み、結局不和を
墓よ、墓、過失を埋め、恥辱を蓋い、憎悪を拭い去る
自分そのもの、題は﹁墓﹂。
してきたものだ。
もたらした。いつも詰まらぬ事から議論を始めた。恥ずかしい事を
目の前に、たとえ仇の墓があろうとも、黄だわるは傍い土塊
静かに憩う墓石から、穏やかな悔恨と、懐かしき回顧が産れる
るが、誰一人踊らない。医者は腹を立て、皆怯え逃げ去った。もう
十五日昔、笛の達者な医者がいた。笛を吹き皆を踊らせようと図
十日本日は空襲無し。内省もせず怠惰に過ごす。
部隊は残留予定と聞く。青柳少尉殿に願い、大隊長が我隊の同行も
一人の医者がこれを見て、﹁自分がみんなを笑わせよう﹂と言った。
十一日港外に移動し投錨9第二大隊が先遣隊として出撃、速射砲
許可されるよう図るが、果たせず残念至極だ。
りはしない。ただ、自分は心の底から笑った。だから皆笑ったのだ。
特別な秘訣でもあるのかね﹂。相手は応えた。﹁いいや、秘訣などあ
先の医者は驚いて尋ねた。﹁君は労せずして皆を笑わせた。何か
五、六十機報復爆撃に飛ぶ。戦果は不明だが、かなり満足なものら
十二日本日の空襲は猛烈、燃え上がる火柱を目撃。連日友軍機が
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は学ぶところが多い、教育面でも、現実的観点からも。
君は笛が達者だが、心から楽しんで吹いていないのだ﹂。この話から
ラバウルでは上陸出来ず落胆した。信念も無く無闇に人と対立する
十八日再び広漠たる大海原。既に一カ月経過、陸に上がりたい。
陥か。
も人の不名誉を利用する。教育また然り、失望する。教育制度の欠
のは、恥ずべき事と揃感。この世では強き者のみならず弱き者まで
中、雨が降り出し難儀。今日の暑さは息苦しいほど、何もする気に
十六日今日は暑い。昨日もまた空襲。幸い被害無し。甲板で就寝
を見る。一つがショートランド島。近辺に我が軍艦多数、大いに安
’九H昨夜は暴風雨、少し目眩がする。払暁、四方に沢山の島々
なれぬ。今H戦陣訓に良い教訓を発見。﹁省みて我が誠の足らざる
を恩ふくし﹂。短いが我が心を苫しめるに充分だ。次も我が﹁自省の
この二つを胸に今円は自省の一日。また次の言葉もある。﹁良米肥
分は浅学故、判るのは言葉の上辺のみ、深い意味までは理解出来ず
りとするのは﹁公茄の為には自己犠牲をも厭わぬ﹂精神と云う。R
H本人には人和魂、巾脚人には中華魂がある。現ドの中国人が誇
堵。白昼空襲を受けるが、交戦激しきには至らず︵投錨後︶。
章﹂第一課に加えよう。﹁諸事正直を旨とし誇張虚言を恥とせよ﹂。
桶に在らば良米と呼べず﹂。我が行いが艮米を蓄える米樅の如くあ
れば。
い。世人は云う。全て民族は実在、而も唯一の実在也。民族には生
口惜しい。中華魂を体言するという明建国の祖洪武帝の躯を知りた
命があり、存続の根源的目的を有す。相反し、個人は全体の為に生
十七日夕刻出港、向かうはショートランド。ラバウル滞在は短期
ウルよ/、いま心の中に限りなき愛を感じる。子供の頃の楽しい記
き、全休の為に死す。個人の運命は飽く迄個人的、全体と係わりは
だが、廿やかな想い出に満ちている。いざ旅立ちだ、さらば、ラバ
憶や愛しい人を追慕するように。美しきコバルトの海よ、大きなほ
也、我が個人的問題同様に。
持たぬ、と。しかし我が耳に、これは不条理に響く。余りに観念的
︹訳者注一“﹁明建国の祖洪武帝﹂の箇所は、米軍訳では一画日も閏目
さようならノ.新時代の波頭に昂然と立つ人間の、君への憧れを感
じて欲しい。大空はまるで戦争など無いかの如く澄み切っている。
ような名の皇帝は存在しない。訳者は↑〆国富向zゞを﹁建明﹂と判断
尻両三国弓である。しかし、中剛歴代皇帝の英語名を調べても、その
ら貝よ、まるで夢の大陸の様に揺ら揺らと棚引く火の山の噴煙よ、
為、正義という偉大な目的に導かれ、我等は川来うる限り崇高に生
し、蒙古民族の支配する元帝国を滅ぼし漢民族王朝を回復した明の
自然は偉大、比べて人間は卑小。だがこの小さな世で己の生を護る
き続ける。だからどうか蔑まないでくれ。君に請け合おう、遂には
初代皇帝﹁太祖洪武帝︵朱元璋︶﹂であると推測し、和訳した。︺
︹訳者注一言記録によれば、Mの部隊は同日ソロモン群島ボーゲンビ
共に手を取り合えるその日が必ず来ると。
24
ル島エレベンタ着、十一月五日に至るまで同地にて警備の任。︺
作り出す。益すること皆無。これは自分にも当て嵌まる。注意すべ
をも誤らせる。発言は全て煙たがられ、憎悪や敵意や反抗的感情を
二二日遠出を楽しむ。このような情況下に芋やパパイヤを食べら
︲︲︶○
二十日今日の爆撃はかなり激烈、ラバウルにいた時と同じ程。連
日の空襲に嫌気がさす。遂に上陸の知らせ。一月以上も土を踏んで
まれるのは、自分が中隊下士官達に疎まれている事。これは確かに
無く帰還も遅くなる。明日が待ち遠しい。
れて幸せ。皆野菜に飢えていたが、これで大助かり。時間の余裕は
おらぬ故、皆大喜び。上陸後は多忙で何も考える暇無し。然し悔や
自分の恥とするところだが、どう反省してみても自分の悪いところ
戦場に来てまでも此の様であろうとは思いもよらなかった。性格が
う事多し。
云う旨さノ.早々の帰還は承知の上で、夕方まで帰ろうとせず。思
二三円皆で野菜狩りに。目的地に到るや、芋を料理、鳴呼、何と
いのだ。守備隊勤務の間、或る一派が存在したのは知っているが、
に思い至らぬ。恐らく自分は他人の機嫌を取れるような性格ではな
してくれるので、自分の罪ではないとも思う。兎に角、中隊勤務の
彼等と合わないのだとも思える。だが、他の派の者達はいつも歓迎
重に裏切られた気持ちで不愉快。己の利己心を忘れようと努むる
を閉じておれば、何事も上手くいくのだが⋮。曾て教えた者達に二
は雨。便所建設作業中止。突如﹁鰐だ/・﹂との叫び。探してみるが、
美味。野菜狩りに再度出動の提案が有るも、誰一人同意なし。午後
二四日昨日の作業の為か、皆かなり疲れ気味。パパイヤの漬物は
我々に此の様な感情が有るのは誉められた事ではない。自分さえ口
も、いまだ感情に縛られる。何と情けない男かノ.
体的対象に関連する客観性に基づくのだ。だが意識下にせよ己の性
情も知性も意識下のものまでも、感情の原因となる。然しこれは具
る。自堕落な生を恥じる。
銘ずるも、為す術無し。此の進歩の世に於いて、我のみ日々苦悩す
己に僅かな進歩も見出せず、苦悩は耐え切れぬ程。自己陶冶を肝に
二五日また内省を繰り返すが、何の進展も無し。時は過ぎるが自
それらしき物の泳ぎ去る姿が見えたのみ。
格が相手と合わぬ時、人は己を相手に優ると見倣す。しかし同時に、
二一日昨夜の空襲は猛烈。今日は屋根と防空壕を作る。過度の熱
他者が己に優ると思えることもある。換言すれば、人は自己の立場
想だが軍紀は厳正厳格に守らねばならぬ。奴は不満の色も見せなか
二七日昨夜の当直兵は職務怠慢、故に今朝皆の面前で殴打。可哀
が脅かされる事を恐れるのだと云えよう。青春はしばしば感情に揺
に足る。内省が過ぎ陰にこもった人間は自らの生を誤り、他者の生
れ動く。知性的愛に基づく人間は、深く澄み切った品性を備え信頼
25
ったが、それ故にこそ奴と顔を合わせるのが辛い。どうか軍務を正
も及ぶ大空襲。戦友達はどうしているか。我々はここでこの様に呑
敵機来襲は最早無きものと予想せしが、長き沈黙を破り二時間半に
三十日昨夜の空襲、腹立たしい限り。西太平洋での大勝利を聞き、
気でいて良いものか。大勝利の報を聞く度、只漫然と時を過ごす自
て憎み殴れるものか。どうか分かって欲しい。
男が二人、外国の大詩人の話をしていた。一人が悲しげに泣き始
れぬ。
分を恥じる。だが我等より更に酷い立場に置かれた者もいるやも知
しく遂行してくれ。嫌うから殴るのではない。大切な部下をどうし
﹁詩人が亡くなったのが悲しいのだ。﹂一方は理性的、他方は感情的
二八日賢者は寡黙と云う。自分は□数多き者、自分を誇示しよう
はいつも事実の持つ本質を疎かにしてはいないか。
生徒達は皆吠笑。だがその生徒は何か大事なものを持っている。人
初めて飛び立つ時が来て、庭木の枝に着地する
噂り話すこと覚え、羽根も見事に生え揃う
辛い試練の日も過ぎて、母烏やつれ子は太る
親のくちばし疲れても、親の心は疲れも見せぬ
虫はた易く見つからず、それでも雛は鳴いている
雛は日毎に肥え太り、陽気に唄い餌ねだる
土塊集め巣を構え、卵が孵り四羽の子
二羽の燕が梁にいる、何処にでもいる雄と雌
め、もう一人が不思議に思い何故泣くのか尋ねた。相手は答えた。
人間。どちらが優れていると云うべきか。
こんな話もある。漢文の時間、教師が儒教の話をした。ある生徒
とするからだ。弁明も冗言も無価値。いつか多言が善となる世が来
も一度羽撃き後も見ず、西風に乗り去って行く
が挙手し尋ねた。﹁先生、どうして孔子はそんなに有名なのですか。﹂
るやも知れぬが、然し人間とは寡黙なものだろう。だろう、では弱
二九日これは明治天皇の御詠である。大帝でさえこう言われる。
一夜悲しく啼き明かす、燕よ啼くなもう泣くな
だけど子供は帰らない、巣に戻れよと親は啼く
母烏父烏飛び回り、声を限りに呼び戻す
雛の飢えるを気に病んで、虫を探しに飛び回る
い。人間はそうあるべきだ、と言おう。自らの改善を期す。
まして自分はこの世で二十五を生きたに過ぎぬ。只一日で自己を陶
親の気持ちも顧みず、ただひたすらに飛び去った
力を合わせ昔を思え、お前が雛の頃のこと
両親が気掛りでならぬ。どうか達者でいて欲しい。今まで自分は両
父母にどう詫びるべきか。今日の自分はどうしてしまったのか、
今のお前は分かるはず、あの日の親の切なさを
冶するのは不可能。それに、未だ若輩。自己陶冶のため更に邇進す
︹訳者注亜何故か、米軍訳に明治天皇の和歌は記されていない。邪推
べし。この頃不眠。日夜の空襲に怒りが涌く。
情で翻訳しなかったのか。如何なる和歌なのか。︺
だが、米軍側が和歌を翻訳できなかったのか、あるいは、何かの事
26
身に鯵み る 。
としたら、両親に孝を尽くしたい。自分の好きな詩だ。一言一句が
親の願いに逆らってばかりいた。だが万一この戦争に生き永らえる
ペランス岬に上陸、戦闘に突入した。︺
少尉殿が発表、その時烈しい急降下爆撃を受ける。
二一○○待望のガダルカナル上陸と知る。諸注意及上陸計画を青柳
変親切で好意的。三○ノットで航行する船は初体験故、感激。今夜
︹訳者注卵Mの部隊は十一月七日ソロモン群島ガダルカナル島エス
三一日今今
日日
かか
らら
、明日一○○○まで警備。かなり辛い下痢だが、幸
昭和十七年十一月
語ることは到底人間の物語とは信じられぬであろう。然し﹁如何な
祖国を遠く離れ、この様な孤島で恐るべき戦闘が展開する。兵達の
かり。被害甚大、死傷者多数。多少誇張を含むかも知れぬが無念だ。
八日昨夜の爆撃は相当なもので正に驚きだ。聞く事全て驚くば
一日はや十一月、正しく光陰矢の如し。冷たい木枯しの吹く北
い任務に支障無し。
国を思い出す。父母はどうしているのか。弟や妹はどうしているだ
る困難に直面しようと我等は勝たねばならぬ。必勝の堅固な意志を
も、多くの戦友達も死んだ。仇は必ずとると誓う。皆が天国で安ら
分も皇国の護りとしてこの島で死のう。我が中隊長殿も大隊長殿
ろう。遠く離れるほど気に掛かる。
た。世界は破壊から造られ、平和は戦争から得られる。斯くして歴
持たねばならぬ﹂と兵の語るを聞くと、頼もしく思う。そうだ、自
い出そうとする様に何も浮かばぬ。
二日今日は何も思う事無し。頭が空になった気がする。夢を思
史は繰り返す。この孤島もまた世界的惨禍の渦中にある。
かに眠らんことを祈る。幾千もの英霊が眠る孤島にも夜明けが訪れ
○までに準備完了すべしと知らされる。非常に多忙。この数日で体
五日突如乗船と知り驚く。午前中いっぱい天幕の修繕。二三三
めぬ。日中の敵機来襲さえ無ければ。あの忌わしい敵機めノ.本日
九日本隊と合流の為、夜行軍を強行。重装備故思う程速くは歩
力は消耗、為す術がない。残念だが北沢と小林の同行は不可能、砲
船後は幾らか元気に。
は逸るが、そう速くも進めぬ。止むを得ぬ事情で病院には到着出来
十日昨夜野営地で第十六連隊の兵に避遁、情報を多数入手。心
の行軍十四時間。
も残さねばならぬ。輸送船の名はぶりせりん丸、比較的良い船。乗
六日巡洋艦風雲に移乗。
七日気分は優れぬが、艦の食事のお陰で体調は回復。水兵は大
27
ず、病院手前のジャングルで夜を明かす。近辺には岡部隊がいる。
可哀想だが、我等は前線に向け行軍中故、支援できぬ。我方の兵も
︿おわりに﹀
昭和十七年十一月二十H、H記は突然に終わる。餓えと疲労の棚
にあったと思われるMは、軍務記録によれば、﹁自十一月七日至十
疲労困惣。我隊は今夜も此処で野営の予定と聞く。鴫呼、早く本隊
に合流したい。
テガダルカナル島水無川第二師団第一野戦病院︸一入院﹂し、﹁十二
は、現在という高みから過去の悲惨を見下ろしている。自らの身を
現代日本に暮らす我々は、特に、幸いにも戦争体験を持たぬ若者
った。
胸部盲管砲弾破片創ヲ受ヶ戦死﹂との記載が続く。退院の翌川であ
十二月三十一円ガダルカナル烏海岸通ポハ川左岸一一於テ戦斗ノ際左
月三十日同院退院﹂と記されている。しかし直後に、﹁昭和十七年
二月八日間ガダルカナル島戦斗二参加﹂、﹁十二月八Ⅱ急性腸炎︸一
十一日昨夜は砲声と蚊に悩む。朝になり砲声愈々激し・
十三Ⅱ艦砲射蝶を受けた。Ⅱ下激しく交戦中、行瓶附難。
十三H遂に本隊に合流。戦闘状況を聞けば聞くほど川が渡る。中
見送り出来ただけでも幸いか。水野達は極食にも事欠く。みんなご
安全圏において物を考え、いとも軽々と過去を裁断することが多い。
隊の被害甚大。水野軍曹及第二分隊は独立速射砲部隊に屈し出発。
苦労さん/・呰半病人状態だが、最善を尽くさねば。
うな、どうしようもない怯えを感じた。身体の底からの小刻みな震
実に死地に近づくMと行動を共にしながら、自らその渦中に在るよ
私もその一人である。だが今回縁有って翻訳に携わり、一歩一歩確
労困懲。中隊と共に帰還後、兵員数名が伝令に出た。我箪は良く耐
とするMに、怖れにも似た畏敬を感じた。Mはごく普通の青年であ
えが止まらないことがあった。そして同時に、常に志を高く持とう
十四Ⅱ連隊砲祁隊の支援に向かう。砲部品、弾薬の終、運搬で疲
前線に接近。
えている。激戦にも拘らず連日の戦果良好。昨日野営地より移動し
後の一兵まで戦い抜くことを決意し、前線に向かった。自分も隊に
二十日昨夜病人を避難させる為、連隊野営地を離れた。連隊は最
い人柄とも個人生活とも全く無関係に、祖国の狂気が引き起こした
潔癖さ故の月己嫌悪に悩むことも度々であった。しかしその好まし
しく恋に憧れることもあったようだ。みごとな務侍とうらはらに、
ったろう。読諜好きであった様子も日記の随所に窺われる。行年ら
追い着くべく前線に急行中。部下達は不眠不休、疲労の極にあり迅
戦争の歯車に巻き込まれ、橘り潰され、満二十四歳十カ月の生涯を
終える。
速な移動は不可能。口惜しい。
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に、悲劇の淵に放り込んでいく。抓気の巾で、﹁巾人の揃即﹂は人川
や良心など通かに超越し、如何なる人をも、椛力を持たぬ行から叩
の倫即に優先するのである。だから、﹁戦争は絶対に起こしてはなら
M戦牝とⅢ川の昭馴卜し椰卜川Ⅲ、巾公文叩﹃失敗の水
課総長はガダルカナル島撤収案を天皇にk奏し、その結果、天皇は
川心してはならない。
ない﹂し、典迦げた殺獣にやる地を、川附の安穏の中でうかうかと
岡IⅢ水瓶の組織伽的研究∼﹂によれば、、水野巾令祁総瞠と杉山参
﹁この力針に岐脾を尽くすように﹂と決蚊した。肋は、脇併にからっ
雑継﹁煙欣現代﹄︵形成六年八川リ︶学岫触欣の邪に戦った、向派
子校へ行く道のりの風景がとてものどかだ平和よ続け︵後藤彩子︶
ぽの飯術をTにしたまま弊れた氏が腐ってⅢかわいている、樅限状
況にあみたという。ガダルカナル肋に投入された川本側将兵は約一
″丁人、そのうち戦牝は一″二千丘白人余、戦傷死T凡n余人、戦
叩の犠艸は、米雌叩公川峨史によれば戦闘参加将兵人″人のうち政
その樹はH水の上に移杣されたばかりの約木であり、未だあまりに
高校生の歌である。平和が人に憩いを与える一本の樹木とすれば、
衲牝川下:n余人、汀〃不明下八山人にのぼった。これに対し米
した米収一k卜は人もいなかった、と﹃失敗の水面﹄は皇う。
脆弱なのだ。衆画な人間の心で﹁平和よ紬け﹂と剛いつつ、いつま
牝行は千人、負傷折は四千、四十八人を数えるだけであり、餓死
必肋に肌蝶を役卜したB鋤爆雌機エノラ・ケイの機隆ポール・チ
に栄従分を注ぎ続けよう。平椥を育む為の具体的な努″の砿み唾ね
でも樹を枯らさず史に多くの人の憩う人樹に育てるため、たゆまず
が、戦後Al作を迎え犯憶の肌化が巡むこれからこそ、肘必典と
っている。﹃叫び戦制が起こり、川じ命令が卜ればⅢじことをやるで
しょう。それか叩人の伽川であり、枚Tというものです。だから戦
される。︵新秘村川一卜山津尚等学校教諭︶
ベッッ氏の鼎巣が、帆Ⅲ新川新潟版︵平成八年I川人Ⅲ付︶に戦
加は絶対に起こしてはならないのです﹂。Ⅲ家の狂気は、個人の人柄
鶯崎の親子歌碑
即の歌碑を雌てたのですか。﹂この衆朴
られようか。そう、かの﹁ひらめき﹂のせいなのだ。ひらめきは、あ
久保田フミエ
|とうして灘川窄杣・︲鹸
とあとⅡ休的に脱明できるのが今までの私の休峨である。肺かに袴
… 型 J 生 み 狸 F F 毎 J 配 J J J J . ■ F F … F 晶 呼 J … … .
建てたかったからだけでは失礼にもと
溌携蕊辮蕊騨灘溌謝鍛瀞騨
な画川にはっとさせられる
29
、
/
のどこかで何かがふくらみはじめた。鶯山荘の庭を長兄の名残りの
回忌、兄、捜の一周忌、家つきの母の二十三回忌と仏事がつづき、体
あわ
だと思う。
甥の正義の友人の山本満庭石店は新穂村の正明寺にあり案内され
碑に⋮⋮。
石や木で⋮⋮、石庭を⋮⋮、佐渡や私どもにゆかりの短歌や俳句を
えてみれば、それは一つの石との出合いがすべてを決めてくれたの
両津市湊町の三百年来の生家は二十数年前巨大な波止場への道路
と化し、その一角の代替地にぽつんと建てられた小さな一軒が私の
フミ、シロが一時飼育されていた行谷小学校の目の前なのだ。かの
た。くしくも、昭和四十六、七年頃一せいに捕獲された朱鷺のヒロ、
実家となった。近年兄夫婦がつづいて逝き、その長男の忠雄たちは
を都合で始末したいという。ならば兄の形見として鷲崎の山荘に移
なにしばられていたのだ。
とき東京から逢いに行った私。二十余年後のこの日すでに深いきづ
東京にいて空家になってしまった。そして塀の片側の大小の石や木
したいと甥に相談した。
広い石置場のもろもろの石はみな表情をもつ。なかでもなだらか
佐渡最北端の鷲崎には父の生家の岩脇家がある。小高い土地を少
しいただいて家を建て能の座敷舞台をつくり、残りの土地は将来の
ろぎ招いているようなおおらかな石のふところを感じて私の足は動
な小佐渡山脈を背景として高い台上に悠然と坐る大石。巨人がくつ
はしがかり
﹁橋掛﹂のために広くとっておこうとぼんやり心に画いていた。生
ものが降りてきたのだ。表裏なくどっしりとして柔らかみのある形
いやひらめいたのだ。いつもの調子で右肩上からことばともない
かなくなった。﹁先生のお歌を⋮・﹂そのとき切実におもったのだ。
まれ育った古家が道となりはてたさみしさからの、これも一つの
﹁ひらめき﹂であったろうか。
流シテ方の高橋進先生︵私共の能の師︶や和泉流狂言の野村万蔵先
と色の佐渡の自然石。﹁これにしよう。﹂私ははっきりと言葉に出し
その舞台披きに舅斎藤香村の代からの縁で﹁東京句謡会﹂の宝生
生など十数人が見えられた。昭和五十年の七夕の日である。山から
に、こうして。﹂と叫ぶように言う。日本海をみはらし鴬山荘をも見
鶯山荘の庭の真中に立った山本さんは両手をひろげ﹁ここ、ここ
ていた。
影があらわれ広大な池ともなるのだ。空地は年ごとに雑草と芒の楽
夫妻や植木職の方々はしぐれもいとわず励んでくれた。数台の車や
守るごとく、数か月後歌碑は建立された。私の日程に合わせて山本
とご命名くださった。正面の日本海は晴れた日には越後や出羽の山
海から舞の嚇子のように鳴きしきる鴬。進先生はちなんで﹁鴬山荘﹂
つながり、ことに夫の春雄は﹁雑草園﹂と名づけて喜び、たまさか
両極をひと秘せに翔ぶ渡りどり極アジサシよアンカレジのそら
章一郎先生ご了解の色紙のお歌は、
クレーンに運ばれ吊られ据えられてゆく過程を一心に見つづけた。
園となっていった。しかしそれは東京に生活する私共のゼイタクに
の帰省は海とともに生気を呼びもどしてくれるのであった。
歳月は変化を求めるものであろうか。芒や雑草を苅る人の苦労が
しのばれ、また荒地がいたわしく感じられてきた。折から父の五十
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蛎おまかせした。
会﹂の席t、賞として先生から頂戴した、人切な記念の色紙でもあ
た時の想い出深いお作品で、はからずも翌年夏の﹁まひる野全国大
﹁ヨーロッパ短歌の旅﹂が企画され春雄が副団長となり私もご一緒し
である。昭和四十六年、先生を川長︵とも子夫人も同行︶として
んの愛らしい手で幕はひらかれた。そのせつな夏鴬が碑の上空を鳴
きご奉仕と哨天にめぐまれ、小学一年生の岩脇慶一君と本間聖子さ
てにぎにぎしく、重ねて鷲崎の岩脇、本田、竹谷各家等のかぎりな
氏ら、また土地の方々、越後から桐生栄、長田英さん達も見えられ
蔵武志、神蔵久、山本健他各氏の数々のご蓋力。田中要、伊藤節子
る。両津市湊町の﹁歌と評論﹂の福島徹夫氏の釆配で泗井友二、神
翌早朝、山空にほんの数分二頭の虹が現われた。子を抱く虹とい
師のおかげでもある。
渡テレビ﹂や﹁新潟R報﹂他各紙が報道してくだされた。偉大な恩
きわたった。雨宮梅子さんの碑のお歌の朗詠はことに花をそえ、﹁佐
る。拡大して、黒御影に彫り、嵌込みにとの石屋さんの意にそい刀
寒つばき濃べにに咲ける小き花冬木の庭の臓のごとき
表面の空穂先生のこのお歌は、御葬儀のおり頂いた椛紗を同じく
拡大したものである。九十歳の御作、御筆になる。空穂先生、章一
う。見るうちに両はしが薄れ、巳人な円光のごとくその虹はしばし
郎先生は文芸の世界も一体であられると脅えている私には、ふるさ
との一つの自然石の表裏に﹁親子歌碑﹂として建つことになったな
親子歌碑の真上にあった。
るかなる天から選び与えてくれたのだ、と。
うことができた。ひらめきおもう。この石こそ、亡き父留次郎がは
亡き兄喜一の名残りの石のみちびきで、稀なる一つの自然石に合
りゆきの不思議をおもう。それにしても幸せな石、光栄な石である。
歌碑の重みで鶯山荘の庭は卜倍にも広がり、また時空をこえた音信
平成六年六H二日章一郎先生ご夫妻と﹁まひる野﹂の横山三樹氏
も私には一隅可能となったのだ。
佐竹紘栄
ば﹂とのことであった。
れてはと思い、堀内薫先生に電話で相談すると、﹁私の代識でよけれ
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他数人が来品され除幕式となった。考えてもいなかったことであ
山口薑子先生の思い出
平成八年八〃三十冊︵〃︶、誓子先生がご体調を崩されていること
を聞いていたので、明円の﹁朝日カルチャー﹂を休まれてご休養さ
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でお元気で/、と念じ、一週間前に見て来た﹁白寿記念・小倉遊亀展﹂
また私は、誓子先生が、日本画家の小倉遊亀さんのように百歳ま
のであった。
たところ、﹁明日はカルチャーへ行きます﹂とのことだったので、誓
の画集と共に、次のような添書を誓子先生に差しあげた。﹁小倉遊亀
この旨を誓子先生の御宅へ電話をかけて、誓子先生に伝えて頂い
と安堵したのであった。
誓孑先生は、白寿の小倉遊亀さんの画集をご覧になりつつ、﹁きれ
傍に置いて頂けますれば有難く存じます﹂。
画伯にあやかって頂きたく、”白寿記念・小倉遊亀展“の画集をお
子先生はきっとご快方に向かっておられるのでしょうと、堀内先生
八月三十一日︵火︶午後五時三十分ころ、朝日カルチャーへ行く
と、誓子先生はいつもの如くロビーの禁煙席におられた。先堆は、
誓子先生のお顔色が悪い、お声も元気がないなどとご案じ申しあ
いだね、帰ってゆっくり見るよ﹂と、おっしゃって下さった。
誓子先生が初めて佐渡へ旅されたのは、昭和六十三年夏である。
になるとは夢にも思わず、エレベーターに乗られた誓子先生をお見
げつつも、午後六時からの﹁俳句添削﹂は終った。この識座が岐後
た。
﹁佐渡から山本修之助先生の造句集を送って頂いたよ﹂とおっしゃっ
った。その時に詠まれた俳句
九月六日、﹁俳句添削諦座﹂閉講の通知が﹁朝日カルチャー﹂から
送りさせて頂いたのが、永遠のお別れになったのである。
七月三卜川に、鱒子先生は、真野町の山本修之助先生をお訪ねにな
先づ見しは蘇鉄の青き照葉なり
と同時に、誓子先生の﹁俳句添削講座﹂が始まったのであった。十
思えば、昭和五十三年十月、大阪の朝日カルチャーセンター開講
郵送された。
と共に、一つの石に彫られ、﹁誓子・鍬邨句碑﹂が、山本家の庭に建
H三日、初めての講座が始まる前に、誓子先生は﹁どしどし発言し
大蘇鉄いつ雪がこひとかれけむ
が、故加藤鰍邨先生が以前、山本家をお訪ねになって詠まれた俳句
を﹁双子句碑﹂と命名された。︶
誓子先生、本当に有難うございました。合掌
その間、楠節子主宰も﹁俳句添削﹂を受講されたのである。
が、先生に何のお応えも出来ず、悔いばかり残って心が痛む。
誓子先生から五八七回︵私が受講した回数のみ︶のご指導を頂いた
昭和五十三年十月三日から平成五年八月三十一日まで十過年間、
日のことのように思い出される。
てね。あなたは古いんだから﹂とおっしゃって下さったことが、昨
立されて、平成元年八月三十日に除幕された。︵誓子先生はこの句碑
誓子先生はその後、先生御自身の句碑除幕式のため、平成二年、三
年一月三十五H、修之助先生は満八十九歳で死去された。
年と佐渡へ飛ばれ、その都度山本修之助先生に会われたが、平成五
それで修之助先生の道句集﹁冬の虹﹂を、ご長男の山本修巳先生
が編まれて、誓子先生に送られたのである。
私が、誓子先生のご体調をご案じ申しあげて認めた拙文に、お目
通し頂くと、先生は﹁腰が浦くてね﹂と、腰に手を当てて摩られる
32
樫二
庁囿
中に頭ならべて立ちつくす子らの地蔵に花たてまつれ﹂
星.︲二勇
本誌第六十九号︵平成四年六月一H発行︶の第九回に続
二月十六日愛媛新聞記者山路健氏来訪。愛媛新聞の﹁五七
かしら
くものである。
猟の地球儀﹂に、愛媛県ゆかりの俳人高浜虚子、河束碧梧桐、
研究のため、佐渡の説経本に﹁目蓮﹂があるかどうかを調査
一月十二日神奈川大学助教授吉川良和氏来訪。中国演劇史
つ﹂という俳句を得た。のち、朝日新聞全国版の加藤鍬邨氏
路氏と相川の無宿の墓に参った時、﹁寒月に無宿供養の鐘を打
た。翌日、相川から外海府、内海府などを案内した。私は、山
中村草田男の各氏の佐渡来訪を知り、記事にするためであっ
に来島。佐渡の人形芝居研究家佐々木義栄氏を訪ねたが、か
三月二十七日信州大学名誉教授、作家藤川晴男氏夫妻が来
選に、この俳句が一席になった。
平成四年
って真野町竹田の小出三四郎家にあったが、現在は行方知れ
一月十六日歌人・國學院大学教授岡野弘彦氏、皇室アルバ
する。釜茄での目蓮の絵像があった。
の﹁サド﹂の地名がある世界地図などをご覧になった。
ドイツ文学の専攻で、司馬凌海の﹁独和辞典﹂や新発田収蔵
の親友忠治氏に再会したような喜びようであった。晴男氏は
訪。羽茂町出身の歌人藤川忠治氏の長男で、修之助は若きu
もくれん
ずとのこと。午後、羽茂町の弘仁寺の地獄絵図を見学に案内
ム︵平成四年初夏号学習研究社発行︶の﹁佐渡路﹂取材の
四月二十九日真野町のお花見全佐渡俳句大会に選者として
来島された、俳句誌﹁橡﹂同人の大島民郎氏来訪。
来訪。修之助が翌日真野御陵、梨の木地蔵などを案内する。岡
野弘彦氏は三首の歌を残す。﹁はるかなる海のはたてにうかび
ん夫妻来訪。翌日、世阿弥の通った着船地畑野町多田から長
五月二十二日茨城大学教授川村安宏氏、歌人川村ハツエさ
ため、学習研究社の山中雄二、八枚凍麿、宮本明浩の各氏と
へる苔の色あをきに触りてかなしまんとす﹂賓の河原﹁雪の
きて雪はだらなる佐渡の島山﹂真野御陵﹁火葬塚の士をおほ
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岸本純一氏夫妻が来訪。烏訓岸本武太夫事蹟﹂を贈られる。
五月二十五日江戸時代の佐渡奉行所役人岸本武大夫の子孫
載せられている。
日の世阿弥の歩いた道については、﹁佐渡郷士文化﹂七十号に
荘でご一緒したが、修之助の華やぎが印象に残っている。翌
谷寺まで歩く企画に参加するためである。夕食を近くの金峰
倉伊兵衛家一族。
絵画館が真野宮境内にある。筧氏の母は真野町新町出身、島
五十年祭に出席のため来島し、来訪される。筧氏の故母堂の
十月十四日東京の筧武夫氏、千づ子氏夫妻、順徳天皇七百
野県信越放送の荒井有美、池内理恵各氏来訪。
九月十九日佐渡汽船長野案内所北見裕紀夫氏の案内で、長
義人両氏が菊池碩、倉田藤五郎、田村一二の各氏の案内によ
り来訪。十八日の順徳天皇七百五十年祭記念講演会の講師と
十月十七日京都産業大学教授所功、文部省教科書調査官嵐
子氏︵故佐々木勇氏息女︶の案内で来訪。
して来島されたため。
にした小説を書くため、白水社和気元氏と相川町出身橋本昌
五月三十一日真野町前町長松本繁氏の案内で日本大学教授
十月十八日関東短期大学学長時野谷滋氏来訪。順徳天皇七
五月二十九日作家白石一郎氏、作家杉洋子氏、佐渡を舞台
三浦裕二氏来訪。未来の佐渡のさまざまな企画を考案中との
六月十八日福島県人で相川町に住んだ石井佐助︵四山︶氏
院高校教諭宮川悌二郎氏︵両津市出身︶来訪。
月号︶に﹁佐渡の荒海﹂の論考あり。講演会に出席の元國學
百五十年祭講演会に講話されての帰途。﹁芸林﹂︵平成四年十
の娘恵美さん来訪。四山と祖父半蔵は交遊があった。四山は
津市︶来訪。
十月二十五日前国立佐渡療養所の事務官田代一也氏︵木更
︸﹂’シ﹂○
ントであった。墓地は中山峠のキリシタン墓地にある。
十月三十一日予備校講師小林卓司氏来訪。
﹁佐渡日報﹂の主筆でのち﹁佐渡民報社﹂を創設。プロテスタ
の案内で﹁説経の歴史﹂の著書で知られる仏教大学教授関山
女子大学の時松孝文氏来訪。石井夏海貼交帖を見られる。
六月二十八日佐渡汽船東京支店長大谷公一氏、橋本昌子氏
十一月五日三一書房野崎雄三氏︵真野町浜中滝谷神社神主
見られる。夕刻、早稲田大学演劇博物館和田修氏、園田学園
手櫻川雛山、好玉氏夫妻、白水社千代忠央氏が来訪。
十一月一日評論家高田宏氏来訪。新発田収蔵の世界地図を
六月二十八日文部省初中局の安藤修平氏、下越教育佐渡事
と親戚︶が、﹁佐渡新発見﹂取材のため、劇作家大西信行、大
和夫氏、また滋賀県八日市市の江州音頭、八日市祭文の唄い
務所の高橋宣彦氏、札幌市の小泉弘氏を案内して来訪。
34
さまlムジナ信仰と巫女﹂を執筆。
房刊︶に、大西氏は﹁相川音頭始末記﹂、永井氏は﹁関の寒戸
学教授永井啓夫両氏を案内して来訪。﹁佐渡新発見﹂︵三一書
十月二十四日國學院大学教授桜井満氏夫妻来訪。両津市で
之助筆写の説経本七冊、撮影のため。
島。
平成六年
開かれた新潟県高等学校教育研究会国語部会に講演のため来
平成五年
三月十六日白根市の凧の研究家田村和雄氏と商工観光課渡
三月十三日敬和学園大学教授神田より子氏来訪。修験道資
ミエさん、両津市の福島徹夫氏の案内で来訪。
辺十寸雄氏来訪。白根に来年建設の﹁凧博物館﹂に亡父修之
六月十二日作家青野聰氏、父の季吉氏三十三回忌法要に来
料調査のため。
NHKアナウンサー吉本忠郎氏来訪。翌日、四日分収録。
島され、来訪。
六月三日歌人窪田章一郎氏夫妻一行、両津市出身久保田フ
四月二十五日長野県の歌人松本武氏来訪。生前の修之助と
八月一日神戸松蔭女子大学秋本鈴史氏、園田学園女子大学
四月三日NHKのラジオ番組﹁ことばの泉﹂放送のため、
交流あり。
時松孝文氏、石井夏海貼交帖撮影のため、来訪。
助所蔵の凧を借用のため。二十点ほど貸し出す。
つらぎ﹂主宰森田峠氏来訪。
四月二十九日全佐渡お花見俳句大会の選者として俳句誌﹁か
八月二十日金井町出身東京に在住の能楽師川上忠志氏来訪。
八月十九日東京学芸大学教授鴫中道則氏、近世文学研究室
九月二十五日姫路独協大学教授吉田金彦氏、﹁佐渡﹂の語源
五月十六日山本家一族山本桂家相続人山本純太郎氏夫妻来
二郎の墓参拝。
一行と来訪。家蔵の近世文人の書画、石井夏海の貼交帖など
八月三日新潟市の書家、農相山本悌二郎の書の研究家和栗
調査のため、羽茂町出身の影向幸枝さんと来訪。
を見られる。
久雄氏、佐和田町の稲葉大朴氏の案内で来訪。悌二郎の漢詩
助﹂調査のため来訪。
十一月四日大阪の福助株式会社角直明氏、佐渡の土人形﹁福
は九郎氏の子息である。桂家の墓及び伯父に当る農相山本悌
集を見られる。
訪。山本桂家は一郎氏の後を、弟の九郎氏が継ぎ、純太郎氏
八月三十日一橋大学教授、説経本の研究家秋谷治氏来訪。修
35
率︲I︵創作︶
ムロ同
島聿昌︵詞章︶
坂口
卿
み民も豊かなり。
にや蓮葉の心もて。泉の水も君すまば。涼しき道となりぬくし。
︵上歌︶所は泉の。手さへ涼しき折々に。御衣の快や萎れけむ・げ
るなる。薬師の誓願あらたかに。つひにすみ行く心かな。
ギョイ
ワキ﹁そもそもこれは神風の伊勢の宮居の傍に住む、何某にて候。
ハチス
われこの程は南都に、参りて候。春日興福寺に、過ぎ候ひしかば。
ヨモ
眺めたるに。嚴松も苔の露も、星霜古りたる有様なり。草刈りの
セイ
三、︵問答︶ワキ詞﹁われこの寺の、薬師佛を拝して。四方の景色を、
︵上歌︶ワキヘ今ぞ知る、聞くだに遠き佐渡の海。聞くだに遠き佐渡
との候。
ワキ﹁この所より西の山本を、見れば。人家蓋を竝べ、都と見えた
シテ詞﹁こなたのことにて候か。何事にて、候ぞ。
老人一人、松根によりて候。いかにそこなる老人に、尋ぬくきこ
歸帆をなつかしみ。万里の波濤に赴きて。一葉万徳念じつつ。
り。同じく西の方には、入江の波。白砂悉く、白妙に見えたり。
ザカ
さも。御遊の榮華ひきかへて。錦の褥は苔筵。天離る鄙の長路の
ギョ
申す所にて候。節へげにや十善万乘の御聖体。雲居の春ののどけ
サマ
浪枕。下の弓張曙の。浪に浮かぶや松影の。太田の浦に舟を泊
シテ﹁かの山本は、かしこくも、いにしへ・順徳院の御配所、泉と
所の様御衣の、快の、いはれはいかに。
モミジ
て。海士の庵の磯枕。笠かり峠をった紅葉。ふる里に思ひをはせ
と。思ひ慰むばかりこそ。老いの痕覺めの便なれ。
一・、︵一セイ︶シテヘしばし身を奥津城虚ここながら。月は都の雲居ぞ
ゴホリ
の観音を。拝して雑太に着きにけり。雑太の郡に着きにけり。
サッキクモマハク
五月雲間の白山に。能登・珠洲・立山・砺波山。見放けて越路の
の海。久方の月の都をたちいでて。老いを隔つる若狭路の。遠浦
傳ひ行かむと存じ候。
りて。時鳥の聲を、たづぬくしと候へば。海山幾重のみ越路を、
涼しき道となりぬくし。
︵下歌︶春の花は、十悪の里に咲き匂ひ。秋の月は、五濁の水に宿
のを。身にも心のあるやらむ。身にも心のあるやらむ。
︵サシ︶げにや罪なくて。配所の月を見る事は。古人の望みなるも
一
或夜くすしき夢を、蒙りて候。諾再三柱の契深き、佐渡の烏に、渡
一、ワキ次第州げに治まれる御代の聲・げに桁まれる御代の聲。國富
昭
36
ヒヒ
金
ワキ伊勢の何某
前シテ草刈りの老人後シテ世阿彌
司
フ・ミ
ハナトリ
導く大樹は倒れ。こぼたるる蝿花鳥の。色も音もなき耳順には。
ナドコロ
御住まひ。萱が軒端の忍の簾絶え絶えなり。
ヴブ
からくも大夫は子に譲り出家を遂げつ。隔てなきわざ、子に甥に。
ハ々/
ワキベ白妙の八幡の神の名所は。
死。十郎は子ながらたぐひなき達人。祖父に越えたる堪能なり。
傳へ著す書多し。恩ひの外なるわが業か。七郎の遁世、十郎の客
老いの身の涙の果てに。當流の道絶えて。一座既に破滅しぬ。H
カン
ワキハこの國は所選ばず。
シテパ部に初音を待佗る時烏。
シテ﹁この社にてはさらに、鳴くことなし。これは為兼卿の、配所
︵上歌︶シテハ聲聞く身とはなりにけり。
もかげに七十路、この國に時烏の。
シテハ一旦の花・初心の花。
牛化。
地︵時移り。花の匂ひもいろいろに。人の折節花に似る。生得の
ナナ
にて候が。節八時烏の、鴫くを間きて。
とどき す 。
︵上歌︶地へ鳴けば聞く。聞けば都の感しきに。この里過ぎよ山ほ
ネ
時の烏。都に待ち聞く烏なれば。聲もなつかし・ただ鳴けや鳴け
地色詠じ給へば青を止めて。さらに鳴く蛎なかりけり。折を得て
地へ許されの花・身の花・よそめの花・老什の花。
葉の梢かすめたる。しでの川長の。名残の姿追ひ行かむ。名残の
地へ秘する花。心の位、妙所なり。あやめも知らぬ雨の夜は。若
︲苛勾、ノ︾
︵クリ︶地べ吉丹よし奈良の花を結崎座。み評の舞を醍醐寺に。存
承り候。雨きく草の庵の夜々は、いかが候や。
姿追ひ行かむ。︵中人︶
シテヘまことの花。
老いの身。われも故郷を泣くものを。われも故郷をなくものを。
四、ワキ詞﹁かしこき玉体やごとなき御方の御境涯、血を吐く叫びと
の錦の今熊野。襯世が節の磯りなり。大樹の寵。攝家のみかげ。
衆生らも。息災延命と守らせ給ふ御誓ひ。げに有難き御影かな。
物。宜彌の奉仕に威光増し。八哀の眠りを止覺の。月に礎まして
和光同塵は結縁の初め。八相成道は利物の終り。人は天下の神
H、工歌︶ワキヘ神のまにまに詣で来て。歩みを運ぶ宮巡り。げにや
名も花 傳 当 。
〃ずぜ
︵サシ︶シテペ小調に曲舞加へ・物寅似に幽玄融即父のわざ。その
身にそふ光の豊かなる。
地︵忠はざりき、駿河に父を失ひて。わが初心の花は。
熊野權現、南山に種を蒔き。伊弊内は白山權現、北海に種を収め。
六、︵サシ︶シテバ秋津脇。伊弊諾伊弊叫の御影を分けて。伊弊諾は、
佐渡の凶北山の影向今に絶えず。かかる霊國に身を置くは。観世
荒ましき。
シテペまことの花に尚むる稽古の十余年。生涯の悲揃辛苦なり。
︵クセ︶地州鬼にも花のあるべきや。舞歌二曲、三体杣雌の道さぐ
オイ
︵一セイ︶.地へ枝葉なき。老木の心。大八洲浪のよりより。
青の縁といふべきか。
︸︲一一一・切〆
の先祖なり。鎬を削る立合も。修羅さながらの稽古工夫も。支へ
り。幽玄の高き境を現出す。一忠・わが父・犬王・喜阿。是常道
37
シテハ語るべし。天地開關、日の本に。
シテベ春を迎へて年を積む。薪の神事これなりや。今に目前あら
蹄べ祈れば國富み豊かなる。
七、地州久しきや。すむにまかせて雲水の。月も花も移り行く。体
たなる。神道の末。
地州二柱の神天の橋。矛さしおろしあはぢ島。かれは南海、これ
シテハ南島神の父母なり。衆生諸佛も相犯さず。地八山雲海月満
は北海佐渡の島。胎金雨部南北に浮かみ。
用相即幽玄の。後の證見信じつつ。一生の命蓋くすべし。白妙の
ぬ寂しさを感じて、句になったのである。
父母の墓に参った時、ふと−年前を思い出し、言い知れ
還幸行列が、華やかであった。
その時も鵯が啼いていた。式のあと、順徳院の京都への
鵯かしまし佐渡の順徳天皇祭
父にとって、念願していたことであった。
十年祭に参列した。二十年間、順徳院の御陵をお守りした
十二年ののち、御自害によって崩御された順徳院の七百五
であった八十九歳の父は、佐渡へ配流になられ、御在島二
島を出て生活したことのない父母であった。一年前、元気
この句は父母の墓を参った時の作である。生涯を佐渡の
︵九四○九一五∼九一七︶
コガネ
波・雪凌ぎ。千歳の緑、嚴松の。歸洛本懐、時あらむ。金の島の
ヒトヨ
目青山の。
烏の跡。わがしるしおく形見なり。音を有明の時烏。世々まつか
ユウ
︵ロンギ︶地へ妙なる金の佐渡の國・
げにかくれ行く。世々まつかげに隠れ行く。
コガネ
シテハわがふる里は雪間わけ。
︵舞︶
地州芽廉の初申なれや春日山。
山本修巳
シテベ興福寺雨堂の法事にも。遊楽ととのへ万歳を。
自句自解
ひよ
鵯ばかり啼く墓原を出でにけり
雑誌﹁俳句﹂︵平成六年七月号︶に、﹁新・俳句の現場を
人子︶に、この私の句が取りあげられ、夏風氏が、﹁佐渡を
見る﹂︵座談会l斎藤夏風、小宅容義、茨木和生、高田風
頭に置いてこの句を読むとちょっと風土が出てきて、いい
のあはれをとっての生活感がでているような気がするんで
ような気がする。やっぱり一つの島の生活、鵯というもの
す。﹂と述べられた。
38
羽茂人気質と羽柴雪彦の文学
口咽五昭岬⑭”︾諮盟時軸昂由⑰串母も屯幻叫守守寺巾埒刈田盃ふい晶凸、争昭即哩むむ勺出甲具訊姻屯山出心F四心配里親小心屯、凸勺印心中守君踏呼坦出守守理哩凸垣野心咽飼凸むむ銅凸むむ心屯むむ⑰。m○屯心⑰むむ心、凸噌弔哩師口寄酎品憩弔田詞暉函出一
色々とご指導を受けた。それも数えきれぬほどである。しかしその
中塚宗
佐波の野川に野献や小賜や野恥たちか悠々とくらしているところ
川ただのゞ↑Mなりとも嫌な剛を排兇したことがなかったが、そのみ
乱海出肥坤坤酔肝噂坤堀璃輝出泌博駿搦坤瑞坤冷呼即津坤硬野硬汗逓歳毎淨附出角璃里寧輯寧輯血韓嘩⋮拶出噴騨輯瀞α哩輯唖弼唖琿唖再滞唖叡哩軍国唖画坦唖璽叡唾唾唾唾唾唾輯騏押怨頓再出輯頓唖軍搦踊澤浦町
へ渡米人なども上陸し、生湘が始まった。その先住氏もやがて雁史
二氏らも川じあったが、やはり判戊人はほかのt地とは異る文化を
んなが收人となられた。さらに判柴背彦氏、本間学太郎氏、井桁朔
は民俗学者が研究されているかも知れない・杣記の杉田さんはずっ
もっていると感じたのである。これが羽茂本間殿治政以来かどうか
の彼方へと蜥踞したが、多くの迩肢を各地にのこした。その後も脇
また多くの文化遺朧をのこし、さらには鉱山の発展とともに多くの
には色々変進があり、やがて流罪の脇と疋められ、その流人たちも
他叫文化が流入し語砿された。仏波は川本文化のふきだまりといわ
で、記憶力、話術、知識とも抜群で農業改良普及にもロマンがあっ
と交際していただき、箪荷からの迦儒にも必ずご岡答をFされた方
たが、一徹のところもあり、それが仏々木仏左術門との柿梨論争の
れる所以であろうか。羽茂も良好の浦や津があり渡米人はここから
らに文明が発進し、バッテエカー荷文化閥ができていってのではない
上陸した。そして羽茂川があり早くから川渦いより文化が開け、さ
た。倣恵を衣する次第だ。竹し仏波の住人でなければ全国的に杣刈
確執となったのか。また夫人もいつ何っても嫌な顔をされなかっ
の地位につけた指導打だと備々冴えていたので、あるときは脳川も
か。戦後間もない噸まで岡崎錐蒋あたりまでが判茂の間間であった
このバッテエ〃一
一両
両文
文化
化間
間の
の人
人た
たち
ちは
は心
心が
が人
人きく気さくの人たちば
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ッ一テ
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小〃拍
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る垂。
カル
ブエ
エ間
催い
まま
てで
て才
︲
一一コ’一コしているばかりであった。
なく光叱に怠兄を巾しfげたこともあったが例のオィベッサン敵で
時に小水膿会を追われた杉川さんを心よく受け入れた川Ⅱ氏、川
ぬことで、これもt地衲ということか。
そこで↓例をあげるが、轆什は仙帳の拙合
り、今Hのおけさ柿の基黙を築いた草創期の人恩人だ。しかしその城
川氏をはじめとする時の指導者の眼力や先見性は秀れたものであ
、ハ
かりのような感じがしてな
なら
らな
ない
い。
。失
失礼
礼乍
乍ら
ら他の地力では考えられ
でよく人様のお宅を訪れることが多かった時
は農村更生運動の最中であったことも併せて巻えなくてはならぬ。
代があり、特に本間掴平翁や分子腺太郎翁、
本間福埒郎翁、伊達修翁、杉Ⅲ滴翁らに
ゴリ
一
さて次に羽柴雪彦氏であるが、彼は佐渡文学界の鬼才といえるの
このように羽茂はどこか他の地方と異るところがある。
ものが多く、今も井伏のファンだという。やはり親の本好きは子の
なり井伏のものを好きで読んだがその文章は一切のムダをはぶいた
古典は基礎だからと古事記を読まされたという。学校へ上るように
本好きにむすびつくのであろう。
ではないか。久知軍記やその他若干の文学ものはあるが、それは別
やがて羽茂農学校に入るが、その頃村には二、三の俳句結社があ
羽柴氏の場合も幼少からの本好きが、文学好きになる要素だった。
として島内で小説などを何編も出版した人はあとにも先にも羽柴雪
彦氏と本間真珠氏だけだろう。彼は飯岡の山居に生れ、幼少より大
の在学巾に読売新聞の俳壇月間賞を貰うが、当時授業料四円の頃賞
り先輩のすすめもあって出入りしていた。そして昭和一八年一五歳
変な本好きであったが、これは父親の影響が大きいと思われる。さ
らには学校へ上ってからは羽生平雄先生の影響もある。父操氏はず
も宝のもちぐされの感がするが、その原因はなんのことはない、親
いく。当時は俳句仲間も多くいたし先輩の藤川忠治も戦後一時期帰
農学校は中退となり、これが機でさらに文学への思いが強くなって
その後は亜浪の﹁石楠﹂に入るのだが、大病を患い入院したので
金は五円であった。
っと月刊の文芸雑誌を購読し、文学全集も揃えていたがこれをこっ
そり引っぱり出して読んでいた。
が本を読まないことが一番大きい理由であり、本好きの人に伺って
るので羽柴のはげみとなった。新聞への投稿や﹁歌と評論﹂、﹁羽茂
郷しており、伊達修一がおり、県職員の庵原健もときどき顔を見せ
昨今は活字離れ、図筈館離れが続いており立派な図苫館ができて
ども兼業化が進み勤め人が多くて本を読む時間はなく映像メディア
らを集めて全集ができればありがたいと願っている。彼は初め児童
説を書きはじめ、未発表のものを加えると大きい数だ。筆者はこれ
のは文学的表現が抜群との評であった。昭和四○年より本格的に小
た。その頃の選者は与田準一、坪田讓治、猪野省三で、羽柴氏のも
三七年三月の廃止までに十四四も入賞し、ベストテンにも入ってい
昭和三六年四月、﹁お母さんの童話﹂を企画した新潟日報に、昭和
万葉﹂へも顔を出していた。
見ると必ず親の本好きが影響していることがわかる。最近、農村な
の普及でめんどうな活字を読むこともないからだ。
子供の側は受験勉強、塾通い、部活などがありとても本を読む時
間はない 。
羽柴氏の場合は少年の頃寺田、夏目、吉川を読み、月刊の大衆文
芸雑誌を読み、鳴戸秘帖などは面白く何度も読んだという。
菊池寛が大衆小説論を提唱したこともあって、大衆文芸誌は沢山
売り出されていた頃だ。
話文庫を刊行してから急速にひろまっていくが、戦中戦後を通じ活
文学を書いていた。H本での童話の普及は昭和二五年岩波が世界童
動したのは小川未明である。ほかにも坪井栄、中野重治、浜田広介、
﹁佃島ふたり書房﹂の出久根達郎氏も物心ついた頃には父の本棚か
でいたが、あまり意味がわからなかったという。あるときは先輩に
ら大衆小説の雑誌や夏目、井伏などを引っぱり出してこっそり読ん
40
けて成功している。佐渡人の歴史好きのためかも知れぬ。
れないといわれ、島内の出版屋はだれも引きうけないからだ。だが
羽柴氏の場合は全部自費出版である。昔から地方での文芸ものは売
椋鳩十などもいる。小川の文学には筋がないという評論もあった。
していた。のち日本リウマチ友の会県支部長であったが、投稿は漢
執り相川中で退職するが、その間県教組佐渡支部書記長として苦労
号からの異色の投稿者は渡辺種利氏で彼は島内各地の学校で教鞭を
力者だった庵原氏も昭和四七年二月急死してしまった。また、創刊
子で、現在は越後文学と改称しその主幹だ。だが、羽柴氏のよき協
発行し今日に至るが、山本修之助氏主宰の﹁佐渡郷土文化﹂にも創
さて羽柴氏は﹁佐渡文学﹂廃刊後はやはり自費で俳誌﹁いもせ﹂を
詩が主で、印刷所では活字がなく困ったという裏話がある。
新町の池田屋書店の池田源一翁は大正の頃から歴史ものなら引きう
羽柴氏は、昭和二九年句集.握りの雪﹂を手はじめに色々の分
﹁嶋山抄﹂、﹁朝焼夕焼﹂、﹁怪力﹂、﹁朱鷺幻想図﹂、﹁年とった燈台﹂、﹁両
野のものを次々と出版する。主なものをひろうと﹁たらい舟の歌﹂、
刊から同人となっている。さらに小林侠子主宰の﹁白炎﹂同人であ
ざしたものをかくことは自分のためでもあり、宿命のようなもので
羽柴氏はあるところに、必ずしも売文を好しとせず島の生活にね
り小林氏他界後は東篠素石と両翼を担っている。
津欄干橋﹂、﹁うたうたう縄﹂などがある。
さて新潟日報は、昭和二四年歌壇賞を創設したのをはじめ昭和三
もあるとも書いているが、これからはどういうものを書くのであろ
○年に俳壇賞、昭和四一年短編小説賞、昭和四三年柳壇賞、昭和四
に入賞したとき選者の有馬頼義氏からは、中央の文芸雑誌のレギュ
四年詩壇賞を創設していったが、羽柴氏が昭和四一年の短編小説賞
うか。
エトランゼの書いたものであり、島で生れ、島で生活している者が
今まで多くの方々が佐渡について書いているのだが、それはみな
ラーで飯が喰える人物だと評されていた。ちょうどその頃前後して
時代が続き、創作活動は思うようにいかなかった。
父母の相次ぐ死と不慮のハプニングやら病気入院やら重なり腐心の
島﹂のあとがきに﹁⋮⋮島の人が自然に体得した暗号をもつが、そ
書いたのではないものが多い。大庭みな子氏はその著書﹁島の国の
れは我々には島に永く住まぬとわからない⋮⋮云々﹂と書いている。
今は今で雑用も多く、もっと静かでないと書けないとぼやくので
三○号以上発行しつづけたのは島内文芸誌の新記録ではないか。ま
ある。羽柴氏はまた、昭和四六年七月自費で﹁佐渡文学﹂を発行し、
その発刊を一番よろこんだのは庵原健氏であった。その熱の入れ
人が現れるだろう。
の利であろうか、この文化の薫り高き羽茂にはこれからも多くの文
めた者たちはみな羽茂の海岸から直接上陸しているようである。地
さて羽茂は古くから連歌や俳譜などが盛んであるが、これらを広
正しく羽柴氏の考えと通ずるところがあると思う。
ようは大変で、県職員として三条に在勤の時﹁なかま﹂主宰の緑川
輝秋氏だった。
た第八号より佐渡文学賞を創設し、第一回はかずまあさじ氏と土屋
玄三氏を知りこの人を同人にさそった。緑川氏は海音寺潮五郎の弟
41
シルクロード↑
ウルムチ
烏魯木斉
たな
ハミ瓜の地にせり出せる店の前
l夏期休暇。仲間約二十名とシルク
ロードの旅に出発。初日、七月二十
kJ邪ルファン
瓜西瓜無造作に積む路地の店
士魯番
五H成田発。一四時五五分の便が北
京の雷雨のため五時間以上の遅れ。
下り立ちてトルファンの夜の秋に会う
おうば
今見つむ西王母の国の桃を掌に
西域の西王母の固き桃を掌に
北京の新世紀飯店に二一時近くに着
とうしい。︵帰途も再び北京に立ち
百田
腰下ろし子ら髪長の胡姫を待つ
ひとよ
海見ざる一生もありて胡姫の夏
指反らす胡姫の蟠りの長まつ毛
朝涼し玉突台に男寝て
天山山脈
炎天をのみ見てバスのゆれに耐ゆ
日盛りや瞼の跡の塚点々
サングラスとり天山の水に触る
さまざまに水に字を書く夏河原
夏河の見えまた隠れバスゆれる
日盛んトルファの葵立ちつくす
アースターナ
高昌故城
四肢そらす胡姫の踊りも葡萄の下
土壁の炎暑の中に崩れゆく
影揺れる炎暑の街に才ちつくす
交河故城
きざわし
階の地に続きゆく炎天下
羨道の狭き下れば昼の闇
アースタ・←ナ
油照り高昌故古墳地に無言
く、異国感。音楽もテンポが速い。
立ちもアジア系のそれより彫り深
青き瞳の人により添う汗の中
紫金城
踊りの甜に、H先生が輪の中に招か
胡姫招く月下の踊り汗の中
たな
汗の中背伸ばしながむ紫金城
きん
黄金の柱音なく廃れ城の夏
湧花たる汗中に見て紫金城
︾﹂考毎
れる。
l夜、民族舞踊を見る。舞姫たちの顔
朝曇りうすき旅塵の靴汚す
拳ほどの桃の香探るバスの中
桃売りの地に膝つきて炎天下
く。翌日、北京市内見学、暑くうっ
寄る。︶
北京
夏の灯をこぼして夜店活気あり
夏の灯の潤む北京の水溜り
子
葺高く 夏 草 生 え し 紫 金 城
炎天の 広 場 広 大 支 那 若 し
鴫
42
旱天の円柱のみの静かさよ
酒泉
Iトルファンを夕刻出発。河西回廊の
ド−ム
片陰を求めて走る廃嘘跡
軟臥︵一等車︶であるが冷房はなく
が左右にある屋気楼を見る。
炎天や幻の町低く浮く
オアシスの都市や左右に屋気楼
屋気楼ここオアシスの道辺なり
莫高窟
は広く一つ一つの洞には鍵がかけて
iこの窟の見学が旅の第一の目的。窟
あり見学の際には案内人が鍵をあけ
をくずす人が相次ぐ。砂漠の彼方に
中で約一日と九時間を過ごす。
きれん
てくれる。窟は時代によって印象の
やま
鉄路灼け覚めてまた見る祁連山
のが多い。一つ一つの窟を懐中電灯
違いはあるが色鮮やかで現世的なも
ポシ卜
軟臥暑くいるき魔法瓶の湯をのどに
軟臥署しポットの栓に釘を打つ
八月や窟案内の女若し
明眸の仏を拝す夏の窟
で照らしつつ見て廻る。
炎天や示す彼方の山脈の雪
は祁連山山脈がうねうねと続く。車
日中は四十度を上まわる暑さ、体調
オアシス都市の酒泉へ向う。列車は
三四人寄るや円蓋の片陰に
物漕ぐ子の瞳の黒し炎天下
炎昼に物震ぐ子は長まつ毛
ベゼクリクチ仏洞
l崖を横にうがち仏画、仏像の洞がつ
づく。現在は盗掘などにより壁面の
絵のみが、かろうじて残っている。
ただし壁画も異教徒によって眼がす
べてけずられている。
i萬里の長城最西端の関である。思っ
炎暑や人肌の菩薩浮び来る
見下ろせば夏河光るベゼクリク
たよりも低い長城が彼方まで続いて
汗に見る女菩薩腕やわらかし
女菩薩の腕長くて窟の夏
とぽ
洞出でて夏日にたじろげりベゼクリク
交っている。
嘉峪関
︵馬道︶があり、そこを燕が多く飛び
いる。城壁の内側に馬が登れる坂道
眼殴たれ仏燦たり白日光
火台の跡がバスの窓から点々となが
’五、六メートル位の高さの士壁の峰
められる。東晋の僧法顕が﹁空に飛
触れてはや壁に冷えある莫高窟
炎昼の飛天の衣うすみどり
八月や飛天自在の裳を流す
翻えす裳の自在なる夏飛天
翻える裳裾の風が汗の身へ
背の冷えや北魏の仏面長に
、’しO
夏燕馬道がありて嘉峪関
夏燕目路長城のうねりあり
l運が良ければ屋気楼が見られるかも
婿然と笑まう仏ら灯にひらく
夏燕舞いて自在に嘉峪関
炎天にまたふり仰ぐ峰火台
アシスに近づく手前に、二つの都市
知れぬと云うガイドの云葉どおりオ
ぶ烏なく、地に走獣なし﹂と云った
灼くる土地烏影もなく陽が落ちる
沙漠の道がどこまでも続く。感慨深
飛ぶ烏の影も見えざる夏落暉
43
ひと夏の光となりて絹の道
アスファルト灼けて今なし汗血馬
地は灼けて汗血馬の道に革瞼歌
この眼、この足でシルクロードに立ったの
クロードヘの旅が今夏現実のものとなった。
︵島の娘に生まれた私は夢のようにいつしか
ニュメントである。︶
とであろう。拙い俳句は自分のためにものモ
だ。深い感動である。生涯の想い出となるこ
炎昼の莫高のポプラ揺れ止まず
八月や邪鬼千年の眼を瞠る
邪気の鼻高し脚下の夏千年
ふりかえる莫高窟のうす挨り
伊藤善兵衛の椎泊衆が華々しく防戦。二番手として今度は久知方の
がおめき叫んで突入する。久知方はこれに応じて、羽丹生七左エ門、
主戦場大手方面の戦は先ず潟上方の葉梨刑部、菊池雅楽の五十騎
ってきた。
上殿本間喜本斉の舎弟である住吉殿で、野崎浜より城の裏門へと迫
搦手へ攻めかかるは吉井殿を大将として先陣は加茂殿、後陣は潟
田殿で軍勢二千余騎。
大手へ向った攻撃軍の総大将雑田殿の先陣は潟上殿、後陣は川原
げ﹂戦端が切って落とされる。
も蒼海へゆりこみ、天地もくつがへるかとおびただしい関の声をあ
二十四日、夜がほのぼのと明けそめると、両軍は、﹁金北山、米山
ら指揮し本丸を固める。
百騎。搦手は池伊豆に百五騎を与え、城主久知殿は二百五十騎を自
福嶋野城子
シルクロードに憧れを持っていた。そのシル
じをのべてみる。
天文六年一月二十四円、盟主・雑田殿本間信濃守を総大将に、川
原田殿本間佐渡守、羽茂殿本間対馬守、吉井殿鮎原大和守、沢根殿
本間摂津守等々、大将二十九人、軍勢凡そ三千余騎がひたひたと馬
泰、家臣合せて六百余騎I。﹁一国を引受け︵ての戦ゆえ︶若し如
坂城を目指して押し寄せてきた。むかえ討っは久知殿本間下総守時
何なる事もあり︵う︶べし﹂と、敗戦必至とみた久知殿は、あらか
じめ奥方、家臣の妻子、宝物などすべて片野尾へ落して待ちうけて
久知方の備えは、大手は羽丹生孫左エ門を将とし、従うもの共二
いた。
’
,
Ⅱ
麦秋や士壁の民家続きつつ
’
二人の女
くだり
|
﹁馬坂落城﹂の催は﹁久知軍記﹂の中の圧巻である。そのあらす
あいこの前
→111
」
'
I
’’
44
いの介、後藤某が進み出る。三番手は、潟上方熊谷孫左エ門、本間
死せん﹂と﹁駒の手綱を引かへす﹂その時、弁才天の森かげから﹁さ
更に久知川を渡ろうとすると、二百騎の敵が追撃して来た。﹁いざ討
久知殿は、今はこれまでと主従五騎でごりがみ坂から弁才川原へ、
儀なくさせられてしまった。
杢、久知方三国掃部、伊藤甚之亟の六十騎、つづいて四番手には須
桧田次郎右工門、本間久右エ門の手の者五十騎。潟上方よりは、ぬ
藤八郎右エ門、小屋の九郎、池左エ門太郎、間将監、緒方弾正の七
り、﹁東西南北、十文字、巴と切ってまはり﹂たちまち百騎を討ち三
十騎を傷つける、残る兵は、ほうほうの態で逃げ散ったのであった。
はやかによるった﹂武者十五騎が突然に現われ二百騎の中へかけ入
一力、久知殿向らが守る本丸もまた大手の攻撃が始められると同
この不審の一隊は敵を破るとさっと引きあげ弁才天の森かげまで帰
十余騎が群がる羽茂勢の巾へ割って入る。勇戦力斗、力の限りをつ
時に戦は開始されたが、﹁切崩廿余丈、屏羽を立てたるが如き﹂地形
ると見る間に、かき消すように見えなくなってしまった。﹁軍記﹂は
くしてしのぎをけづるが勝敗はいずれとも見えわかない。
の上、門を固くかためたため、﹁さすがにきびしく﹂敵が近づけば上
火を放ち﹁只今の為の朋木なり﹂と叫び、激しく攻めかかる。折柄
らその間に椎泊のウラより船で片野尾へ落ちて下さい﹂と申し上げ
て必ず敵は此所へもやってくるでしょう、私が殿軍をつとめますか
へたどりついた。そこへ久知殿も引上げてきたので、桧田は、﹁やが
追々と敗れた味方の兵が加わりようやく百五十騎となり川崎の自邸
桧田次郎右エ門も敗走をつづけ五十騎程を手もとに従えていたが
これは弁才天の化身の援軍であったと思われると記している。
のみで勝負のつかぬままH没となり互に﹁息をぞひそめける﹂と云
より鉄砲を打ちかけ、﹁大木上石﹂を投げかけて防いだので終日矢戦
う状況となってきた。
の西風にあおられた炎は城中へも達し、煙は渦を巻き、ものも云え
つきるまで防ぎ善戦するが味方は次々と倒れ傷ついて行く。半刻程
る。果して吉井殿の三百騎が松田の邸をとりかこむ。桧田は矢穂の
ところが、夜の四ッ時、かねて伐り倒してあった枯松に喜本斉は
ぬ有様となる。裏門攻撃の住吉殿はこれを見るより、かねて内通の
で防ぎきれなくなり門を開き敵中に切って入るも散々に討たれ、残
者に云いつけてあった本丸の犬の馬場からも火を放たせ二百騎で本
城寺ケ沢から城中へなだれこむ。紅蓮の炎ともうもうたる黒煙が新
るは十七騎となって諏訪の森かげから脱出して行った。
がさじと打ちかかる。住吉殿は混戦の中、主従僅かに二騎となり本
胤下総守時泰の切腹を、汝ら武運諾き腹切る時の手本にせよ﹂と大
は皆々討死せよ﹂と部下に告げるや櫓にかけのぼり﹁村上天皇の後
痕、血刀を杖にしつつ、﹁殿はもう、はるかに落ちのび給はん、汝ら
燃えさかる本丸に殿の去った後も戦っていた本間伊織は満身創
たに上るをみて、﹁すは本丸敗れける﹂と、大手、搦手の久知軍はい
城寺ケ沢よりのがれ出る。かかるうちに一の木戸は支えきれず遂に
音声に呼ばわりながら久知殿の身代りとなり、十文字に腹を切り真
っせいに本丸へとって返し、住吉殿の二百騎をとりかこみ一人もの
なり、その上小勢の城方は多く討たれ、散り散りとなって敗走を余
破られ、この木戸によって必死に防戦するも火力はますます盛んと
45
し開きまつしぐらに敵中へ馳けこみ一人残らず討死を遂げる。この
逆さまに、渦まく火炎の中へ飛び込んだ。つづいて部下も城門を押
は、﹁ゆゆしき女武者なり﹂と美しく、はなやかな粧いである。
ひ、練貫の白鉢巻、連銭葦毛の馬に乗り、長刀持ち出し﹂たその姿
の小袖、上には紫倫子に薄に虫づくしの小袖、卯の花をどしのよる
時、あいこの前の別動隊は先ず住吉殿をけちらし鳥羽殿塚より薬研
久知本隊は、城腰を通過し、ひたおしに薬研坂広野へと進む。泰
布く。
待ちうける潟上の本間喜本斉は薬研坂広野に四百騎の軍勢で陣を
巾八尺に家紋の半月を藍地に染めぬいた風にはためく腔旗I。
はば
四人張り十四束︵の弓矢︶葦毛の馬に乗り給ふ﹂と軍記は写す。四
泰時も﹁紋沙のひたたれに黒糸をどしのよるひ、半月の立物有甲、
あるかぶと
有様を見て﹁あらいとほしの久知殿や、百八十余年、さしもゆゆし
き馬坂の城、今日焼野の原と成りにける﹂と寄手も流石に﹁涙を流
さぬ﹂者はなかったのであった。
こうして馬坂城は落城し久知方の戦死者は四百余騎、片野尾へ落
ちのびた者二百騎足らずと云う結果となった。片野尾へたどりつい
た者は、羽丹生孫左エ門、池伊豆、菊池弥四郎、羽丹生七左エ門、丹
夫、緒方源左エ門⋮⋮親松清左工門、甲斐源左エ門、甲斐孫左エ門、
後内記、桧田刑部、栓田次郎右エ門⋮⋮伊藤善兵衛、宇佐美太郎大
決意し、主力を喜本斉が自ら指揮して住吉道を前進、子息孫六は別
五月五日、潟上の喜本斉は今度はこの真更の城を攻撃することを
夜で川崎の真更の城を築いたのである。
決戦の様子は省略することとするが、この戦の後久知殿は七日七
三百騎もこの時原黒の磯へと上陸して決戦場へ急行軍。
十一日の八シ刻戦は開始された。久知同盟噸吉住の本間源三郎の
野へI。
あいこの前の名前はこの時﹁軍記﹂に現れてくる。
親松三郎左エ門⋮⋮そうして、あいこの前。
久知殿は、その後、宮浦宗次郎泰貞の守る両尾城を攻略、久知勢
二百余騎、両尾方七十騎、両尾方は城主以下全滅などのこともあっ
やがて天文二十一年二月十八日。﹁いつまでかくしてあるべき﹂と
隊を率いて川内道から川崎を目指す。久知方は五百騎でしりや川の
たが、十六年に及ぶ久知殿の片野尾での雌伏が続く。
住城へ向う。一隊は吉住浜、主力は梅津浜に上陸、水際に陣し待ち
附近に陣し、泰時、あいこの前は二百騎で薬師道の下の戸の内坂の
夜半に乗船した久知殿は片野尾を発し、海上を本間源三郎の居城吉
うけていた吉住軍を挟撃して撃破。つづいて三月十一日、捲土重来、
こととなる。一方戸の内坂方面はどのようになったか。いざ孫六来
へ躍り入る。乱戦二刻。だが勝負は互角となり双方それぞれ引退く
渡河をまず開始する。押しもどさんと久知勢もしぶきをあげて川中
五日の早朝、おびただしい矢戦の後に潟上方六百騎がしりや川の
守備にあたる。
本斉を撃てと意気は軒高。
宿敵国仲勢を打つべく川崎の澗口へ入る。先ず恨み重なる潟上の喜
本隊は久知殿直率の下に三百騎。別勤隊は嫡男泰時を大将、あい
さて、ここにさわやかに登場してくるあいこの前の装束は﹁白綾
この前を副将として三百五十騎余。
46
気となってしまった。﹁かくては戦かたし﹂とあいこの前は、若干の
れ、打ちとらんと満を持していた時、どうしたことか泰時は俄に病
の従弟の子に吉野と云うあいこと同年で親しくしている女がいます
や﹂と下問する。丹後は﹁壬生の娘ですが、御思召し御座候はば﹂私
や丹後、近う来たれ﹂と云い﹁米山で見し女は、いづくの者なりし
ある日のこと丹後がただ一人で病気見舞いに参上すると、﹁珍らし
ゆえ、御文を下されば吉野からあいこへとどけさせますと申し上げ、
と主力の久知勢はしりや川の線から中川の線まで退き、ここで双方
対時の形となったが日ははや暮れ方となってしまった。﹁軍記﹂は更
取り、返事をしたため深い仲となったのであったが、父の壬生はそ
御文をあいこへとどけさせる。あいこはしばらくの跨踏の後にうけ
兵をつけ城中へ返すこととする。これを見て﹁すは搦手敗れたり﹂
は述べな い 。
彼女の母は、なんとか子供を欲しいものと米山薬師に祈願し、懐
りだがと云うと、丹後は一寸待ってくれ、これには事情があると小
ね、貴公の二男を娘の婿にと申込む。仲人は小屋の九郎を頼むつも
娘も年頃となったゆえ婿をとらねばならぬと思い、一日丹後を訪
れを知らない。
につづくのだが本文の主題をそれるのでこれ以上は﹁戦﹂について
このように、再三﹁軍記﹂に登場してくるあいこの前は川崎の壬
妊して生まれた娘であった。聡明にして美しく育った十八歳のある
と三人で相談の上、これは殿に申上げる他はあるまいと殿に報告す
屋も同道して泰時とあいこの間を詳しく話す。それではどうするか
生惣左エ門の一人娘であった。
川、彼女は米山に参詣したのであったが、丁度この時泰時も丹後内
珠院のある所がよかろうと賜りそこに住むこととなった。
る。その結果あいこは川崎で田地三員五百地、屋敷は真木の現在宝
記ただ一人を供に米山参りに出かけ、途中はからずも二人は行きあ
ったのである。あいこは﹁笠打ちかたぶけ﹂行過ぎたが泰時は﹁あ
れはいづくの者ぞ﹂と丹後に問いかけた。帰城の後しばらくすると
福嶋野城子
あいこの死後は菩提寺としてそこに宝珠院が建てられたのであっ
た。︵つづく︶
﹁何とやらうかうかと御病気になられ、医師よ薬よと治療につとめ貴
僧高層にも法要﹂をなさしめるが仲々快くならない日が続く。
輝忌
一輝碑に対す祷陀の汗の
一輝忌の士硬ければさるすべ
一輝忌の魔王の雲が湧き上
大旱の土壌飛ぶ一輝の
一輝忌の目覚めて固き莫産枕
黒き火蛾翅休めずに一輝の
一輝の忌胸毛の汗は拭きとらず
一輝忌の覚めては強く蝿を打つ
47
人芋の土裏返す一脚の忌
髭粗し一輝の忌日なりと恩ふ
忌りる中忌
拝啓
三一二一一L性
昨日は御親切なお電話、有難うございました。追悼文集立派なも
のとなる御様子、故先生の御業績を考えれば当然とは申せ、実に嬉
しく存じます。
得なかつたこと
倉田藤五
御配慮下さったのは故先生でありました。先生は松本町長や真
み下さってはげまして下さったのであります。
野富に連絡される一方、私共部外無力の者の心願をも温くお汲
知る所であります。私は講演会の日、主催者席で最後まで耳を
に写真や記事があり尊台が町民葬にお話し下さって、既に人の
ハ祭典と講演会当日の先生の御様子については﹁佐渡郷土文化﹂
りましたこと二点、お電話で一層強く思われますので、令嗣である
傾けていらっしゃった御様子が今もありありと眼裏に在って消
御下命で小文を提出しましてから、﹁書けばよかった﹂と悔いて参
尊台に申し上げておこうかと存じ、ここに左記致します。
以上を顧みて、記念祭と講演会につき即座に賛成下さったこと、
えません。一月経って、御発病無念の御帰幽となりました。
イ記念祭のことを故先生に最初にお話し申し上げたのは所功教
①順徳天皇七百五十年祭、同記念講演会と故先生
そして、その成功を見とどけられると崩れる様に御帰幽されたこ
人、多くは二の足を踏む中、終始その実現に御尽力下さったこと、
との三点、感謝申し上げずには居られぬのであります。事業の経
授で、平成三年三月二I一日、私が同行致しました。その時先
た。そして祭典と記念講演会とを是非行うべきだとお話し下さ
生はその話を大層お喜びで即座に御協力を約して下さいまし
緯については書けないことが多くありますが、先日所教授からの
て頂けました事、本当にありがたく感謝してをります﹂とありま
来信に﹁山本修之助翁お元気なうちに七百五十年祭記念行事やっ
いま し た 。
野宮にも蹟跨の様子がありましたし、崇敬者も極めて消極的で
が二つあります。
私はお墓に二度お参りしてゐますが、その度心を打たれること
の御墓所での感激
した一行、言ひ難い感慨で読みました。
ロ記念祭と講演会の実現には、その後、曲折がありました。真
した。記念事業の推進が軌道に乗りましたのは、四年春町長選
挙が終って、松本氏が推進の中核となる形が出来、町観光協会
この間それらの動向に注意しながら終始記念事業の実現に向け
も実行委員会を組織するに到ってからでありました。
48
だらうと思はれますが、遠くここにも一人、右の気持ちを持つ者
のあること、記すべきでした。御下命を頂いた時、咄嵯に﹁急ぐ﹂
知れず、そうでなくとも今度の文集できっと誰かが書いてゐるの
と思ったのが一つ、長さの御指示がないことで却って﹁短くせね
その一は墓石がいかにも小さいことであります。故先生ほどの
ませうに、尺にも満たぬ簡素なお墓で一見先づ驚嘆致しました。
ば﹂と思ったこと●が一つで忽々に書いて控へもとらずにお届けし
御業績があれば墓石いかに巨大であっても怪しむ者は無いであり
の伝統に従ふものであること直ちに拝察せられます。謙抑謹慎の
たのですが、時が経つに従って、つのる気持ちがあり、尊台にだ
しかしそれは、父祖累代の墓石に倣って些かもこれを変へず、家
お人柄と、父祖と児孫の中に山本家の人たる深い祈りに接した思
けは申し上げておかうかと乱筆で記しました。
玉案下
続くといひます。どうぞ御自愛下さいます様に不悉
九月一日
山本修巳様
修巳
﹁佐渡学﹂と言えば﹁山本修之助﹂に冠せられることが、特に拙著﹁佐
のではないと思う。佐渡には明治以来相川県、佐渡県を経て、行政
しかし、﹁佐渡学﹂は、ひとり修之助に冠せられる専売特許的なも
渡のうた﹂︵昭和六十二年三月十三日刊︶以来多くなった。
講演の要旨は﹁追悼山本修之助﹂︵平成七年一月二十五日発行︶
ついて﹂を講演することになった。
苦熱に喘いで七月、八月を送り、今日は九月ですが暑さはまだ
ひが致し胸が洗はれました。
その二は、故先生御夫妻碑陰の句であります。﹁美しくさびしく
冬の虹のごと﹂については先生の御遺言のあること、かねて承っ
て居りました。﹁おくれたる雁にやあらん夜を鳴くは﹂は初めて拝
直すのでありました。
見しましたが、澄んだしづかな悲しみが胸に徹り内なる自身を見
﹂について
これらについては、三月の追悼会でどなたかお話しだったかも
涯
平成六年十月十六日︵日︶、佐渡高等学校の開放講座に﹁佐渡学に
俳
に﹁佐渡学序説l父山本修之助の仕事﹂として書いた。ここ数年、
49
一一1
区画が新潟県に属したが、かって江戸時代﹁天領﹂であったこと、ま
して、それらの全体性を象徴するような人物が、過去あるいは現在
その全体性を引き継ぎ、そうしてそれを書きとめておこうとする志
さらに﹁佐渡の場合、つい先年亡くなった山本修之助さんなどが、
に見い出せることが重大な要件になるだろう﹂と範囲を定めている。
先日、詩人高野喜久雄氏︵神奈川県在住・新穂村出身︶の私あて
である森幾さんの祖父にあたる明治の森知幾などは、みずからその
向をもった人であったような気がする。これに対して、本書の著書
総合的にとらえようという潮流はあったように思う。
た、江戸時代以前も、佐渡は独立の一国であった自負から、地域を
て文字に出会ったりします。一つの地域を﹁学﹂として定式化し、深
全体性を象徴するような人物であったのではないだろうか﹂と述べ
書簡の一節に﹁﹁佐渡学﹂の影響を受けてか、こちらでも横浜学なん
くとらえ直そうとする視点が﹁佐渡学﹂からスタートしたことに深
ている。
の地域を﹁学﹂として定式化し、深くとらえ直そうとする視点は、佐
向性を持つ地域が﹁学﹂の対象となることができると言えよう。し
ようである。総合的な全体像を深くとらえなおそうとするという方
高野喜久雄氏、松本健一氏の一言葉も、ほぼ同じことを言っている
い感銘をおぼえます﹂とあった。私には、全国的視野がないので、
渡には明治以来、意識的ではないがあったのではないかと思う。そ
の範囲を含む必要はないかもしれない。すなわち、自然科学系や生
かし、通常いわれている﹁学問﹂とは概念を異にするので、すべて
﹁佐渡学﹂からスタートしたかどうかという点はわからないが、一つ
﹁佐渡学﹂について思いめぐらしている時、評論家松本健一氏の新
態系などまで含むとか含まないとかということは、本来の学問でな
れが、時代の潮流の中で数年前から顕在化したのではないだろうか。
潟日報︵十一月二十七日付︶の書評︵森幾著﹁佐渡自治国﹂︶に目が
い以上問題にならないだろう。
私の講演を聞いていただいた佐和田町窪田の中川直美氏、両津市
ってきたということであろう。
いずれにしても、現代がそれぞれの地域が脚光をあびる潮流にな
とまった。松本氏はこの秋に隠岐島の町村会主催の第一回隠岐学セ
ミナーに参加したこと、また、一地方名を冠した学問、つまり政治
も経済も文化も自然も総合的に考えることは、他でも可能かと考え
湊の山本健氏のご意見を掲載し、さらに﹁佐渡学﹂を考える契機に
たこと、などが述べてあった。そして、沖縄学がすでにあり、佐渡
学は可能であるが、島でも壱岐学や淡路学や北海道学は難しく、島
したい。
中川直美
私は、佐渡高等学校開放講座﹁佐渡の歴史と文化﹂の受講生です。
○
でなくとも秩父学などは可能であろうが、福島学や兵庫学は無理で
はないかと書かれている。その理由として、﹁一地方名を冠した学問
が可能になるのは、そこの歴史、政治、経済、教育、文化、それに
として一つの宇宙︵コスモス︶を形作っている場合だけである。そ
自然風土・⋮:といったものが相互に密接な関係をもっており、全体
50
例えば、先生も執筆されました佐渡博物館編著、新潟交通発行の
する事物全般を取り扱うべきであろうと考えます。
私は、先生のお父上、山本修之助様が﹁佐渡叢書﹂を始め佐渡に
ます。
﹁図説佐渡島﹂が取り上げている項目も﹁佐渡学﹂の一部と考えてい
本日、先生の﹁佐渡学について﹂を拝聴いたしました。
たが、出版の目的等については、何も知りませんでした。
されることを祈念致します。
○
山本健
最後になりましたが、先生の﹁佐渡学﹂の成果が一日も早く大成
しているのではないかと思っています。
て異なり、伝わる時代ごとに全国の言葉が残され、それが今も存在
言葉にしても関西系、関東系、北九州系、東北系など地域によっ
異なり、日本全体のそれと非常に酷似しています。
思いますが、土地の利用状況をみると新潟県の他の地方のそれとは
﹁佐渡は、日本の縮図である﹂といわれる理由は、いろいろあると
す。
るような気がすることと、更には世界が見えるように思えるからで
この欲望は、佐渡を知ることによって新潟県又は日本全体が見え
たい欲望からです。
島と島民の過去・現在・未来を想い、﹁佐渡﹂についての知識を蓄え
佐渡生まれでない私が、高等学校開放講座を受講するのは、佐渡
関する史資料を復刻出版されていたことは以前から知っておりまし
本日の講義で、先生も良く知らなかったように話され、受講生か
先生は、お父上様は、円山漠北の影響を受けた山本半蔵様の影響
らも質問がありました。
から自らの意見を述べることが少なかったのではないかと申されま
それについて私は、一つには江戸幕府による三世紀近くに及ぶ支
した。
明治生まれの佐渡人の特質かと思います。
配とそれに続く明治政府若しくは大日本帝国憲法の支配下にあった
戦後の民主主義によって、島外の空気を吸って自らの主張を自由
に発言出来る社会が実現しても、長い間に染み付いた生活習慣を変
えることが出来なかっただけのことと思われます。
昭和二十年以前と以降の社会的背景に考慮しながら物事を考えて
みる必要がないでしょうか。
私は、そんな風に考えることでお父上様が余りご自身のご意見を
申されなかった理由がわかるのではないかと思っています。
また、お父上様は、山本半蔵様の様に史資料の収集に徹底し、収
集された史資料を復刻し、後世に取り次ぐことが使命とお考えにな
ここでいう﹁佐渡学﹂は人文佐渡学︵或は、佐渡人文学︶の人文
︵前略︶
次に﹁佐渡学﹂のことですが、本日は、社会科学、人文科学面で
をはぶいたものです。自然科学的立場でなく人文学的立場から佐渡
っていたのではないでしょうか。
捕らえられていましたが、私は、自然科学をも含めた﹁佐渡﹂に関
51
そなえてはいない。
に関する諸知識・諸感覚の総合をさすので、必ずしも学問的体系を
﹁佐渡に関する伝統と文化の総合されたものをいう﹂でよいのだろう
渡学をさすような気もしますがいかがでしょう。佐渡学は簡単に
O
と思います。その紹介された事柄に基づいて、次にそれを理論的に
のを大衆にわかりやすく紹介するのは非常に意味のある事︵啓蒙︶
事については、未知なるもの、或は一部の人にしか知られてないも
○O
修之助翁の仕事は資史料の紹介が多くて研究とはいえないという
んでいます。
佐渡学の今後の展開と﹁佐渡の俳人﹂をまとめて下さることを望
し隼戸﹁ノO
紹介から、逆にかかるものが佐渡学であるという考え方もあるでし
ただ人文佐渡学を展開するに当たって、その研究者の研究対象の
◎
できるでしょうか。︵佐渡学というのと総合者を区別して考えるべ
か。山本修巳氏、修之助翁はその総合者であるとして済ますことが
は生物に関する教科を実科と呼ぶのに対して、人間と文化に関する
きか、総合者をも統合して佐渡学の範囲に入れるべきか、やはり後
広辞苑によれば、ョIロッパの中等学校では、伝統的に自然また
教科を総称して人文科と呼んでるといいます。敢えて人文佐渡学と
者は変でしょう?︶
くなりはしないか、例えば博物館から出版された﹁佐渡島﹂などの
云うわけは、私も実は﹁佐渡学﹂ですと物対象の範囲で視野がせま
内容が、佐渡学の対象ではないだろうかと思うのです。だから人文
学﹂の井州孫六氏はどのような見解で信州学を展開されるか非常に
をつけるべきだが、はぶいたと考えたいわけです。もっとも﹁信州
注目すべきで、そこからかなりのヒントを得られるものだろうと思
います。また人物を中心として展開されるとしても、なぜ信州学を、
私のいう人文佐渡学を定めた人の第一人者は山本修之助翁で、だ
批判するとか、展開するとかになるので、山本翁は、佐渡の人文
人物論としたかの説明があろうかと思いますので⋮⋮。
渡学の立場からみるとやはり落ちるものがある、なぜなら、民俗の
から人文佐渡学の祖といってよい、円山浜北、萩野由之等は人文佐
︵平成六年十月︶
︵学︶的財産を発掘された、或は佐渡の文化遺産を顕彰された第一人
修巳氏に
者というべきでしょう。
面が殆ど欠けているのではないかと思うのです。
山本翁或は山本家が円山氏の流れをくむものである事は否定しな
老いてなほ佐渡学の徒や島しぐれ
両津石川進
佐渡学を標傍となす君なれや幾百年の家霊を継ぎて︵平成六年一月︶
○○
佐渡学の父なる翁逝きて一年継ぐ君湿れる松明燃やせ
いが、円山氏は民俗については欠落していると思うのです。文化佐
渡学とすれば当然円山氏も入ってくるでしょう。
私が修之助翁をドン︵首領︶と云ったのは﹁徒﹂では謙遜しすぎ
もよいが、佐渡学は必ずしも学問ではないから・・⋮.。
ると思うからです。学問という広大無辺なものからみれば﹁徒﹂で
町村長会などでいう佐渡学は、人文佐渡学ではなく広い意味の佐
52
︵十八︶
を果たすべく生まれたのであって、かならずしも幅野氏一個人の動
一一
たちI
の古入琴丁圭月汗
姓﹄肝
同人誌を出すことは自由に作品の発表ができることではあるが、
機によるものではないという。しかし、﹁佐渡﹂が二千部になんなん
﹁進歩党﹂の機関紙として、﹁政友会﹂系の﹁佐渡﹂に対抗する使命
幅野家はそれ程の金持ちであったから作られた伝説で、実際には
金銭の問題、仲間の問題など、面倒な側面もある。その点、いちば
で、しかもその大部分は相川町を中心として吐かれ、郡内他町村に
とする発行数をもつ全盛時代に、﹁毎日﹂はわずか五百という部数
佐渡の新聞事情
この時期、佐渡の新聞は乱立気味で、新聞社の方でも読者獲得の一
のである。だから経営的には来る年も来る年も欠損また欠損であっ
於てはちらほら影を見せる勢力に止まった︵﹁新佐渡﹂大五・一・一︶
ん簡単なのは、加料で掲載してくれる新聞に投書することである。
い人はもちろんのこと、参加していても更に精力の余る人もいて、
策として投稿は大いに歓迎したにちがいない。同人雑誌に参加しな
ところが、大正三年︵一九一四︶森知幾が死亡、同年に局外中立
けていた。
を標傍して新たに﹁佐渡日報﹂が浅香寛によってつくられた。対抗
たが、幅野家の富力にとっては何程にも当らず、幅野が穴埋めを続
大旺Ⅱ年︵一九一六︶几川当時、佐渡には四種の新聞が発行され
上﹁毎日﹂も従前の小型新聞から四六十六倍の紙面に拡張して部数
各新聞の文芸欄にかかわりを持っ者の数は多い。その状況をみる前
ていた。いちばん古いのは、明治三十年︵一八九七︶九月創刊の﹁佐
に、大正期の地元新聞の様子を簡単に紹介しておく。
渡新聞﹂である。当初は本間慶四郎の経営であったが、後に森知幾
の編集部内に意見の対立が起き、改革派の十数名が連快退社して、
も一千の大台に伸ばした。かくして屋台骨を揺すぶられた﹁佐渡﹂
大正四年︵一九一五︶九月﹁新佐渡﹂を創刊する。主だったものは
が社長になると、政治的な意見を異にする幅野長蔵に筆株を加え始
たのが﹁佐渡毎日新聞社﹂である。それ故、幅野は﹁俺の新聞は俺
森知幾の女婿である森守蔵、および小林了俊、塚原徹らで、そこへ
めた。その対抗策として幅野が明治三十五年︵一九○二︶に設立し
が一枚森が一枚読めば足りる﹂と語ったという話が残されている。
53
士、政治家、歌人でもある柄沢寛︵いかづち︶の子息である。最初
﹁毎日﹂の記者柄沢四郎左衛門も加わってくる。柄沢は異色の弁護
った柳原白蓮の恋愛事件にふれたことからはじまった。柳原白蓮は
長の堀部国治が﹁人生の目的﹂を論じたなかで、前月の十月におこ
を張った。この出来事は、同年十一月の弁論大会に於いて、弁論部
元伯爵柳原前光の二女で、九州の炭鉱王伊藤伝左衛門に嫁いだが、
は﹁佐渡唯一の評論雑誌﹂と銘打って、相川からの毎月二回発行で
に走ったのである。この時教頭の伊藤勉治は﹁学生として口にすべ
伊藤の成金趣味に嫌気がさして、七歳年少の大学生宮崎龍介のもと
からざる問題である﹂として中止を命じた。更に妓後の講評で指導
あったが、翌大正五年︵一九一六︶十月からは河原田へ移転して日
﹁新佐渡﹂同年一月一日付の論説によると、当時新潟県下十六郡で
教官の小山治吉が﹁人間は真に生きるよりも善に生きよ﹂と、遠ま
刊となり、狭い佐渡で四紙が競合することになる。
で、三分の一を占めたことになる。各新聞社間の読者争奪戦のすさ
わしに訓戒した。ところが堀部は部長としての閉会の辞の中で、小
発行する新聞は十二紙というから、当時十二万の人口しかない佐渡
まじさが窺われる。ただし、﹁師Ⅱ﹂は、社主幅野が大正三年︵一九
けることになった。それを知った五年生たちが堀部の処分解除を求
山先生の批評は適切でないと反論したことから登校停止の処分を受
と﹁獅子ケ城﹂の詩人仲間である、熊木啓作が﹁ストライキの歌﹂を
めて、談議所に立てこもってストライキに突入した。その時、堀部
なお、﹁新佐渡﹂主筆の塚原徹︵天南屋︶は、一年後中川喜一郎と
一四︶に死亡し、同八年﹁佐渡﹂と合併する。
交替する。塚原も中川も小林も、佐渡中学校から早稲田大学へ進ん
作って、それを歌いながら昼夜頑強ったという。︵堀部談・佐渡新報
だインテリで、その意味では﹁新佐渡﹂の知的レベルは高かった。昭
和二十二年︵一九四七︶﹁佐渡新報﹂誌上の、佐渡の文化運動史を語
社座談会記事︶当初学校側は堀部の親権者、飯田春定師に転校を勧
堀部は埼玉県の生まれ。父が熱心なU迦信者で、十三歳の時越後
る座談会で、出席した当時の関係者は、﹁暑中休暇などには新佐渡の
真善寺の徒弟となり、十七歳の春、河原田妙経寺に入門、同年四月
十日後に復学させた。
佐渡﹂社主宰で文芸雑談会を開いて、畑野でやったり、新町でやっ
佐渡中学校二年に補欠入学し、この事件の時は二十一歳であったと
告したが、飯円に矩汚され、また﹁新佐渡﹂の援護射撃もあって、二
たり持ち廻り式で、二十五回も続く磯況であったという。講師は渡
佐渡が佐渡のルネサンスを形成した﹂︵中川︶という。たとえば、﹁新
辺湖畔、中山烏賊、金子不泣などであった。別に佐渡史談会という
いう。堀部の場合は家庭の事情からであったが、この頃まで佐渡中
編集室には早稲田の学生がうずを巻いていた﹂︵塚原︶といい、﹁新
催しもあって、山本静古、矢田求、岩木拡、中山烏賊らの郷土史家
学校はなかなか入学難で、ストレートに入る生徒よりも浪人してか
業する者も少なくなかった。堀部は後年名を春晃と改め、京都大学
ら入学する生徒の方が多いくらいで、二十歳を過ぎてから中学を卒
が講師に立った。︵﹁佐渡新報﹂座談会・昭和躯・9︶
また、大正十年︵一九二一︶中川の主筆時代、佐渡中学校で起き
た所謂﹁白蓮事件﹂では、﹁新佐渡﹂は生徒側に立ってキャンペーン
54
執筆者の常連でもあった。
に進んで裁判官としての人生を歩くことになる。堀部は﹁獅子ヶ城﹂
ておよそ百三十人ほどである。ただし、この人びとは年に数回は顔
時の新聞への寄稿者の顔ぶれは、別掲資料のごとくで、実人数にし
いてある。総体の人数としては、明治期とほぼ変わりがないように
を出すクラスの短歌作者で、正月の勅題についてだけの寄稿家は省
思われる。新聞ごとの特色を強いてあげるなら、﹁佐渡﹂がどちらか
さて、この事件を﹁白蓮事件﹂と命名したのは﹁新佐渡﹂編集部
といえば保守的で、旧派の人びとの発表機関の観がある。たとえば、
で、﹁教育上に於ける心霊虐殺﹂﹁学校当局者の処置は果して妥当な
るか﹂﹁此の際教育界の革新を要望する﹂など、本人や保護者の談話
大正四年︵一九一五︶から五年︵一九一六︶にかけては﹁神職研究
四十四年︵一九二︶発行の﹁獅子ケ城﹂第十七号巻頭をかざる、特
会﹂メンバーの作品が紙上を賑わしている。この会の性格は、﹁明治
した。十二月卜八Hには、新潟高校在学中の藤川忠治も﹁真実を云
ふこと行ふことに何のおそるるところがあらう﹂と、母校批判の文
も紹介しながら、学校側を攻撃する特集記事を数回にわたって掲載
章を寄稿した。以上のことは﹁佐渡高校八十年史﹂に詳しく書かれ
ところで大正期を通じて、佐渡で発行された新聞のすべてに目を
の大道我邦の大御手振にして人の心のよしあしも隈なく見はる掻も
っておのずとあきらかである。﹁︿前略﹀抑敷島の大倭歌はしも神随
カムナガラ
別会員曙屋のあるじの﹁神職研究会のはしがき、および作品﹂によ
通すことは、六十年後の今日、すでに不可能に近い。ほぼ完全に近
のなれは、千早振る神の御国に生れてみしめゆふ神の社に仕へ奉れ
ている。
い形で残っているのは﹁佐渡﹂で、初期の経営者であった相川の森
る人ともの学はすてはえあらぬわさなるときへゆく月々に兼題ふた
アラ
家と国会図書館に所蔵されている。﹁毎日﹂は佐和田図書館に大正四
っに当座ひとつを出して春の嶌秋の川津をまねひて紀の朝臣が所謂
︵ママ︶
年︵一九一五︶十一月から五年︵一九一六︶二月までのうちの一部
さひつるも天離る鄙の悲しさには歌の道知れる人もなく西に東と久
直言にて心にうつりゆく儘に花に月におのかし魯なにくれと詠みす
方の天雲遠く隔りぬる都路に点乞はんも筑紫櫛さすかにわっらはし
カハヅ
分、﹁Ⅲ報﹂は相川郷土博物館に大正四年︵一九一五︶三月から十五
は初代社長森守蔵遺族宅にかなり残されているというが、佐渡にお
の道とては山路の深くたとりし事は勿れともてにをはの一通のみ
くてとやせんかくやあらまほしと朝霧の恩ひまとはれけるか幸に歌
タダゴト
年︵九二六︶にかけてであるが、欠けている部分も多い。﹁新佐渡﹂
いては、初代主筆の小木塚原家、柑川の森幾氏、磯野写真館、佐和
フタリ
田図書館に残欠程度しかない。
ヲコ
アラタマ
は麓の根の分け入りし事の在れは玉木はる余を推してけれは稲舟の
いなみもあへて烏許人のをこかましくもかく点者めきて僕の年月
一巻となりにければ素より他し人に見すへき物にはあられと後瀬山
を渡れる内にはをのかし甚詠みいてつる歌の数も積りて橿の実の
﹁新聞﹂の歌人たち
さきに述べたごとく、このころの新聞の性格はそれぞれ異っては
ヒトマキ
いたが、文芸欄においては特に目立つ差異はない。調査し得た、当
55
ん﹂﹁一時間十首の歌をよみける時/特別会員矢田治稔/翫山吹/朝
てかくすりいてつれはそのゆゑよしのあらましを巻の始めにかくな
のちのかたみとすり巻に物せんとこたひ活版といへる物にあとらへ
も示す現象である。ただし、小木町の﹁小波会﹂だけは、独立した
のであるし、同時に、地域を超えた交流が活発になってきたことを
が全島横断的に指導者としての地位にあったことをうかがわせるも
が入れ替り立ち替り名前を連ねるといった風である。これは、金子
でもあった。年に数回しか発行できず、割当ての頁数も限られる同
さきにあげた同人雑誌に集まった青年たちは、また新聞の投稿家
旧派和歌グループである。
な夕な見つつ忍はむ口無の色に咲きける山吹の花︿以下略﹀﹂
すなわち、この会は島内各神社の神官有志によって結成された、
レジスタンスの動きと考えられる。しかし﹁佐渡﹂紙上には、﹁佐渡
伝統的国学者流の和歌を標傍する結社で、新派和歌に対する一種の
であろう。この人びとのうちには、すでに上級学校に進学するなり
人誌への発表だけでは満足できない、旺盛な創作意欲があったから
して故郷を離れていて、いわゆる﹁旅﹂から投稿するものも多くい
短歌会﹂メンバーの作品も掲載され、旧派一色というわけではない。
られるが、これは歌会始の勅題に因んだ作品で、概して﹁新佐渡﹂に
た。朝比奈萩葉︵未鳴とも︶、本郷涙果、渡部晶郎、藤川忠治、小野
神官連の作品は大正十二年︵一九二三︶一月の﹁新佐渡﹂にも載せ
は若い人たちの作品が多いことは、その編集スタッフからみても当
歌作者である。明治末年、金子不泣はすでに前田夕暮門になってい
の作品の質はあまり高いとはいえない。
渡﹂を舞台にした杉山皓一等である。しかしながらこれらの人たち
﹁日報﹂紙上の足立とほる、一寸坊志、東風野人、川島愛水、﹁新佐
また、とくに熱心な投稿者として目立つ人びとは﹁佐渡﹂および
健治らがその常連である。
るが、大正初期、自然主義の波は佐渡にも大きく押し寄せており、当
もちろん大正に入れば、作の巧拙はともかく、だいたいが新派和
然のことである。
時の﹁獅子ケ城﹂の作品もその影響下にあったことはさきにみた通
流であり、後期は詩の勢力が次第に強まることで、これはさきに触
当時の新聞文芸欄のもう一つ目立つ現象は、大正前期は短歌が主
この時代のもう一つの特色は、各地域に短歌サークルがかなりの
りである。
つあげるならば、大正六、七年ごろ︵一九一七∼一九一八︶の一時
れた、﹁獅子ケ城﹂や同人誌の現象と軌を一にする。それに、もう一
期、佐渡の文壇全体が沈滞していたことがあげられよう。同人誌も
数できていたこと、さらに神官連以外はそのメンバーがかならずし
われる当時の結社として、﹁佐渡短歌会﹂﹁白壁社﹂﹁紅葉詩社﹂﹁塔
い故か、﹁日報﹂は大正七年︵一九一七︶二月から三月にかけて、北
この時期途絶えているし、新聞の文芸欄も振るわない。投稿が少な
も固定されておらず、かなり流動的であったことである。新聞に現
一人物が二つ、あるいは三つの結社に顔を出す場合がある。とくに、
原白秋、茅野雅子、与謝野晶子、金子薫園、吉井勇等の中央歌壇の
影社﹂﹁小波会﹂﹁裸木社﹂﹁瑛玉社﹂﹁両津短歌会﹂等が見えるが、同
金子不泣が率いる﹁佐渡短歌会﹂には、他のほとんどの会のメンバー
56
作品を数首ずつ紹介している。大正六年︵一九一六︶十月二十九日
での活動の記録は残されていない。つまり、湖畔はグループによる
九一五∼一六︶にかけて﹁佐渡新聞﹂に数回顔を出すだけで、地元
れるのみで、大正期の新聞、同人誌を調べてみても、五、六年︵一
活動を好まない孤高の歌人であったということなのだろう。弟子は
付﹁佐渡﹂に、瓊生なる人物が﹁多恨の詩人、吉井勇﹂が来島した
荒海にして﹂を紹介して、﹁近時佐渡詩壇の振はざること甚だし、漢
集めなかったが、同人誌の親方に推されたり、年下の青年たちと文
ことと、その作品﹁うき恋を忘れんとして来しものが佐渡はも遠し
詩界は日ふも更なり、其殆んど一郡を席捲せんず勢を示したる日本
止るのみにして、其他著はるるもの少し。而して歌壇は五丈原君退
二四︶には﹁純芸術社﹂が結成されて、質的にはむしろ充実した時
は﹁裸木社﹂が、十年︵一九二一︶には﹁潮光詩社﹂、十三年︵一九
瓊生子は嘆いたが、このあと間もなくの大正八年︵一九一八︶に
学論を戦わせていた不泣とは対蹴的である。
︵ママ︶
派俳句は其後傾向の著しく変ずると共に、先づ天南星君去り、烏賊
かんとするかの如く、清君努めず、といへども尚ほ不泣君、湖畔の
したのはしばらくの中休みの時期であったらしい。
期を迎えたことは、さきの項に述べたごとくである。瓊生子が概嘆
君倦み、金亀子君老い、僅かに羽茂に公二楼君、相川に碧郎君の踏み
ものなきを甚だ憾みとす﹂と、慨嘆して、その原因は﹁詩壇の此く
矢田求
斎藤丹
︵五・四・三○・同︶
時ならぬ菫咲きぬと見えにしは落ちたる桐の花にぞありける
本間静麿
︵四・三・一九・佐渡︶
詣で来る袖もかをりて梅の宮さかゆく春を守るたふとさ
一瞥しておく。
ここで、同人誌には参加していない﹁新聞﹂の歌人たちの歌風を
大いに著はるLあり、以って気を吐くに足るも後進の能く追随する
も萎薇振はざるは要するに佐渡郡もお多分に洩れぬ物質主義的思想
の旺んとなれるを示すもの、所謂殖産興業熱の勃興と共に昔時の悠
長閑雅なる生活の漸次消滅せんとするの兆に非ずや﹂として、殖産
興業思想の盛んになるのは喜こぶべき現象だが、繁雑な生活の中に
る時期の修養段階としてこれも必要だと説いている。
あっても、詩を作る能力と素養はもつべきで、連座は否定するが、或
ここで﹁本間五丈原君退かんとする﹂とあるのは、このころから
岩間もる水のしづくも積りては大舟遊ぶ入江とぞなる
詩と短歌の両刀づかいであった五丈原が、短歌から離れて詩の方に
はる図﹂は、不泣については大正五年︵一九一五︶二月、歌集﹁波
万代のすがたも見えて山鳥の長き葉末を垂るる松哉︵同︶
佐々木万雄
︵五・五・一九・同︶
傾いて行ったことによるものと思われる。﹁不泣君、湖畔の大いに著
の上﹂を出版したこと、湖畔については六年︵一九一六︶五月、歌
は歌集の出版以外は、明治末年の﹁海草﹂に参加していたと伝えら
集﹁草の葉﹂上梓のことを指すのであろう。しかし、湖畔について
57
飯田要
眺むれば山のをちこちかすかにも春立ちぬとか霞そめけり
︵六・三・一四・同︶
足立とほる
ひさかたの雲居かすめてほととぎす一声たかくなのりける哉
︵四・六・一二・同︶
束風野人
蜑少女髪の乱れをくしけづり魔が歌うたふ春の荒磯に
︵五・三・一○・同︶
一寸坊志
霧雨のふりつづくにもなかまほし夜着の湿りのいみじくあるも
︵六・七・六・同︶
川島愛水
杉山桐一
かりそめの言ひあらそひのくよくよと幾円すぎても気にかかる
哉︵三・七・四・同︶
なにはさてZ津窒ミシ幻垂だけはふところに遊びに今も忘れ
てあらず︵五・三・三○・新佐渡︶
けられる。川島の本名は愛蔵、加茂村の人。杉山皓一は本名、住所
とも不明であるが、この二人は小学校の教員であったことが、作品
大正後期の新聞に数多く顔を出すのは次のメンバーである。
や教育に関わる散文の寄稿によってわかる。
ご
了J一丁nJ
踊皿幸一nHu〃・イー11l
希望なく生きんはわけてさびしけれゴビの沙漠に此頃は似る
中田湖村
二一・九・二一・日報︶
︵三一・六・一五・同︶
雲あかりほのかに深みたる夕このさび里は草もねむれり
一橋紫葉
︵一二・二・九・同︶
大空の下ゆ高くつらなれる山の端に秋づきにけり
大正も後期になると、このころ中央に次第に勢力を強めてきた、
アララギ風写生の影響を受けた作品が多くなってくる。同人誌に参
加している人たちの中では藤川忠治が、大正十年︵一九二一︶新潟
繁に作品を寄稿するようになる。
高校入学以後大学の期間をも通じて、﹁新佐渡﹂﹁日報﹂にかなり頻
︵一二・五・一六・新佐渡︶
山里のくれいろさびし杉山へねにかへる烏はいそぎ飛びつつ
山陰のしめりをもちしみちの上に椿のはなは朽ちたまり居り
が、神ながらの道を求める道理の当然として、相変らずの敷島の道
︵一二・九・二二・日報︶
矢田、本間、斎藤、佐々木、飯田等神官連は、古今集以来の﹁物
を楽しんでいる。その他のあきらかに旧派の人である足立以外は所
く
八シ手葉ににじむ陽いるも秋づきて庭のそこここにひるの虫な
名﹂の技巧による和歌をたしなんでいたことを、前稿にも紹介した
謂新派の短歌作者であるが、東風野人は明星派の、一寸坊志、川島、
︵同︶
杉山は、土岐善麿、石川啄木流の生活派の影響下にあるように見受
58
このようにみてくると、海を隔てたこの佐渡の島においても、青勇、アララギ写生派の赤彦、茂吉らの作風を追っていることが確か
うかがえる。すなわち、明治二十年代後半からの、明星派の流れをもちろん、当時のマスコミの情報網は現代のようには発達しては
年たちはつねに中央の文壇に起きた運動の影響を受けていたことがめられるのである。
受けた山田穀城らの短歌革新連動にはじまり、明治末から大正中期いなかったが、当時は当時なりの文芸情報の伝達機関があったから
間原
丈
原月
川路歌子・芝雀果
正井ゆき枝・土屋光雪
紅葉詩社
男り人雪香人一咲一泰
み道光芳碧朔一皓
ど
静大岡太朝春丸山桂
比
汀久千次萩東陵
泥
馬宣里郎葉子作村月
﹁新佐渡﹂
木舟屋田上間山屋
﹁佐渡日報﹂
佐渡短歌会
丘暮二・花房草明
黒田初子・本間清
白壁社
湯村洋太郎・本郷涙果
朝比奈萩葉・渡辺碑波
塔影社
本間五丈原・本郷京子
朝比奈萩葉・本郷涙果
金子不泣
苔の下生・鴨の桂月
山本陵村・花柳好美
浦湊村田奈岡本
の﹁獅子ヶ城﹂の少年たちから大正末の同人誌や新聞紙上の青年ので、それは主として﹁投書雑誌﹂と呼ばれる各種の全国版の雑誌で
五桂
黒田初子・太田愁星
杉山皓一
佐藤冠猴・石川清
浜みちを・春泥子
松江みどり・一寸坊志
松田直行・本間一咲
中川杏果・矢田夕潮
金子不泣・守屋泰
知
﹁佐渡毎日﹂
佐渡短歌会
本岩
松井夕葉・太田愁星
白壁社
雪咲
丘暮二・夕町京吉
光一
中川杏果・松田万吾
苔の下生・山口泣杖
古藤星寒・杉山皓一
堀口白二・鴨の桂月
渡辺碑波・加藤緑風
美草梁土太山原本杉守
作品に至るまで、自然主義をとなえた牧水や夕暮、耽美主義の白秋、あった。
泥
宣葉杖子湘雪寒原泣三一水之吾丹雄要世
丈
︻資料⑧︼大正期﹁新聞﹂の歌人たち㈲大正四・五年
麿・本間
郎・飯田
堯・佐々木
里
求・斎藤
孚・小川
豊・赤塚
屋間
﹁佐渡﹂
神職研究会
本間
本間
玉置
矢田
金刺
本間
田中
田
中千
土本
●
●
●
●
●
●
●
●
●
佐渡短歌会
吉・柳
果・矢田
男・杉山
路・金子
清・本間
清・古藤
波・士屋
咲・春
る・岩原
ほ
中川杏
︵無所属︶
辺井 間辺野辺川
畑風村間立
保 八 静
吉野千一と碑光規房
里・山口
人・相田
永・大湊
59
光星五不楊雌暮重金万浜
戸
久玉泣
渡石本渡高渡
名東岡本 足
大正期﹁新聞﹂の歌人たち
﹁佐渡毎日﹂
︵﹁佐渡新聞﹂と合併︶
﹁新佐渡﹂
大正八∼十五年
﹁佐渡日報﹂
本郷涙果・山本陵村
渡部晶郎
高津正巌
本間狂葉・石田孤月
後藤奥衛
高野サキ子・金子彩子
裸木社
野田行円・山本紫雨
一寸坊志・足立とほる
石塚銀星・守屋泰
伊藤春平・野俣桃源
波会︵小木︶
土屋清・藤川忠治
柳沢紅葉・木村不二郎
瑛玉社
外に神職研究会メンバー
早川ちたる・山田秋窓
山本みのる.松井杜泉
石川紅葉林・藤川忠治
朝比奈未鳴・金子不泣
鈴木秋三郎・土屋思秋
水谷準一郎・守屋泰
川島愛水・山田鴎涛
野田行円・児玉波香
大沢城束・小林漂葉
一橋泣草・本間林三
●DD0bD●DDpe●000,●●DpBpe■D6D606りp甲●甲◆04。●。◆合◆g■dq0odQoUQUQD■gdf①Uo9。
近藤俊佐久・本間夕草
大滝一乃利・江南文三
こいけせいじ・中田湖村
︵須藤鮭川︶
石岬つる子
本間幸雄・山田蕪仙
両津短歌会
池野孤舟
田中梅子・土屋定吉
本田青銭・森井玉翠
伊藤勝雄・伊藤安太郎
脇野贋治・中川博麿
池野徳蔵・佐藤冠猴
松田直行・中村秋風
村山忠・川島愛水
一橋紫葉・中川杏果
松本良吉・阿野松二
ノ
I、
﹁佐渡﹂
︵未調査︶
(
二
)
60
い﹂
高野
メッセージにして送るだけで、ローマには行きません。年末の恒例
リー’一より送られて来ました。私は、日本の現代詩に対する管見を
来る十九日の、ローマでの催しの内容が、訳者のヤスコ・サンマ
語訳のテクストを、イタリアの作曲家に作曲してもらう、という話
女声合唱曲となることに決まりました。これは、はじめ、イタリア
な出会い﹂も、平成八年初演で、気鋭の作曲家、木下牧子の作曲で、
日本の現代詩の流れにはいささかうんざりして、冬眠を続けてい
たのですが、高校の教科書や、今回のジューリア・ペローニとの出
日間ほど帰国したヤスコ・サンマリーニにも会いましたが、﹁ョIロ
会いやらで、のっそりと土の中から出て来た感じです。十一月に十
十二月十二日
山本修巳様
︵新穂村出身鎌倉市在住︶
いよいよ今年も押し迫りました。何卒、よい新年をお迎え下さい。
ようです。ありがたいことに思っています。
いのち﹂もイタリア語の外、英仏語版も作って広めて下さっている
ッパに、日本文化を理解させよう﹂とする行動力のある方で、﹁水の
ジューリア・ペロー’一との出会いに励まされて、新しい詩集﹁出
曲は、若手実力派の鈴木輝昭氏で、すばらしいものになりそうです。
団が、とりあえず一曲だけ初演。全曲の初演は来年の予定です。作
宿願の合唱曲﹁朱鷺﹂も、この十八日、巻町のアルカディア合唱
ということで、思潮社から来春には上梓されるでしょう。︶
ろ迄進行しています。︵詩集が売れないらしいので、稿料、印税なし
会うため﹂も三十年ぶりで出す気になり、間もなく初校が出るとこ
社が現われれば、出したいのだが、とのことでした。
反応を見て、今回の伊訳テクストをまとめた詩集を出すという出版
もらう方が先かなと思ったのです。
また、今回、ローマでの発表が先になった書下しの組詩﹁不思議
薑套
もあったのですが、やはり日本語のままで、日本の作曲家にやって
お変りございませんか。川ごとに冬の深まりを感じます。
1−−
となっている、ジューリア・ペロー’一の催す﹁詩人の集い﹂らしく、
未c
今回、はじめて日本の詩人がとり上げられたとのことでした。この
I凹
朱鶯が滅び去ってもこの合唱曲だけは永遠にうたい継がれてゆくこ
とを信じています。
61
農
ジ竪縦沙嫁撫べ鐡雛蕊礁洪懲詩人紹介と藷朗読
混睦詩毒集落
真野町俳句会
平成六年十月十八日
真野町体育館
村寝落つ籾乾燥の音の中滝口たづ
籾摺の険の匂ひ通勤す
俳句寺萩のアーチをくぐりけり
島倉盈月
木の実落っ狢を祀る朱の鳥居中野晴代
秋の蝿畳の上で死ににけり
国○吋、○の.の己吋詳○今司、幻○コ宮口
場所弓8吋○○閏呂の風
日時一九九四年十二月十九日十八時
秋まつり文弥太夫の鼻めがね
晩秋や公園の馬に乗って見る若林うた子
護国祭寡婦の背に来て赤とんぼ
燈下親し三四二先生〃死生観〃菊池芳女
叱らざる母とはなりぬ鰯雲
テーマ日本の詩人・高野喜久雄の作品
高野喜久雄
ジューリア・ペローニ
敗荷やわが影すでに折れてをり滝口恵倫
さびさびと葬の道の野紺菊
亡き父の机に座して虫を聴く
秋草の蔭に心中墓のあり
暗がりの男の下げし尾花蛸
薄月の上がりてつるべ落しかな右近ふみ子
山本修巳
秋夕陽﹁白き砂﹂の碑砂ぬくし渡辺やす
山本修之助詩碑
竹箒たてかけてある萩の庭
白菊や軍歌は今もすらすらと鶴間千世
竹とんぼ飛ばして天を高うする
やれはす
ジューリア・ペローニ
イタリア語翻訳者ヤスコ・サンマリーニ
︻プログラム︼
◆私の見た日本の現代詩
あなたに.噴き上げ
野喜
喜久
久雄のプロフィールと作品解説
◆高高野
◆詩の朗読
空・独楽・言葉が欲しい。崖
手・崖くずれ
﹁独楽﹂より
﹁存在﹂より
蝉・鱒
﹁荒地詩選﹂より
﹁この地上﹂より
風が告げて行く
雨・水たまり・川・海・海よ
﹁確かなものを﹂より
あなたに・どこから.出会うため。捨てる
﹁水のいのち﹂より
﹁出会うため﹂より
なぜか痛みが・許せない朝.絶えず聴こえた・
作品について感想・批評・自由討論
来ています.どの目覚めにも
﹁不思議な出会い﹂より
◆研究討議
62
紅白帽とんぼ行き交う写生会
稲を刈る鎌をかざしぬ道問はれ逸見不愁
ショッピングカー連れて此処迄石蕗日和
民宿に烏賊の肝食べ小六月
水の輪が重なり合って水澄みし
人口が三倍になる佐渡の夏磯野スミエ
夏蝶の沼の水面に来ては去る
夏帽をかむり再び旅の人鈴木スエ
菊池芳女
虫喰ひの 秋 茄 子 遂 に 曲 り け り 内 田 正 雄
蟇の秋人の記憶のあやふやに
新米の味ことさらになめぜ味噌中野晴代
旅人の身ぶりおかしく盆踊
蜂吾れに一瞥くれて水を飲む若林玲子
打ち水をして念佛の客迎ふ
母と見る真野の入江の遠花火井藤ミチ
後の月都庁の上に出でしかな
秋Hさす歳三饅頭買ひにけり山本修巳
新撰組土方歳三生地
鼬風の進路あやふや稲架を解く
郵便箱の 屋 根 が 猫 の 座 天 高 し 諸 橋 和 代
真野町俳句会
穂はらみの豊作話はずみをり森かほる
菊茄の交換ぱなし墓の前渡辺やす
病みおればけふの日長し夜の菊
平成六年十一Ⅱ二十円
新涼や我も一姓み佛に
真野町体育館
女ひとり囲ふ石垣蔦紅葉
秋まつり終へてへなへな幟下り諸橋和代
冬ざれのさびさび渡る風の音右近ふみ子
ひと
封印に錦秋とあり書の教師
嫌なこと聞かぬふりして赤南蛮鶴間干泄
未知展を出て輝ける冬の海
炎天下整列をして兵の墓
一と雨に喜びあふれ貝割菜水上千代
きんぽうげ句会九月例会
晩年という境地あり秋刀魚食う逸見不愁
あるたけの菊を供へん母の墓
女神 山
魔崖仏釣瓶落しにH鼻消ゆ滝、恵倫
千手仏おん日を細め涼しけれ水上千代
梅漬けて喜寿となられし母なりし
明易きことのいよいよ魚市場神戯ひさし
新涼の湖へさらさらホテルの灯
今朝秋の魚跳ねてをり魚市場神蔵ひさし
黒揚羽秋海東にぶら下がる
月の夜の白き一叢韮の花林部ムッ
落日の刹那を燃えて峡紅葉
熱き茶を喫すしあわせ白露かな
蚊の羽音耳元太く通りゆく若林玲子
きんぽうげ句会八月例会
わが仲間出好きばかりや野紺菊滝口たづ
萩の風重ねし枝を持ち上ぐる
天辺に色極まりし蔦紅葉
紅葉見に女神の裾を踏みにけり島倉揃月
葬ゆく立冬の空うつくしき
大らかに大佐渡山の大やんま森かほる
ダム底の吾が田透けゐる旱かな
殿様のお通りの如山の霧
丸窓の紙新しく木燈龍本間いつ子
さわさわと吹く風秋の香りのせ塙ユキ
烏帰る紺青の海真っ平
虫の音やどこかに指揮者きっとゐる
露一つ落ちし水輪の広がれり中川民子
冬麗の海見て癌の検診に若林うた子
草刈りの枯れしあざみに刺されけり
もみじ葉の遊ぶ社の石だたみ内田正雄
63
そよ風が小さい秋を運んで来磯野スミエからからと落葉を追いし落葉あり
つゆ草の花一面に空の色渓谷の岩より秋の深みゆく中川民子
大根種三つぶ三つぶとまいてゆく美しき水の集まる秋の川荒貴キクエ
より添へる千の地蔵もそぞろ寒
よその子も叱りし昔赤のまま神蔵ひさし
きんぽうげ句会十一月例会
芒の穗天に真直に開き初む本間いつ子刈田焼く煙に風の生まれけり
張りつめたもの切れし如大秋雨
一雨をもらいし虹の美しき中川民子
幾度も稲妻島を浮きたたす
きんぽうげ句会十月例会
﹃IIOIIII0III0III0III0II10IIIIIII8IIIIIIIIlII0III0III8II10III001001Ⅱ1080160Ⅱ000Ⅱ8009080皿
も
イノデ︵扉カット︶
一書いた。イノデとは、牧野新日本植物圖一
一亥年に因んで、ウラボシ科のイノデを一
一鑑によれば﹁鱗片を密にかぶってこぶし一
ーノシシ︶の手になぞらえたもの﹂とある。一
一状に巻いた若葉を毛むくじゃらの猪︵イー
一葉柄に密生している鱗片は、赤褐色で、一
一下部のものは広皮針形で、上部になるほ一
一ど細くなり毛のようになっている。こぶ一
森かほる
脂曝の港の隅の萩の風神蔵ひさし浜風のとどくところに干大根
山茶花のこの一本の花盛り
月光の渚てらてらてらてらす立冬の庭とび黄蝶居ずなりぬ林部ムッ
r・︲11.1・︲11.1・︲!︲!︲!︲11,︲111!︲!︲!’︲l‘l︲,!﹂
一意外な発見であった。︵長嶋陽一︶一
一色の艶やかな葉はなかなか気品があり、一
一型の株立ちのものを鉢に入れると、濃緑一
一冬場で緑が少ない時だけに、うんと小一
一もんね。﹂といってやった。
一いった。そこで、﹁そりやあ我屋敷の内だ一
一なところにあるのを知っていたわね。﹂と一
一イノデを取ってきたら、家内が﹁よくそん一
一蕊の降る夕方、我家の薮の土手にある一
一ど想像をかきたてられるのである。
一し状に巻いた若葉は、よく見れば見るほ一
蕎麦刈ってただ黒き土黒き畑森かほる掃き寄せし落葉と風が遊ぶかな
萩散ってしまえば蝶のそつけなく灯して紅葉の宿の暮れそむる井藤ミチ
秋郊の天地つなぎて二重虹林部ムッ刈田より翔ちしま雁の群つくる
ひがな降る樺落葉に老いゆける大佐渡山壁深うして眠る水上千代
離れ行く島を眺めて秋惜しむ井藤ミチ冬蠅と戯れている老一人
札所より出でし遍路の花野行く大根を諸手に親子提げて来し磯野スミエ
塩の湯に車の続く野菊晴水上千代神の旅落葉を焚いてお送りす
とりあえず紫苑高々活けにけり
猫に膝貸してをるなり秋夕べ若林玲子
敬老日夫に喜寿の祝菓子磯野スミエ落ちそうに冬の三日月湾の上
本間いつ子万歩計つけておしゃべり日短か
母と子と助け合いつつ障子張るカラフルな小春の蝶みえかくれ中川民子
朝寒や青年僧のきびきびと
水澄みて流るるものに影ありぬ朝霜や鴉一声で飛んで行く塙ユキ
64
橋一シかかる県境水すめる
宅地化す川中島や春の雲
いすず川流れ清らに若葉風風間邦子
片付けは定位置と決め明の春松田すづ
柿作り定年無しと摘蕾す
柿落葉今年も此処が吾が住処佐久間正
紫陽花を毛槍と立たせ奉行坂
欠け仏それぞれ苔の花衣山田みさを
船絵馬に茅の輪くぐれる浴衣がけ
庭草に混れる紫蘇や摘み残す村田英明
銅擬の音を長くのこして夏至の船
日の暮の少し早まり夏至の雨菊地暁村
竹の子にまねて伸びたし句の集ひ
紫陽花が雨にぬれをり藍となり奥野カョ
青葉道行くドライブに海も凪ぎ
お使ひも自転車で行く初夏の道影山タケ
息つめて聞くうぐひすの谷渡り
それぞれに土の顔持ち七変化齊藤祐子
急げば手後ろに組みて年の暮
雨あがり今日飛ぶらしき燕の子渡辺一子
誰が住むか爽竹桃の垣高し
いもせ俳話会八月例会
磯遊び紅の鼻緒のにじみけり
裏戸より曲りて抜くる青田風
11︲II010oI0・IIoIIoII06l001001︲110’100101:010’’’0IQnl0010ol0I00j
マンリョウ︵目次カット︶
一との願いもあって、実のなる木をいろい一
一我家の庭には、小鳥が集まって欲しい一
一ろと植えてある。カキ、ナンテン、ウメモー
ードキ、ベニシタン、マサキ、トベラ、ピラー
一など。
ーカンサス、マンリョウ、センリョウ、イヌー
ーッゲ、ヤツデ、ヒサカキ、ムラサキシキブ一
一いか、ウメモドキの実こそなくなってい一
一今冬は、新年になっても雪が少ないせ一
一んど手つかずだ。
一るが、ナンテンやピラカンサスの実は殆一
唐門に歳月のいるあぢさゐ寺生田政春
一木で、茎は直立し、枝をよく出す。夏にそ一
一マンリョウは、ヤブコウジ科の常緑低一
一実と二年分の実がついていたが、春に見一
一たら一個も残っていなかった。
一昨年、庭のマンリョゥの木に、一昨年の一
リサイクル二円十銭このゆかた今井アイ
きりぎりす間へる方の耳で聴く
石川富子
さてどこに干そか梅雨晴れ切らず
梅雨の隙乱舞の蝶の白さかな八木清子
娘のズボンサイズが合うて梅を椀ぐ
壺焼や佐渡にひとりの盟職
小判草小判鈴成り金蓄らず楠美飽緒
村田英明
r・1.1.1.1.−.’11.’!︲!︲!.!︲11.1.︲!︲11.1︲︲!’﹂
︵長嶋陽三一
一今冬は一粒の果実もない。今年は金︵万一
一両︶には縁のない年なのだろうか。
一昨夏は猛暑のためか、花の数も少なく、一
一ブ︵︾O
一個つける。後に朱紅色の球形の果実とな一
一の枝の先に、柄のある小さな白い花を数一
梅雨冷えの鯵吹き飛ばす娘の電話
ピッチャーの化粧にあらぬ汗の膜羽柴雪彦
自転車の明りを消して田水引く鈴木黎子
石仏の群るる峠や時烏中川紀元
汗の奥からピッチャーの孤独な瞳
朝焼の飛行機雲や月を切り
いもせ俳話会九月例会
擢先に光の雫夜光虫
蟹股の夫婦ぺたぺた畦を塗る高埜健蔵
おぼ夜のゆらぐ能面薪能
摘果期や夕餉す爪の蒼き渋畠野かつじ
柿摘果爪を鋏に変へにけり
65
旱川嗽されて犬鯉を追ふ
病む友へ蝉の声入れ長電話奥野カョ
知床の攻塊の実の小さかり
馬群れて遊ぶ北国大夏野石川富子
中食の輪が出来蛍ぷくろかな
髪洗ふ風呂場をのぞく星の群
廃校の軒先つばめ子沢山高埜健蔵
心もち若づくりせる夏帽子
蝉時雨うっらうつらの目覚めかな
祖を知らずこの家を継ぎ墓洗ふ生田政春
命日や甘酒冷やし人に出す今井アイ
先づ水を湛へ沢潟活け始む佐久間正
っいと来てテレビ見てゐる鬼やんま
物売りの声の透りて盛夏かな齊藤祐子
鉄塔の工夫一日灼けどうし
沢潟を活けて待ち居り茶飲み客
いぼ竹の狭庭明るし濃紫陽花山田みさを
行く先も百合の香ばかり山の路渡辺一子
またたびや三戸の部落に嫁が来て
るのが面白いのであってかまきりは二の次。
もう。そして﹁穴無数﹂に決めてからも、果してこれでよい
までに﹁穴の数﹂とかいろいろな言葉を当て嵌めて見たとお
﹁穴無数﹂に俳譜の妙。但し﹁穴無数﹂という表現を得る
羽柴雪彦
裸寝や一瞬怖き不整脈楠美砲緒
三粒ほど雨を恵んで台風去る
ダム湖水紺碧にして青葉風
旅人となりて青葉の銀閣寺影山タケ
残炎を汽笛吃りて入港す
残炎に延べし桟橋舌のやう
白波を蹴立てて舟や五月晴風間邦子
水運ぶ人の背光るのうぜん花
船旅の湯槽に夏の日本海
子への荷に曲り胡瓜も添へにけり
旱曇天に遊ばせ野菜萎ゆ畠野かつじ
紫蘇の香に酔ひて紫蘇刈る夕まぐれ
黒揚羽誰が染め付けし朱き紋鈴木黎子
朝の田にはや居据われり旱雲八木清子
旱雲見上げて老の歎きけり
小笠原和男
撫子の岩に咲きゐて風そよぐ中川紀元
七夕の笹に娘の願ひ揺れ菊地暁村
昼寝覚朝と紛ひし暗さかな
秀句解説
かまきりを入れ紙函の穴無数三浦秀子
結局は原点に戻って何の街いもなく言って退けた﹁穴無
のだろうかと自問。
少くとも﹁見た、感じた、書いた﹂の実践者に違いない。こ
こんな平凡な日常の出来ごとが一句として完成するには
数﹂に軍配。
手の紙函にはそれが当り役のようだ。ときどき子供達が中
の初心こそ大切。︵﹁初蝶﹂一月号︶
カミキリ虫と比べてかまきりは何となく弱々しい。やや厚
函の上下左右に穴があけてある。中を覗くとそこにかま
きり。夏休みに子供達が作った虫籠の簡易型。カブト虫や
の様子を見に来ているようだが、どちらかといえば紙函を作
副
66
家中に満ち秋刀魚焼く黒けむり本間ミキ
秋暑し一つ忘れし町用事
括るすべなき程に萩乱れけり石川富子
台風のわづかにそれて慈雨となる
秋明菊膨らみて陽に裂けさうな八木清子
大汗のシャシを枕に憩ひけり
いもせ俳話会十月例会
明日は尾瀬寝られぬ夜の明易き村田英明
キリシタン塚を囲みて曼珠沙華
ひらがなの手紙とどきし敬老日渡辺一子
赤き酒かしげて妻も月の客中川紀元
端居すや老女誰かを待ちあぐね
夜の哀れ集めて雨の曼珠沙華
酔ひ醒めず寝られぬ船の揺れと蠅
巫女舞へば気の澄み渡る神楽殿風間邦子
銭湯はなじみどうしや菊の風呂
仏壇に声かけて出る茸狩今井アイ
母を待ち寝つかぬ孫や星月夜
巫女の舞ふ白足袋に日の薄く射す
さはやかに朝の体操始まれり奥野カョ
米山に今日も雲無き旱かな佐久間正
踏まないで松葉牡丹は士に咲く鈴木黎子
お祭の屋号で呼びし花の札
耐へ兼ねて秋萎び出す炎天下
お祭のたらひ競争ペアで漕ぐ山田みさを
花木橦老二人連れバスを待つ八木清子
烏威し張るは気持の烏威し
遺産処理また蒸し返す炎暑かな
ゆるやかに花火の消えて拍手やむ
一斉の鈴虫電話妨害す楠美龍緒
草市はいとも静けし夜明前
薄吉く島近づくや春航路
青葉風研修横目にはしゃぎをり風間邦子
鎌入れの日は日曜日試運転
海見ゆる山なり蕎麦の花の海菊地暁村
秋夕焼子の部屋で鳴るオルゴール
十月の空っっぬけに子等の声石川・富子
新浴衣こはばる様に踊りけり
夏祭赤い鼻緒のわら草履今井アイ
まほろばや等級さがる旱米
菊地暁村
ぬひぐるみ離さぬ孫や夏の風邪渡辺一子
無住寺椎の実ころぶ墓の傍
かみなりの助けの雨を田に湛ふ羽柴雪彦
熱帯夜妻のヌードが居間通り
帰省子のでんぐり返る青畳高埜健蔵
切口のみどりの嬉し初胡瓜
初茄子を宝のやうに抱へたり松田すづ
秋海業ころりと落す雨雫
秋めくも路上の暑さ画廊まで中川紀元
いもせ俳話会十一月例会
花茗荷佳人はなくて脚長し
秋刀魚焼く歌も流るる厨口奥野カョ
鰯雲に乗って行きたし母の里
風を背にペダルの軽ろし麦の秋高埜健蔵
夏犬の喘ぎ連ねて峠道
ちちろ鳴き児らとても食ふ夕餉かな
墓洗ふ子無き長子も老いてきし本間ミキ
高原に尾花のゆれて雲流る
十六夜を歩く女の万歩計山田みさを
糸瓜取りたわしとなせし昔かな奥野カョ
稲妻にかけ寄る孫の手はぬくし影山タケ
いちぢくの笑ひころげて箱の中
川音を沈め峠は深緑村田英明
虫かごの蝉が鳴き出す昼下り
輪になって西瓜ほうばる三世代影山タケ
片蔭やシャシに緑の柄を描き佐久間正
つけ加ふ夏のコースに水族館
黒雲は降るかに見せて台風圏
観音の堂の破れより稲の波齊藤祐子
67
こつこつと杖の音する村日中
靖国は外人多き秋まつり
杣の妻釣瓶落しの草を焼く
宮川美晴
どの茎がどの花の茎曼珠沙華
高這いの孫の尻をす秋の風中川紀元
赤い羽根付けてほほゑむ幼な孫
能管に炎は舞ひぬ秋社中川紀元
湯治宿土間に茸の一筵清水ムッミ
大鳥居秋日に映ゆる明治神宮
熊坂の長刀が切る薪かな
谷川岳ロープウェーやみどり濃き
妹も娘も見てゐるだろか十三夜鈴木黎子
消防大会集合剛叺の稲穂ゆれ本間ミサ
脚線美日傘くるくるまわし行く宮川美晴
朝日射す隣家を向きて木橦咲く
大鍋に茸まるごと湯治宿
小鳥来て図鑑ひもとく昼下り
太き火を源氏蛍とだれか言ふ生田政春
今日も照る仇のごとく鏡拭き
芒穗と鶏頭供華に野の地蔵
曼珠沙華咲いて無住寺なほ淋し須藤たえ
青竹に投げ入れられし桔梗かな齊藤祐子
郡郷のリールリールと犬の墓
雨予報ライトを照らし稲を刈る
籾積んで帰りたのしき月あかり山城やえ
稲刈ってすする末生り西瓜かな清水ムッミ
流鏑馬や秋日箙︵矢箱︶をきらめかす
野分前電池売り場の混みゐたり本間ミサ
かい
なぎなた
鶇と妻いちぢく割ぜるまで待てぬ
古稀過ぎの肩には重荷おけさ柿楠美胞緒
夜涼みに性別不詳なるも混み羽柴雪彦
浄め潮竹筒で撒き神輿出づ
蛍袋月に影待つ返り花
峡田刈る鎌音に揺れ釣舟草池田幸子
稲刈りにきつね雨来て慌てさす
すぐそこに虹の足立つ秋野かな池野よしえ
コスモスに触れて枢の出てゆけり
夕暮れて帽子で払ふ稲ぼこり後藤綾子
初なりの灯れるごとき一位の実
職退きし葉書届きい石蕗咲きて池田幸子
赤飯を土産に辿る野分みち
秋寒や迷惑面の犬を抱く本間しげる
大太刀の影振り回す秋の能
平成六年十月白水会
木菖
尊厳死の話となりぬ盆の客平岩静
えびら
飴好きの蟻が宿とす包み紙
木毎
平成六年九月口水会
二燭光に浮きしくさぐさ盆提灯池野よしえ
帰省子が研ぎ物をして発ちにけり
しみじみと長き便りや秋夜長本間しげる
めがね
新涼や歴史書に飽き老眼とる
鈴なりの柿の影置く観音堂
母の忌に行く台風の兆し荒れ平岩静
台風前急がぬ雲に急ぐ雲斉藤しずえ
うたたれの夫草到つけしまま
台風が来ると言ふのに赤とんぼ
濃き茶たて婚の菓子食ぶ秋の宵石川富子
雨ほしや女寄り来て水喧嘩後藤綾子
鴎高音折り鶴並ぶ長屋門山城やえ
飛び立 て ぬ 子 燕 は げ ま す 親 燕 須 藤 た え
法話終へお斎の膳に心太
鳶ねらう傷の燕を援護の群
線路道つづく穂波は晩稲かな斉藤しずえ
68
木薑
えのころ草穂先黄金に夕陽かな
金木犀芳香放つ古き壷宮川美晴
茶の木咲く芯金色に峡の朝
タンポポの黄の鮮やかに返り花石川富子
立冬や大根の太り目立ちけり
弥彦見ゆ旅籠に友と篭うまし
風のなき紅葉を揺りて鏡池山城やえ
深編笠の男をみなや風の盆
雑沓の奥ゆ恋唄風の盆
千鳥ヶ渕墓苑夏菊手向けけり
秋灯紬の縞のしをりかな
小屋に干す犬のマットや冬うらら
産士の垣の山茶花日和かな
地震に似て夜半のたまゆら雪起し
露けしや亡母に貰ひし旅茶碗
燈下親し三四二先生﹁死生観﹂
ゆんで
手作りの豆本左手冬珊瑚
湖と海の狭間の街や寒昴中川紀元
四十雀も雀も戻る軒先に須藤たえ
平成六年十一月白水会
ねこ筵敷ける信濃の大囲炉裏
そぞろ寒俳譜堂の擦れ唇池野よしえ
黒股引細き男ら風の盆
梵妻の美しかりき落葉焚︵文珠院︶
菊池芳女
禅寺の鉛の屋根や百H紅
水の秋能登金剛の夫婦岩
瑞竜寺の扇垂木や晩夏光
師走晴れ障子に梅の模様かな
木の葉髪
總持寺の掃除小僧や麦桿帽
詩歌への見果てぬ夢や木の葉髪
柚子安値小豆高値のバザーかな
逝く年や脳のCT撮るとせむ
なゐ
たづ様の炊きし新米脛衣脱ぎ
69
開け放つ本堂深く蝉時雨
筒烏のくぐもり鳴くや旅の朝本間ハツ
落葉踏み低き国土を指さして仏前に妹の写真や秋彼岸渡部ヨウ
萩の花描きし友の葉書くる
朝清し山百合匂ふ庭散歩本間エイ
熟睡のできぬ暑さの続きけり
本間ミサ豊作に顔ほころびて祝酒
犬を飼ふ家族会議や秋寒し
旅人に席讓らるる盆参り
紅葉晴れ一万越へし万歩計後藤綾子運動会応援合戦勇ましく
金子ハツエ
青黄赤色づく紅葉遊歩道池田幸子名月の雲間に少し顔を出し
御拝口あまたの箒木の葉雨裏山に羽音のこして烏渡る石原キミ
まず障子貼りよりはじむ娘の住居野尻湖に土産買ひをり秋の旅摩尼マツ
洗面し猛暑の汗を流しけり
弟を見舞ふ枕辺百合の花野崎セツ
喜雨ありて上の香りのいちじるし
立葵鴨居にとどく孫の丈信田光代
今日までの秋陽の中の布団干す斉藤しずえ雄大な志賀高原は秋の色
大道でおしる粉賜ぶ文化の日清水ムッミ針の穴見えて通らぬ秋の縁
日向ぼこゆっくりゆれる秋桜金木犀香りただよう荘の庭藤井カョ
面彫の木屑をとばす文化祭万緑の中に病む松立ち枯れて服部志保子
里に来て高波横に送り盆
花火見る島の港は賑わいて本間ツネ
夏なれや渚にはしゃぐ児等の声本間干博
かたことと小春日和の万歩計本間しげる萩背負ふ人山下り六地蔵
色変はる田の面に秋の忍び寄り
久々の日和に石蕗きは立ちて蕎麦の花山の畑を真白に石崎いせ
犬と来るだけの道なり菊の垣平岩静虫の音に寝むれぬ夜の明けにけり
道白しいつまで続く旱かな
炎天下話は水と天気のみ嶋田寿美子
墓洗ふ夫の知らざる孫三人
打水のすぐに乾きて客待てり
選者吟佐山香代子
子供等と星座を語る夏の夜
賑やかな話声する盆の家谷川郁子
久に来る娘にコスモスを活けて待つ
選者吟佐山香代子
集ひ来てお茶をたしなむ秋の昼小山岩雄
高塀の拳法道場くわりんの実小豆むく母の背丸し夕陽差す渡部秋子
待鶴荘俳句クラブ十月句会
応援に力はいりし運動会高木アキ子母に少しゆとりいできし秋牡丹
ときわ荘俳句クラブ八月句会
丸き背に日差しやさしき小春かな電線に同じ間をおき夕蛸蛉
雨はげし打たれ傾く野菊かな首藤マツ
秋祭近くに聞こゆ太鼓の音
窓越しに友と眺めし盆の月仲田スエ
草叢に野菊香りし散歩道福田春枝客まばら茶屋の風鈴鳴りやまず
母の背に負はれし秋の高野道草市や明治男のパナマ帽関川権三郎
70
飛んで来てくるりと返る鬼やんま
朝風の菊の薫りをのせてくる関川権三郎
真野の里俳句会七月句会
夏立つや前行く人のイヤリング
浜昼顔波に消される子等の声橘はつみ
0
友の計に我を失ひ秋桜
秋野菜よく育ちいて友は亡く山中冨美子
ときわ荘俳句クラブ十月句会
穂を拾ふ親子の背なに陽のさして
園児来て共に七夕飾りけり
山寺はひねもす蝉の浄土かな余湖トメ
凶作の稲田小さく段々に本間健
秋桜遠回りして買物に本間ツネ
真野の里俳句会八月句会
薄暗き足軽長屋雨じめり
新しき師の墓梅雨の松雫佐山香代子
梅雨晴の磯の香高し真野の海白旗松枝
寺の鐘遠し近くに蝉の声池賢一
秋晴れの田のあちこちに人忙し本間エイ
谷川郁子
本間千博
易水の別れを偲ぶ風寒し
小さくも実のしまりたる栗拾ふ
海の果に雲も燃へたり秋の空
風渡る黄金の稲穂さらさらと
菊の香や待つ人も無き吾が身なり
孫娘声大きくて秋高し
水澄むや母に似て来しおのが顔野崎セツ
月煤々宴終りて仰ぐ空本間ハツ
空晴れて刈田の沖の広さかな
選者吟佐山香代子
刈りあとの田の血に写るちぎれ雲
赤とんぼ見る度思ふ幼き日金子ハツエ
菊の花咲かせ気の合ふ寡婦同士
かふ
倒れてもなほ咲き続く秋桜
須藤美春
老いてなほ心ときめく大花火余湖トメ
木權垣始業のチャイム鳴りにけり
三浦秀子
中原雅司
念仏の声つまづきて風供養
芝庭の真中に韮の花ひとつ
丸木橋渡ればしだれ萩白し
山本修巳
秋燕洞爺湖畔に増えにけり
しばらくは蝦夷富士隠す夏の霧
秋麗の峠にひらく握り飯
風祭越佐の海を見下しに
夫看取るひとの身細る吾亦紅
敬老日米寿の夫の赤づきん
酒井充
金子末雄
伊藤正一
湯上りに虫の声聞く夕べかな信田光代
柿の里俳句会
松木城空にまづ秋来たりける
寂しさに芋を洗うて流しけり
磯の香や松の並木に秋の風
落ちさうで落ちぬ庇の大瓢
怠けゐし休暇の果ての残暑かな
味噌汁の茗荷の香る朝餉かな
71
馬にする胡瓜なかなか定まらず
盆踊り快ひらひら艶めきて
岩壁に同じ方見て夏かもめ
橘はつみ
真野の里俳句会十月句会
沙汰なきは無事と思ひし花芙蓉
車椅子並びて楽し紅葉狩余湖トメ
男踊り角帯きりり敬老日
母あれば二人で巡る秋遍路橘はつみ
池賢一
この頃は燕渡りの支度かな白旗松枝
市橋シズ子
夏烏賊の大漁船にかもめ群れ
佐山香代子
白旗松枝
菊手入れ老いの日課の楽しみに
一日を藍に染まりて浴衣縫ふ
渡辺やす
法話に聞きし輪廻輔生おもほひて新盆の弟に
みあかしを上ぐ
ゑむ顔の孫に似てをり
本間節子
メモを見てキャベツ買う少年に声かけぬほほ
果て知らに炎暑績けど確かなる季うつるひに
来む春は芽吹かむものを裾に付く草の実払ふ
鳴くよちちろは伊藤節子
墓浄め来て石塚多恵子
寺庭は百日紅の花散りそめて盆も終りぬ虫細
く鳴く本間光順
きてあかるし
奏の河原訪ひゆく磯のみちみちは浜昼顔の咲
﹁我田引水﹂言葉そのまま近隣の人争はせ續
みおや
木剛の花の香敷きし菩提寺の庭に御祖のたつ
いさきのこと
本間光順
中川アイ
土屋三千枝
新しき暑敷きたる部屋へやをめぐりて思ふ老
紅の愛しく
畦草にまじるもじずり刈らずおく淡く小さき
仙海の海伊藤節子
魚の泣く声歌ひたる金子みすず詩人生れたる
便忽ち過ぐ
灼けし舗道にバス待ち立てばクロネコの宅急
於体育館
平成六年九月十六日
歌と評論真野支部九月歌会
酒井友二
余生なほ気丈に生きむ木の葉髪
しめらせてゆく中川アイ
千金にも値する水はひりきて乾ける田の面を
熱帯夜ながらに窓の風鈴はかそけく鳴りぬけ
ふは立秋後藤咲
於体育館
平成六年八月十九日
歌と評論真野支部八月歌会
栗飯を炊き母のこと祖母のこと佐山香代子
嵐去り庭に一日蝶の舞ふ
稲の出来聞かれて爺の笑顔かな池賢一
秋桜風にゆれ咲く花いとし
太陽に向かひ向日葵強く咲く
縁に来て夫座したまえ盆の月
真野の里俳句会九月句会
蟻と蟻耳打ちしてはすれちがふ余湖トメ
つばくろの帰りの点呼は電線で橘はつみ
消燈の部屋にさし込む盆の月
走り来て寮母指さす夕虹を
秋風や不老長寿の杖つきて
風鈴に合わせて鈴虫鳴く如し池賢一
秋祭り神輿も獅子も車にて白旗松枝
秋風の立ちて暮らしの快き
菊の香や畳新し婚日和佐山香代子
菊花展大宮人の名の並び
く旱魎佐藤瑞枝
きを想ふ菊池与志子
72
菊池与志子人のことばに空をあおげり
ちち
高原金次
敬老の日に友より給ふ民芸調の軽ろき草履にどしゃぶりは晴れぎわがよしと牛乳くばる女
紺の袖無し
網戸より夕べの風のとうり来て肌へにふるる両舷に陸の日消えず瀬戸内の夜を航く船はさ
川堤に群るる穂芒スクラムを寄り合ひ乍ら何
豊作の村祭り子らが嬉々として相撲取る声社
に響く石塚美代
目玉焼に添ふるピーマンの緑濃し秋立ちそめ
光りて群るる石塚多恵子
軌跡なくひくき空とぶ自が生と蜻蛉は知るや
季のうつるひ後藤咲びしからなく酒井友二 を 語 る ら む 土 屋 三 千 枝
四年余を看取りて姑を葬る義姉秘めゐしちさ
大根も芽を出しそびれし旱魅の畑の片辺に露平成六年十月二十八日
民宿の裏を降りゆき藍深き秋の海辺の古刹を
き確執もらす石塚多恵子歌と評論真野支部十月歌会
落日の浜辺に佇てばぬくもりの残る砂あり思一月のすぎ行き早し何んとなくけふも昏れ来
出のあり
庭萩のやうやく向の目立ちきし
名月を隠す雲なり救急車
本間久太
り栗おこわむすに中川アイ
釜のふたとる亡き母の丸き背が顕ちて来るな
於体育館
草の 花 若 野 ヤ ス
し朝の食卓若林美保子
渡辺やすて秋冷の沁む後藤咲 詣 ず 菊 池 与 志 子
県よりも喜寿の祝いをたまわりぬ平和の国に夕映えの丘に建ちたるペンの碑を訪ふ人まれ
中村戎
秋めくや磯にたわむる捨て仔犬
つむ
有田朴咲
寒艸たけし
犬惚けて人間ぼけて韮の花
背に躍る法被の幼児里祭
杉本果豆王
生田政春
埒もなきインコの独語店の秋
喜雨到る減反かこつ荒地にも
山中四郷
しゃれ木を湖底にさらし夏終る
稲雀散らして長き貨車の列
どしや降りのあふれし水や震災忌
曼珠沙華遠山鳩の紬ぐ夢
広瀬杜夢
山小屋ら基地に秋思の灯火あり
渇水の天を仰ぎて缶ビール
配膳車去り長き夜の廊残る
わか
朱ヶをもて天地分つや彼岸花
去くつばめ費の河原は北の涯
残署なほ病臥三日の家事の嵩
熱帯夜横になりても坐りても
福田芳郎
磧草吟社例会句抄
生きるよろこび石塚美代か秋草茂る若野ヤス
rOO
73
花くきの細くのびたる水引の深紅はくらき草
むらにこそ伊藤節子
堤防の尾花にまじり咲き残るあわだち草も風
作る術なく芝植えむ裏の畑植木職らが講釈を
菊池与志子
子が呉れし匂ひ袋を身につけて嵯峨野の秋を
紅葉訪ひ度し
那谷寺の雨後の紅葉に洗はるる売声高き街過
鉦叩此の秋聞かず買はざれば聞けぬ鈴虫庭に
する渡辺やす 来て鳴く後藤咲
平成六年十一月二十五日
よ
本間光順
酒井友二
日につれて暑さ増すなり蝉の声は朝より高く
ぶ灯をまたたかせ渡辺威人
農薬散布のヘリコプターは朝焼の空ひくく飛
屋根に降り来て斎藤浩司
於金井町民会館
平成六年八月十二日
金井短歌教室八月詠草
も皷の深き人びと
いかならむ生を過ごし来し孤兒といへど頬に
秋日あまねし
﹁佐渡飛鳥﹂の碑の丘ゆ見放くれば国仲平野
に吹かるる酒井友二 ぎて来て石塚多恵子
刈りし草にまじる露草一輪を小瓶に挿して朝
松喰虫みどり豊けきわが島に猛威ふるひて松
の茶をくむ本間光順 は消えゆく本間哲夫
歌と評論真野支部十一月歌会
於体育館
朽ちることなくば此のまま庭に敷く紅葉の落
葉掃かずにおかむ若野ヤス
立冬の朝調はれて枯菊を焼く畠の畝の香り漂
大佐渡の山脈なくて赤くそむ高き秋空雁渡り
聞く石塚美代
ふ土屋三千枝
﹁マデソン郡の橋﹂讃み終へてふと想ふ人を
石蕗の花に紅葉落葉の散りかかるさ庭に柔く
出会わす運命の糸若林美保子
いつしらに記憶薄るをさびしみて亡き子の背
本間幸
庭を占めをり
くちなしは青春の香をただよはせ朝光満つる
陽だまり動く伊藤節子
広に今日も手触れっ竹本喜美子
日の射さぬ庭隅の鉢にすずらんの黄葉のかば
ふ紅の実ふたつ中川アイ
鬼のごとわが顔のあり押入れの掃除に出でし
鏡の奥に内田千枝
かと我に問ふなり
服部志保子
嫁ぎ来たる娘はトマト椀ぎ来年もまたなるの
佐藤瑞枝
信念を変へざる君とたまたまに会へど話はと
だえがちなり
ぐ
酒井トシヱ
岸壁の水銀灯は蝋燭の炎のごとく海面にゆら
渡部栄
酷使せし五臓六脈に容赦なくイエローカード
来るもむくなり
江口稔
連日の真夏日なれば甚平を着て歩くなり買物
の時も
石塚多恵子
リゾートホテルの灯り届かぬ荒磯の岩を打つ
波夜目にも白し
畦草を刈るわが顔を覗くまで来たる燕が身を
深谷を縫ひゆく径に白百合の一輪のみが咲け
ひるがへす中川アイ
る不思議さ鈴木良晴
旅に行くくし
仲川久子
北の空に流星いくつ消えてゆく思ひ切りよく
酒井友二
費の河原訪ひゆく磯の途みちは浜昼顔の咲き
てあかるし
74
平成六年九月九日
金井短歌教室九月詠草
於金井町民会館
舞台より投げられし花受けとめてわれも手を
風呂に眺むる酒井トシヱ
更け内田千枝
犬曳きて朝なあさなを歩きゐし一人暮しの老
凪ぎわたる真野の入江は秋雲も岬の山も深く
いの計を聞く服部志保子 映 せ り 鈴 木 理 佳
篝火のあかあか燃ゆる山里の社の庭に開演を
よいよ吉し
中川アイ
露かづく露草の花照りわたる朝の日ざしにい
渡部栄
鈴木良晴
シベリアは何処まで続く幾万のみたま眠れる
瓜椀ぐ
両舷に陸の灯尽きず瀬戸内の夜を航く船はさ
くが
上空を飛ぶ竹本喜美子
佐々木半七
笹井敦子
びしからなく酒井友二
赤トンボそっとポストに投函す
秋うらら我が胸に寄る子の寝顔
上川マサ子
とうろうの眼に映る静かさよ
榿色の半月山に沈みゆく盆の十五日暑き夜の
れり
雑兵にありしみ祖か蔵に残る陣笠の漆黒く光
離れ住む娘が久びさに帰りたる夕餉楽しく話
沖縄の海の色てふ藍型をつとに賜はる笑顔の
を揺らす斎藤浩司 君に石塚多恵子
炎熱の夏を水やり育て来て今朝初生りの秋胡
宮島のみやげ屋に茶を振舞はれ思はずに買ふ
畦道を吹きゆく風は金色に垂るる左右の稲穂
のはづむ渡辺威人
杓文字と饅頭伊藤節子
待つ本間幸
振るエンディングマーチ佐藤瑞枝
真夏日はなほ続きをれ穂の揃ふ田を渡りくる
風は秋めく後藤恒雄
瀬戸内の海が夕陽にかがやくを夜を航く船の
沢根すがも俳句会一句抄
かげ
功徳不少目洗地蔵蔦紅葉 伊藤逸郎
授りし四温日和の吟行会 野崎東
願かけし生員観音秋深し 金子秋三
きたえびす
膝抱いて足の爪切る夜長かな古藤胡同
北狄秋潮洗う藍さと
白金子立矢
わたき
三井松五郎
はし
石蕗の花おのぶが生家は町の端加藤たかお
名畑宗八
月の光きざみて入江騒立ち来青木田鶴子
よなべ
ことことと煮物音聞き夜業かな野田実
間引き菜の一夜漬なる舌ざわり
子の草履編むや夜業の若き母
おおあくび
大欠伸して妻今日の夜業果っ渡辺岩夫
渡にてくつろ
庭先に小佐鬼
が寛ぐ秋祭り本間博
75
平成六年十〃十四H
金井短歌教室十月詠草
於金艸町民会蝕
みどり児がこぶし固めて泣くさまを頼もしと
早八の畑磯祁玄速
湧き水を賜びてまきたる秋胡瓜芽立ち揃へり
くばくもなし渡部栄 てをり林京子
見るわれが初孫竹本喜災r
﹁おもしるおかしくやっているよ﹂と新妻の
堤防に繁る夏草台風に耐へし疲労かなくて蛍
かりかりとひばの枯れ芯喰ひゐたる雀蜂飛び
燕とぶホテルの前に物売りの端しきりに客を
蝉しぐれ降る寺庭の、H紅くぐりて子等と盆
四十余日の大旱魅に手作りの天秤扣ぎ畑に水
て秋空に消ゅ江口稔 遣る浜辺一雄
苗金の稲穂が風に揺れてゐる畦に農夫がほほ
笑みて立つ斎藤浩司
はめり小隊多座下 参りする行川和j
人影をそれかと思ふアルバイトの長野さんの
弔問の家はほどなしコスモスの咲く砂利道に
耽縄剛こゅる伊藤節f
のみ︲喧
茸採りに人るをことわり山口の辻道に立つ道
間く滝む秋空を順ぶ赤トンボセロハンのごと
杣神をがむ仲川久〃I
そこだけは日焼けぬ、き尻浮かべ銭湯に燥ぐ
く枯れゆくル坂雌
溜池の水も尽きはてF割田に出穂せし稲も赤
先 史 妹 な れ ば 内 川 下 枝 友は番ふる菜をゆでながら鈴木理化 呼 び 止 む 小 寓 川 安 子
隆収肋くぼめぐりをりさうさうと秋風に鴫る松
緯刷の学びの友ははるばると恩師の米か祝ぎ
の 水 の う へ 脇 坂 鬼 男 に来るとふ仏滕太平
箇いたる梨のうまさよ畑打ちしのちの喉に
しみじみと参む波辺威人
今朔もまた倒伏の稲を見て帰る雨降りて刈れ
釣りて米し聯魚を川炉製に焼きくれしk梨の
ぬ、一§川Ⅱとなる後滕Ⅲ雌
,.1Jノグ1rノー←I|↑
.ごwトート山梱L\・rrr7lk11J・一②−911
於人平海の家
相川歌会八月詠草
一株ごとに佐藤香代子
倒伏の棚川の稲に分け人りて老いは結ひゆく
︸11口1口y
日にちに記録更新する抽暑つくづくいやと法
Ⅲ蝋雌く級野螢
、秋のさきがけなれや軒Fに咲くたますだれ
吹きてゆく肌洲井友一ゞ
術いまも恋しき本間幸 き羽根を光らす鈴木良岾 〃十等を叱れず山本取次
シャッターチャンス待ちてかがまる我がそば
を駆け 抜 け て ゆ く 駅 仏 の 子 ら 仏 滕 瑞 枝
さまざまの形にあそぶ雲染めてEき日輪沈み
ゆくなり服部志保了
数聞のこぼす紫散らばへる堪処ひそけし彼岸
柵巾にならべ光らるる占竹の盆花倣ての削ぎ
軒ひくき家帷抜け来て股けたる海が放てるし
夕聯れの棚川の稲の走り他は先に小さき露を
の真 雌 酒 ル ト シ ヱ
光らす北見妃男
浅き池の底ひに深く沈みゐる半月小さく輝き
廃屋の庭に明かるきさるすべり白き花むら青
るき磯の香油井友一︽
脈はしといへど縦なし古稀といふ齢への逆い
金色の夕陽の中にすがれたる百日草は脇芽つ
けをり小川アイ 空に映ゆ林はじめ
76
u消し
ゆるくぐる磯祁玄遠
敢諦を上手にうたふ孫みなみうからが嚇す二
腱↑﹂−1
ところに入る北見陥男 4 h 二 ヶ I 佐 藤 太 平
炎人に稗抜きおれば田の原を吹き来る風がふ
托して萩野豐
柵嶋徹夫
平成人年几川一八川
相川歌会九月詠草
蹄まれゐしⅢⅢ葵一本こぎ来しが花の一輪け
ひと晩に稲の色づくことのあり台風予搬は刈
州りたる家拙抱けばぱらぱらと草の災の藩っ
亦布に満ひ出したる尾花だこ鉤にかければ狂
ひて則る井坂照
於人斗海の家
り取りせかす佐藤香代子
冊のtに打川和j
とき
平成六年十月十六日
於太平海の家
相川歌会十月詠草
越前の山峡いくつ縦ひ来たる眼にまぶし鳰の
にほ
全世界の時刻といふくし被爆時計は今に指し
あかあかと巨き日輪沈みゆく刈川の果ての森
て此れり山本取次
略礁に柵ひて湧き肋つ向き波拙︽|文字に延び
るを聞けば割くをためらふ佐藤香代子
今柳釣りし鰺がバケツにキュッキュッと鴫け
ひつじはすでに伸びをり北見珀男
こしひかり刈るⅢ決めんと川に〃︾てば早小の
かあさんの秋の忠はゆく心に狸が夜なべに柴
ゅるる秋分のⅧ小桝川安/l
車道わきに老人クラブが手入れなすコスモス
つぐ八時十八分柵岻傲犬
団地裏に士川干せる梅干はプラスチックの容
野のいの花のやさしさ知らざりき瓶に柿した
る雄いたどり林はじめ ふ附きをり小渕山安子
器に帷ぶ林虫子
みづうみ酒井友二 の皮むく萩野魁
久びさの雨の狄庭に花水押やうやく咲きしが
背もなく藩っ浜辺一雄
仏牒人平
川臘りにも棚く﹁仲の水﹂咽僻のゆかりの水
と1
仙人
,
←ま
も1芯
ぺIパーフラワーのどに女郎花あしらひて祁
膿に柄けたり秋待ちかねて石川和子
再診に手術告げられし秋の夜を﹁新世界﹂聴
淵池の水の礼なる斬米を炊ぐ谷の虻ち肘ゆ匂
ふ林はじめ
朏川りてもなほ負けぬ熱のとけはUすがら川
の川に推追ふ磯祁玄速
干割れ田の稲穂は直に立てるまま白くからび
籾の杏の匂へるⅢにLMっ典は山下を振りてそ
外川の街かとまがふ学剛都森つらぬきて広き
銀川をあげし″tのインタビュウふいどの如
き息づかひにて福嶋徹夫
ラワ
て秋の凧たつル坂M く 人 の 祁 膿 に 林 求 子 の Ⅱ ふ に 洲 此 友 ・
春H崎を跨ぎてかかる二重虹帰る漁船がゅる
の夫を呼ぶ山本車次 道 つ く 渡 部 須 磨 子
ゆふされば沖にⅢひて鋭ひ行く刺し綱漁の舟
筑波髄に兄卜す必き稔り川ゅ吹きのぼりくる
足はやし涜辺一雌
淡墨にはた濃塑に競ふ苔展思ひそれぞれ筆に
金色の風渡祁規膳ノー
i I
編集後記
翌四十四年から、黒滝山で朱鷺は営巣しなく
に三十数年を生きた二人の顕彰碑が建ってい
たであろう。近くの高幡不動には純朴に愚直
の一隅に平凡に生を終えた二人の生涯であっ
られていた。
る。また、近くの売店には﹁歳三饅頭﹂が売
の川上久敬氏を中心に努力して、黒滝山を国
有林に買いあげて朱鷺の楽園にしたのである
秋日さす歳三饅頭買ひにけり修巳
なった。昭和三十四年以来、新穂村は教育長
あけましておめでとうございます。
が1.追われた朱鷺は、越佐海峡寄りの両
昨夏訪れた北海道函館には土方歳三が銃に
山本修巳
今年の元旦は風が強く寒く、夕方から雪が
津市立間に営巣地を移したが、立間は朱鷺の
間と﹂︵プレジデント社︶を、旧臘刊行した。
会﹂の新穂村長畝の須田中夫氏が﹁朱鷺と人
修之助が俳句の指導をしていた﹁瑞穂句
しければ、百二十数年前に死去した人の墓と
くノートが何冊か箱に入っていた。墓石が新
缶コーヒーが供えられ、訪れた人が思いを書
寺の墓には菊の花が活けられ、缶ジュースや
新潟県佐渡郡金井町千穂
印刷所佐渡産青聯印刷所
需罐鑑山本修巳
頒価一二○○円送料一四○円
撒娃一一一鯉一蓋器卿年二面発行︶
佐渡郷土文化第七十七号
次号原稿締切二月末日
厚志をいただき感謝申し上げる。
相川町倉田浩二郎氏より本誌のために、ご
倒れた場所に大きな石碑が建って●いた。
降り出す天候であった。昨年、娘を嫁がせた
娘を嫁がせた家が、東京都日野市で、昨年
難にしてしまった。
外敵である烏が多いところで繁殖への道を困
歳末には﹁追悼山本修之助﹂が刊行にな
ので、妻と息子と三人のお正月になった。
れて、申しわけなく思っている。父が亡くな
十月、近くの明治維新の新撰組の副長土方歳
ったが、歳末のため、執筆の方々に発送が遅
って一月二十五日で満二年、三回忌に間にあ
三の生家と墓地を訪ねた。生家は建て替えら
純粋な心で一途に朱鶯の保護に賭けた軌跡が
は思えない。時間がなくて行けなかったが少
れていて杜鵲草の花が群れ咲いていた。石田
ってよかったと思っている。
見事に描かれている。
ていた剣道の道場跡が蕎麦屋となっていると
年のころ新撰組隊長近藤勇も土方歳三も通っ
いう。ふと騒乱の京都でも同じ道場に通った
電話︵○二五九︶五五︲二七○○
昭和四十三年には、朱鶯の雛が黒滝山の営
しかしその年、テレビ番組﹁日本の自然﹂の
二人の心は、幼少から結ばれた信頼関係で少
郵便爵号九五二,○三
巣地で二羽巣立った。そして十羽になった。
映像は、紅葉の山を眼下に朱鷺の群れが飛ぶ
った。平穏な時代であれば、多摩地方の農村
しも動ずることはなかったにちがいないと思
振替新潟○○六八○,四︲五三二七
新潟県佐渡郡真野町新町三五四
様子を長時間にわたって映し出した。ヘリコ
発行所佐渡郷土文化の会
プターで朱鷺を追いかけて撮ったのである。
78
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1995年
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ふり南へ徒歩一一分
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○三重県四日市市鵜の森一丁目↑|番十九n万
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澄懐堂美術館
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近鉄四日市駅西口
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近世儒者の書
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一
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1
r刷
#鍵蝿
B4判三五○頁
口絵カラー四頁
、黒八頁
写真多数
編著書出版目録/山本修之助略年譜/
山本修之助受賞記録/賊佐渡の郷土史
家/櫛田克巳﹁佐渡学﹂序説/山本修巳
E千曲
07
02
73
25
5一
0
54
尖に
9i、矢1
50
318
096
−FDO
220
〒念振
引一T二町ぺJ口﹄
/東京作家ク|フブ追悼会/山本修之助
町民葬/弔文/司馬遼太郎/草柳大蔵
か/故山本修之助通夜・葬儀/真野町
/松本健一/高木敏子/古賀まり子ほ
形仇/木下順二/福田清人/雌峻康隆
の虹﹂書簡/曽野綾子/小葉田淳/尾
/ドナルド・キーンほか/遣句集﹁冬
溌瞬
佐渡郷土文化第七卜七号
佐渡郷土文化の会
リワ1
4
俳か崎/麦/喜蒲弍文
句百徳本丘濱久原//
/四衛田人川雄宏河嵐
見名/安/博//合義
舞/森次堀/所杉透人
状追川/切日功村//
/悼昭松実野/英川岩
弔//田/資中治村田
慰逸若昭堀純村/ハ雅
状文林三口/賢千ツ/
//眞/星藤二川エ大
津川/松眠川郎あ/′島
村柳田永/晴/ゆ川建
節/中伍堀男中子村彦
子短圭一部/川/安/
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歌一/知星芳高宏小追
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新潟県佐渡郡
真野町新町354
山本修巳編
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